教義学と聖書学     −教会と神学の関わり−」  川上純平  1998326

 

 

 

 

言うまでもなく、「教義学」は「聖書学」ではない。また同様に「聖書学」も「教義学」ではない。そして、以下に述べることは、この二つの学問のかかわりに関することについてのものである。

教義学」とは「組織神学」の中に含まれる、キリスト教の教えについての学問であり、キリスト教教会で決定された教義やキリスト教信仰理解、「教理」についての現代的な解釈でもある。それゆえに、それは聖書全体の内容を圧縮したものと言って良い。最初、「教義学」は聖書が記された時代には存在しなかったのだが、その前提となるものの一つは新約聖書が文書としておおよそ成立した頃に「イエス・キリストに対する信仰告白」という形で「教義」の萌芽として現れ始めた。

新約聖書においてイエス・キリストに対する信仰告白は、もちろん登場するのであるが、それは文書として聖書が出来上がった頃に聖書に加えられたものである。そして、新約聖書に登場する人物が活動していた頃に「信仰告白」(例えば「イエスは主なり」という言葉)があったかどうかは、多くの聖書学者の間で疑問視されているが、これも「聖書学」と「教義学」がどのように関わるものと考えるか、また、どのような信仰理解を持っているのかということによって「教会」と「神学」の関係で見解が異なる。

  もし仮に歴史的に新約聖書が文書として成立していなかったとしたら、イエス・キリストに対する「信仰告白」も後の時代に伝えられなかったかもしれない。そして、「信仰告白」が「使徒信条」(これは「教義学の主要問題を研究する基礎的本文」(1)でもある)という形で現われるのは、実はかなり後のことであり、それは、教会の伝承、教会の会議で聖書が文書となり、正典となる共に作成されたものである。

「聖書学」も「教義学」も、人間のなす業(わざ)であるが、聖書も信条も人間のなす業によるものでもある。そして、その文書の中に人々が宣べ伝えようとした信仰の言葉が記されているのであり、聖書から「神の言葉」を神学的に導き出すことが出来るとする学者もいる。

 聖書学」と「教義学」は、かなり深い関係にあり、かつ同一視することのできないものであり、『どちらが優れているか』等と言うことはできないのである。

 

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(1) カール・バルト著、安積鋭二訳、『カール・バルト著作集8 われ信ず 使徒信条に関する教義学の主要問題』

1983年(第1版第7刷)、230頁。