キリスト教神学について

 

川上純平    2009改訂版(初版19981011)

 

 

 

 

1.キリスト教神学の前提としての信仰と教会

 

ここではキリスト教神学についてさらに深く考えてみるために、まずキリスト者(キリストを信じる者)の信仰は教会を生み出したということ、そして、それゆえにキリスト教神学を行なう者の場が教会であることを述べておきたい。キリスト者は教会だけでなく、様々な日常生活の中で生き、働き、そして哲学や価値観、日本の場合は欧米にはない習慣、様々な諸宗教にも触れる機会を持っている。しかしながら、キリスト者の持つキリスト教信仰は教会的な信仰と言えるであろう。なぜならキリスト者は聖書が証するイエス・キリストに出会って彼に聞き従うという信仰を持ち、その信仰によって教会が生まれるからである。それは既存の建てられた「教会」ということではなく、「キリストにある交わり」という意味での教会である。それゆえにキリスト者が信仰を持つということはキリスト教会という群れの中にあって共同的にイエス・キリストに従うということにつながるのである。

このことはキリスト教神学に「教会性」があることと結び付いている。それはキリスト教神学を成立させる場、キリスト教神学を主体的に遂行する場がキリスト教会であるということである。ちなみに、ここでは「学問とは何か」については自明のこととし、問わないこととする。もっとも「神学の学問性、その他」については後述する。キリスト教神学の教会性とは、既存のキリスト教会全てが必ずしも神学を生み出す場であるとは限らないわけであるが、ここで言われていることは、そのようなことではない。それは歴史的にキリスト教会が教義(教会的信仰)、神学を生み出しているということに基づく。これとは逆に教義や神学がキリスト教会を創造し、キリスト教会の成立基礎を生み出しているという側面も一部あるかもしれない。そして、それらはイエス・キリストについての福音によって創造されたものである(佐藤敏夫著『キリスト教神学概論』、1994年、8頁。以下『概論』と略す)。

パウル・アルトハウスは、キリスト教神学がキリスト教信仰の自己吟味が要求されるのに応じて成立し、神学諸教科が統一されるのも信仰の自己吟味を分担するという〈事柄における一致〉によるものであるとしているAlthaus,Paul,Die christliche Wahrheit,3.Aufl,1952,S.4)。それはカール・バルトによればキリスト教会に特有な神についての語りの内容についてキリスト教会がなす、学問的な「自己吟味」である(カール・バルト著.井上良雄訳『カール・バルト教会教義学 神の言葉T/1』、1995年〈第1版第1刷〉、5頁。以下『教会教義学 神の言葉T/1』と略す。キリスト教神学はキリスト教信仰を客観的な目で見、それについて論理的に考え、その意味を明らかにするという自己吟味を行なうものであり、さらにまた、それは事柄について、またキリスト教信仰について、現実の場で調べて「根拠または状況」を明らかにするという意味での自己吟味を行なうものである。

これらのことからキリスト教神学はキリスト者の信仰を前提とするものであると言える。それをエミール・ブルンナーの言葉を用いるならば、神の啓示が神学の内容であり、同時に根拠でもある(エミール・ブルンナー著、清水 正訳「神学の根拠と対象としての啓示」『ブルンナー著作集 第1巻 神学論集』、1997年〈初版〉、60頁)と言うことができる。神学は教会共同体において行なわれ、教会共同体への、連帯・奉仕・献身等において行われることが神学の「教会性」の意味である。ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉を用いるなら、教会は「教会において現実存在するイエス・キリスト」であるが、そこでは教会という共同体は「現実存在するイエス・キリスト」によって促され、教会自らが神学を行なうとう出来事がある。そこには神の福音をこの世に伝えるという宣教を始めとする教会の任務に結実していくということがある。それは抽象的思弁に終わるものではなく、教会の祈りが必要とされるものである。

同時にキリスト教神学は複雑な現代社会において多様化され、教会を取り囲んでいる周囲の世界と一般の文化、社会問題を始めとする様々なものに対しても向けられている。なぜなら、イエス・キリストは世を救う救い主であり、福音の真理は世を照らす光であるからである(桑田秀延著「神学」『キリスト教組織神学事典』、1992年〈5版〉)。そこから「解放の神学」「民衆の神学」等も生まれてきたのである。また、このことは学際化と無関係ではなく、単なる分析に終わるものでもないであろう。これらのことはキリスト教神学が教会との関連でなされるべきであるということと矛盾せず、教会の伝統的教理や伝統的な考え方に対して従属的でなければならないということを意味するのではない。

