組織神学論文「被造世界の環境問題について−創造・救済・終末の視点を考慮して−」
川上純平 (1998年)
〈1998年秋季日本基督教団正教師検定試験〉
序論
聖書は、神がこの世界と人間を造られたと語っている。しかし、人間は技術革新と高度経済成長によって、神が造られたこの世界を破壊しようとしている。それは、端的に核問題、環境破壊、公害といった形で現れている。最近では地球の温暖化ということが言われ、また、1)環境ホルモンによる生態系に対する害ということさえ、言われている。それは自然が消えてしまうということではなく、むしろ人間によって自然が消されているということである。2)今日、このような問題を生み出してきている原因の一つには「自然」と「人間」を別の存在としているということがあるのかもしれない。3)
本論
驚くべきことに教会と神学が、世界規模でこのような生態学的危機の問題に取り組むようになったのは、1971年にイタリアで開催されたWCC(世界教会協議会)の〈教会と社会〉部会が最初であったようであるから、4)取り組み始めが、既に遅いのであるが、しかし、どうして神によって造られた人間が同じ神によって造られた被造世界の環境を破壊しようとするのであろうか。それは、端的に言って人間が罪深い存在であるからだと言うことも出来るかもしれない。そして、それは確かなことでもある。人間の理性には限界があり、また人間には欲というものがあり、不信仰になる時があるゆえ、被造世界のことを考えないで生きる時もあるであろう。
しかしながら、神は創世記1章28節にも書かれてあるように、人間に被造世界を治めるようにとお語りになったのである。神は人間に出来ないことをお命じになったのであろうか。我々はこのことをイエス・キリストを中心にして考えなければならないのではないだろうか。つまり、このことに関してこの世における人間と神との仲保者であるイエス・キリストを信じることが深く関わってくるのである。
言うまでもなく、今日の生態学的危機はもろもろの要因によるが、それらの諸要因はまた相互に関連し、相互に影響し、相互に加速しあって、ある意味で破局への全く複雑なプロセスを作り上げている。5)ある神学者はそういったことのもともとの原因は創世記1章28節の真意を誤解した間違った解釈の伝統にあるという。6)つまり、『地を従わせよ』ということが、人間が自然を支配し、世界を征服し支配するための神の戒めであるとみなされたのである。この考え方においては、人間は力の限りなき追求によって〈全能〉の神と似たものとなるはずであった。だからこそ、自己自身の力を宗教的に正当化するために、人間は神の全能を呼び出すことが出来るとしたのである。
我々は、この点にこそ最も重い神学的罪責があると考える必要がある。7)しかも、残念なことに有名な神学者や聖書学者が創世記1章28節の解釈に関して無神経な発言をしているという事実もある。8)そして、また、我々は創世記1章はもはや素朴に天地創造と受けとることの出来るものではないと考える必要もあるのかも知れない。そのことを今日のキリスト者は旧約学上の専門的議論として避けることなく、自らの信仰上の基礎としてしっかり据え付ける必要もあるのかも知れない。9)
いずれにしろ、歴史的キリスト教は人間の自然の支配の結果としての「今日の世界危機に対して無実ではない」(モルトマン)と言わなければならない。10) また神学は人間を主体として自然に対置し、自然を客観化する自然科学と自然の支配(搾取)を達成する科学技術とに自然というものを委ねてしまったのであった。11)
それでは、我々はどうすれば良いのであろうか。「被造世界の環境問題について」、どのように「―創造・救済・終末の視点を考慮して―」いけば良いのであろうか。我々は、このことについて考えるために創世記1章と共に、聖書箇所として、まずローマの信徒への手紙8章19−23節を挙げて考えてみたいと思う。
この箇所の8章20節で言われている、「服従させた方」はパウロによれば、人間である。12) つまり、パウロによれば、我々が被造物としての自然を、言ってみれば、被造世界の環境を虚無へと屈服させているのである。それは神によって造られた人間が同じ神によって造られた被造世界の環境を破壊しているということを示している。そして、パウロは、同時に終末に被造物が救われるということを説いてもいる。それは21節で述べられている。「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 」という言葉は被造物としての自然と被造物としての人間が共に解放されて、栄光の国、神の国の自由に入るということを示しているのである。13) 被造物としての自然と被造物としての人間が、いわば、一つの〈運命共同体〉として共通の歴史と共通の未来を持っているのである。終わりの日には社会的正義が実現すると同時に、動物相互間にも、動物と人間との間にも生態学的平和が完全に実現するのである。パウロの終末論的希望においては人間の〈生態学的暴力〉からの共なる被造物の解放と、共なる被造物との自由な交わりへの人間の解放が展望されているのである。14)そして、そこにおいてイエス・キリストへの信仰の重要性が強く述べられているわけではないが、神の子供たちの栄光に輝く自由、神の国の自由というものはイエス・キリストを抜きにして考えられるものではないであろう。
