「ディートリッヒ・ボンヘッファーについて

    ‐その生涯」  

 

2007年 川上純平

 

 

 

 

 

 

第2章 大学において、「告白教会」の成立

 

1932年の夏、ボンヘッファーはかねてから、「この世における教会の具体的な場

所の問題についての考察」(3)を深めていたことから、講義『教会の本質』(Das We-

sen der Kirche)行なった。また、7月にチェコスロヴァキアのチェルノホルスケで世

界教会運動について青年協議会講演を行ない、さらに冬学期には講義「創造と罪」を行

なった。後に、この講義は『創造と堕落 創世記1−3章の神学的釈義』(Schöpfung

und Fall. Eine theologische Auslegung von Genesis 13.)として1933年に出版さ

れている。この中でボンヘッファーは、「関係の類比(analogia relationis)」につい

て論じており、この概念はカール・バルトに影響を与えた。

1933年1月、ヒトラーが首相に指名された直後の2月1日、ボンヘッファーはラ

ジオ講演でヒトラーを「神を嘲る者である」として批判する。4月には、ナチスによる

ユダヤ人の商店のボイコット運動と公職からユダヤ人を追放する法律である「アーリア

条項」を批判し、国家が秩序と法において不適切である場合、「教会は車輪(※国家)

の下の犠牲者たちを介抱するのみならず、身を投じて車の進行そのものを阻止する」と

発言した(4)講演「ユダヤ人問題に直面する教会」を行なった。5月には大学で講義

「キリスト論」を行ない、後にこれは『キリスト論』(Wer war und ist Jesus Chris-

tus? Christologie  Vorlesung)として出版される。この講義でボンヘッファーは、神が

啓示される教会においてイエス・キリストとは誰であるかを問うことができ、イエス・

キリストは私たちのために十字架に架けられ、歴史において現在する方であり、我々も

イエス・キリストのように生きる者であるとした。

同年6月には、神学者エマヌエル・ヒルシュ(神学者パウル・アルトハウスと共にエ

キュメニカル運動〈世界教会運動〉に反対し、ナチスに迎合するような神学的立場をと

ることによってカール・バルトとも対立していた)と対決討論を行なった。

しかし、この頃すでに、ドイツ・キリスト者運動(ドイツ人が優秀な民族であるとす

るナチズムの世界観や政策に迎合したドイツ・プロテスタント教会の一群のこと)が起

こっていた。7月の教会選挙ではドイツ的キリスト者が全体の約75%を占め、9月、

ヴィッテンベルクでのドイツ福音主義教会の帝国監督を選ぶ選挙で、ナチスとドイツ・

キリスト者が支持するルートヴィッヒ・ミュラーが選ばれた。それに対して、ボンヘッ

ファーや第1次世界大戦中は元Uボートの艦長であり、その後、牧師となったマルティ

ン・ニーメラーらは、「牧師緊急同盟」を結成し、およそ2000名がアーリア条項に

反対の意志を表明した。この「牧師緊急同盟」は後の「告白教会」となった。(5)

 ボンヘッファーは既にこの年の8月にドイツ・キリスト者に反対する「べーテル信仰

告白」をヘルマン・ザッセと共に起草していたが、ルター派の保守的な神学者によって

内容を変えられてしまったため、ボンヘッファー自身がそれに対して名前を連ねること

を拒否したと言われている。(6)

そのようなこともあって、10月、ボンヘッファーはイギリスのロンドンに赴き、ド

イツ人教会(ルター派と改革派)牧師に就任することになった。11月、ボンヘッファ

ーはエキュメニカル運動に貢献したジョージ・ベル主教を同国、チチェスターに初めて

訪問する。ボンヘッファーはロンドンの教会でドイツからの亡命者や移民たちを教会員

と共に援助したが、この頃、バルトから「ドイツに戻ってくるように」という手紙を受

け取っている。(7)