ここで伝統の重要性について語ることは無意味ではないであろう。なぜならば、「伝統は今日の教会の自由な批判的作業を介して生きた伝統として存続する」からである(大崎節郎著「第1章 信仰の思惟 ‐教義学序説」『教義学とは何か』、1987年、43頁)。伝統において重要であるものに学びつつ、そこから現代において生きるものとして自由であることが歴史的存在にとって必然的であるゆえである(『概論』、21、22頁)。キリスト教神学が教会のためだけの学問となったり、キリスト教神学の学問としての自由が奪い去られたりするならば、それはキリスト教神学ではない。同時に神学は歴史的に教会における闘いによって育成されたものであり、神学者の信仰生活に依存する。言い換えれば、信仰者の神学的苦闘が現在に至る神学を生み出してきたのである。また神についての知識や、神が現実に存在しておられること、神の恵みについて知ることにキリスト教神学の究極的な目的があるのだが(熊野義孝著「神学の方法」『キリスト教組織神学事典』、1992年〈5版〉)、教会について考える、あるいは、神が造られたこの世について考えるということは、その目的と結びついているのである。その土台には聖書と伝統がある。                        

 

 

2.キリスト教神学の歴史とその現状(神学概念を中心して)

 

キリスト教神学の起源は旧新約聖書にあるが、聖書においてその内容が体系化され学問的に記されているわけではない。同時にキリスト教の信仰理解が古代ギリシアとその哲学の表現や言葉とも結びついたものも起源として考えられる。またそもそも聖書にも古代世界の他の諸宗教の要素や神話的表象は多く存在する。

 しかしながら、聖書が語る神の言葉やキリスト教信仰は人間によって作られた神話とは異なり、キリスト者が存在するように出来事として実際にあるものである。それは当時の人間の表現の中に人間とは質的に異なる神が示されているということであり、聖書に登場する人間はその神について語っているということである。キリスト教神学は、そのように聖書の神についての学問であるが、単なる聖書についての説明ではない。

古代のキリスト教思想家たちは、自らの置かれた状況からギリシア哲学との関わりでキリスト教の神について考えなければならなかったが、キリスト教思想の前提となったものはキリスト教信仰である。また古代のキリスト教思想家たちが、イエス・キリストについて、聖書の神について語る際に、古代ギリシア哲学を用いて語ったとしても、それは、当時、その場所で生きた人々のものの考え方で説明する必然性があったからである。後に時代、地域、思想、言語の差異がキリスト教神学の差異に結びついていった。それゆえに一口にキリスト教神学と言っても、様々な考え方が生じることにもなったのである。

  英語のTheology(セオロジー)”の訳語としての「神学」という言葉は、「宗教をその教理の立場から研究する学問」として一般化され、使用されている。その語源はギリシア語の“θεολογίαtheologia:テオロギア)”にある。この語は、もともと“θεολογοςtheologos:テオロゴス)”「神を語る人」〔この言葉の“theos(テオス)”は「神」を意味し、“logos(ロゴス)”は「言論,教え,説明」を意味する〕、“θεολογέινtheologein:テオロゲイン)”「神を語ること」等の言葉と組み合わさって、ギリシア宗教の神々について神話論的に物語ること、「神々のことを語ったもの」を言い表していたが、理論的な意味はなく、神話と同じ性格のものであった。(ちなみに、ギリシア人は一般に信仰 pistis(ピスティス)”よりも知識を重んじたので,信仰は知識以下で、臆測 doxa(ドクサ)”と同じものとみなしていた。またギリシア人において信仰が信仰として独立するに至らなかったのは、ギリシアの宗教が多神教で,しかも政治と倫理を媒介することが少なかったためと言われている。泉 治典「信仰」『CD−ROM版 世界大百科事典・年鑑・便覧』、日立デジタル平凡社、1998‐2000年〔第2版〕)やがて、その内容を哲学的に解釈するものとして哲学者の神学が生まれ、ストア派において神学は哲学の一部門となった。後に哲学者のプラトンが「神話に関する批判的論評」を意味するものとしてこの語を使い始め、アリストテレスは哲学的・形而上学的な原理としての神について論じるようになった。この段階ではまだキリスト教神学ではなく、理性による神的存在の哲学的探究にすぎなかったが、紀元1世紀に入り、ヘレニズムの影響下において新約聖書における神学的考察は行なわれ始めていた(宮本久雄著「神学:古代・中世」『岩波キリスト教辞典』、2002年。)。

