論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について‐』

川上純平 改訂版 2012/08/06初版 2007/10/12

 

  

 

第2章 礼拝における聖礼典とは何か

 

(1)聖礼典について

 

「聖礼典」とは“サクラメント(sacramentSakrament)”という英語あるいはドイツ語の言葉の訳であるが、この「サクラメント」という言葉はラテン語の“サクラメントゥム(sacramentum”という言葉に語源がある。この言葉は、そもそもは、「軍務」「秘密」「保証金」「奥義」「誓約」(軍隊の用語で兵士が服従する時の「誓約」を含む)という意味を持つ言葉であった。しかし、この言葉は、新約聖書時代においては密儀的諸宗教の中で神秘的認識や祭儀的行為に用いられた言葉である「奥義」を意味するギリシア語の“ミュステーリオン(μυστηριον”という語のラテン語訳として聖書において用いられた。この“ミュステーリオン(μυστηριον”という語は、キリスト教では「神が人間を救うために自らを与えてくださったこと」という意味での「奥義」という言葉に訳される語であった。しかしながら、この語は新約聖書において「聖礼典」を意味する言葉としては用いられていなかった。「誓約」を意味する「サクラメント」という言葉は、おそらく、教会への入会を意味する「洗礼」との関わりで、用いられるようになったとされている。「聖礼典」は、キリスト教会では、キリストに結び付けられ、キリストに服従する目に見える形での神の言葉であり、教会の共同行為の応答である。しかしながら、そもそも「聖礼典」という概念自体が聖書には存在しないとも言われている。(1)

現在、多くのキリスト教会においては礼拝における「聖礼典」について二種類の概念がある。一つは、ローマ・カトリック教会、東方教会、英国国教会のそれであり、もう一つは、プロテスタント教会のそれである。

カトリック教会、東方教会、英国国教会において、「聖礼典」は七つ存在する。それは「秘跡」と呼ばれ、「洗礼」「堅信」「聖体拝領(聖餐)」「告解」「終油」「叙階」「結婚」の七つである。(2)それは、前期スコラ神学者であり、パリ司教であったペテロス(ペトロス)・ロンバルドゥスが提唱し、1439年のフローレンスの会議で決定されたことであった。

一方、プロテスタント教会においては、聖礼典が「信仰と約束」という観点から捉えられ、「洗礼」と「聖餐」を聖書における神との契約、信仰、神の言葉、神の働きが重視されたものとし、他の「秘跡」と呼ばれるものは、カトリック教会とその聖職者等の人間による力が重視されていると考えたからであるゆえに「洗礼」と「聖餐」の二つのみが聖礼典とされ、現在に至っている。

しかし、教会史において神学者たちは聖礼典についてどのように考えたのであろうか。次にそれについて述べてみたい。

5世紀前半、アウグスティヌスにとって、聖礼典は「見える神の言葉」であった。宗教改革以後、ルター派の信仰告白である「アウクスブルク信仰告白第十三条」において、聖礼典は「人間の間での告白、認識のしるし」にとどまらず、私たちの中に信仰と救いを生み出す、神の見えない恵みの、見える「しるし」である。(3)また、カルヴァンも、神はサクラメントにおいて霊的な事柄を可視的なものごとを通して伝えるとしている。(4)

現代の神学者カール・バルトは、イエス・キリストが神の恵みを人に与える媒介者、「サクラメント(聖礼典)」それ自身であり、ただ一度限りのイエス・キリストの歴史と働きという場所にのみ「聖礼典」を認め、「聖餐」と「洗礼」とを人間側の応答・証言・宣教の働きであるとしている。(5)

同じく現代の神学者であるパウル・ティリッヒによれば、聖礼典は人間の無意識的なものに届くゆえに、神の霊の仲保者として重要であり、エミール・ブルンナーにとって、聖礼典は、目に見える形での人間に語りかける神の言葉であり、救いの手段であり、それは聖書的である(6)

このように聖礼典に関しては、様々な教理や思想的立場があるわけであるが、それは、隠されていた神の愛による救いの行為が目に見える形で表わされるものであり、教会において行なわれるものであるゆえに、霊的であり、かつイエス・キリストに服従し、むすびつけられることである。また、それはイエス・キリストの愛のわざがこの地上において行なわれたという意味で、さらに、一つ一つの器官は人間であるイエス・キリストの身体が作り上げられるという意味で、社会的な出来事でもあると言えるかもしれない。(7)

それでは、次に、「洗礼」と「聖餐」という二つの聖礼典、特に「聖餐」に重点をおいて見ていきたい。

 



(1)   加藤常昭著「聖礼典」『キリスト教組織神学事典』、1992年〈第5版〉。ちなみに礼拝学者のJ・F・ホワイトは、「ミュステーリオン」が「サクラメントゥム」という言葉に訳された時に、宇宙的な広がりが欠け、法的なものとされたとしている。『キリスト教礼拝』、248頁。

(2)   ところで、佐藤氏は『キリスト教神学』、288‐289頁において、東方正教会やローマ・カトリック教会の礼拝においては、聴覚より視覚や触覚や嗅覚が重要な役割を演じるが、プロテスタント教会においては感覚的要素が少なすぎるゆえに、宗教改革において、二つのサクラメントを残したことは意義のあることであるとしている。人間が色彩のあるキリスト教の絵画や教会の飾り、サクラメント等、目に見えるものから神に対する信仰を深く持つことにつながりやすくなることはあるであろうし、それらを通して信仰に至ればよいのであろうが、一方で、人間の視覚に訴えるということから、人間が偶像崇拝的態度に陥り易いと考えた人々がいたことは言うまでもない。ここで重要なことは、ただ、そのような視覚に訴えるという方法、それ自体は偶像崇拝ではないであろうということである。そうでなければ、サクラメントそれ自体が、偶像崇拝的なものであることになる。これらのことに教会教育の問題が関わっていることは言うまでもない。

    また、「宗教美術」と「礼拝美術」とは異なる。前者は、人間の心に「宗教的なもの、聖なるもの」の存在を感じさせるものであり、後者は共同体である教会の体験を表わすことに関して重要なものである。『キリスト教礼拝』、163頁。

(3)  H,G,ペールマン著、蓮見和男訳、『現代教義学総説』、1982年〈第1版第1刷〉、321頁。以下『教義学』と略す。

(4)   『キリスト教礼拝』、273頁。

(5)    尾形隆文著「現代神学における聖餐の問題 ‐特にK・バルトのサクラメント理解を中心に‐」『聖餐』、1988年〈再版〉、117頁。

(6)   『教義学』、325頁。

(7)  『キリスト教礼拝』、276頁。