「キリスト教信仰と精神分析」 川上純平                                                 

                                  

初版:2006・7・18

改訂第一版:2020・2・20

 

  

キリスト教信仰」と「精神分析」は関連性を持っていると言われているが、それはどういうことであろうか。

オーストリアの精神分析学者ジークムント・フロイトを始めとする系統に属する人々は「キリスト教信仰」と「神経症(現在では「不安障害」と呼ばれる)」は重複する部分を多く兼ね備えているとし、フロイトにいたっては「宗教」と「神経症」を同一のものとして見ている。(1)

  言うまでもなく、「精神分析」はフロイトが「神経症」の治療を行っている中で発見したものである。そして、「キリスト教信仰」と「精神分析」が関連性を持っているという時、それは何も「神経症」のみにおいて関連性があると言われているのではない。また、そもそも現代において「精神分析」は「神経症」の治療のみに行なわれるものではなく、人間一般の心理は言うに及ばす、社会分析や現代思想との関連で扱われるものとなっている。

 それでは、「キリスト教信仰」と「精神分析」について考える時、そこにどのような意味があり、また、問題点があるのであろうか。それについて土居健郎は、その著書『信仰と甘え』において興味深い発言をしている。(2)

土居は信仰生活において心理的葛藤がある場合、その信仰生活が歪んだものになるとしており、人間の心理的状態が信仰に影響を与えると考えている点に立つ。同時に、たとえ、「キリスト教信仰」を持っている精神分析医であったとしても、人間を正しい「キリスト教信仰」に導くことができるとは限らないとしており、フロイトとは異なる立場に立っていることがわかる。(3)

 また、これとは異なる立場もある。それは「宗教」が原始的な精神医療であったという立場である。新約聖書においてイエス・キリストが病人を癒したということの中に、精神的に病んだ人々も癒したということが含まれているということや、そもそも「宗教」が、悩んでいる人を救おうとしたところから始まったとしていることによる。(4)

 しかしながら、この立場はフロイトの言うところの「宗教」と「神経症」についての考えを批判することとの関連で言うと、「宗教」=精神医療ではない、あるいは、「宗教」=精神医療であるとは限らない、ということにならないだろうか。なぜならば、「キリスト教信仰」も含めて「宗教」には、それ以外の要素や内容がその成立当初から多分に含まれているからである。そして、また、この場合の「『宗教』が先か、それとも精神医療が先か」という問いはナンセンスであろう。

 さらにフロイトの立場を批判するなら、「宗教」=「神経症」、ではないであろう。それは「宗教」には神経症的ではない要素が多分に含まれているからであり、そもそも、もし、「宗教」=「神経症」であるならば、「宗教」に心の病も癒す精神医療的な要素が含まれているという説が成り立たなくなるからである。さらに「キリスト教」に限らず、「宗教」においては、しばしば、人間の力や人間の理解を超えたものの存在が信じられたり、「宗教」における生活上の厳しい「戒め」や「教え(教義)」等があるために、例えば「キリスト教」の場合は信仰を持つ者が主なる神に対する畏れ(おそれ)を心に抱いたり、(5)その「教え」にこだわりを持ったりするということは、その「宗教」が持つ必然性、あるいは不可抗力に過ぎず、それは「神経症」とは何ら関係がない。

 むしろ「キリスト教信仰」は十字架上のイエス・キリストにおける罪の許しを中心とする人間存在全体の救いと密接に関連し、その救いは全被造物(自然に存在する全てのものが主なる神によって造られたものであるとするキリスト教信仰の言葉)の救いとも関連する。そういった意味で「キリスト教信仰」は、もはや「精神分析」の中には納まりきれない独自のものであり、(6)主なる神によって造られた全被造物(人間を含む)の救いという信仰理解とそれに基づく信仰生活や活動が関わることから現実に根ざしたものであるということが出来るのである。

  「キリスト教信仰」と「精神分析」は、それぞれ異なるものであると同時に、関連性を持っている。そして、もしキリスト者の心理状態に「精神分析」が行われるなら、また心病んだキリスト者に別の精神医療的な助けがあるなら、それは同じものを異なる観点から見ているという点でも必要なものであろうし、「キリスト教信仰」に矛盾するものではないのである。

 

〈参考文献〉

 

・エーリッヒ・フロム著『精神分析と宗教』谷口隆之助・早坂泰次郎訳、東京創元社、1996年 第31版

Fromm,Erich. Psychoanalysis and Religion  New HavenYale University Press1950

 

・ルドルフ・オットー著『聖なるもの』久松英二訳、岩波書店、2010年

 Otto,RudolfDas HeiligeÜber das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen,23.bis 25. Auflage, C.H. Beck'sche Verlagsbuchhandlung, München 1936,2004

 

・土居健郎著『信仰と甘え』春秋社、1990年初版

 

・河合隼雄著『河合隼雄のカウンセリング入門』創元社、1998年第

 

・石井裕二著『癒し/医療とキリスト教 ―歴史的概観と検証の試み―』(基督教研究 第62巻第2号所載)同志社大学神学部 基督教研究会、2001年3月 137―164頁

 

 

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(1)   エーリッヒ・フロム著『精神分析と宗教(谷口隆之助・早坂泰次郎訳、東京創元社、1996年 第31版 原書名はFromm,Erich.Psychoanalysis and Religion  New HavenYale University Press1950)』、16頁参照。

 

(2)  ちなみに、土居は、この著作において、日本人の多くが甘えることを信じることと同一視しており、それを超えなければ、日本人キリスト者は真の意味でのキリスト者にはならないとしている。土居健郎著『信仰と甘え(春秋社、1990年初版)』、35、36頁参照。

 

(3)  同書、13頁、41〜43頁。

 

(4)  河合隼雄著『河合隼雄のカウンセリング入門(創元社、1998年第1版)』、92頁以下参照。

   また、医療の起源が宗教や呪術にもあることは多くの学者たちが支持している。ちなみに石井裕二著『癒し/医療とキリスト教 ―歴史的概観と検証の試み― 〈基督教研究 第62巻第2号所載〉(同志社大学神学部 基督教研究会 2001年3月)』138頁は、聖書と現代社会において健康者と病者についての認識は異なるものであるとしながらも、聖書が病気や癒し、生と死、人間存在の意味について問いを発し、現代の医学と医療においても、病気や癒し、生と死、人間存在の意味についての一定の理解が働いているゆえに、哲学または神学が関連しない医学・医療はないとしている。

 

(5)   例えば、20世紀ドイツの神学者であり、宗教学者、宗教哲学者であるルドルフ・オットーはその著書『聖なるもの久松英二訳、岩波書店、2010 Otto,RudolfDas HeiligeÜber das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen, 23. bis 25. Auflage, C.H. Beck'sche Verlagsbuchhandlung, München 1936,2004』、30−68頁において宗教体験における「おそれ」について述べている。

 

(6)   キリスト教信仰」の基本的な考え方である「十字架上のイエス・キリストにおける罪の許し」も「精神分析」では解釈しきれないものであろう。