キリスト教史において最初にギリシア思想と深い交渉をもったのはテルトゥリアヌスたちであった。テルトゥリアヌスのような紀元2世紀の弁証家(弁証論者“apologist:アポロジスト”)たちが、異教世界に対してキリスト教信仰を、あるいは、キリスト教の神理解を理論的に弁明するために、つまり説明して明らかにするために“θεολογίαtheologia:テオロギア)”という語をキリスト教会に導入した。それを古代キリスト教がギリシア人から受取ったと言うこともできるかもしれない。ちなみにユダヤ教と新約聖書においてはこれらの語は知られていない。3世紀にオリゲネスのようなギリシア教父(古代キリスト教の正統的指導者の中でもギリシア語で文書を残した人々)たちにとって神学の内容は「神に関する教理」、特に三位一体論(三一神論)であったが、この意味での狭義の神学と並んで、「救済論」が存立した。5世紀に活躍し、ラテン教父においてだけでなく、古代キリスト教会において最大の指導者であったヒッポのアウグスティヌスは、神学を「神性(神的な事柄)についての学または論(理論または言説)“de divinitate ratio sive sermo”」と言い表した(アウグスティヌス著、服部英次郎訳『神の国(二)』、2006年〈第6刷〉、148頁)。

12世紀以降、フランスの初期スコラ神学者(「スコラ」は中世の「学校“schola”」を意味し、「スコラ神学」とは教会教父と呼ばれた人々の神学とギリシア哲学に起源を持つもので、信仰と理性、神学と哲学を調和、統合させた立場の神学を意味する。)であるペトルス・アベラルドゥスたちの影響でラテン語の“theologia”が「聖なる知識についての学科」「キリスト教信仰一般の体系的議論」を意味するようになり、それまで聖堂や修道院に付属した学校で行われていた「神学」はパリ大学のような公の学校で行われ始めた。さらに13世紀にイタリアのトマス・アクィナスがそれを理論的に構築するに至った(アリスター・E・マクグラス著、神代真砂実訳『キリスト教神学入門』、2007年(第4版)、196、198頁)。トマスが学としての神学を完成させ、それらスコラ学はカトリック教会の神学の土台となっていったとも言える。中世において「神学」は教義学全領域、つまり組織神学と同じものとなっていった。

16世紀に入りドイツの宗教改革者マルティン・ルターはそれまでのカトリック神学と違い神学と哲学の対立を強調し、プロテスタント教会の創設者となった。彼によれば、神学は自律的な理性の認識とは異なり、神の霊によって神の言葉から受け取る認識であった。彼はカルヴァンと並んで聖書が語る神に対する信仰に人々を導こうとし、神学はそのためのものとした。しかし、17世紀の終わり頃、正統主義の時代の終わり頃になると聖書釈義や教会史が登場することになり、啓蒙主義の時代、18世紀に哲学者インマヌエル・カントによって人間の理性が対象を認識する意味と限界とが厳密に問い詰められた。その結果、人間が神について語り、神的な事柄について論じることは従来の神学が行なってきたような理論理性の仕事としては不可能とされるようになった。歴史学的・批評学的に聖書を解釈する立場が現れ始めたのはこの頃である。さらに19世紀において神学の概念は近代神学の祖であるフリードリッヒ・ダニエル・エルンスト・シュライエルマッハーの定義によって代表されるようになった。彼によれば「キリスト教神学とは、その所有と使用なしには、キリスト教会の一致した(整った)指導、すなわち教会管理(教会政治)ができないところの、学問的知識ならびに行為基準(技巧の規則)の総まとめである」(シュライエルマッハー著、加藤常昭訳『神学通論』、1962年、13頁)。彼は神学を三部門、つまり哲学的神学、新約聖書学と教義学を含む歴史神学、実践神学に分けている。ちなみに、その時代に実践神学は独立した神学の部門となっている。それにはシュライエルマッハーによる影響が大きい。

