論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について‐』

川上純平 改訂版 2012/08/06初版 2007/10/12 

  

 

 

 

 

 

(2)教会史において

 

聖書時代以後の教会史における礼拝について述べると、3‐4世紀においては、特に地域性に依存する教会が特徴的となる。それはこの世と関連を持つことを意味する。また、この頃、ローマ帝国による「皇帝崇拝」を拒否するキリスト者に対して大規模な迫害が行なわれた。一方、東方教会においては礼拝が終末論的なものとされることが強調され、それは神秘性へと繋がっていった。このことは東方教会に対する迫害があったことに由来しているのかもしれない。いずれにしろ、ローマ皇帝崇拝に反対するキリスト者たちは極めて厳しい迫害の中で自分たちの信仰心を強固なものとしていったのである。

4世紀、キリスト教がローマ帝国によって公認された後は、平日に信徒たちが集まり、礼拝を行なうということが日常的となり、それは、現代の教会においては行なわれていないが、「聖務日課」と呼ばれ、信徒たちによって「聖餐式」が執り行われることもあった。一方、信徒たちの運動によって「修道院」も建てられ、「聖務日課」も修道院において守られるようになっていった。

しかし、次第に、教会の制度化が国家的規模で行なわれ、聖職者たちによって礼拝が行なわれるようになっていった。中央集権的な西方教会(現在のローマ・カトリック教会)は礼拝式文を統一化して(もちろん、すべての教会が共通した式文を使っていたわけではないであろうが)、標準的な「ローマ典礼」を作成し、礼拝讃美歌の基準化を図り、「グレゴリオ聖歌」をまとめあげた。その結果、香を焚くこと、平伏すこと、司式者の陪侍など宮廷儀式的な要素が加わり、礼拝がラテン語でなされたため、会衆にとっては理解できないものとなった。礼拝が聖職者たちの手に委ねられ、定式化された結果、共同行為としての礼拝が失われ、会衆は「礼拝」という名のドラマ、見世物の観客となり、礼拝が畏怖の対象となってしまったのである。

それに対して宗教改革において、ドイツのマルティン・ルターはローマ・カトリック教会のミサに対する改革を行なったわけではないゆえに、その礼拝において中世の旧約聖書の朗読と執り成しの祈りが欠如していたが、ラテン語で行なっていた礼拝を讃美歌も含めて自国語のドイツ語で行うようになり、自らの功績によってイエス・キリストによる罪の許しが行なわれるというミサの考え方を否定し、イエス・キリストの「想起のわざ」としての説教を重視した。ジャン・カルヴァンもそれを基礎とし、「神の言葉」としての聖書を重視し、聖書に忠実に説教を行なうことを心掛けた。彼は、毎週「聖餐式」を行なうことを望んでいたが反対された。しかし、カルヴァンが提唱した礼拝は後のカルヴァン派教会の主日礼拝のモデルとなった。

フリードリッヒ・ツヴィングリにいたっては大胆な礼拝改革を行ない、礼拝堂から画像やオルガンを撤去するに至った。宗教改革期に「聖務日課」は修道院において用いられていたものがそのまま使用された。宗教改革以降、プロテスタント教会においては教会教育として「信仰問答」や「教理問答」が用いられたが、同時に「主日礼拝」も教会教育の機能を有していた。

これらのことによって、礼拝は再び民衆のものとなったが、宗教改革者たちの精神は必ずしも正しく継承されたわけではなかった。後のドイツ・プロテスタント教会においては説教重視のため極端に主観的になり、同時に道徳主義的に変貌していき、会衆との共同性や共に想い起こすということが失われていったのである。18世紀の啓蒙主義に至ってはルター派が行なっていた聖餐式を毎週行うという習慣を終わらせた。

16世紀にイギリスにおいても宗教改革が行なわれたが、それによって英国国教会はローマ・カトリック教会とルター派教会との中間的立場をとった。16世紀にカンタベリー大主教であったトーマス・クランマーは「祈祷書(第1祈祷書・第2祈祷書)」を作成したが、その影響は祈祷書の歴史全体に及んでいると言われている。彼は「聖餐」と「聖務日課」という二つの伝統を中世から受け継いで慎重に保存したが、その「聖務日課」にはギリシア語典礼に基づいて作られた中世イギリスの「セーラム典礼」の「聖務日課」が使用されていた。さらに、女王メアリー統治以後に再び作成された二つの「祈祷書」はややカトリック的なものに変えられ、特に1662年に作成された「祈祷書」は古代教会の統一性と英国国教会の典礼の伝統を保持していた。しかし、後に、祈祷書の内容と現状とが一致しないものとなり、礼拝は衰退に向かったため、19世紀中頃の教会改革運動であるオックスフォード運動において、聖餐式を英国国教会の礼拝における中心的行為として回復させようとする試みがなされた。

