レポート:川上純平「18世紀のプロテスタント神学」

Jumpei KawakamiProtestantische Theologie im 18. Jahrhunderts.

(1993/7/19)

同志社大学神学部 講義 組織神学(8) 

講師:水谷 誠『 ―シュライエルマッハーとその時代― 』〉

 

 

序論

 

フリードリッヒ・エルンスト・ダニエル・シュライエルマッハー(1768‐1834)は、近代ドイツのプロテスタント神学者であり、改革派教会の牧師の子として、1768年にブレスラウで生まれ、ニースキーとバルビーのヘルンフート(モラヴィア)派兄弟団の学校で、敬虔主義の影響を受けた後、ハレ大学へ行き、啓蒙主義について多くのことを学んだ。

これから述べることは、バルトの『19世紀のプロテスタント神学』のように20世紀の神学的見解によって、18世紀の神学について論じたものではない。しかし、ある時代の神学について考える時に、ある思想によって、考えてしまう、ということは必然的なこととならざるをえない。たとえば、参考文献に使用した著作類の多くは、20世紀の神学者、教会史家たちが、書いたものである。そこには、ある時代を客観的に見ようとした努力と、その人自身の神学観、あるいは教会史観が現れているだろう。つまり、我々は、完全に、客観的に、その時代を見ることができないのである。そして、また同時に、歴史にのみ重点を置くなら、それは、たとえば、歴史主義というある一つの考え方に偏ることになる。

それゆえに、ここでは、できるだけ組織神学的に、もちろん、「教理史」的な部分も含まれるであろうが、(「完全に」とは言えないにせよ、「少しは」シュライエルマッハーが『宗教論』執筆までの生涯において影響を受けたであろう)18世紀のプロテスタント神学について、その膨大な量を収縮した形で、述べてみたいと思う。

 

本論

 

18世紀におけるプロテスタント神学の大きな流れには、正統主義、敬虔主義、啓蒙主義があった。もちろん、正統主義に対する反発として、敬虔主義が現われ、フランスやイギリスで起こった啓蒙主義が、その後、ドイツに入ってきたのである。

しかし、もともと、正統主義は、16世紀の中頃から17世紀後半までに(もちろん、1618年に三十年戦争が起こり、1648年には、ヴェストファーレン和議があるのだが)、ルター派、改革派、カトリック、ともに自らの教理と聖書解釈の固定化という自己保存的動機によって形成されたものであった。

たとえば、ルター派の場合、彼らはルターが伝道者であり、教義学者であった、という事実にもかかわらず、後者にのみ重点を置き、スコラ的(※「スコラ」とは中世の「学校“schola”」を意味し、「スコラ的」とは、教会教父と呼ばれた人々の神学とギリシア哲学に起源を持つもので、信仰と理性、神学と哲学を調和、統合させた立場を意味する)になっていった。その結果出来上がったものは、一致しない者は排除するという「信条」や聖書は一語一句(たとえ書き間違えていたとしても、)聖霊によって書かれたとする、あの「逐語霊感説」であった。そして、それによって、たとえば、L,ヒュッター(1563‐1616)や、J,A,クエンシュテット(1617‐1688)たちは、正統主義信仰に反するとされている者たちとの論争に明け暮れ、内的な信仰はその生命を失っていった。

そして、そういったスコラ主義的傾向に対抗して、キリスト者の体験の中における感情を重視しようとして現われたのが、敬虔主義であった。もちろん、ルター派正統主義の中にも、教義より感情を重視しようとする神学者たち、H,ミュラー(1631‐1675)やJ,ゲルハルト(1582‐1637)等がいたが、最初に霊的、禁欲的な生活と教育によって、敬虔主義の指導者となったのは、P,J,シュペーナー(1635‐1705)である。彼はルター神学、ピューリタニズム、神秘主義の影響を受け、サークル「敬虔グループ」を作り、霊的熱心、道徳的高潔さ、愛の活動によって教会のために尽し、その著書『敬虔なる願望』において、政府の干渉、聖職者たちの恥ずべき生活、神学上の解釈上の論争、信者の酩酊、不道徳、自己追及を悪とし、説教の目的は、聴く者たちのキリスト者としての生活を確立するところにあり、霊的な変化、自覚的な新生が、真のキリスト教の始まりであるとした。