 その後、19世紀後半から20世紀初頭にかけて啓蒙主義やシュラエルマッハーらの影響を受けた「近代プロテスタント神学」が生まれた。そこにおいては人間の存在や人格が重んじられることによって人間が本来持つ宗教心とキリスト教を含む他の諸宗教との関係が積極的に考察され、イエスの人格とイエスの説いた倫理が重んじられ、史実のイエスに遡ることによってこの世に神の国を建設することが唱えられ、社会の進化についての楽観視やキリスト教と文化との統合が強調されるに至った。これらの様々な立場は「自由主義神学」と呼ばれた。

しかし、現代神学においては神との関係での人間の捉え方、神学の方法や聖書解釈等をめぐって、この「自由主義神学」と呼ばれた立場、つまり「近代プロテスタント神学」に対して批判がなされた。先の「1.キリスト教神学の前提としての信仰と教会」におけるパウル・アルトハウスの引用が述べるようにキリスト教神学はキリスト教信仰の自己吟味を伴うものであり、シュライエルマッハーが主張するような神学の成立が教会指導の有効性という目的だけによって考えることは表面的なものであるとする批判も行われたAlthaus,Paul,idem.)。一方、後にヴォルファルト・パネンベルクのように人間学は神学の大前提であるという主張もなされ、エキュメニカル運動(世界教会運動)、世俗化の問題、他の諸宗教との対話、創造論と自然環境倫理の問題等が取り上げられている。

現代神学によるシュライエルマッハー批判について言えば、シュライエルマッハーの教会論は彼の主著である『信仰論“Der christliche Glaube (1830/31)”』において述べられているが、それは彼の神学概念が実は重要なものであることを語っている。彼にとって教会はキリスト信仰の本質に属し、その時代状況との関わりにおいて現実化するものである。キリスト信仰の具体的な存在形態は教会であるゆえに、神学はこの教会の形成のために成立した「実存的な」学問であるということ、従って〈神学を教会形成に向けて目的論的に考えることそのもの〉が神学の本質から発していると彼は述べている。もっとも現代神学における近代プロテスタント神学に対する批判が重要なものであることは言うまでもない。

キリスト教神学においては神学の形成的機能と批判的機能とがある。そのどちらもが欠けてはならないものであろう。なぜなら、形成と批判の両機能は共に神学の本質に属するからである。また日本のキリスト者に与えられた神学が状況によってはキリスト教にとって開拓伝道地であることによって両機能の中でも形成的機能が必然的に重要なものとなるということもあるであろう。

  さらに日本のキリスト教神学には欧米のキリスト教とは異なる特有の状況が与えられ、それとの取り組みが必要とされている。それは日本が非キリスト教的な土地であり、日本におけるキリスト教伝道には他の諸宗教あるいは無宗教の人々を宣教対象としているということによる。つまり欧米のキリスト教宣教が欧米のキリスト教神学を土台としていることは言うまでもなく、宣教師によってキリスト教をもたらされ、そこから発展した日本のキリスト教神学が伝統的に欧米のキリスト教神学から学ぶことは多大であろう。しかし、日本においてはキリスト教会とキリスト教会を取り巻くこの世の状況も天皇制や部落差別を始めとする様々な差別等、欧米とは異なる部分が数多くあり、それまでの欧米のキリスト教宣教を全くそのままあてはめるわけにはいかないということである。そこには他の諸宗教あるいは無宗教に対してどのように自らを位置付けるかも含んでいる。それが他の諸宗教に対する信仰的な意味の妥協であってはならないことは言うまでもない。日本では欧米で当然とされている教派性も超越されなければならないかもしれない。

以上、見てきたように、キリスト教神学はこれからも重要なものであり、特に日本においては新しく再創造される部分も含まれているのである。

 

 

3.神学の学問性

 

キリスト教神学はキリスト教信仰の自己吟味・自己検証が必要とされる限り、どの時代に誰もが行なう権利を有しているものである。しかし、その行為が神学であるということは、そこに学問性があるかどうかによる。学問性の必要条件を満たしていないものは、単なる思い付きであり神学ではない。

学問性の必要条件としてはカール・バルトらが言うように以下の3点がある。

 

1.特定の実在する認識対象(例:ある聖書箇所の原文の単語について)に対する研究であること。

2.特定の一貫した認識方法(例:たとえば、ある神学釈義的研究方法)によって行なわれること。

3.その対象をその方法によって研究する全ての人に対してその方法の妥当性が論証されていること(例:聖書学者たちの論文や著書によって)。

 

