「新島 襄(にいじま じょう)について」  川上純平      初版:2005年

                                        改訂第一版:2021年10月12日

 

 

新島 襄(にいじま じょう:1843‐90年)

 

キリスト教伝道者、同志社創立者、教育家。1843年に江戸神田にある上州(現在の群馬県)安中藩主である板倉勝明に仕えていた江戸上屋敷で父民治(安中藩の祐筆〈書記〉及び家令〈君主の召使いや従者を監督する職〉を担当)、母登美の長男として生まれる。幼名を七五三太(しめた)と言う。1856年に板倉勝明の命で蘭学を学び、翌年、元服(成人式)を行い、祐筆補助役となる。1859年には父の祐筆を代行、翌年には藩主の護衛役として初めて上州安中へ行く。航海術、数学、天文学、物理学を学び、1863年には、英語を学び始め、アメリカ史や『ロビンソン・クルーソー物語』の日本語訳、聖書も読むことにより、欧米文明とその宗教に感銘し、これを習得して日本に尽くすことを決意。1864年、函館に滞在中、ロシア領事館付きのロシア正教会司祭ニコライ神父の日本語教師となる。北海道開拓事業を行なった福士卯之吉(成豊)の斡旋でアメリカ商船ベルリン号(船長はウィリアム・T・セイヴォリー:マサチューセッツ州セーラム出身でセーラム第1教会〈会衆派ユニテリアン教会〉の信徒。この時、新島は船長の信仰を疑問視した)に乗り出港、脱国に成功する。上海に到着後、セイヴォリー船長の斡旋でアメリカ船ワイルド・ローバー号(船長はハリス・S・テーラー:船上で「七五三太」では呼びにくく「ジョセフ〈聖書の人物『ヨセフ』を意味する〉」と呼んだため「襄」の名づけ親とされる)に乗り換える。新島は武士でなくなったため、刀を船長に8ドルで買ってもらい、香港では、そのお金で漢文聖書を購入し熟読した。

 1865年、アメリカのボストンに到着。ワイルド・ローバー号の船主であるアルフィーアス・S・ハーディー(ボストンのクリスチャン実業家、会衆派教会系の宣教師派遣団体である「アメリカン・ボード」の役員)とその妻であるスーザン・H・ハーディー(新島曰く「アメリカの母」)が新島の脱国の理由を知りその養父母となる。独身女性のメアリー・E・ヒドゥン宅にホーム・ステイし、10月にアンドーヴァーにあるフィリップス・アカデミー英語科に入学。翌年、会衆派のアンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けて、クリスチャンとなる。1867年、アーモスト大学に入学。1870年にはアンドーヴァー神学校に入学。1872年、訪米した岩倉遣外使節団に三等書記官心得として協力することになり、同行して欧米の教育事情を視察。1874年、「アメリカン・ボード日本ミッション」の準宣教師に任命され、アンドーヴァー神学校を卒業し、按手礼を受けて、正規の牧師の資格を得る。1874年、バーモント州ラットランドにあるグレイス教会で行われた「アメリカン・ボード第65回年会」で、日本にキリスト教主義の学校を設立することを訴え、献金を懇願し、大きな反響を得、献金総額5千ドルとなる。

同年、宣教師として帰国し、安中に向かい、両親と10年振りに再会。安中の龍昌寺、旧安中城内(現在の日本基督教団安中教会敷地)、便覧舎(クリスチャン実業家の湯浅冶郎氏が作った図書館)等で講演会を開く。1875年、京都府顧問である山本覚馬、アメリカン・ボード宣教師のジェローム・ディーン・デービスの協力で官許同志社英学校を京都に設立。翌年、熊本洋学校からの海老名弾正らの熊本バンドの入学で、同志社教育と日本組合教会の基礎は確立した。同志社がキリスト教主義教育を唱える私学であったため、彼は政府、京都府庁のさまざまな圧迫を受け、また伝道者養成のみを意図するアメリカン・ボードとの対立に苦慮した。1877年には同志社女学校を開校。1878年には、安中にて安中教会が設立され、新島より男16名、女14名、計30名が洗礼を受けた(3月31日)。1887年には、医学部構想から同志社病院、京都看病婦学校を開院、開校し、仙台にも同志社の分校として東華学校を開いた。1882年頃より、キリスト教を徳育の基本とし、自由自治の精神に立ち、「教育あり、智識あり、品行ある」、「一国の良心とも言うべき人々を養成」する高度な学問を教える私立総合大学の設立が国家興隆の基礎であると唱え、1888年に「同志社大学設立の旨意」を全国に発表、同志社大学設立に奔走したが、神奈川県の大磯で急性腹膜炎のため46歳で病死。

彼は会衆主義教会(会衆派教会〈組合教会〉)を知っていたので、これに立つ教会を各地に設立し、その伝道を支え、強く会衆主義教会(組合教会)に固執して、一致教会との合同運動(1886‐90年)の際には教会制度(教会運営の面で一致教会は「長老」主体の政治、組合教会は「会衆」主体の民主政治が原則)の違いから反対した。「彼を貫くものは神の愛の摂理に自己をゆだね、武士的気概をもって神と日本に仕えようとする使命感であった」(1)とも言われ、新島が日本のキリスト教教育事業の基礎を築き上げた功績は高く評価されている。

 

 

〈参考文献〉

 

  同志社編『現代語で読む新島襄』丸善 2000年

  新島 襄刊行会編『新島 襄』新島 襄刊行会 1994年改訂版

・J・D・デイヴィス著、北垣宗治訳『新島 襄(100万人の創造選書20)』小学館 1977年

・新島 襄全集編集委員会編『新島 襄全集8 年譜編』同盟舎出版 1992年

・「新島襄」他『キリスト教大事典』教文館 1991年改訂新版

・塩野和夫著「新島襄」他『岩波キリスト教辞典』岩波書店 2002年

・杉井六郎著「新島襄」他『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年

・和田洋一著「新島襄」他『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局 1986年

・土肥昭夫著「新島襄」他『CD−ROM版 世界大百科事典・年鑑・便覧』日立デジタル平凡社 1998−2000年(第2版)

 

  この文章は筆者が日本基督教団安中教会協力牧師の任に就いていた2005年11月に同志社創立130周年を記念して記した文に新たに手を加えたものです。

 

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(1) 土肥昭夫著「新島襄」『CD−ROM版 世界大百科事典・年鑑・便覧』日立デジタル平凡社 1998−2000年(第2版)もちろん、これは土肥氏の見解であり、新島襄の人物観として確定しているものではない。