またパウロの思想的な影響下にあったコロサイの信徒への手紙1章16節は「万物は御子によって御子のために造られました。」と記している。つまり、ここでは、自然は人間にむけて造られたのではなく、人間と共に「御子にむけて」、イエス・キリストに向けて造られているのであるということが言われているのであり、自然は人間といわば同一平面上に並んで創造者なる神の前で共に生きる被造物仲間なのである。15)さらに、コヘレトの言葉3章19−21節は人間も動物も創造者なる神の霊を受けて生きるものであることを示している。16)こういった聖書の箇所から、我々人間は自然と共に神の国を待ち望むものである、17) ということが言えるのである。しかし、こういったことに関して、他にも幾つかの意見・考え方がある。
それは、例えばパスモアのスチュワード精神である。それは人間が地上のものを世話する、管理するという意味で、それらを支配すべく神に遣わされたというものである。つまり、この考え方では創世記1章28節の言葉が、配慮、世話、管理という意味で支配する使命があるということになるのである。18) また、他にも人間は自然と協調し協力するものであり、被造物は相互に連帯責任を持つというような思想もある。19)
また、我々が考えなければならないことに、創造論的世界像の回復ということがある。これは今まで述べてきたことと、重複することでもあるが、重要なことである。それは天と地が神によって造られたということに注目し、例えば、古代以来の「無からの創造」という教理と関係するものである。この教理は世界に対しては人間の側には何の所有権も請求権も成立しないことを明確に語っている。つまり、天と地は神がその一方的な主導権の下で、無から創造したものであるから、それは人間がいかなる形においても私物化し、勝手に所有し、利用し、享受し、消費し尽くすことの出来るものではないということである。ここでは世界をこのような主観主義的人間が自己の可能性をどこまでも追求する舞台であるという考え方は真っ向から打ち砕かれる。そして我々は世界が人間の私有物ではなく、他の隣人たちや生物とともに共有する神の賜物であることを知るのである。このような世界像の転換によって我々は世界における他の隣人や生物とともに共存することを学び、世界を世界そのものとして、人間を人間そのものとして見ることのできる新しいパラダイムの地平に立つことが出来るのである。この転換の出発点は、神を神とすること、つまり神を創造する神として信じ、承認することである。それはまた神を全能の神として信じ、承認することに他ならないものでもある。
ここに明示された神の世界と人間に対する関係の基本的モティーフは愛である。神はただ物の世界を物理的に創造しただけでなく、創世記1章25節にあるようにそれを見て「良しとされた」。そして、それはこの愛の表明に他ならない。このような創造する神の現実が明らかになることによって創造論的世界像の回復が実現するのである。20)
結論
以上、見てきたとおり、神は天と地を造り、人間に地を治めるように言われたが、それは人間の都合の良いように支配するということではなかった。しかし、人間はその真意を誤解し、結局のところ、環境破壊をするに至ったのである。我々、人間は、それゆえに、あえて人間の形をとられたイエス・キリストに対する信仰に立ちながら、同じ神によって造られた被造物と共存し、終わりの時には共に救われることを望むのであり、また、今、この時においても環境破壊が進んでいることを感じとりながら自分たちの仕方で、そのことに反対し、神の国を待ち望む者たちなのである。
注
1)「地球の温暖化とキリスト教」に関しては、『福音と世界』1998年3月号が特集を組んでいるので参照。
2)神田健次・関田寛雄・森野善右衛門編『総説実践神学』、1993年、再版、269頁。
3)深田未来生「創造の神秘に立ち返る」『アレテイアNO,21』、1998年、2頁。
4)武田武長「自然との共生−神の国の道備え」『エコロジーとキリスト教』(以下『自然』と略す)、1996年、第3版、193頁。
5)同書、198頁。
6)同書、198−199頁。
7)同書、199頁。
8)安田治夫「エコロジーと創造」『エコロジーとキリスト教』、1996年、第3版、252頁以下。
9)同書、268頁。また、この論文においては、創世記1章に関して、鋭い神学的解釈が、なされている。
10)『自然』199頁。
11)同書、200頁。
12)同書、202、204頁参照。
13)同書、202、208頁参照。
14)同書、208頁。
15)同書、209頁。
16)同書、210頁。
17)同書、213頁。
18)佐藤敏夫『キリスト教神学概論』、1994年、123頁。
19)同書、同頁参照。
20)小川圭治「生ける神−神論」『教義学とは何か』、1987年、84−86頁。
《参考文献》
・小川圭治「生ける神−神論」『教義学とは何か』 新教出版社、1987年
・神田健次・関田寛雄・森野善右衛門編『総説実践神学』 日本基督教団出版局、1993年
・佐藤敏夫『キリスト教神学概論』 新教出版社、1994年
・武田武長「自然との共生−神の国の道備え」『エコロジーとキリスト教』 新教出版社、1996年、第3版
・安田治夫「エコロジーと創造」『エコロジーとキリスト教』 新教出版社、1996年、第3版
・「特集=地球温暖化とキリスト教」『福音と世界1998年3月号』 新教出版社、1998年
・深田未来生「創造の神秘に立ち返る」『アレテイアNO,21』 日本基督教団出版局、1998年
※この論文は1998年秋季日本基督教団正教師検定試験において提出され、「組織神学論文」として認められたものである。