学問性という意味では、「神学」は他の諸学問と共通している(『教会教義学 神の言葉T/1』、14頁)。もっとも、神学の方法論は他の諸学問から学ぶものではない。神学の方法は「キリスト教的信仰の事実」を叙述することから自己自身の信仰の吟味・検証に向かうことである。しかし、なぜ、このように神学に学問性が位置づけられるのかということに関しては特に欧米におけるキリスト教の歴史が深く関係している。先に述べたように、そもそも神学は異教世界に対してキリスト教信仰を、あるいは、キリスト教の神理解を理論的に弁明するために、つまり説明して明らかにするために存在したものでもあった。キリスト教神学は個人的に、またキリスト教会において行なわれ始めたことであるが、それが公に、たとえば大学おいて行なわれるようになったのである。

キリスト教神学を学ぶにあたっては、たとえば神学の学位取得を目的とすること等を別にするならば、総合大学の神学部や神学校でなくても学ぶことは可能であるが、しかしながら、専門教授の手ほどきを受ける方がキリスト教神学を理解しやすいであろうし、それへの近道ともなり得るであろう。その際、資料の収集や研究環境について考えることは重要であろうし、同時にキリスト者としての教会生活のないキリスト教神学等あり得ないであろう。もっともキリスト教神学の研究者自身が、たとえば教会について研究を行なうことは、ちょうど自然科学の分野において学者が自然を研究対象とする時に学者自身が「自然」という世界において存在するということを無視してはならないということ、つまり、自らの観察力と客観的データのみによって考察がなされ得るのに似ている。それは、キリスト教神学のある研究者がある教派的伝統に立ち、その教派の信条を保持したとしても、その神学の内容は学問的でなければならないゆえに、研究者が「自分はこのように信じているから」ということだけで考察したり、論理を展開したりすることはないということである。同時に先に述べたようにキリスト教会における生活から神学が生み出されてきたゆえに礼拝説教や聖書研究においてもキリスト教神学的苦闘は存在する。キリスト教神学は歴史的にキリスト教信仰を土台として生み出されたものであるが、一つの学問にすぎず、キリスト教神学の対象はキリスト教的信仰であり、それを学問的に考察することによって創造されるものである。

 

 

4.神学諸教科とその分類

 

神学の基本的な教科としては、聖書学(聖書論、正典論、解釈論、緒論、釈義、聖書神学、語学、本文・翻訳研究、時代史、考古学、外典・偽典研究)、キリスト教史(教会史、教派史、時代史、地域史、個別教会史、教理史、神学史)、組織神学(組織神学、教義学、倫理学)、実践神学(教会論、説教論、牧会論〈牧会カウンセリングを含む〉、礼拝学、礼典論、教会教育論、教職論、宣教論、教会法学)の4教科説があげられる。もっともキリスト教史を別にして、それをそれぞれの教科の土台とした、あるいは不可欠な補助学とした3教科説(カール・バルト、その他)もある。

さらに神学の枠内に入らない宗教史〈世界宗教史、日本宗教史〉、宗教学、宗教心理学、宗教社会学等は神学の諸教科をより理解するために神学を学ぶことのできる学部や学校において教授せられている(ちなみに宗教史の立場では神学とはまず「礼拝の儀礼や形式の単なる知識」を表わす。広い意味では礼拝や神話の多様な要素を秩序づけ、比較する試みとしての神学、普遍的な哲学的思考を宗教に適用することであるが、先に述べたようにキリスト教神学はそれらとは異なる)。

神学諸教科はそれぞれ部門別に分類されているのであるが、基本的にそれらはキリスト教信仰についての研究であるゆえに、どの部門もそれに従事するものであると言える。それは、例えば聖書学が単なる語学的な意味で、あるいはキリスト教史が歴史学的な意味での学問的成果を収めるものに過ぎないものではないことを意味する。もっとも「キリスト教神学」という枠内を狭義の意味で厳密に考えるなら、それぞれの諸教科の中でもキリスト教信仰を土台とした研究のみが「キリスト教神学」であると言うことができるであろう。またキリスト教信仰もキリスト教会も人間の学的自己吟味・自己検証を超えた存在でもあるゆえに、教会を含んで信仰に関連する全てのことが神学を含む学問によって完全に解明され得るとは限らないことは言うまでもない。

 

 

〈参考文献〉

 

 

・石井裕二著『講義:神学7 講義レジュメ及び講義ノート』、同志社大学神学部 1992年。

(「神学についてのメモノート」は多くをこれに拠っている。

アウグスティヌス著、服部英次郎訳『神の国』、岩波書店、2006年〈第刷〉。

S.Aureli Augustini Episcopi, De Civitate Dei Libri XXII ex recensione B.Dombart,quartum recognovit A.Kalb. Vol.I, Lib.I-XIII, Lipsiae in Aedibus B.G.Teubneri, 1928,1929.

