レポート:川上純平「18世紀の哲学者インマヌエル・カントについて」

Jumpei KawakamiÜber Immanuel Kant,der Philosoph

des 18.Jahrhunderts. (1994/1/24)

 

同志社大学神学部 講義 組織神学(8) 

講師:水谷 誠『 シュライエルマッハーとその時代 』〉

 

 

 序論                                                               

 

 言うまでもなく、インマヌエル・カント(17241804)はドイツにおける最も優れた哲学者の一人であり、啓蒙主義の完成者であり、克服者である。これから述べることはカント哲学に関する言及であるが、カント哲学を、他の哲学者、神学者、つまり、シュライエルマッハーカール・バルトとの関わりにおいてとらえたものである。 前半は、もちろん、カントの生涯に関して、カントが自らの思想をどのように形作っていたかを述べ、後半で、カント哲学を『純粋理性批判』『実践理性批判』を中心に検討していきたいと思う。また、参考文献に使用した本の中にその著者の歴史観や思想が現れることが多いが、(この論文に文章がほとんどそのまま引用されていることが多いこと)今回は、あまり多くの参考文献を読むことができなかったゆえに、そうなったことを最初に断っておきたい。                                                

     

  本論                 

1.カントの思想形成とその思想

 

  カントはケーニヒスベルクで敬虔主義の家庭の子として生まれ、子供時代の母親からの熱心な敬虔主義教育を受けたことは、彼の宗教思想に決定的な影響を与えることになった。これらのことは、1788年の『実践理性批判』における有名な句「私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳法則」にも表れており、また1793年の『たんなる理性の限界内における宗教』においては、啓示・祈り・メシアなどのユダヤ教的要素を排除した理性宗教を主張し、そこには、また啓蒙主義の思想が現れている。

  歴史的に敬虔主義の次に啓蒙主義が現れるのだが、それが現れたのは、敬虔主義があまりにもこの世に対して禁欲的であり、敬虔主義者でない者を不信仰者とみなし、宗教における知的諸要素を無視しようとしていたからであった。もともと啓蒙主義はフランス、オランダ、イギリスにおいて、デカルト、スピノザ、ロックたちによって形成されたものであり、啓蒙主義がドイツに入って来た時には、敬虔主義の影響もあって、神学に貢献するものとなった。

  カントはケーニヒスベルク大学に行く前、予備教育を敬虔主義のフランツ・アルバート・シュルツのもとで学んでいる。シュルツは敬虔主義者であると同時に、ドイツ啓蒙主義の哲学を代表し、当時ハレにあってドイツ各地の大学に大きな影響を及ぼしつつあったクリスチャン・ヴォルフ(16741754)の弟子であった。ヴォルフは、数学に類似した論理的確実さによって証明されるもののみが真理であるゆえに、真理は心の生得的内容、つまり「純粋理性」から合理的に演繹されなければならない、とした。1740年、ケーニヒスベルク大学に入ったカントは、まず神学、古典を学んだ後、数学、哲学、物理学等に没頭した。特に、ニュートン、ライプニッツ、デカルトの思想について学び、自然科学と哲学との関係で自分自身の基盤を作り上げていった。また、ヒューム、ルソーの影響、ロマン主義者ヘルダーとの交流により理性批判の哲学へ進むようになっていき、その後、大学で終生、自然地理学、人間学、形而上学、論理学を講じるようになっていった。176566年の形而上学の講義計画においては、序論に続いて、経験的心理学(霊魂論)から始め、最後に、神と世界の学へと進んでいるのが見受けられる。

  そして、カントは10年あまりの沈黙を経て、1781年『純粋理性批判』を出版する。その書の序文において、彼はこう述べている。「人間の理性は、ある種の認識について、特殊の運命を担っている。即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。」と。

