論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について‐』

川上純平 改訂版 2012/08/06初版 2007/10/12  

 

 

(3)聖餐について

 

聖餐」は、キリスト教の歴史において様々に変化して来た。現代において、それは礼拝の中で「パン」を食し、「ぶどう酒」を飲むことによって、イエス・キリストを想い起こし、神に感謝する交わりであるとされる。これは、そもそもは「イエスのパン割き(供食)」と「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」(マタイによる福音書26章17‐30節、マルコによる福音書14章12‐26節、ルカによる福音書22章14‐22節等)」「イエスの復活後の弟子たちとの食事」(ルカによる福音書24章30節、使徒言行録10章41節)に起源のあるものであるが、後にその形式・内容が変えられたものであり、それらはある意味で発展したものであると言えなくもない。(13)

しかし、「イエスのパン割き(供食)」とは、そもそも何であり、本来は何と呼ばれていたのか、それはどのようにして発展したのか、詳しいことはわかっていない。おそらく、少なくとも、それはユダヤ教の食事(キドゥシュ、カブーラ〈カプラ〉等)に起源を持ち、もともとは「食事の開始」を表わす言葉であったが、マタイによる福音書14章19節、15章32‐39節、マルコによる福音書6章41節、8章1‐10節にあるように、イエスによって「讃美の祈り」「感謝の祈り」を唱えることによって行われた、終末時の神の国での祝宴の先取りであったようである。

その「神の国」は、「最後の晩餐」との関連で述べるならば、イエスが罪人とされていた人たちと食事をしたこと(ルカによる福音書15章1節以下)やイエスが譬えで示されたこと等を含めて、イエス・キリストによって神の国の喜びがもたらされること、イエス・キリストによって罪が贖われて、罪の許しを受けること(マタイによる福音書26章28節)、悔改めて福音を信じることであり、そのことが終末時である現在にイエスが来られたことによって我々に与えられている、あるいは、将来において来られるイエス(イエスの再臨)によってもたらされることが今、前もって我々に与えられている、ということである。この「イエスのパン割き(供食)」は、イスラエルでは「晩餐」が、いつもそれ自体が一つの礼拝的な意味をもつわざであったので、その「食事」は単なる「飲食」ではなく、食卓に参与することによる出エジプトの「想起」という形が存在したとされる。それゆえに、パウロはコリントの信徒への手紙T11章29‐30節において「想起」のわざに対する侵害について警告しているとも解釈される。(14)そして、この「イエスのパン割き(供食)」には洗礼のような清めの儀式は前提とされず、すべての者が招かれた(マタイによる福音書22章1節以下、ルカによる福音書14章15節以下、マルコによる福音書7章24節以下)。福音書の中でイエスは、神の国での祝宴のたとえを述べているが、それは日常生活の只中で起こるもの、礼拝から排除される人間は一人もいない状態であるとしている。また、そこでは律法学者に対する批判が含まれている。それゆえ、そこでは飲食にふけることによる堕落が意味されているのではなく、むしろイエスのそのたとえは教育的でさえある。

「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」は、イエスが十字架に架けられる前に弟子たちと共に食事をしたことを表わしている。この「最後の晩餐」は、もともとは「過越の食事」とは異なるものであったが、後に「過越の食事」とされ、さらに、ユダヤ教過越祭に関係のある語句が落とされて、イエスの死の意義が挿入、強調されたとされている。(15)

イエスの復活後、原始キリスト教会においては、イエスが行なった、それらの食事は礼拝の中で中心的なものとなり、「パン割き(供食)」、あるいは「愛餐」“アガペー(άγαπη”として行なわれていたのであろう(使徒言行録2章42節、46節、20章7‐11節)。この「パン割き(供食)」「愛餐」は、「最後の晩餐」を含んで、イエスが行なった食事に基づくもので、パウロが言及しているコリントの教会での「食事」とは異なるものであり、外面的にはユダヤの食事と変わらない単なる食事であるのであるが、ユダヤ教の宗教生活に由来する礼拝儀式でもあり、最初は、イエスの活動の正当な後継者である弟子たち、つまり、使徒たちが主宰者であった。(16)それは終末論的な喜びに満ち溢れて行なわれており、後の「聖餐」がその中に含まれていた。(17)