シュライエルマッハー著、加藤常昭訳『神学通論』、教文館、1962年。

Kurze Darstellung des theologischen Studiums,2.Aufl,1830,3.Aufl,Leipzig,1910,

Schleiermacher, Friedrich, Der christliche Glaube nach den Grundsätzen der Evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt (1830/31) herausgegeben von Martin Redeker,Nachdr.der.7.Aufl. Walter de Gruyter, Berlin, 1999.

・エミール・ブルンナー著、清水 正訳「神学の根拠と対象としての啓示」『ブルンナー著作集 第1巻 神学論集』、教文館、1997

初版

Die Offenbarung als Grund und Gegenstand der Theologie in: Moltmann, Jürgen (Hrsg.): Anfänge der dialektischen Theologie, Teil 1: Karl Barth, Heinrich Barth, Emil Brunner, München 1962, S.298-320 (Original in: Philosophie und Offenbarung, Tübingen 1925, S.5-28).

・ディートリッヒ・ボンヘッファー著、大宮 溥訳『ボンヘッファー選集T 聖徒の交わり ‐教会の社会学のための教義学的研究』、新教出版社、1963年(初版)。

Sanctorum Communio. Eine Dogmatische Untersuchung zur Soziologie der Kirche,1930,3.Aufl,München,1960.

・カール・バルト著.井上良雄訳『カール・バルト教会教義学 神の言葉T/1』、新教出版社、1995年(第1版第1刷)。

Die Kirchliche Dogmatik,T.Bd,Die Lehre von Worte Gottes Prolegomena zur Kirchlichen Dogmatik,1.Teil(T/1.),Zürich,1942.

Althaus,Paul,Die christliche Wahrheit,3.Aufl, Gütersloh,1952.

H,G,ペールマン著、蓮見和男訳『現代教義学総説』、新教出版社、1982

Abriß der Dogmatik,3.Aufl.,Gütersloher Verlaghaus Gerd Mohn,Gütersloh,1980.

・雨宮栄一・村上 伸編『教義学とは何か』、日本基督教団出版局、1987年(初版)。

・東京神学大学神学会編『キリスト教組織神学事典』、教文館、1992年(第5版)。

・佐藤敏夫著『キリスト教神学概論』、新教出版社、1994年(第1版)。

・大貫隆・名取四郎・宮本久雄・百瀬文晃編『岩波キリスト教辞典』、岩波書店、2002年〈第1刷〉。

アリスター・E・マクグラス著、神代真砂実訳『キリスト教神学入門』、教文館、2007年(第4版)。

Christian theology An Introduction, Third Edition,2001.

・『CD−ROM版 世界大百科事典・年鑑・便覧』、日立デジタル平凡社、1998−2000年(第2版)。

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神学についてのメモノート

 

 

 ・信仰と神学の関わり

 

  ◆神学とは何かということ

 

   A.「神学」はキリスト教信仰に関する人間の敬虔な企てである。

                      敬虔とは →それは信仰について素朴で初歩的な態度の人たちを養うものである。

                               →それは否定する態度を持つもの(内実が神学とは無縁のものとなる)である。

                               →それは神に対して深い信仰心を抱き、自己の思いあがりを自制することである。

                               →それは自分自身の信仰に対する慎み深さである。

                               →それは他の人の信仰(例、他の諸宗教)に敬意を持つことではない。

                               →ギリシア語では“ευσεβεια 信心”(使徒言行録3:21

                                 ラテン語では“Pietas”ドイツ語では“Froemmigkeit”として表わされ、

                                 誠実、忠実であることを意味する。

 

            ・神信仰について自分の宗教経験を唯一正しいものとする、という考え方は許されない。

             神学は批判的研究を特徴とするが、異なる立場に対する攻撃ではない。

             神学が研究対象にする領域は、全て人間の領域である。

             神学が対象にするのは、神に対する人間の信仰である。

               

