「説教(1998年2月の礼拝説教『恵みの座に』ヘブライ人への手紙4章12‐16節より 説

教者:川上純平)とその批評」 

川上純平 (2008年10月)

 

  

恵みの座に近づくということが、今朝の礼拝の聖書箇所の示していることですが、それは、どういうことでしょうか。未だ悲しみの中にある私たちですが、今日は聖書のこの箇所からこのことをご一緒に考えてみたいと思います。

私たち信仰を持つ者は、神の恵みに与っている者たちです。しかし、恵みの座に近づくのは、私たち一人一人であるゆえに、「自分一人だけ」ということではないようです。他の人々も恵みの座に近づくのです。その恵みの座は、イエス・キリストの十字架による罪の許し、罪からの解放、復活、永遠の生命にあずかることのできる座です。それは、もちろん、目に見えるものではありません。しかし、確かにあるものです。

既に2月25日から、すでにレント、受難節に入りました。これは、もともと2世紀ごろ、復活日前夜に洗礼を受ける志願者が、その前に教育を受け、断食、祈祷をして準備したことに由来しています。この断食は、初めは1日あるいは2日間でしたが、7世紀のローマ教会は、復活日前の6主日を除いた40日間としました。この40日間というのは、イエス・キリストの荒野の誘惑に先立つ40日間の断食に基づいています。もちろん、だからと言って、私たちは真似をして断食するわけではありません。

このような起原を持つ、受難節、イエス・キリストの御苦しみを覚えるレント、最初の聖日を迎えた私たちですが、ヘブライ4章16節は「恵みの座に近づこうではありませんか」と語っています。しかし、同時にヘブライ4章12節は「神の言葉の力強さと神の目がすべてのこと、すべてのものを見ている」ということを語っています。

神がすべてのものを見ている、ということは、人間にとって恐れのようなものかもしれません。また、自分のことを神に申し述べねばならないということは、神の前で裁かれているようなものです。しかし、それは悔い改めと、そして、神からの救いを得るための通過点のようなものです。この通過点をぬきにして救いに至ることはできません。

神がすべてのものを見ている、ということは、人間にとっては救いであると言うこともできるかもしれません。人間一人一人が、何を考えているか、何を思っているか、神はご存じであり、そして、それにもかかわらず、神は人間を愛される、むしろ、ご存知であるゆえに、人間を愛される方なのです。そして、恵みをお与えになる方なのです。人間は、それほど弱いものであり、愛を必要とするものなのです。また、それほど、神に愛されているものなのです。それゆえに、人間は神の前で自らについて述べることのできるものであり、それは祈りを通してなされるものなのです。

12節を見てみますと、「精神と霊」という言葉が記されていますが、ここで言われています「精神」は生命力を表わし、「霊」は人間特有の「霊魂」を表わします。人間が神を見上げるのは、この霊によるとある人は言っています。そして、神の言葉は、そういった人間特有のものを批判します。しかし、ここで注意しなければならないことは、それは、人間の生命力や思いや志しが必要ないと言われているのではないということです。そうではなく、それらを神の目の下に置くように、ということが言われているのです。

13節にある「神の目には、さらけ出されている。」という言葉は非常に生々しい表現で、三つの意味があると言われています。一つめは、レスリング用語で、試合をする者が相手の、のどをつかむことだそうです。二つめは、動物の皮をはぐ、という意味を持つのだそうで、3つめは、昔、裁判所や処刑場に、連れて行かれる犯罪人には、短刀を上に向けて、顎に縛り付け、そして、犯罪人が恥じて顔を隠そうとしても下を向かないようにしたということにつながる意味を持っています。

このように「神の目にさらけ出される」ことは生々しい表現で、意味を持つものであるにもかかわらず、最終的には、救いへとつながるのです。それは14‐16節につながります。14節では、イエス・キリストが大祭司とされています。イエス・キリストを大祭司とするのは、ヘブライ人への手紙特有の神学です。そして、なぜイエス・キリストが大祭司なのか、ということに関しては、5章1節以下、特に7‐10節において述べられています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブライ人への手紙5章7‐10節)

