「人間と罪責(特にキリスト教の観点から)」            川上純平

    

初版:2000・11・17

改訂第一版:2019・9・16

 

 

凡そ人間が、この地球に誕生して、何時から、また、どのようなことから「罪」について考えるようになったのか、一般的な観点からは、はっきりしていないが、少なくとも、それは人間の存在、また人間の脳や知恵が深く関係していると言って良いであろう。

当然のことであるが、人間以外の全ての生き物は「罪意識」を持っていない。おそらく「罪」という概念を持っている生き物は人間だけであろう。もちろん、そこに人間による道徳や文化等が関わっているであろうことは言うまでもない。

キリスト教において「罪」について考える場合、まず「罪」と訳されている言葉から考察する必要がある。新約聖書に記されている「罪」という言葉の多くは、新約聖書が記された言語であるギリシア語の「ハマルティア」という言葉を訳したものである。この「ハマルティア」という言葉を直訳すると、「的外れ」あるいは「誤って目標を逸すること」という意味になる。その言葉は旧約聖書が記された言語ではヘブライ語の「ハッタート」に当たり、この言葉も「誤る、迷いだす」という意味を持っている。

旧約聖書に記されたように、かつてイスラエルの人々は聖書に登場する唯一神であるヤハウェのみを信じるという「契約」を神ヤハウェとの間に持ち、それを「戒め」・「律法」として守ってきた。それゆえに、そこからイスラエルと外国人の多神教世界との関連で、自分たちが自分たちの神である唯一神ヤハウェを信じないことは過ちを犯すことであるとし、そこから、律法を守らないこと、つまり、聖書の神ヤハウェを信じないことは「罪」であるとするに至った。そこには古代イスラエルの人々が生きていく上で簡単には解決しない困難な問題(戦争、病気や死)、イスラエル王国の政治的な意図や「バビロン捕囚」等が影響しているのかもしれない。

しかしながら、キリスト教における「罪」の概念は、例えば、単に社会や法、制度に反したということだけを意味するものではない。つまり、聖書の神ヤハウェとの「契約」を破ったとか、「律法」を守らなかったという道徳的なことだけに規定されるものではないのである。キリスト教において「罪」は人間それ自体、人間の全存在と深く関係している。

聖書において「罪」は、まず旧約聖書の創世記において(旧約聖書の中で創世記が歴史的に最初に書かれたということではないが、)、「原罪」という概念で語られている。それは創世記よりも後々の時代の人間が「罪」を持っているのは創世記に最初に登場する人間であるアダムとイヴの犯した「罪」が後々の人間にまで遺伝しているからである、というような意味で語られているということではなく、この地上で人間が「罪」を犯す存在であることが、時間的な意味でではなく、最初に理解されたものとして記されているということである。

それは、アダムとイブの神ヤハウェに対する背反によるものとされている。そこでは人間が神ヤハウェの語られたことに従わず、加えて、お互いに責任転嫁する人間の姿が描かれている。しかし、ここで注意しなければならないことは、「原罪」が聖書の神ヤハウェから人間に与えられている自由の中で人間が行なった結果としてあるものとされているということである。つまり、「罪」は既に神ヤハウェによって人間にそれを行なうように機会が与えられているものであるということである。「原罪」とは神ヤハウェから与えられた自由の中で人間が持たざるを得なかったものであると考えることも出来るであろう。

もちろん、それは、そもそも人間の犯す罪は正当化されているということを意味しない。それは人間が神ヤハウェによって造られたものにすぎないということ(そのような意味では、他の生物と同じである「被造物」であるということ)、人間の限界性を示している。

さらにキリスト教信仰においては、信仰を持つ者が旧約聖書の「十戒」を守らないことを始めとして、新約聖書の福音書が語るイエス・キリストの語られた教えの言葉(例:神と隣人を愛すること)に反すること等が「罪」と見なされるが、パウロの手紙が語る「倫理」に反すること、「環境破壊(聖書の創世記では神ヤハウェが全世界と人間を含む全ての生き物を造られたと語っている)」や「戦争」や「差別」等に対する態度を含め、キリスト者によって何を「罪」とするのかについて解釈の違いがある。つまり、解釈が状況によって異なるものや一概には「罪」と見なされないものもある。また社会において一般的な意味で「罪」と見なされるものと同じものが「罪」とされる場合もあり、そこにはキリスト教が社会に倫理的・道徳的な影響を与えたゆえのものもある。さらにキリスト教の福音派の保守的な立場では「人口中絶」や「同性愛」が「罪」と見なされている。

キリスト教信仰においては、聖書の神ヤハウェはその御自身の愛から人間を造られたのであり、人間がその神ヤハウェの恵みの中にあることを認めて信じ、それゆえに神ヤハウェに対する人間の「罪」の告白、悔い改めがなされることによって、神ヤハウェから人間への「罪」の許しの宣告が与えられるとされる。

特に新約聖書ではイエス・キリストが人々を救われるために、この世に来られた「神の子」として記されているが、そこで中心となるものはイエス・キリストにおける十字架上の「罪」の贖いである。キリスト教神学思想の中心の一つである三位一体論的観点から言うならば、神ヤハウェ(父なる神)・子なるキリスト・聖霊(これらは神の存在の三つの在り方であると言うこともできる。)との関係で、子なるイエス・キリストが十字架に架かり、イエス・キリスト御自身が、人間の「罪」について父なる神へ執りなしをされたことと、父なる神が自らの子であるイエス・キリストを十字架上で、あえて殺すことによって、父なる神(神:キリスト教神学では「フェミニスト神学」等を始めとしてキリスト教信仰の神を「父なる神」としないリベラルな神学的な立場も存在する)からの人間の罪に対する(それはイエス・キリストの「罪」ではない)許しの言葉が宣言されている。同時にそれは神であるイエス・キリストが人間の「罪」を、あえて担われたということでもある。そして、イエス・キリストは神の力によって三日目に復活されたことにより、死に対してさえも勝利され、神は聖霊の働きにおいて我々人間と共におられる方である。人間はそのことを信じ、信仰の告白をすることによって救われるとされる。

1967年、日本のプロテスタント最大の教派である日本基督教団は、第二次世界大戦中に国家から強制的に従わざるを得ないように圧力をかけられて、天皇を神とした日本政府の戦争政策を支持したことに対して「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という「戦責告白」を議長名で行なった。現在、その告白の不十分さが指摘されつつも、(1)その告白には聖書が証しする神に、そして、戦争で犠牲になった人々、特にアジア諸国の人々に対する謝罪の言葉が記されている。もっとも、この「戦責告白」についての見解は様々にあり、現在、教区によってはそれに関して取組みを行っている。

そして、このことは現在の日本基督教団が戦時中のそのような過去の「罪」を担い、それに対して目を閉ざすことなく生きるべきであることを語っている。

 

 

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(1)  たとえば、2000年現在、日本基督教団の「戦責告白」では「天皇を神とした」ことに対する罪の告白はなされていない。