しかしながら、原始キリスト教会誕生当初の「パン割き(供食)」「愛餐」が、パウロの時代の教会を経て、『ディダケー』の頃の教会にまで、歴史的にどのように発展していったのか、それらの流れを線にたとえるなら、何本かの線があるのであろうが、もし、そうであるとするならば、それらの線のいくつかの部分しか見えないというのが実状であることになる。よって、「愛餐」「聖餐」について考えるなら、そのことを踏まえる必要がある。

パウロは、コリントの教会で守られていた「主の晩餐」と呼ばれた「愛餐(食事)」について、その「主の晩餐」の中で「聖餐」を行なったわけであるが、その「聖餐」を強調し、かつ区別しようとしたかどうかは、はっきりしていない(コリントの信徒への手紙T10章、11章)。この箇所で述べられている「食事」という言葉は、ギリシア語で“ディプノン(δειπτον)”と言うが、これはヘレニズム社会に起源のある「食事」を指す。内容に関していくつかの解釈や不明瞭な部分が多いが、その起源に関して言うならば、「ユダヤ教の過越しの食事に近いもの」であり、異邦人キリスト教徒が最後の晩餐をユダヤ人キリスト教徒から引き継いだ、とするものがある。(18)あるいは、そこにおいて、「聖餐式」の土台となったものは伝承として伝えられたユダヤ教の過越しの祭であり、「愛餐」の土台となったものは地域社会のヘレニズム文化・宗教に起源のある「食事」であるとするものもある。この「愛餐」には「聖餐」が含まれているということもあり、「愛餐」はヘレニズム的キリスト教における典礼的な共同の交わりであると言えるのかもしれない(コリントの信徒への手紙T10章16節)。(19)

11章23‐26節には、「愛餐」の中で行われた「聖餐」についての制定の言葉が述べられているが、この言葉は、福音書ではルカによる福音書22章14‐22節における「最後の晩餐」におけるイエスの言葉に近いということもあるゆえに、パウロとイエスとの関係や、コリント教会の「愛餐」について、コリントの教会の信仰的ルーツについて考える際に、重要なものとなり、それとの関連で研究されているが、しかしながら、この制定の言葉に関しても、いくつかの解釈がある。(20)

おそらく、パウロは「愛餐」である「主の晩餐」の大切さを語るために、神が食事にお与えになった秩序を台無しにしてはいけないということで、主イエス・キリストから受けた言い伝えである「制定の言葉」を語っているにすぎないと思われるが、しかし、もしそうであり、新約聖書における証言、イエスやパウロを重要視するならば、後に「聖餐」と「愛餐」とを区別したということは不適切なものであるということにはならないだろうか。

もし、パウロが「主の晩餐」の中で「聖餐」を強調し、かつ区別しようとしたとすると、「愛餐(食事)」と区別して「聖餐」を行なったことに関して、どのように別に行なったのかは、はっきりしておらず(「食事の後で」という25節の言葉の意味の曖昧性を含む)、「聖餐」と「愛餐」とが、分離したのが後の時代であることを考えると、不明瞭なものとなる。

 ちなみにコリントの信徒への手紙T11章33、34節及びローマの信徒への手紙14章17節に書かれている文章は、コリントの信徒への手紙T10章1‐22節及び11章17‐22節にあるような特別な状況への対処法と関係しており、それに関しては他にもいくつかの方法が考えられたのではないだろうかという疑問も残る。

このようにコリント教会で行われた「主の晩餐」とコリント教会で行なわれた以前の原始キリスト教会が行なった「愛餐」(「聖餐」を含む)との関係が注目されるのだが、残念ながら、資料が乏しいこともあり、ここで言われている「食事」“ディプノン(δειπτον)”と、いわゆるイエスの「パン割き(供食)」との関係も合わせてパウロにおいては不明瞭な点が多い。(21)

