新約聖書釈義:「新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章26−29節」川上純平(1998723

〈1998年秋季日本基督教団正教師検定試験〉

 

・釈義

 

26節にある「信仰」という言葉は「ピステオス」という。この言葉は正しくは「ピスティス」と言うが、「信仰」という意味の他に「信頼」「誠実」「約束」「確証」という意味を持つ。

パウロにおいて「ピスティス」は、彼の神学思想のまさに中核に位置を占める。その際、彼はキリストにおける神の救いの行為についての使信の受容というキリスト教に共通の意味を継承する(ローマ10:9,14, 13:11, Tコリ1:21, 2:5, 15:2,11, ガラ2:16等)。信仰は常に言葉(ローマ10:14)から生じるのであり、信仰は「聞くことによる信仰」である(ローマ10:17)。

「神の子」という言葉は、ここでは「ヒュイオイ・テウー」と言う。「子」は「ヒュイオス」と言う。ガラテヤ3:26以下においては、このことは神の子の派遣によって根拠づけられている。と言うのは、派遣は「わたしたちを神の子となさるため」(4:4−5)に行われたからである。それ故、神は「その子の霊」を我々の心に送った。この霊はアッバの叫びを可能とするだけでなく(4:6)、我々を隷属状態から解放し、自由を与え、相続人とする(4:1−3,7)。

「結ばれて」という言葉は、「ディア」と言い、「〜を通って」と訳される言葉であり、口語訳聖書では「(キリスト・イエス)にある(信仰によって)」と訳されている。                           

27節の「洗礼(バプテスマ)」という言葉は「バプティスマ」と言う。27節においては「洗礼をうけてキリストに結ばれた」者は「キリストを着ている」とされる。こうしてキリストは洗礼における罪の許しの宣告の際、自らの罪を認識した受洗者が《罪から身を》守るためにまとうおおいという役割を担わされる。そもそも、洗礼は初代教会の入信の儀式として早くから確立していた(ローマ6:3−4,Tコリ12:13,使徒2:38,10:48等)。初代教会の洗礼の特色はイエス・キリストの名によって執行され(使徒2:38,10:48)、罪の許しを与え(使徒2:38)、聖霊の付与と結び付いていたことにある(使徒2:38,10:47−48,Tコリ12:13)。

「着ている」という言葉は、「エンディオー」と言う。パウロにとってこの言葉は洗礼と関連するものであり、キュリオス(主)を着ることを意味することを証明する。このことは3:28−29から推すると、「キリストの体」および新しい創造の現在へ編入されることを意味する。ローマ13:14によれば、そのようにキリストの体の一肢体となることは勧告的にキリスト者が不断に目差すべき使命とされ得るのである。コロサイ3:10とエフェソ4:24が「新しい人」を着ることについて語る場合、そこでもまた洗礼との連関が保たれている。つまり、そのような意味で着ることは、創造主の「像」に従って、つまり、キリスト自身にならって行われる。

28節の「一つ」という言葉は「ヘイス」と言う。ここでは、信徒はキリストにあって一つであることが強調されている。そして、一致の根拠は教会の主であるキリストが一人であることである(3:14,Tコリ8:6,12:12,エフェソ4:5)。そして、このことは、28節前半部分と関わる。「ユダヤ人もギリシャ人もなく」という発言は、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に、キリストを信じる者であるという事実について何らの区別もないことを意味する。「奴隷も自由な身分の者もなく」また「男も女もありません」に関しても同様である。

29節の「アブラハムの子孫(スペルマ)」であり、「約束(エパゲリア)による相続人(クレロノモス」であるということは、16−18節と関わりを持っており、アブラハムに対して立てられた約束はキリストにあって成就したということと関係する。イエス・キリストを信じる者はキリスト(一人の子孫)に属するものであり、アブラハムに語られた約束を受け継ぐのである。そして、キリストの教会こそ、神の人類救済の計画が成就に達したことの事実的表現に他ならないのであり、教会にあって、かの昔アブラハムに対して万国の民に及ぶであろうと約束された祝福が、生ける現実となったのである。

 

・黙想

 

残念なことに、この世の中には外国人差別、部落差別、性差別、障害者差別等、数多くの差別が存在する。しかしながら、キリストを信じる者はイエス・キリストの名によって洗礼を受け、イエス・キリストに結ばれ、イエス・キリストを着ていることから、一つなのである。そして、そのようなことから、もはや差別はなされる必要がないのであり、もし、差別があったとしても、差別と闘うことができるのである。

それらのことは、イエス・キリストに対する信仰によって一つであるということからなされることでもある。そして、我々はかつてアブラハムに語られた約束の、実現としての教会に連なるものであり、イエス・キリストに属するものであり、アブラハムの子孫なのである。我々は、すでにそのような者とされたのであるから、イエス・キリストに従いつつ強い信仰生活をおくることができるのである。

 

 

《参考文献》

 

     T、本文、翻訳

 

  Nestle-Aland.Novum Testamentum Graece 27th.Aufl.,Stuttgart,1993

  ・『新共同訳聖書』日本聖書協会、1987年

 ・『聖書 口語訳』日本聖書協会、1989年

  George Ricker Berry, Interlinear Greek-English New Testament Baker Book House,1995

 

     U、辞典

 

Hrsg.von Horst Balz-Gerhard Schneider. Exegetisches Woerterbuch zum Neuen Testament,3 Bde.,Kohlhammer,1980-83(荒井 献・HJ・マルクス監修『ギリシア語新約聖書釈義辞典T』教文館、1993年、同『U』教文館、1994年、同『V』教文館、1995

 

   V、注解書                                

 

H,W,Beyer(neu bearbeitet von P,Althaus).Der Brief an die Galater(NTDBde.,) Göttingen,1965(         10)(大島智夫、杉山 好他訳『NTD新約聖書註解(8)パウロ小書簡』NTD新約聖書註解刊行会、1979年)

 ・W,バークレー著、鳥羽徳子訳『聖書注解シリーズ10 ガラテヤ・エペソ』ヨルダン社、1970年

高橋 虔・B.シュナイダー監修『新共同訳  約聖書注解U』日本基督教団出版局、1991年初版

 ・小海 基「釈義と黙想 ガラテヤの信徒への手紙 3章15〜29節」『アレテイアNO.1』 日本基督教団出版局、1993年

J.L.メイズ編『ハーパー聖書注解』教文館、1996年

 ・原口尚彰「新約釈義 ガラテヤ書を読む17 3章23〜29節」『福音と世界 1997年5月号』新教出版社、1997年

 

 

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※この釈義は1998年秋季日本基督教団正教師検定試験において提出され、「新約聖書釈義」として認められたものである。