聖書釈義:「コリントの信徒への手紙U 4章7‐11節」 

川上純平

1996122

〈1996年春季日本基督教団補教師検定試験〉

 

・釈義

 

 この箇所においてパウロは使徒の生の現実とそこに現われる神の力について述べている。

 7節にある“θησαυρός「宝(テサウロス)」は、「宝の倉」、「善き物」、「財産」、「豊富」、「富」、「持ち物」等の意味を持つが、ここでは4節の「福音」あるいは1節の(栄光)の「務め」、6節の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」意味する。また、おそらくパウロにとってダマスコ途上で与えられた内的な生命と栄光も「宝」なのであろう。そして、それは「土の器に(エン オスティラキノイス スケウエーシン)」“εν οστιρακίνοις σκεύεσιν”納められている。“σκευος”「器(スケウオス)」は、祭儀用具を意味するものとして使われることもあるが(ヘブライ9章21節)、この箇所では、パウロと彼の仲間の使徒たちの苦しみと迫害に悩まされる弱くこわれやすい体を土の器にたとえられているようである。人間あるいは、人間の肉体をしばしば役に立たない器として捉える考え方は、ヘレニズム世界、ユダヤ世界を通して広がっていた。また、当時、金や銀のような貴重品は土器に納められることが多かったようである。

 パウロとその仲間の使徒たちの弱い体を土の器とするのは、神の「力(デュナメオス)」“δυνάμεως”が神のものであって人間から出たものではないことを明らかにするためである。また、パウロは8、9節にあるように自分たちの苦難を次のように述べている。

 彼らは“εν παντί”「四方から(エン パンチ)」または「あらゆる所で」(Lietzmann,Menge)、“θλιβόμενοι”「苦しめられ(トリボメノイ)」または「患難を受け」(口語訳)、“απορούμενοι”「途方に暮れ(アポルメノイ)」、“διωκόμενοι”「虐げられ(ディオコメノイ)」または「迫害され」(フランシスコ会訳、岩隈訳)、“καταβαλλόμενοι”「打ち倒され(カタバロメノイ)」ている。しかし、これらの苦難の中にあっても常に神の力が働き、それによって彼らは守られる。それゆえ、彼らは“στευοχωρούμενοι”「行き詰ま(ステユオコロユメノイ)」ることなく、または、「窮」せず(口語訳)、“εξαπορούμενοι”「失望(エクサポリュメノイ)」することなく、または「困り果ててしまうことは」なく(岩隈訳)、“εγκαταλειπόμενοι”「見捨てられ(エグカタレイポメノイ)」ることなく、“απολλύμενοι”「滅ぼされ(アポリュメノイ)」ないのである。そして、このパウロの表現は闘技場における競技や試合の模様について述べる当時の描写から取られたのかもしれない、あるいは1章8節にあるように、アジア州での耐えられないほど圧迫され、生きる望みを失なってしまった(エクサポレテナイ カイ トウ ゼーン)“εξαπορηθηναι και του ζην”ような苦難、また7章5節にあるように、マケドニア州での安らぎのない恐れによって苦しんでいたことを示すのかも知れない。

 10節において、パウロとその仲間の使徒たちはイエスの「死(ネクロウシス)」“νέκρωσις”を体にまとっている、と言っている。“νέκρωσις”「死(ネクロウシス)」は、当時の医学用語では体か体のある部分の死に絶える過程か、死に絶えた状態を示す。しかし、この箇所ではパウロとその仲間の使徒たちの苦しみをキリスト論的に解釈したものとして捉えてよいであろう。(ちなみに、カルヴァンは“νέκρωσις”を“mortification”「死にいたるまでの苦悩」と訳している。)

 「死」はイエス・キリストが殺されたことを意味し、それを体に“περιφέρουτες”「まとう(ペリヒュエルテス)」または「身に負う」(口語訳)、「運び回る」(岩隈訳)ということによって、パウロはイエスの死が体に自分のからだに移り来る過程を述べている。彼が受ける苦しみ、死の危険は、イエスの死の苦難が彼のからだにおいて継続したものなのであり、コロサイ1章24節によれば、彼はキリストの苦しみの欠けているところを彼の地上的・この世的な実存において耐えているのだという。

