「人間と罪責(特にキリスト教の観点から)」    川上純平    2000・11・17

 

 

おおよそ人間というものが、この地球上に誕生して、いつから、また、どういったことから「罪」というものを考えるようになったか、一般的な観点からは、はっきりしていないが、少なくとも、それは人間の脳であるとか知恵というものが深く関係しているのかもしれない。

当然のことであるが、人間以外の全ての生き物は、罪意識を持っていない。おそらく、罪という概念を持っている生き物は人間だけであろう。もちろん、そこに人間による道徳や文化といったものがかかわっているであろうことは言うまでもない。

キリスト教において、罪について考える場合、まず「罪」と訳されている言葉から考察する必要がある。新約聖書に記されている「罪」という言葉の多くは、ギリシア語の「ハマルティア」という言葉を訳したものである。この「ハマルティア」という言葉を直訳すると、「的外れ」あるいは「誤って目標を逸すること」という意味になる。その言葉は旧約聖書で、ヘブライ語の「ハッタート」にあたり、この言葉も「誤る、迷いだす」という意味を持っている。

イスラエルの人々は聖書に登場する唯一神であるヤハウェのみを信じるという契約を神との間に持ち、それを戒め・律法として守ってきた。それゆえに、そこから、イスラエルと異邦人の多神教世界との関連で、自分たちが自分たちの神である唯一神ヤハウェを信じないことは間違いを犯すことであるとし、そこから、律法を守らないこと、つまり、聖書の神ヤハウェを信じないこと、罪という意味に派生していった。

しかしながら、キリスト教における罪の概念は、例えば、単に社会や法、制度に反したということだけを意味するものではない。つまり、聖書の神との契約を破った、律法を守らなかったという道徳的なことだけに規定されるものではないのである。キリスト教において罪は人間自体、人間そのもの、人間の全存在というものと深く関係している。

聖書においては、罪は、まず旧約聖書の創世記において、(旧約聖書の中で創世記が歴史的に最初に書かれたということではないが、)「原罪」というものの概念で語られている。それは創世記よりも後々の時代の人間が罪を持っているのは創世記に最初に登場する人間であるアダムとイヴの犯した罪というものが後々の人間にまで遺伝しているからであるというような意味で語られているというということではなく、この地上において人間が罪を犯す存在であることが、そこにおいて、時間的な意味でではなく、最初に理解されたものとして記されているということである。

それはアダムとイブの神に対する背反によるものとされている。そこでは聖書の神の言うことに従わず、加えて、お互いに責任転嫁する人間の姿が描かれている。しかし、ここで注意しなければならないことは、原罪というものが、聖書の神から人間に与えられている自由の中で人間が行なった結果としてあるものとされているということである。つまり、罪は既に神によって人間にそれを行なうように機会が与えられているものであるということである。原罪とは神から与えられた自由の中で人間が持たざるを得なかったもの、と考えることもできるであろう。

もちろん、それは人間の犯す罪が正当化されているということを意味しない。それは人間が神によって造られたもの(他の生物と同じもの、被造物)であるということ、人間の限界性を示しているのである。また、キリスト教信仰においては、聖書の神はその御自身の愛から人間を造ったのであり、人間がその神の恵みの中にあること、それゆえの神に対する人間の罪の告白、悔い改めによって、神から人間への罪の許しの宣告が与えられるとされる。

新約聖書では、イエス・キリストが人々を救うために、この世に来た神の子として記されているが、そこで中心となるものはイエス・キリストにおける十字架上の罪の贖いである。キリスト教神学思想の中心の一つである三位一体論的観点から言うならば、父なる神・子なるキリスト・聖霊(これらは神の存在の三つの在り方であると言うこともできる。)との関係で、子なるイエス・キリストが十字架に架かり、イエス・キリスト御自身が、人間の罪について父なる神へ執りなしをしたことと、父なる神が自らの子であるイエス・キリストを十字架上で、あえて殺すことによって、神からの人間の罪に対する(それはイエス・キリストの罪ではない。)許しの言葉が宣言されている。同時にそれは神であるイエス・キリストが人間の罪を、あえて担われたということでもある。そして、イエス・キリストは、神の力によって三日目に復活することにより、死に対してさえも勝利され、神は聖霊の働きにおいて我々人間と共におられる方である。人間はそのことを信じ、信仰の告白をすることによって救われるとされる。

1967年、日本のプロテスタント最大の教派である日本基督教団は、第二次世界大戦中に国家から強制的に従わざるを得ないように圧力をかけられて、天皇を神とした日本政府の戦争政策を支持したことに対して「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という戦責告白を議長名で行なった。現在、その告白の不十分さが指摘されつつも、(1)その告白には聖書の神に、そして、戦争で犠牲になった人々、特にアジア諸国の人々に対する謝罪の言葉が記されている。もっとも、この戦責告白についての見解は様々にある。

そして、このことは現在の日本基督教団が、過去の罪を担い、それに対して目を閉ざすことなく生きるべきであることを語っている。

 



(1)  たとえば、2000年現在、日本基督教団の「戦責告白」では「天皇を神とした」ことに対する罪の告白はなされていない。