4章15節でも、このことについて述べられています。特に、ここではイエス・キリストが「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と記されています。ここで言われている「弱さ」は、ガラテヤ4章13節にある「肉体的な弱さ」、ルカ5章15節、8章2節にある「病気」、ヘブライ5章2節、7章28節にある「道徳的な弱さ」、宗教的な弱さ、すべてを含んでいると考えられます。実際、これらの箇所で使われている「弱さ」と言う言葉は新約聖書が書かれた言葉であるギリシア語では、すべて“ασθένεια(アステネイア)”という言葉が使われています。私たち一人一人も、すべて様々な弱さを持つものです。弱さを持たない人はいません。なぜなら、私たちは、全知全能の神ではないからです。

しかし、イエス・キリストは私たちに同情され、私たちを憐れむのです。神が人間と関係を持とうとされるのです。ブルームハルトという人は「人間は神のものである。」と言い、ボーデルシュヴィンクという人は「神が愛されない人間は一人もない。」と言っています。

15節で言われています「同情する」という言葉は、「共に苦しむ」という意味を持っています。それは、他者の苦しみの中に自らも入り込み、その苦しみを自分の苦しみとして背負う、という意味を持っています。そして、イエス・キリストは試練にも遭われました。それは荒野での悪魔からの誘惑に代表されるようなものでした。しかも、イエス・キリストはそれに打ち勝ちました。

パウル・ティリッヒという、ドイツ、アメリカで活躍した現代神学者は、興味深いことを言っています。彼によれば、「律法は悪を暴き、悪を縛る働きをするにもかかわらず、命令と禁止の言葉によって、また罪の力を引き起こし、自らの不安と絶望と破壊へと追い込んでしまう。つまり、悪としての働きをなしてしまう。そして、自分を超越した方の力によって、罪の力は破られているという言葉を受け入れる時にのみ、自分の心の中で、罪の力は破られる」のだそうです。それは自分を見失った後に、再び、自分を見出す時に起こるものです。

そして、イエス・キリストは、まさに、そういった中で中心的な救いの働きをなす方です。イエス・キリストが、神として、そのような方であるからこそ、イエス・キリストから、憐れみを受け、恵みを受け、助けをいただくために、恵みの座に近づく、つまり、賛美をすること、祈ること、礼拝することが人間には勧められているのです。

もともと旧約聖書では「恵みの座に近づく」ということは、祭司が礼拝のために聖所に向かって進んで行く、ということに用いられたそうです。また「恵みの座に近づく」ということは、イエス・キリストの十字架における罪の許し、罪からの解放、復活、永遠の生命に与ることに深く関連します。それは受難(裁き)を思い起こすことによって、悔い改め、救い、復活を知ることができるようになっていく、ということです。

ある人はこう言っています。「神は人間のどんな経験に対しても、『わたしたちは、そこにいた、それを経験した。』と言うことができる。われわれが悲しい経験をし、悲嘆の涙にくれ、助けを求める時、神は、われわれを理解し、『わたしも同じ経験をしてきた』と言われる。だからこそ‐神は人を許すことができるのである。」

私たちは、恵みの座に近づいているものたちです。そして、同時に私たちが、まだ恵みに与っていない一人一人の人に恵みの座に近づくことを、勧めることができればと思います。

 

 

 

 

 

〈批評〉

 

この説教は1998年2月に行われた日本キリスト教団のとある教会の主日礼拝での私の説教であるが、その日は教会の有力な信徒の方が続けて2人も天に召され、そのご葬儀が終わった後の日曜日であった。

この説教は伝統的な教会の用語を用い、福音を語ろうとしたものであるにもかかわらず、その時の具体的事例が述べられていないという極めて珍しい形態をとっている。

具体的事例が述べられていないことに関しては、あえてそれを差し控え、比ゆ的用法を用いることによって述べたということがある。結果として、その時に聴いた方々は、状況が特別であり、同じような環境に居合わせたということもあって問題はなかった。もちろん、他の状況では、この説教は意味不明なものになりかねない。

表現に「イエス・キリストは試練にも遭われました。それは荒野での悪魔からの誘惑に代表されるようなものでした。しかも、イエス・キリストはそれに打ち勝ちました。」というような単調で同じようなパターンや説明が何回も登場するのが気になる。

説教の長さとしては短い感がある。もう少し、その時の人間のおかれた特別な状況や心のあり様、それに対する神の救いを語っても良かったかもしれない。

 

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