「キリスト教信仰と精神分析」 川上純平                                                 

                                  

初版:2006・7・18

改訂第一版:2020・2・20

改訂第二版:2021・12・29

改訂第三版:2022・1・11

改訂第四版:2022・1・22

  

 

キリスト教信仰」と「精神分析」は関連性を持っていると言われているが、それはどういうことであろうか。

オーストリアの精神分析学者ジークムント・フロイトを始めとする系統に属する立場の人々は「キリスト教信仰」と「不安障害(神経症)」は重複する部分を多く兼ね備えているとし、フロイトにいたっては「宗教」と「不安障害」を同一のものとして見ている。(1)

  言うまでもなく、「精神分析」はフロイトが「不安障害」の治療を行っている中で発見したものである。そして、「キリスト教信仰」と「精神分析」が関連性を持っているという時、それは何も「不安障害」のみにおいて関連性があると言われているのではない。またそもそも現代において「精神分析」は「不安障害」の治療のみに行なわれるものではなく、人間一般の心理は言うに及ばす、社会分析や現代思想との関連で扱われるものとなっている。

 それでは、「キリスト教信仰」と「精神分析」との関係について考える時、そこにどのような意味があり、またどのような問題点があるのであろうか。それについて土居健郎はその著書『信仰と甘え』において興味深い発言をしている。(2)

土居は信仰生活において心理的葛藤がある場合、その信仰生活が歪んだものになるとしており、人間の心理的状態が信仰に影響を与えると考えている点に立つ。同時に、たとえ「キリスト教信仰」を持っている精神分析医であったとしても、人間を正しい「キリスト教信仰」に導くことが出来るとは限らないとしており、フロイトとは異なる立場に立っていることが分かる。(3)

 またこれとは異なる立場もある。それは「宗教」がかつて原始的な精神医療であったとする立場である。新約聖書においてイエス・キリストが病人を癒されたということの中に、イエス・キリスト教が精神的に病んだ人々をも癒されことが含まれていることや、そもそも「宗教」が悩んでいる人を救おうとしたところから始まったとしていることによる。(4)

 しかしながら、この立場はフロイトの言うところの「宗教」と「不安障害」についての考えを批判することとの関連で言うならば、「宗教」≠「精神医療」ということになるか、あるいは「宗教」は「精神医療」とは限らないということになるのではないだろうか。なぜならば、「キリスト教信仰」も含めて「宗教」には、それ以外の要素や内容がその成立当初から多分に含まれているからである。そして、またこの場合の「『宗教』が先か、それとも『精神医療』が先か」という問いはナンセンスであろう。

 さらにフロイトの立場を批判するなら、「宗教」=「不安障害」ということではないであろう。それは「宗教」には不安障害的ではない要素が多分に含まれているからであり、そもそも、もし「宗教」=「不安障害」ということであるならば、「宗教」に心の病も癒す精神医療的な要素が含まれているという説が成り立たなくなるからである。さらに「キリスト教」に限らず、「宗教」においては、しばしば人間の力や理解を超えたものの存在が信じられたり、「宗教」における生活上の厳しい「戒め」や「教え(教義)」等があったりするために、例えば「キリスト教」の場合は「キリスト教」という宗教に救われた者、つまり、キリスト教信仰を持つ者が聖書の証しする主なる神に対する畏れ(おそれ)を心に抱いたり、(5)その「教え」にこだわりを持ったりするということは、その「宗教」が持つ必然性、あるいは不可抗力に過ぎず、それは「不安障害」とは何ら関係がない。

 むしろ「キリスト教信仰」は十字架上のイエス・キリストにおける罪の許しと死からの甦りを中心とする人間存在全体の「救い」と密接に関連し、その「救い」は全被造物(自然に存在する全てのものが主なる神によって造られたものであるとするキリスト教信仰の言葉)の「救い」とも関連する。そのような意味で「キリスト教信仰」は、もはや「精神分析」の中には納まりきれない独自のものであり、(6主なる神によって造られた全被造物(人間を含む)の「救い」という信仰理解とそれに基づく信仰生活や活動が関わることから現実に根差したものであるということが出来るのである。

  「キリスト教信仰」と「精神分析」はそれぞれ別のものであるが、同時にこれらは関連性を持っている。そして、もし心病んだキリスト者の心理状態に「精神分析」が行われるなら、また同じ心病んだキリスト者に別の精神医療的な助けがあるなら、それはそれぞれ異なる観点から物事を見ようとしている点であるが、「精神医療」という面で同じものであり、その際には必要なものであろう。またこれは「キリスト教信仰」と矛盾するものではないのである。

 

〈参考文献〉

 

・エーリッヒ・フロム著『精神分析と宗教』谷口隆之助・早坂泰次郎訳、東京創元社、1996年 第31版

Fromm,Erich. Psychoanalysis and Religion,  New HavenYale University Press1950.