  この書において、カントは理性の限界をはっきりさせたのであるが、それに関して興味深いことがアンチノミー(二律背反)論において書かれている。アンチノミー(二律背反)論とは、絶対に間違っていないという前提から出発し考察すると、間違った事態に陥ることがある、ということを論証したものである。たとえば、第一アンチノミーにおいて、絶対的全体としての世界が時間的、空間的に有限か、無限か、考察する時に、有限であるとすると、始まりの前には始まりがあるということが繰り返されるはずであるから、有限とは言えない。また、無限である、とすると、物事が起こったその前には、そもそもの始まりが存在するゆえに、無限であるとは言えない。このようなことから、人間の理性によって世界を認識することはできないということがわかる。世界はそれ自体(物自体)としては存在していないのである。学問との関わりで言えば、感性的直観の対象(現象)にかかわる自然科学は学として成立するが、物自体にかかわる形而上学は学として成立しない、ということであり、宗教との関わりで言えば、理性は物自体の世界(超感性的世界、道徳、宗教の世界)には発言権を持たない、ということである。

  このようなことを彼は『純粋理性批判』で述べているわけであるであるが、1788年になると、『実践理性批判』において、道徳が成立するためには、形而上学の対象(自由、不死、神)が実践理性によって要請されるということを論じている。実践理性とは、道徳を行う理性を指す。しかし、実践理性もまた最高善(最高目的、最上善、徳と幸福という相異なる要素の結合)の問題に直面して二律背反に陥り、その解決のために、宗教へと転入しなければならない、つまり、道徳法則は最高善を通して宗教に達する、と彼は論じている。また、1790年の『判断力批判』において彼は、生命界、歴史、美の合目的性を論じた。従来、この著作は人間の理性を究極の統一にもたらすべき位置を占めるものにほかならないとされてきており、また、この著作は先の『純粋理性批判』『実践理性批判』に続く第三批判として知られているものでもある。

 

2.シュライエルマッハーとバルト

 

  ところで、19世紀の神学者であり、また、哲学者でもある、Fr.D.E.シュライエルマッハー(17681834)は、青年時代、ハレ大学においてドイツ啓蒙主義哲学者J.A.エバハルト(17391809)のもとでカント哲学を学んだ。エバハルトは当時『新ソクラテスの弁明』において、カントとキリスト教教義の批判を行い、論争を起こし、G.E.レッシングの攻撃を受けるが、ライプニッツやヴォルフの伝統を受け継ぐ合理主義者として評価を得ていた。シュライエルマッハーはエバハルトの影響で、カントと批判的に対決をするようになり、1789年『最高善について』という論文をまとめている。その中でシュライエルマッハーは、道徳法則自体の真理性に関してはカントと同意しながらも(カントの理論哲学を受け入れながらも、)『実践理性批判』における最高善概念自体に関しては同意していない。つまり、シュライエルマッハーは、霊魂の不死と神の実在をそれ自体として証明することはできないゆえに、道徳法則と意志、徳と幸福との一致を完成させることはできず、また幸福は最高善に不必要であり、徳概念自体を最高善であるとし、徳と幸福の両者を結合した最高善の実現を感性界(感覚的経験性の世界)で達成させることはできない、という点でカントと同意し、可想界(理性的な存在者が住む世界)では可能だ、とするカントには同意していないのである。またシュライエルマッハーが「カントは理論哲学(純粋理性批判)において獲得した批判的視点を実践哲学では首尾一貫した仕方で遂行していないのではないか」とさえ発言している文章もある。当然の如く、シュライエルマッハーの『宗教論』においては「感情」が重視されている。しかし、カントは「感情」を重視していない。このようなところにも両者の思想の相違が現れているのかもしれない。

  また、シュライエルマッハー以後の神学者カール・バルト(18861968)も、若き頃に、新カント学派のナトルプ、コーヘンを通してカントを熟読している。特に、形而上学を批判した『純粋理性批判』と『実践理性批判』を読み、シュライエルマッハーに傾倒し、またロマン派文学にも引かれていた。そして、あの第一次世界大戦と同時に起こった自由主義神学との訣別の際に、バルトはカントの影響によってそれを行ったのではないだろうか、と思われる節がある。なぜなら、バルトが尊敬していた、ハルナックやヘルマンといった神学者たちが第一次世界大戦を支持した時、「彼らが倫理的に誤ったことは、その倫理的行為の前提となる彼らの神学や哲学もまた誤っていたことになる」と考えたからである。つまり、それは、カントの『純粋理性批判』における、絶対に間違っていないという前提から出発し、考察すると間違った事態に陥るという第一アンチノミーにおいて、たとえば、二枚舌を使う人の片方で言ったことと、もう片方で言ったこと、どちらを信用するかと言う時、その人そのものを信用しないのが正しい、という結論が出てくることを示しているということである。バルトはその時、人間の持つ根源的な間違い、原罪を認識せざるを得なかったのかもしれない。もちろんバルトはカント哲学のみによって、その判断をしたわけではなく、カント哲学のすべてを支持したわけではないと思われる。