ところで、コリントの教会の礼拝に未信者が集ったことは想像できるが、「愛餐・聖餐」に与ったかどうかは曖昧である。このことに関しては付論「コリントの教会における聖餐 ‐特に、未信者が聖餐にあずかることについて」を参照していただきたい。また、使徒言行録27章35節にある「食事」は、「パン割き(供食)」、あるいは「愛餐」であろうか。多くの学者はこれを「聖餐」と結び付けられているとしている。ちなみに新約聖書において「愛餐」と訳されている言葉は、ユダの手紙12節にのみ登場する。

パウロが関わったコリントの教会においては、このような状況があったわけであるが、キリスト教が誕生した後、各地に福音が宣べ伝えられるに従って、キリスト教会は、様々な問題に直面することにもなっていった。紀元1世紀から2世紀にかけて、キリスト教会が宗教的な道徳主義に傾くということがあった。しかし、それに対抗したのは、パウロとヨハネの文書の他にはイエスの告知と伝承、そして、神に対する礼拝、サクラメント主義(洗礼と聖餐〈愛餐〉に神の霊的な力があり、それを教会の中心とする立場)であったと言う。(22)

80年代から130年代の間の状況が記された『ディダケー』において、「聖餐」が「感謝」を意味する“εύχαριστιαユーカリスティア)”という言葉で呼ばれていた時には、まだ「愛餐(食事)」の中で「聖餐」が行われていた。また『ディダケー』において「聖餐」が「聖礼典(サクラメント)」として扱われるようになったようである。最終的に、この“εύχαριστια(ユーカリスティア)”という言葉は、2世紀以降、「愛餐」とは完全に区別された儀礼的な「聖餐」を表わす言葉として用いられるに至った。なお、『ディダケー』において異端から教会を守るために聖餐式の陪餐者を受洗者に制限したが、なぜ、聖餐に与るという形で、それを区別したのかは、はっきりしていない。(23)

古代教会において最初の数世紀に活躍した神学者たちは、キリスト教の葬儀においては聖餐が行なわれていたことについて述べているが、それは、もともとは墓の傍らで葬儀の食事を摂ることによって故人を偲ぶという異教的習慣が置き換えられたものであった。(24)

この頃、聖書朗読と説教がなされる「言葉の礼拝」が朝に行なわれ、「聖餐式」を中心とした「食事をするためにもう一度集まる」礼拝が夕に行なわれるようにもなった。(25)そして、「言葉の礼拝」は後のプロテスタント教会の主日礼拝の形式の原形であり、夕に行なわれた「聖餐式の礼拝」はカトリック教会におけるミサの前半部分につながっていった。

このように、そもそもイエスが行なった「イエスのパン割き(供食)」「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」「イエスの復活後の弟子たちとの食事」、それによる原始キリスト教会の「聖餐」を含む「愛餐」は、本来の形式が変えられたことはもちろん、意味内容が失われかけたものとして発展し、行なわれ続けたわけであるが、それでは「愛餐」は、その後、どのように変化していったのであろうか。

「愛餐」は、「食事」を行うものとして、聖餐と区別されたが、キリスト教の歴史において、それは教会の公の機能とされ、2世紀頃のユスティノスの『第一弁証論』においては「聖餐」の場で、孤児、寡婦、病人、寄留者、囚人など、援助を必要とする人たちのために、特別な寄付が集められたことが記されている。しかし、これらに関して、さらに興味深い意見として、初代教会時代において「聖餐」は、信徒が聖餐卓にパンとぶどう酒だけでなく供え物を捧げ、その中から、パンとぶどう酒を別にして、残りは貧しい人々に与えたというものがある。しかも、これらのことがさらに時代を経て、献金が供え物にとって代る事によってパンとぶどう酒と供え物の関連が不明確となってしまったのであり、供え物が信徒によって捧げられてはならないという教理的理由はない、ともされている。また、その当時、ある教会が「愛餐」の形態をそのように変化させたからと言って、他の教会も同時に、そのように変えたとは限らない。それについての資料もなく、教会の会議や文書で公式に決められたわけでもないのである。しかしながら、一方で4世紀には「愛餐」での食事の残りが貧しい人々のもとへ送られたということから、それが誤用され、変質せられるということが起こったために、食事としての「愛餐」が禁じられてしまったのであるが、この時、既に未受洗者は「聖餐」における陪餐に与ってはいけないことになっていたのであった。このことは「愛餐」に特別の意味を持たせていたと解釈することが可能であろう。(26)