1934年5月に、ドイツ福音主義教会内にあって、「告白教会(ドイツ・キリスト

者に抵抗する諸教会)」の第1回告白会議(全国大会)が開かれ、カール・バルトの起

草による「バルメン宣言(ドイツ福音主義教会の現状〈情勢〉に対する神学的宣言)」

が発表され、聖書において証しされたイエス・キリストのみを自らが聞くべき神の唯一

のみ言葉であるとして、ナチスに反対することを表明する。(8)しかし、8月、ヒト

ラーが総統となる。同月、ボンヘッファーは世界教会のファーネー会議で平和講演を

行ない、(9)世界教会協議会委員に選出される。彼は、世界教会運動において、また

ロンドンの教会で「告白教会」の立場を明確にするが、そのことにより、ロンドン

のドイツ人教会はドイツの帝国教会管理機関との関係を絶つにいたる。

1935年4月、ドイツに戻り、「告白教会」による若い牧師たちのための牧師研修

所所長となる。7月には論文『告白教会と世界教会』(Die Bekennende Kirche und

 die Ökumene)を執筆し、出版。1936年2月にベルリン大学での最後の講義を行

ない、8月、文部大臣により教授資格を剥奪され、大学での教授を禁止されるにいた

る。

1937年2月、世界教会オックスフォード協議会(ロンドン会議)で「バルメン宣

言」に固執したため、世界教会運動の役職を退く。7月、ゲシュタポによる家宅捜索が

行なわれ、牧師研修所が封鎖されるが、ナチスの目を盗んで研修は続けて行なわれた。

そのような状況で11月に『服従』(Nachfolge)が出版される(邦題:『キリストに

従う』)。この本は、教会が他のもろもろの権威から独立して新しい生へと解放され、

自らの信仰を主なる神に従うこととして生き、解釈し、要求するに至った時、神学と宣

教は有益なものとなるとし、また、ルター派の神学が当時の「ナチス宗教」に対してと

った生半可な中立的妥協をも批判したものであった。

 

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(3)   森野善右衛門著、「抵抗と献身 ‐ディートリッヒ・ボンヘッファーの生涯に学ぶ」『希望に生きる キリスト入門』1988年、184頁。この『教会の本質』においてはヒトラーが政権を  掌握する前の緊迫した時代状況や教会と国家の正しい関係についても語られている。森野善右衛門著、「ボンヘッファーにおける告白と抵抗」『告白と抵抗 ボンヘッファーの十字架の神学』、2005年、48頁。(以下『告白と抵抗』)と略す。ディートリッヒ・ボンヘッファー著、『教会の本質』森野善右衛門訳、1989年、91、92頁。

(4)  『ボンヘッファー』70頁(※は筆者)。ちなみに、「ユダヤ人問題」を教会の中心的課題として最初に扱おうとしたのがボンヘッファーであるとされているが(『告白と抵抗』49頁)、そもそも、それ以前に「ユダヤ人問題」はあったのである。

(5)  ちなみに、ベートゲによれば、1933年2月から3月にかけてヒトラーが発令したいくつかの法律は、その名称が美化されたものであったが、後にボンヘッファーの牧師研修所を閉鎖させただけでなく、強制収容所を設置させ、言論・報道・集会・信書を統制下に置き、ナチスによる家宅捜査や押収を合法化させ、政府や党に反対することを禁止させ、議会によるコントロールと憲法を廃棄し、階級差別を合法化させるものであったが、それに反対するプロテスタント教会はなかったと言う。『ボンヘッファー』69頁。

(6)  ディートリッヒ・ボンヘッファー著、『告白教会と世界教会』野善右衛門訳、1968年、454頁。(以下『告白教会』と略す)。村上 伸著「ディートリッヒ・ボンヘッファー 人と思想92」1991年、13頁。

(7) 『ボンヘッファー』75、76頁。

(8)  バルメン宣言は意義ある重要な宣言であるが、一方、その問題点としては「ユダヤ人問題」に触れていないということがある。そのことに関しては、例えば、ベルトールト・クラッパート著、寺園善基編『和解と希望 告白教会の伝統と現在における教会』、1993年に収められている「バルメン宣言第一項とユダヤ人 ‐バルメン宣言の排他的キリスト論とユダヤ教のコンテクストにおける開かれたキリスト論の問題」217、259頁他参照。ちなみにボンヘッファーは1933年の「べーテル信仰告白」において既にユダヤ人問題に言及している。同書、259頁。ちなみに「ベーテル信仰告白」は『告白教会』83−117頁に収められている。

また、ボンヘッファーと「ユダヤ人問題」の関係に関しては、クラッパートの同書、439‐527頁に収められている「イスラエル問題におけるボンヘッファーの道と方向転換 ‐ボンヘッファーとラインラント州教会決議(1980年)の根本的決定」を参照。

そもそも、「ユダヤ人問題」はユダヤ人に対して排他的であった近代ヨーロッパのナショナリズム(民族主義)と、それを批判しなかったヨーロッパのキリスト教会にその根源があることは言うまでもない。

ちなみに、「『告白教会』を作ったのはヒトラーです。」というある神学者の言葉はユーモアのある表現ではあるが、決してジョークではないのである。

(9)  ちなみに、この頃のボンヘッファーはナチス・ドイツによる戦争に対して平和的解決を考えていた。『告白と抵抗』51頁、森野善右衛門著、「説教者ボンヘッファー」『告白と抵抗 ボンヘッファーの十字架の神学』、2005年、154頁。『告白教会』121‐126頁参照。