  しかし、なぜバルトの自由主義神学批判が、ハルナックやヘルマンにのみとどまるならともかく、リッチュルを通り過ぎて、シュライエルマッハーに達し、また、なぜカントにまで達しなかったのであろうか。その点と、また2人の神学者が1人の哲学者から違った仕方で影響を受け、また批判していることが非常に興味深い点である(1)

 

  結論

 

  結局、カントはケーニヒスベルク大学の教授になった後も、規律正しい独身生活を送り、1804年に亡くなるわけであるが、その後、カント哲学はドイツ観念論にも、近代神学にも、現代神学にも多大な影響を与えることになり、シュライエルマッハーとバルトの例を見てもわかるように、そこにはカント哲学の多様性が表れており、「影響を受けるとはどういうことか?」をあらためて考えさせられる。この偉大な哲学者が語った「哲学ではなくて、哲学することを学ばなければならない」という言葉は今日の世界においても十分機能するものであり、また聞かなければならないものであろう。そして、この三人の神学者、哲学者(つまり、カント、シュライエルマッハー、バルト)をいくら研究しても、研究しすぎるということはないのである。

 

 

 

〈参考文献〉

 

・坂部  恵著『カント』(人類の知的遺産  43  講談社  1979

・野田又夫編『カント』(世界の名著  39  中央公論社  1979

・インマヌエル・カント著『純粋理性批判(上)(中)(下)』 篠田英雄訳 岩波文庫 196162

・インマヌエル・カント著『実践理性批判』  波多野精一  宮本和吉  篠田英雄訳 岩波文庫  1979

・水谷  誠著「初期シュライエルマッハーにおける倫理と信仰―1787年から1790年に至る」『基督教研究』第51巻第  1990  3653

・水谷  誠著「最高善について―シュライエルマッハーのカント批評」『基督教研究』第53巻第  1991  17

・カール・バルト著、加藤常昭、蘇光正訳「第2部 シュライエルマッハーとわたし」(ユルゲン・ファングマイアー著、加藤常昭、蘇光正訳『神学者カール・バルト』所載)日本基督教団出版局、1971年(初版)。

・大島末男著『カール=バルト』(人と思想  75  清水書院 1986

  『キリスト教大事典』 キリスト教大事典編集委員会編  教文館 1963

  『キリスト教人名辞典』 日本基督教団出版局編 日本基督教団出版局 1986年  

 

 

本レポートは1994年1月に同志社大学神学部における講義「組織神学(8)」のレポートとして提出され認められたものである。

 

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(1)   また、シュライエルマッハーは改革派の牧師の子として生まれ、最初、敬虔主義の影響を受けて、後にカント、プラトンの研究をするようになるが、バルトも改革派の牧師の子として生まれ、1922年の『ローマ書(第二版)』執筆において、カルヴァン、ドストエフスキー、イプセン、ニーチェ、オーフェルベック、キルケゴール、カント、プラトンを読み、弁証法神学(神の言葉の神学)形成期には「人間は神の言葉を語ることができないが、人間は神の言葉を語らなければならない。」とカントの『純粋理性批判』の序文を思わせる言葉を語り、晩年には、敬虔主義に接近している。ちなみにバルトはシュライエルマッハーならおそらく第一次世界大戦を支持しなかったであろうという事を語っている(カール・バルト著、加藤常昭、蘇光正訳「第2部 シュライエルマッハーとわたし」『神学者カール・バルト』〈ユルゲン・ファングマイアー著〉所載、1971年〈初版〉、94頁)