さらに「愛餐」は後の時代において行なわれることになり、特にジョン・ウェスレーは1738年に礼拝に「愛餐」を導入、現在においては、エキュメニカルな場において用いられることによって、「愛餐」の意義が再発見され、その実践が復活しているが、日本の多くの教会においては礼拝後の「食事」としてその形が残されている。(27)

これらに関して図A「『愛餐・主の晩餐・聖餐』についての初代キリスト教会における時代別自己理解比較表」を以下に表わしてみた。

 

図A「『愛餐・主の晩餐・聖餐』についての初代キリスト教会における時代別自己理解比較表」

 

愛餐A

(起源:ユダヤ教)

愛餐B

(起源:ヘレニズム社会)

主の晩餐

聖餐

イエス

「愛餐(イエスの復活後、間もないキリスト教会のもの)」の起源としての「食事:ユダヤ教の食事から取り入れられたパン割き(供食)」を行なった。

 

 

 

 

 

「主の晩餐」の起源としての「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」を行なった(イエスの行為の一部分)。

「聖餐」の起源としての「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」に基づくものを行なった(イエスの行為の一部分)。

イエスの復活後、

間もないキリスト

教会

イエスの「食事:パン割き(供食)」「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」「イエスの復活後の弟子たちとの食事」に基づくもの、礼拝の中において行なわれるものとして

 

 

 

 

 

「主の晩餐」の起源としての「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」に基づくものが礼拝の中において行なわれた(イエスの復活後、間もないキリスト教会が行なった「愛餐」と共通した部分があるもの)。

「聖餐」の起源としての「イエスの別れの食事(最後の晩餐)」に基づくものが礼拝の中において行なわれた(イエスの復活後、間もない間もないキリスト教会が行なった「愛餐」と共通した部分があるもの)。

パウロ

礼拝の中において「聖餐」(「最後の晩餐」を起源として行われるもの)を含む「愛餐(食事:ヘレニズム社会あるいはユダヤ教における食事を起源として行われるものであり、イエスの行為及びイエスの復活後、間もないキリスト教会の行なった『愛餐』と共通した部分があるもの)」として

礼拝における「愛餐」の中で「最後の晩餐」を起源とし、特別なものとして

「ディダケー」

礼拝の中において「聖餐」(「最後の晩餐」を起源として特別に行なわれる「聖礼典:サクラメント」)を含む「愛餐(食事:ヘレニズム社会あるいはユダヤ教における食事を起源として行われるものであり、イエスの行為及びイエスの復活後、間もないキリスト教会の行なった『愛餐』と共通した部分があるもの)」として

礼拝における「愛餐」の中で「最後の晩餐」を起源とする、特別なもの、「聖礼典:サクラメント」として、「感謝」を意味する“εύχαριστια(ユーカリスティア)”として

2世紀から現代

までの教会

礼拝の中の「聖餐」の場における寄付、礼拝とは別に礼拝後の食事会等として

礼拝の中で、「最後の晩餐」を起源とする「聖礼典:サクラメント」として、「感謝」を意味する“εύχαριστια(ユーカリスティア)”として

 

の後、教会が西方教会(現在のローマ・カトリック教会)と東方教会に分かれたが、その救済観が異なり、西方教会においては、救いはイエス・キリストの十字架による贖いであるのに対して、東方教会においては神の子であるイエス・キリストが人の形をとるという受肉による人間性の神化であった。それゆえに、東方教会の聖餐は交わりの行為であり、礼拝でのささげ物は、聖霊によって聖別されたパンとぶどう酒であった。しかしながら、中世に入ると、西方教会も東方教会も聖餐式で、それまで行なっていたみ言葉の説教を行なわなくなった。(28)しかし、同時に「罪の告白の祈り」が聖餐式において行われるようになった。また聖餐についての「化体説」は東方教会の神学者ダマスコスのヨアンネス(ヨハネス)が最初に主張したものだったが、「化体説」に表わされているように「わざ」としての「想起」の意義が見失われるようになった。(29)