そして、シュペーナーの影響を受けたA,H,フランケ(1663‐1727)は、ライプッィヒ大学で「聖書を愛する者たちの集い」を創始し、敵対者によって、大学を追放されるが、シュペーナーの助けによってハレへ向かい、そこで教えた。彼は、教育施設を設置し、社会的宣教事業に不朽の業績を残し、外国伝道の基礎を築いた。また、フランケの後継者であるJ,A,ベンゲル(1687‐1752)は、敬虔主義的な生活を送ると共に、生涯を聖書研究に献げ、近代本文批評の道を開いた。

シュペーナーやフランケに続いて、「教会内の小教会」という敬虔主義の理念を確固として守ろうとしたのが、N,L,G,von,ツィンツェンドルフ(1700‐1760)である。彼は、幼少時代から敬虔主義の影響を受け、ザクセンの自分の領地で、ボヘミアからの迫害による亡命者を保護し、ヘルンフート兄弟団を組織した。後に、一時期、ザクセンから追放されるが、教職(※この場合の「教職」は「牧師」を意味する)の資格を獲得し、教会の礼拝と生活に力を入れた。彼は、キリストの贖罪について感覚的な面を強調し、実際に、聖痕を礼拝し、キリストの血と傷との持つ意義に注目し、教会は単に、神がその国を建てるために人間を教育する手段として設けた、社会であり、一種の集会である、と考えた。彼の後継者である、A,G,シュパンゲンベルク(1704‐1792)は、アメリカ伝道におもむき、ヘルンフート兄弟団の教義学を記し、ルター派の教義とツィンツェンドルフの思想を調和させようとした。

しかし、また、こういった敬虔主義も、あまりにもこの世に対して禁欲的であり、敬虔主義でないものを、不信仰者と見なし、宗教における知的諸要素を無視しようとした側面があり、以前の教義学者たちに取って代わるような神学上の指導者を出したわけではなかった。

そして、そこで啓蒙主義が現われることになるのだが、それは、もともとフランス、オランダ、イギリスにおいて、デカルト、スピノザ、ロックたちによって形成されたものであり、啓蒙主義がドイツに入って来た時には、敬虔主義の影響もあったためか、神学に貢献するものとなった。

その思想があまりにも深すぎて、彼自身が生きていた時代には、あまり影響を与えなかったG,W,ライプニッツ(1646‐1716)は、デカルトやスピノザに対して、一つ一つの実体が働きの主体であり、不可分で力の中心であろうとする「単子(モナド:※古代ギリシア哲学に遡る概念。世界を構成している要素で、もはや分割することのできない独立した個体であり、自ら活動する力を含んでいるもの)」を説いた。法学者でもあったC,トマジウス(1655‐1728)は、一つの体系を作ることはなかったが、合理主義的精神を普及させ、「啓蒙主義の道案内人」と評された。また、正統主義や敬虔主義と断絶することによって、彼らから敵対視されることになったのが、C,ヴォルフ(1679‐1759)である。彼は、数学に類似した論理的確実さによって証明するもののみが、真理であるゆえに、真理は心の生得的内容、つまり「純粋理性」から合理的に演繹されなければならない、とした。

その一方で、J,L,von モスハイム(1694‐1755)は、正統主義、敬虔主義、ヴォルフの合理主義に共感せず、諸事件をそれらが起こったとおりに正確に語ることを目的にした『教会史要綱』を記し、「近代教会史」の父となった。しかし、最も極端な理神論的合理主義者として、H,S,ライマールス(1649‐1768)があげられるだろう。彼は、後にレッシングによって有名になるのだが、世界それ自体が、唯一の奇跡、啓示であるとし、聖書の著者たちは正直な人間でなく、虚偽と利己主義によって動かされていた、とした。作家であり、評論家でもあり、ライマールスの遺稿を出版することによって、ルター派正統主義神学者J,M,ゲーツェ(1717‐1786)と神学論争をすることになったG,E,レッシング(1729‐1781)は、1780年に出版した『人類の教育』において、個人が、幼年期、青年期、壮年期という行程を次々に通過するように、人類もそのように通過していくものであるとし、さらに聖書は人類のこれらの時期の必要に応じるために神によって与えられたものである、とした。