16世紀後半に、ヨーロッパ大陸のカルヴァン派の影響を受け英国国教会に対抗して急進的な宗教改革を行なったのが、ピューリタン(清教徒)である。彼らは長老派・独立派(組合派)・バプテスト派である「非国教徒」となり、英国国教会がカルヴァン派的礼拝を行なうことを望んだ。

ピューリタンたちの行なった礼拝は聖書主義的なものであった。また、同時に、聖霊の働きのもとでの自由で即席の祈りや説教・証しも主流となった。彼らはカルヴァンが1542年にジュネーヴ教会で作成した礼拝式文である「初代教会の慣習に従った、祈りと教会的詠唱のための様式:礼典の執行と結婚の聖別の方式」を使用し、17世紀に入ると1644年の「ウェストミンスター公同礼拝指針」を使用した。これはスコットランドの主教であり、宗教改革者であったジョン・ノックスがジュネーヴで使用していた礼拝書から生まれた「スコットランド共同礼拝規定書」に基づいて作成されたもので、単に長老派的なものではなく、独立派(組合派)に対して開かれたものでもあった。

イギリスにおいて独立派(組合派)の礼拝は聖餐中心的であり、毎週、聖餐式を行っていたが、それは後に月に一度のものとなった。バプテスト教会も独立派(組合派)と同じように月に一度、聖餐式を行なったが、長老派教会においては年に4回行なわれた。ピューリタンたちは聖礼典執行に関する見解の違いから多様化したのである。英国国教会の司祭であったジョン・ウェスレーによって始められたメソジスト教会は、ピューリタン(清教徒)の伝統を受け継いでいなかったが、聖餐式を礼拝の中心とし、そこに十字架の意義があると考え、毎週、執り行った。

メソジスト教会は、聖公会の主日礼拝パターンを継承し、「敬虔主義」の影響を受けることによって、週の半ばに「祈祷会」を行なうようにもなった。信徒が中心となったそのような集会は、主日礼拝において、女性が発言する機会を生み出すに至った。

信仰告白に関して独立派(組合派)は、1658年に、「サヴォイ宣言」によって自分たち自身の信仰告白を行なったが、それは全教会的信条を遺産の一部として継承し用いたものである。

現代において、イギリスの会衆派教会である独立派(組合派)の教会は改革派の典礼基礎構造を承認した上に立って編集された礼拝書を使用し、その一方で、自らの礼拝の伝統から再発見して得たものによって豊かな礼拝を行なっている。後、1972年に会衆派教会は改革派教会を始めとする他の教派と合同するに至っている。

17世紀にアメリカに渡ったピューリタンたちは、それぞれ教派ごとに植民地建設を行ったが、1629年に、フランシス・ヒギンソンらがセイラムに上陸して、アメリカ最初の会衆派教会を設立した。ニュー・イングランドにおいては特に初期は会衆派教会の教会政治が中心となり、カルヴァン派の流れにある信仰内容が重んじられ、それによって礼拝を守った。当初、それは単純化された礼拝で、祈りと聖書朗読、その講解が中心をなした。また神の栄光を讃えるためのものとして感謝祭も執り行われた。会衆派教会は、1648年に自分たちの信仰内容と教会観を表わした「ケンブリッジ綱領」によって「ウェストミンスター信仰告白」を採用した。

しかし、1622年、マサチューセッツ教会会議において、「半途契約」が採用され、既に幼児洗礼を受けた者で信仰告白をしていない者が教会会員とされた。そして、これによって、保守的なボストン第一教会からボストン第三教会が設立されるに至った。1699年、ボストンにおいてブラトルストリート教会が設立され、礼拝に関して、イギリスで行なわれた長老派と会衆派の合同が試みられた「ユナイテッド・ブレザレン」が導入され、「ウェストミンスター信仰告白」が重んじられ、牧師の判断によって信仰告白なしに聖餐式における陪餐者となることが認められた。後、ボストンにおける会衆派の中心はこの教会へと移行した。現代において、アメリカの会衆派教会は他の教派と合同して「アメリカ合同教会」を形成している。

1925年に、カナダの会衆派、メソジスト派、長老派の諸教会が合同し、「カナダ合同教会」を形成した。1932年に同教会は「礼拝書」を公けにしたが、そこにおいては3つの合同した教会の礼拝方法が生かされた形で用いられ、東方教会と西方教会との両者の伝統が巧みに取り入れられている。

