論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について‐』

川上純平 改訂版 2012/08/06初版 2007/10/12 

  

 

 

 

 

(2)洗礼について

 

「洗礼(バプテスマ)」は、新約聖書においては、「バプテスマのヨハネ」に起源を持ち、語源的には「浸す」「沈める」を意味するギリシア語の“バプティゾー(βαπτιζω”という言葉に語源があるが、バプテスマのヨハネは、体を水に浸すことによって「罪の許し」を与え、「悔改め(もともとのアラム語では『悪の道を放棄し決断して正しい道に立つこと』『方向の転換』を意味する)」(8)を促す「水による宗教的潔め」を行なっていたが、イエスは彼から「洗礼」を受けている(マルコによる福音書1章4‐9節)。

キリスト教会はこの「バプテスマ」を継承したが(使徒言行録8章36‐38節)、それは、イエス・キリストの名、父なる神・子なるキリスト・聖霊の名による洗礼であり(マタイによる福音書28章19節、使徒言行録2章38節、8章16節、10章48節、コリントの信徒への手紙T1章13節)、聖霊の働きによるものでもあり(マルコによる福音書1章8節)、キリストと共に死に(これは肉体的・精神的な死のことではない)、それゆえ、新しいいのちに生きること、キリストと共に生かされていることを意味し(ローマの信徒への手紙6章3‐8節、コロサイの信徒への手紙2章12、13節)、罪を洗い落とし(コリントの信徒への手紙T6章11節、ヘブライ人への手紙10章22節)、信仰を告白して教会に入会すること(コリントの信徒への手紙T12章13節)と同時に、差別を克服し、倫理的生活を行なうという意味があった(ガラテヤの信徒への手紙3章27‐38節)。

「洗礼」も、やはり教会史において様々な教理的・思想的立場がある。使徒後時代に、それは「聖礼典(サクラメント)」として扱われるようになったようである。「洗礼」の方法は、最初、体全身を水の中に浸す「浸礼」だけであった。『ディダケー』においては頭に水を注ぐという形での「滴礼」がなされ、中世以降、「滴礼」が多く取り入れられていった。

現代においては、聖礼典を執行する資格を有する者が、礼拝の中で「洗礼式」を執り行うが、いくつかの教派においては、死の危険に陥った者が受洗の機会を失わないように、その場に居合わせた者が、緊急に行なう「緊急洗礼」も存在する。ちなみに使徒言行録9章18節では、サウロが普通の教会員から洗礼(バプテスマ)を受けたとされている。(9)

3世紀の神学者テルトゥリアヌスは信徒も洗礼を執行できると主張し、中世後期においては信徒が洗礼と婚姻を、また女性は緊急時の洗礼のみを行なう執行することができた。(10)古代教会最大の神学者アウグスティヌスは比較的後期になるまで洗礼を受けなかったが、最初の人間であるアダムから継承している原罪と自らが犯す罪からの救いの手段として洗礼を理解し、宗教改革者ルターにとって洗礼は「私たちにキリストが与えられる」ということの約束であり、ツヴィングリにとっては「献身のしるし」であり、カルヴァンにとっては「教会という交わりの中に受入れられる」ということであった。(11)

2世紀以降に(聖書には書かれていない)「幼児洗礼」も行なわれるようになった。神学者カール・バルトは受洗者自身の認識を問題として「幼児洗礼」を否定し、逆に聖書学者オスカー・クルマンはそれを肯定しているが、その一方で、ジョン・ウェスレーのように「幼児洗礼」を受けたキリスト者には、その後の「回心」が欠くことのできない要素であるということを強調する立場もあった。(12)

このように、「洗礼」は、聖書に従えば、「罪を許され、水によって潔められ、悔改めて神の道を歩もうとすること」に始まり、後に「聖霊の働きに従うこと」「キリストの死につながること」「新しい命に生き、キリストと共に生かされること」や「信仰を告白して、教会に連なり、倫理的生活を行なうこと」等を意味するものとなった。特に、さらに後の時代において、洗礼を受けることが「キリスト者になること=信仰を告白して正式な教会員となること」を意味し、神の恵みの中で共に生きるという意味を持つしるしともなった。

 

 

 

 



(8)    ヴェルナー・ゲオーク・キュンメル著、山内 眞訳『新約聖書神学 イエス・パウロ・ヨハネ』、1999年〈3版〉、40頁。以下『新約神学』と略す。

(9)    エドゥアルト・シュヴァイツァー著、佐竹 明訳『新約聖書における教会像』、1984年(2004年オンデマンド版)、292頁 注31。以下『教会像』と略す。

(10)   『キリスト教礼拝』、259、289頁。

(11)   同書、306、309、310頁。後の時代において、これらのことが社会と教会と家族の中で恵みに満たされて共に生きる道であることを現わすしるしとなったことは重要である。『入門』、73頁。

(12)   同書、311、312頁。幼児洗礼については、幼児の聖餐式への陪餐を含めて教会がその信仰を養い育てるという意味で、認められるべきであろう。これについては『入門』、71‐88頁参照。また、知的障害者への洗礼は教会の信仰により執行可能とされているが、そのような意味での陪餐も可能とされるべきであろう。