 そして、それはイエスの「命(ゾウエー)」“ζωή”が彼の「体(ソウマ)」“σωμα”に現われるためである。“ζωή”は、「生命」、「生き物」、「生活」を意味する言葉である。初期キリスト教においては、「救い」を表わすために持ちいられ、旧約聖書、ユダヤ教、キリスト教においては死せる偶像に対する「生ける神」について述べられている。“σωμα”は、ホメロス、プラトン等においては死と結びつけられ、それらの古典ギリシアの影響が新約聖書にもあるようである。パウロは彼の手紙の中で“σωμα”を、からだを献げること(ローマ12章1節)、復活(コリントT15章35‐44節)、教会〈キリストのからだ〉(コリントT12章27節)と関連させて述べている。この10節では、パウロは死んだキリストを復活した生きるキリストと同一視し、自分の苦しみ、死と生をイエスの死と同じく結びつけ、イエスがその“ζωή”「生」を現す場、対象としての自分自身の体を示している。生きているのは、もはやパウロではなくキリストがパウロのうちに生きているのである(ガラテヤ2章20節)。

 11節にある「私たちは生きている間に、絶えずイエスのために」、「死に“παραδιδόμετα”さらされています(パラディドメタ)」または「死にひきわたされている」(岩隈訳)という言葉は、イエス・キリストを宣べ伝えるパウロとその仲間の使徒たちが苦難と迫害に苦しめられていることを意味すると解釈してよいだろう。そして、パウロがここで述べる「死」は“θάνατος(タナトス)”という言葉で表わされているが、別の箇所では罪との関係で“θάνατος”「死」という言葉が使われている(ローマ6章23節、8章2節、コリントT15章56節他)。また、パウロはキリスト者が信仰によってキリストの死に合わされることにより、キリストと共に復活の生命にあずかる者となることも述べられている(ローマ6章3‐10節)。「死ぬはずのこの身(テネテー サルキ)」または「死ぬべき肉体」(口語訳)“θνητη σαρκι”とは、地上の苦難の中にあるパウロの弱い肉体をあらわす。そして、その肉体にイエスの命が現われるということは、人間が死を貫いてイエスの復活の生命へと向かうことを人間に経験させる神の行為、あるいは、現在イエスの復活の生命によって日々新しい生命に歩ませられること、どんな絶望の状態からでも立ち上がる霊の力を与えられることを示すのだろう。

 

 

《参考文献》

 

 

T.本文、翻訳

 

Nestle-Aland.Novum Testamentum Graece 27th.Aufl.,Stuttgart,1993.

・『聖書 口語訳』日本聖書協会、1954年

・フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書 原文口訂による口語訳 パウロの書簡 第二巻、コリント人への第一の手紙、コリント人への第二の手紙』中央出版社、1977年

・岩隈 直訳註『希和対訳脚註つき 新約聖書7β コリント人への手紙下』山本書店、1980年

・『新共同訳聖書』日本聖書協会、1987年

The Interlinear Greek-English New Testament, London and Guilford,1995.

 

 

U.辞典

 

・岩隈 直著『増補改訂新約ギリシャ語辞典』山本書店、1989年

荒井 献・HJ.マルクス監修『ギリシア語新約聖書釈義辞典U』教文館、1994年

荒井 献・HJ.マルクス監修『ギリシア語新約聖書釈義辞典V』教文館、1995年

 

 

V.註解書                                

 

・田辺 保訳『カルヴァン新約聖書註解 \ コリント後書』新教出版社、1963年

・W.バークレー著、柳生直行訳『聖書注解シリーズ9 コリント』ヨルダン社、1971年再版

・ヴェントラント著、塩谷 泉訳『NTD新約聖書註解(7)コリント人への手紙』ATD・NTD聖書註解刊行会、1974年(初版)、1987年(第2版)

・E.ベスト著、山田耕太訳『現代聖書注解 コリントの信徒への手紙2』日本基督教団出版局、1989年

・高橋 虔、B.シュナイダー監修『新共同訳  約聖書注解U』日本基督教団出版局、1991年初版

 

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※この釈義は1996年春季日本基督教団補教師検定試験において提出され、「聖書釈義」として認められたものである。