19世紀後半から20世紀前半にかけて日本においては、後に日本キリスト教団に属することとなった多くの教会が設立されるにあたって、アメリカのプロテスタント教会の宣教師の影響があった。宣教師たちの教派的な意味での先祖は、イギリスにおいて宗教改革を行なったピューリタン(清教徒)であった。彼らが自らの教派を作り、アメリカに渡って発展させ、その子孫たちやその影響を受けた者たちが日本に宣教師として来たわけである。しかし、日本キリスト教団に属する多くの教会は、宗教改革を行なったわけではなく、礼拝についてイギリスにおける宗教改革前後の歴史的ルーツや由来・意味がよくわからないまま礼拝を行なっている場合が多い。特に日本の大部分のプロテスタント教会は、19世紀後半の欧米のプロテスタント教会の礼拝形式である「敬虔主義的傾向」と「啓蒙主義的傾向」に影響を受けており、そこでは、心理学的・理性的(個人的・内面的・倫理的)聖餐理解が強調され、神の民、共同体全体のわざ、祝祭としての聖餐理解があまり重要視されていない場合が多いと言われている。

また日本キリスト教団は、1941年に日本のプロテスタント教会のいくつかの諸教会が合同しようとした気運の中にあったことと国家の圧力によって成立したわけあるが、第2次世界大戦中、同教団は天皇を神とする戦争に賛成、加担し、教団に所属していたホーリネス教会を含む一部の教会を切り捨て、戦後、その罪を告白した「戦責告白」作成に22年を要した。

近年、1954年に制定した「信仰告白」と1967年の「戦責告白」に関していくつかの教区が活発に議論を行なっている。日本の他のキリスト教会も、その多くは第2次世界大戦に賛成した。これらのことも礼拝はもちろんのこと日本と世界の教会、国家について我々が考える際、重要なこととなる。

近代から現代にかけて、世界のキリスト教会は、発展するキリスト教思想や哲学の影響、リバイバル・ムーヴメント(信仰復興運動)、エキュメニカル・ムーヴメント(世界教会運動)、リタージカル・ムーヴメント(典礼刷新運動)などの影響で、礼拝も新しくされ、同時に、古代の礼拝の再発見・復古も行なわれた。

特に、リタージカル・ムーヴメント(典礼刷新運動)において、20世紀にドイツのオード・カーゼルはその「聖餐神学」の中で「想起」の行為の中に礼拝の本質があることを明瞭にした。また、カトリック教会における典礼についての史的な研究は、1963年に「典礼憲章」公布させるに至り、プロテスタント教会に礼拝改革ブームを作り出した。1982年、世界教会協議会(WCC)は、「リマ文書」を発表し、それを基にしてエキュメニカルな式文「リマ式文」を作成、そこでは「想起のわざ」が中心とされている。

このように、キリスト教の礼拝は聖書に起源を持ち、歴史的に変化してきたものである。それは神に対する礼拝であり、ユダヤ教を土台としつつも、イエス・キリストを想起して礼拝するものとなることによって、ユダヤ教とは異なるものとなり、迫害の中にあって強められ、国教となった時、発展したが、堕落し、その意味・本質を見失いかけた。しかし、宗教改革によって、再び本来の位置に立ち戻ろうとする試みがなされた。現代においても二度の大戦を経験し、そのことを反省しながら、エキュメニカル運動がなされ、伝統からの再発見もなされ、様々な影響を受けながら、展開がなされている。

我々は、礼拝が聖書と伝統に根ざしたものであることを知っているが、あまり深くは知らない場合が多い。それらを理解することによって信仰の深みに至ることがあることも忘れてはならない。(9)

 



(9)    この項は以下の書物にその多くを拠っている。『礼拝学』、北村宗次著「聖礼典と式文」『総説 実践神学U』、1993年〈初版〉。以下『聖礼典と式文』と略す。「礼拝の系譜」『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、2006年〈初版〉。「礼拝の歴史」『同事典』、以下『礼拝の歴史』と略す。レイモンド・アバ著、滝沢陽一訳、『礼拝 その本質と実際』、2002年〈7版〉。以下『礼拝の本質』と略す。岸本羊一著『礼拝の神学』、1991年。以下『神学』と略す。ジェームズ・F・ホワイト著、越川弘英訳、『キリスト教の礼拝』、2000年。以下『キリスト教礼拝』と略す。増井志津代著『植民地時代アメリカの宗教思想 ‐ピューリタニズムと大西洋世界』、2006年。曽根暁彦著『アメリカ教会史』、1991年〈7版〉。越川弘英著『今、礼拝を考える ドラマ、リタジー、共同体』、2004年〈第1版〉。また『キリスト教礼拝』、48‐67頁、104頁においては「礼拝の多様性と一貫性」についていくつかのことが述べられている。