論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について』 川上純平

      2007/10/12

改訂第一2012/08/06

 

(3)現在の日本キリスト教団の礼拝式順と「礼拝」を成立させるもの

 

現在の日本キリスト教団に属する教会の多くは、日曜日に行なわれる主日礼拝は、おおまかに言えば、前奏・招詞・讃美歌・祈祷などの「導入」で始まり、主の祈り・信仰告白・牧会祈祷などがなされ、聖書朗読・説教という「み言葉」が語られ、「聖餐式」(教会によって行われる主日が異なる)、「応答」としての感謝の献金が続き、世の生活への「派遣」として頌栄・祝祷・後奏によって終わる。そして、その式文制定には「教会暦」が関わっている。「教会暦」の働きは人間が神からの賜物や恵みを与えられていることを想い起こすことであり、「教会暦」は一年の礼拝生活が神に従ったものとなる言う意味で神の働きを証しするものでもあり、イエス・キリストの生涯とその教えの全体を含んでいるものである。(10)

ここで言われている礼拝とは、日曜日に行なわれる主日礼拝のことであるが、しかし、以上述べた礼拝式順の中にある内容で、主日礼拝とは異なる「礼拝」の式順内容を含めて、そもそもキリスト教の「礼拝」というものを成り立たせる上で最も欠く事のできない内容は何であろうか。異論があるであろうし、「祈祷」だけでも礼拝は成立するという意見もあるが、それは「讃美」、「聖書朗読」、「祈祷」ではないであろうか。

「讃美」は、キリスト教信仰の表現であり、礼拝の特徴であり、心を礼拝に向かわせるものである。それは聖霊を求め、み言の光と導きを求めるための歌であり、神についての証しの歌であり、神からの感謝と回心の喜びを表現する歌であるが、そこには「献げる」という意味もある。教会において、それは神の民が共に祈るためのもの、共同体の祈りそのものでもある。「讃美」は聖書にその起源があるが、4世紀頃からはキリスト教徒自身が「賛美歌」を作り出し、特に教派によっては「賛美」は信仰告白でもある。(11)

「聖書朗読」は、礼拝においてその日のために選ばれている神の言葉である聖書を読み、神の言葉に聴く行為である。(12)教会においては、それは共同体への、神の民への言葉である。

「祈祷」は、聖書において「主の祈り」をはじめとして、様々な祈りの形態が記されているが(列王記上第8章23‐53節、詩編第3編、マタイによる福音書6章9‐13節、26章39節、ルカによる福音書23章34節、使徒言行録2章1節等)、それはイエス・キリストを通して神に語りかけることであり、聖霊によって導かれる神との深い人格的交わりである。それは聖書に基盤を持ち、神への崇敬の念を表わし、自らの罪を告白し、神に願い求め、神を讃美して、感謝し、他者のために執り成し(それは他者と自分自身両方が神の前で許しを請う行為である)、神の前に黙することである。特に個人の私的な祈りは、真実な心の叫びであり、ありのままの自分自身であること、神を神とする勇気を持つことであろう。(13)また、教会の礼拝における祈りは、個人的な祈りとは異なり、神の民の祈り、共同体の祈り、「公同の祈り」であり、特に主日礼拝で司式者あるいは牧師が行なう「牧会祈祷」は、会衆の代表者として、あるいは神に遣わされた者として神と会衆との執り成しの祈りの要素を含んでおり、人々を祈りのわざに導く。(14)それゆえ、その祈りは「会衆のために祈り、会衆と共に祈る」祈りである。祈りは、神が求めることであるが、神についての思索や神の言葉を聞くことも祈りである。また、たとえ、祈ることが出来なくても、祈りの源泉である「聖霊自らが言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださる」のである(ローマの信徒への手紙8章26節)。

ところで、キリスト教会の主日礼拝においては、重要なものとして「説教」を挙げることができる。「説教」は「神の言葉」を取り次ぐ行為であり、「人間の言葉」が礼拝において「神の言葉」となる、ということであるが、ここでは、牧師や伝道者、宣教者等によって教会の公的な礼拝において行なわれるものを言う。それゆえ、それは神の恵みについて聖書にその使信を聞き、会衆に対して救いについて語ることである。

また時に主日礼拝においては、「説教」が重要とされる。「説教」は聖書の説明ではなく、時事問題についての解説でもなく、「神からの愛の手紙」(加藤常昭)であり、それゆえ、牧会的配慮に満ちたものである。それは、神の臨在を示すもの、イエスを証することであり、神のみ業についての宣言、教会の宣教である。それは聖書に忠実であり、かつ現代的であり、実存的であり、霊性を深めるもの、神との交わりに至らせ、会衆がお互いに神の愛によって交わりを持つに至らせるものであるが、同時に会衆のニーズに答えるものでもある。

「説教」の起源は聖書にある。旧約聖書において「神の言葉」は、直接、神から人間に対して神の救いの計画、御心を伝えるという形で語られたとされているが、預言者においては、「聖霊」の働きによっても語られた(民数記24章2節、サムエル記下23章2、3節エゼキエル書11章5節、イザヤ書61章1節等)。

しかしながら、キリスト教会の礼拝における「説教」の起源は、イエスが伝えた神の国についての宣教に見出すこともできるのであるが(マルコによる福音書1章15節、4章26‐32節。10章14、15節、マタイによる福音書6章25‐34節等)、原始キリスト教会時代にキリスト者によって語られた言葉にキリスト教会の礼拝における説教の起源を見出すことができる(使徒言行録2章14‐39節、3章12‐26節、13章16‐41節、15章35節、20章7節等)。また、パウロが書いた手紙はそれぞれの地域にある教会の礼拝において読まれたようである(コリントの信徒への手紙T15章3‐7節、フィリピの信徒への手紙2章6‐11節、テサロニケの信徒への手紙T5章27節等)。そこにおいては、イエスについての証言とイエスの語った言葉両方が語られた。また一方、生前のイエスが語った言葉と、聖霊を通して語らされたという意味でのイエスの言葉がそれほど厳密に区別されていなかったようである。

教会史において、説教は、礼拝の中でしばしば聖餐式において語られたものであったが、特にプロテスタント教会の礼拝においては重要なものとされるようになった。

 

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(10)   また主日礼拝と主日礼拝以外の礼拝を含む式文や式順の基準や指針として、たとえば、日本キリスト教団では『日本基督教団口語式文(1949年版)』や『新しい式文 試案と解説(1990年版)』等(いずれも日本基督教団信仰職制委員会編)があるが、いずれの式文も、それを使うか否かも使用者(例えば牧師)の裁量に任せられているとしている。ちなみにキリスト教会における結婚式や葬儀式も礼拝式の一つとされる。

(11)    話と参与』、60頁。今橋 朗著「新しい歌を主に向かって」『アレテイア 1997年 NO.19 特集 礼拝と讃美歌』、1997年、19、20頁。『礼拝の本質』、146、162、165頁。『キリスト教礼拝』、228頁。

(12)   今橋 朗著「聖書朗読」『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、2006年〈初版〉

(13)   荒瀬牧彦著「祈り、祈祷」『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、2006年〈初版〉。ウィリアム・ウィリモン著、越川弘英・岩見育子訳、『礼拝論入門 説教と司式への実践的助言』、1998年〈第1版〉。54頁。以下『入門』と略す。

(14)   『入門』、55頁。