旧約聖書釈義:「旧約聖書 詩編46編」川上純平(1998723 

〈1998年秋季日本基督教団正教師検定試験〉

 

 

 ・釈義

 

1節にある「アラモト」という言葉の正確な意味は不明。

口語訳聖書は、この「アラモト」を「女の声のしらべ」と訳している。2節の「避けどころ」という言葉は「マハセー」という。「マハセー」はイザヤ書4章6節においては「隠れ場」と訳されている。「砦」という言葉は「オズ」と言って、口語訳聖書では「力」と訳されている言葉である。「苦難の」という言葉は、口語訳聖書では「悩める」と訳されている言葉であり、「ツァロット」と言う。もともとの形は「ツァラー」であり、「不幸、災難」を意味する。「助け」という言葉は「エズラー」という言葉で、6節にも使われている言葉である。3節の「恐れ」という言葉は、もともとのヘブライ語の形では「ヤレー」と言って、人間や物に対しても用いられるが、創世記22章12節に見られるように神に対しても用いられる言葉である。

そして、その後、自然現象を表す言葉がいくつか記されている。つまり、3節の「姿を変える(変動する)」「揺らいで」「移る」4節の「騒ぎ」「沸き返り」「震える」、6、7節の「揺らぐ」、7節の「溶け去る」等である。また神ご自身の行為としての7節の「御声を出される」、8節の「共にいます」、9節の「成し遂げられる」「圧倒される」、10節の「断ち」「折り」「焼き払われる」等があり、人間の行為としての7節の「騒ぎ」、9節の「仰ぎ見よう」等がある。

こういった比喩的表現は、神話や祭儀に起源を持つものである。と同時にそれらの表現によって信仰告白がここには記されている。また、この詩編46編の創作は、おそらくエルサレムがアッシリア軍の残忍さから不思議にも救われた出来事に由来するのであろうとも言われている。4節に記されている世界の破局の描写は太古の創造神話から採られたもので、それは闘龍神話のカナン的形態からも知られる。創造神に向かって荒れ狂い、逆に神におし静められた太古の海の荒波が、今新たに高まってあわやこの造られた世界を呑みつくそうとしている。旧約聖書はこの壮大な神話的形象を受け入れたが、その唯一神の信仰の力で、原初の神話的・多神教的な性格を拭い去っている。5節に入って状況も雰囲気も一変する。「大河」と訳されている言葉は、「ナハル」と言って、一年中水の流れている川を示す。また「その流れ」と訳されている言葉は、「ペレグ」と言って、支流、人工的な流れ、掘り、疎水を意味する。エルサレムには川がないから、ここではどこか他から取って来た光景を示しているに違いない。それは神話的な楽園の考えにもとづくもので、それがエルサレムに移されてヤハウェ礼拝の中に取り入れられたのだと思われる。

7節においては、神の助けを求めている苦難が何であるかが理解される。ここでは4節で大海のどよめきと大地の破滅を描写する際に用いたのと同じ言葉で、いまどよめき押し寄せる諸国民の襲撃が描写されている。4節、7節で「騒ぎ」と訳されている言葉は、「ヘメー」という言葉で、「とどろく」(口語訳の4節では、「鳴りとどろく」)「どよめく」とも訳される言葉である。この箇所は、もともと混沌の神々の戦いという自然神話に根ざしている。また、この箇所で明らかにされているが、旧約聖書が歴史の事件を全宇宙のことに拡大して把握する根本的な理由は、まさに旧約の神信仰自体が持つ独自性に求められるのである。

8節、12節にある「万軍の主はわたしたちと共にいます。」という神の現臨への告白の中の「わたしたちと共にいます。」という言葉は2節にある「いまして」(ニムツァー)、〔もともとの形は、(マツア)と言って「見出される」「存在する」の意。〕、6節の「その中にあって」(キルバハ)〔もともとの形は、(カラブ)と言って「近づく」の意。〕とは異なり、「イマーヌ」という。イザヤ書7章14節で使われた守護名インマヌエル(=神われらとともに)を思い出させる。また同じ箇所で、「砦の塔」(口語訳で「避け所」)と訳されている言葉は、2節の「オズ」とは異なり、「ミスガヴ」といって、イザヤ書33章16節で「高い塔」と訳されている言葉である。

9−12節において、会衆は何が起きたかを自分の眼でみることを求められる。勝利を期して襲いかかる敵の軍勢に代わって、屍と打ち砕かれた武器とに覆われた戦場の殺伐たる光景がある。また、ここでは神殿祭儀を、イスラエルに対するヤハウェ偉大な業を儀式的に再現し、精神的に追体験させる幻と解している(詩篇44:2−9)。平和の神は戦いの耳障りな音を静めるのである。世界が神を認め、神に服従するというのが平和の国の目的である。11節、神は世界の主として諸国民と地の上で、「高められ(あがめられ)」(アールーム)、〔もともとの形は、「レベム」〕、ただひとり全世界を越えている。祭りの会衆が祝いの頂点で神の啓示として体験した顕現は、同時に全世界にとって神の救いの歴史の頂点であり、最後の目的を意味する。ここで永遠の平和という幸いな夢を見るのは信仰である。この詩を信仰の秀歌にしているものは、神への全き服従から湧き出る確信である。

信仰は安んじてあらゆる危険を直視するものである。なぜなら、信仰は世に勝つ勝利のゆるぎなき確信を内に持つからである。

 

 ・黙想

 

  我々は苦難というものを体験することがある。その苦難は人によって様々に異なるものである。しかしながら、我々は神が我々の避け所であり、砦の塔であることを知っている。神は我々が苦難の中にある時、必ずそこにいまして助けてくださる。

  我々は、この詩編46編から、戦争や自然災害というものを想起する。特に阪神大震災は、まだ、記憶に新しく今も様々な問題を残している。あの大震災から我々は、自然というものの凶暴性を学んだ。また、我々は多くの事柄を通して、神が我々と共におられるということ、そして、人間が神をあがめ、共に平和に生きていくことの大切さ、信仰の大切さを学ぶものである。我々はどのような苦難の中にあっても、神によって助けられることを強く確信したいものである。

 

 

 

《参考文献》

 

     T、本文、翻訳

 

K,Elliger&W,Rudolf. Biblia Hebraica Stuttgartensia Vierte verbesserte Aufl.,Stuttgart,1990

・『新共同訳聖書』日本聖書協会、1987年

・『聖書 口語訳』日本聖書協会、1989年

John R. Kohlenberger. The Interliner NIV Hebrew-English Old Testament. Zondervan Publishing House,1987

・ミルトスヘブライ文化研究所編『ヘブライ語対訳シリーズ32 詩編(T)1〜50編』ミルトス、1990年

 

  U、辞典

 

William L.Hollady. A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of The Old Testament. Eerdmans,1988

・キリスト聖書塾編『現代ヘブライ語辞典』キリスト聖書塾、1984年

 

         V、注解書

 

A,Weiser.Die Psalmen Zweiter TeilPsalm 42-89 (ATD13Bde.,) Göttingen,1979(         8 )(塩谷 饒訳『ATD新約聖書註解(13)詩編 中』ATD旧約聖書註解刊行会、1985年。

・高橋 虔・B.シュナイダー監修『新共同訳  旧約聖書注解U』日本基督教団出版局、1994年

J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』教文館、1996年

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※この釈義は1998年秋季日本基督教団正教師検定試験において提出され、「旧約聖書釈義」として認められたものである。