 

・ルドルフ・オットー著『聖なるもの』久松英二訳、岩波書店、2010年

 Otto,RudolfDas HeiligeÜber das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen,23.bis 25. Auflage, C.H. Beck'sche Verlagsbuchhandlung, München 1936,2004.

 

・土居健郎著『信仰と甘え』春秋社、1990年初版

 

・河合隼雄著『河合隼雄のカウンセリング入門』創元社、1998年第

 

・石井裕二著『癒し/医療とキリスト教 ―歴史的概観と検証の試み―』(基督教研究 第62巻第2号所載)同志社大学神学部 基督教研究会、2001年3月 137―164頁

 

アメリカ精神医学会編、高橋三郎、大野 裕監訳、『DSM‐5® 精神疾患の分類と診断の手引』、医学書院、2020年〈第1版第6刷〉

American Psychiatric Association. (ed),Desk Reference to the Diagnostic Criteria From DSM5®,2013.

 

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(1)   エーリッヒ・フロム著『精神分析と宗教(谷口隆之助・早坂泰次郎訳、東京創元社、1996年 第31版 原書名はFromm, Erich. Psychoanalysis and Religion New Haven, Yale University Press, 1950)』、16頁参照。

   「神経症」という名称はフロイトが生きていた時代のものであり、後に1994年に出版された『DSM‐W 精神疾患の分類と診断の手引(アメリカ精神医学会編、高橋三郎、大野 裕、染矢俊幸訳、医学書院、2001年第1版第10刷)』に記されたように「不安障害」の項目と幾つかの他の「精神疾患」の項目に分類されるようになったが、これが2020年現在では「不安障害」とさらに他の幾つかの「精神疾患」を示すものとされている。これについて『DSM‐5® 精神疾患の分類と診断の手引(アメリカ精神医学会編、高橋三郎、大野 裕監訳、医学書院、2020年第1版第6刷)』によると、「不安障害」という分類項目が「不安症候群/不安障害群」という名称に変更され、そこには「全般不安症/全般性不安障害」等は、もちろん「社交不安症/社交不安障害(社交恐怖)」、「パニック症/パニック障害」、「広場恐怖症」が属するが、それまで「不安障害」に属するとされた「強迫性障害」、「外傷後ストレス障害」、「急性ストレス障害」等や、またICDで「神経症」として取り扱われている「離人症」や「解離性障害」等、そして、ジークムント・フロイトが確立した「神経症」の概念に含まれる「(心気症等、病気不安症等)の身体症状症」、「抑うつ障害の一部」は別の「精神疾患」として取り扱われている。それゆえに以下ではフロイトが確立した概念を念頭に置き、「神経症」を「不安障害」と記述することを予め断っておく。「レポート『人間と不安障害(神経症)』―キリスト教信仰との関係で―」も参照。

 

(2)  ちなみに土居はこの著作において日本人の多くが甘えることを信じることと同一視しており、それを超えなければ、日本人キリスト者は真の意味でのキリスト者にはならないとしている。土居健郎著『信仰と甘え(春秋社、1990年初版)』、35、36頁参照。

 

(3)   同書、13頁、41〜43頁。

 

(4)  河合隼雄著『河合隼雄のカウンセリング入門(創元社、1998年第1版)』、92頁以下参照。

   また医療の起源が宗教や呪術にもあることは多くの学者たちが支持している。ちなみに石井裕二著『癒し/医療とキリスト教 ―歴史的概観と検証の試み― 〈基督教研究 第62巻第2号所載〉(同志社大学神学部 基督教研究会 2001年3月)』138頁は、聖書と現代社会において健康者と病者についての認識は異なるものであるとしながらも、聖書が病気や癒し、生と死、人間存在の意味について問いを発し、現代の医学と医療においても、病気や癒し、生と死、人間存在の意味についての一定の理解が働いているゆえに、哲学または神学が関連しない医学・医療はないとしている。

 

(5)   例えば、20世紀ドイツの神学者であり、宗教学者、宗教哲学者であるルドルフ・オットーはその著書『聖なるもの久松英二訳、岩波書店、2010 Otto,RudolfDas HeiligeÜber das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen, 23. bis 25. Auflage, C.H. Beck'sche Verlagsbuchhandlung, München 1936,2004』、30−68頁において宗教体験における「おそれ」について述べている。

 

(6)   キリスト教信仰」の基本的な考え方である「十字架上のイエス・キリストにおける罪の許し」も「精神分析」では解釈しきれないものであろう。