神学とは信仰に奉仕する学問である。

             ・神学は神が存在するかしないかは問わないものである。

             ・神学は人間的方法(学問的方法)を用いる。それゆえに、神聖なものではない。

               そうであるにもかかわらず、誤解されたのは、もともと「人間的なもの」を「神聖なもの」と取り違えたからである。

 

   B.神学は学問である。     

 

      ・現代において学問は細分化している。学際化(様々な面から学問的に見るということ)

                       →《例》脳死は、医学、哲学、宗教学、法学という観点から見るもの。

 

      ・一般的条件が神学に要求されている。

                   ・神学が、もし「人間はその実在性を捉えることができない」という条件を持つものならば、学問になり得ない。

                   「独り善がり」な考え方は学問から除外されるものである。

                   ・学問には方法の適用の厳密さが必要とされる

                   ・学問における認識は「思い付き」とは異なるものである。

 

      ・神学に対する誤解とは何か?

                   宗教の素人性と神学の学問性の間が不明確であることから生ずる。

                     そこから、学問としての神学の素人化があらわれる。

                   ・神学は信徒の宗教経験について考察するものではない。「信仰」に専門家は必要ではない。

                   医学との関わりを持つ神学的態度はあるが、それが神学のすべてではない。

 

   C.神学は実証性に基づく規範学である。

 

      ・神学の社会との関連、あるいは心理学との関連。

 

      ・かつて実証性の研究と神学の研究は対立するものであったが、現在はあてはまらない。

 

      ・現在の神学は実証性(Positive)を基盤としている。人によって、実証の考えは異なる。

                ・実証性とは人間の経験的事実を研究する態度である。

                 ・実証性とは感性がとらえることのできるものである。

                 聖書神学においては、聖書本文を実証的に研究するということがある。

                  それはテキストの確定から始まる。アレクサンドリアのオリゲネスの用いた解釈法は寓意法である。

《アレゴリズム》→別のものを指す。〈例〉木→十字架を指す。

                 ・実証性は経験的事実の確認・説明に終わらせることがある。

          それに対して神学は規範的研究である。

                   〈例〉M.K.〈マルコによる福音書〉本文

                         その原典は実証的研究によって再構成されたものである。写本は本文の一致しているものがない。

                      それでは、マルコ自身の書いた本文とは何か?それは、まだ、わかっていない。それゆえに改訂を加えられつつある。

                         それが終わってしまうのであれば、聖書神学ではない。我々が聖書以外の知識によって説明するものである。

 

      ・神学は、自分のあり方が正しいか、教会のあり方が正しいかを検証する。それは神学のもともとの研究の動機である。

        神学における規範の追求とは?

       ・基準がなければならない。

           規範Kriterium”→批判的

           規範“norm”→多少、あいまいさがある。

      ・もし仮に正しいキリスト教とは何かを求めると?→それは(信仰の基準として)聖書にあるが、しかし、聖書だけでは、曖昧となる。

           例〉かつてはドイツでルター訳聖書が基準だったことがあった。→神の言葉であるはずの聖書であるが、文法上の誤りが多い。

 

   D.神学は教会の学である。

 

      ・神学はキリスト教会の学である。また教会が神学の成立する場である。神学は教会への奉仕を目的にして成り立つ。

もし教会に対する連帯が曖昧ならば、神学は成り立たない(但し、そもそも不完全なものでもある)。

 

       ・神学研究における挫折とは?→教会に奉仕する意欲の低下が理由である場合もある(例:フォイエルバッハ)。しかし、それ以前になぜ意欲が低下したのか

ということも問題である。奉仕は強制的になされるものではない。

          

   E.神学は総合的・包括的である。

 

       ・神学は現実の教会に奉仕するために総合性を必要とする。

       ・神学には個別の教会・全体の教会で働くことのできる素養性が必要である。

       ・「教会から正規の委託を受けた人」「キリストの福音を宣べ伝える人」としての牧師が学ぶ神学。

       ・神学には包容性が必要である。

       ・神学は実用性をためらってはいけない(聖書学、教会史、組織神学、実践神学)

      それは、学問をそのまま状況にあてはめるということではない。

       ・神学というものが持っている特性としては上記のものがある。

 

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