その他にも、近代批評学においては、先に述べた敬虔主義者ベンゲルが、その著書『グノモン(索引)』によって聖書註解に斬新さを与え、J,G,アイヒホルン(1752‐1827)は、合理主義者で「高層批評(※聖書及び聖書の各書の成立、特徴、著者、執筆場所について研究する聖書批評学の一つで、聖書の原著者が書いた原文を研究する本文批評を基礎として成り立つ)」という語を初めて用い、「旧約聖書批評の始祖」と呼ばれるようになり、J,A,エルネスティ(1707‐1781)は、古典文献に適用したのと同じ諸原則を新約聖書の解釈にも導入し、「ドイツのキケロ」と呼ばれた。また、ルター派の神学者で、敬虔主義者から合理主義者に移り変わったJ,S,ゼムラー(1725‐1791)は、聖書の中の永久の諸真理と聖書のそれぞれの書物が書かれた時代に依存する諸要素との間に区別を設け、聖書のあらゆる部分が同等の価値を持つことを否定した。

啓蒙主義に対立するものとして、18世紀にはルソーやゲーテ、シラー、ヘルダーリン等のロマン主義者が登場するが、同様にまた、I,カント(1724‐1804)が現われる。彼の思想は、合理主義的な啓蒙主義の宗教の頂点、成就であり、啓蒙主義批判、でもあった。1781年に出版された『純粋理性批判』において、彼はヴォルフを攻撃し、1788年の『実践理性批判』において、人間は何をなすべきかを問う時に、道徳的な義務の感情を自覚する、とした。つまり、それは「あなたの義務を行なえ」という「断言命令」「内なる道徳律」であった。また、彼は、1739年の『理性の限界内の宗教』で、宗教を有神論的倫理に還元した。

カントの影響を受けた者としては、まず、J,G,ヘルダー(1744‐1803)が挙げられる。彼はロマン主義運動の熱心な指導者でもあったが、その著書『人類史の哲学』において、宗教、特にキリスト教、人類の持つ諸感情の中で最も深きものの具体化であり、聖書は、本質的には宗教文学である、とした。しかし、その一方で、J,H,A,エバハルト(1739‐1809)は、『新ソクラテスの弁明』において、カントとキリスト教の教義の批判を行ない、論争を起こし、レッシングの攻撃を受けるが、ライプニッツやヴォルフの伝統を受けつぐ合理主義者としての評価を得た。また、カント哲学には問題があるとされたのだが、その問題を解決するために観念論が現われ、その代表的な人物として、J,G,フィヒテ(1762‐1814)、F,W,J,von シェリング(1775‐1854)、G,W,F,ヘーゲル(1770‐1831)があげられる。しかし、彼らについては、ここでは、あまり触れないことにしたい。なぜなら、彼らは、シュライエルマッハーのように、むしろ19世紀において活躍するからである。

 

結論

 

 このように18世紀のプロテスタント神学は、正統主義、敬虔主義、啓蒙主義の三つの流れを汲むわけであるが、そこには影響を与え、受け、あるいは、拒絶し、攻撃し、論争するという出来事と、真理に到達しようとする、あるいは、絶対的な基盤を持とうとする真剣さが数多く見られる。それらの事は、若いシュライエルマッハーに影響を与えたであろうし、また拒絶感を持たせたであろう。しかし、それがこの時代、つまり、18世紀における神学の形であったのであり、これらの事が、まさに19世紀の神学の土台となっていくのである。

 

 

 

 

〈参考文献〉

 

・エミール=G,レオナール『改訳 プロテスタントの歴史』、渡辺信夫訳、白水社、1968年。

・倉松 功『教会史 中』、日本基督教団出版局、1969年。

・石原 謙『キリスト教の展開 ‐ヨーロッパの・キリスト教史 下巻』、岩波書店、1972年。

・W,ウォーカー『キリスト教史 3 宗教改革』、塚田 理、八代 崇訳、ヨルダン社、1983年。

・W,ウォーカー『キリスト教史 4 近、現代のキリスト教』、野呂芳男、塚田 理訳、ヨルダン社、1986年。

・水谷 誠「シュライエルマッハー研究の再興」『日本の神学の方向と課題 新教コイノーニア12』、新教出版社、1993年。

『キリスト教大事典』、キリスト教大事典編集委員会編、教文館、1963年。

・『キリスト教人名辞典』、日本基督教団出版局編、日本基督教団出版局、1986年。

・『新キリスト教辞典』、宇田 進他編、いのちのことば社、1991年。

 

 

本レポートは1994年1月に同志社大学神学部における講義「組織神学(8)」のレポートとして提出され認められたものである。

注:(※)の部分は実際のレポートにおいては記していなかったが、2008423日現在、ホームページに載せるにあたり記しておいた。

 

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