ちなみに現在、ローマ・カトリック教会で言われる「聖餐式」を表わす「ミサ」という言葉は、もともとは「聖餐式」が終る時の「イテ・ミサ・エスト(行きなさい、解散の時です)」という言葉にちなんだもので、6世紀頃から「聖餐式」全体が「ミサ」と呼ばれるようになった。(30)また、東方教会では、「礼拝(典礼)」を意味する「レイトゥルギア(λειτουργια)」という語自体が、4世紀までに「ミサ(聖体礼儀)」を示す言葉として使われるようになった。(31)

西方教会では、聖書の時代を別にして、それまでは洗礼志願者も含めて洗礼を受けていない者は、礼拝において「信徒の祈り」「平和の接吻」また聖餐に関わる行為に参加することは認められておらず、途中で退席しなければならなかったが、しかし、6世紀末以降、未受洗者の中で洗礼志願者のみが、「パンとぶどう酒」に与らない形で聖餐への同席が許されることになった。(32)このことは、未受洗者が聖餐において退席するということと「パンとぶどう酒」に与らない形で式に同席するということとは異なるということを表わしている。特に未受洗者が聖餐に同席する場合、例えば、そこには教会教育的機能がある。

このように、聖書時代から宗教改革までに「聖餐」は既に様々な変化を遂げており、聖餐を執行する者とそれに与る者とが不明瞭な部分も数多くあったのであるが、基本的にはイエス・キリストが執行者であり、人間が与る者であることには何ら変わりはない。そこから、11世紀以降、聖餐が喜びに満ちた感謝の精神よりも、悔改めや内省的な信心に、特に西方教会ではイエス・キリストの十字架の悲惨さとその神秘、受難、死、復活にのみ重点が置かれるようになったということは興味深いことであると言える。(33)それは、形式的な部分だけでなく、聖餐に与る時の信仰者の精神的態度が時代によって変化しているということである。

一方、「聖餐」はキリスト教の歴史において、特にその教義をめぐって多様な見解が存在したわけであるが、アウグスティヌスが関わったドナティスト論争宗教改革者の聖餐観に代表されるようにしばしば論争の中心ともなった。特に16世紀の宗教改革の時代においては、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、フリードリッヒ・ツヴィングリの3人の宗教改革者たちは共に異なる聖餐観を表わした。ルターは「実在説」あるいは「共在説」を、カルヴァンは「霊的現臨説」を、ツヴィングリは「象徴説」を唱えたが、それはローマ・カトリック教会における「化体説」とも異なるものであった。

それら宗教改革者の信仰と神学は、後の世代に引き継がれたが、ルター派の信仰告白である「和協信条第七条」は、聖餐における、キリストの現実的現臨よりもむしろ、実体的現臨を主張している(34)

改革派の信仰問答である「ハイデルベルク信仰問答」は、聖餐は救いを与えるものではなく、むしろ「想起させ」、「保証する(約束する、確信に至らせる)」ものであり、あの世における救いの出来事に対する、この世における輝きであるとしている(35)

英国国教会においては、「堅信礼(キリスト者となるための教会教育)」が聖餐にあずかるための必要条件としてみなされるようになり、さらにピューリタンは堅信を「信仰告白」に変え、ジョン・ウェスレーはイエス・キリストの神秘的な臨在との結びつきで、その犠牲について理解を示した。

現代の神学者カール・バルトにとって、聖餐は「教会の保持が神のみ言葉によっていること」を「想い起こす」しるしであり、(36)ディートリッヒ・ボンヘッファーは、「聖晩餐(聖餐)」への準備として「罪の告白」が必要であり、「聖晩餐の日は、キリスト教会にとっては喜びの日である」「聖晩餐を共にする交わりは、キリスト者の交わりそのものの完成である」としている。(37)

同時に最近のエキュメニカル運動の影響から諸教派に共通した展開として多様な「聖餐」の祈りが生み出されるという動きが生じている。1982年の「リマ式文」によって「聖餐」においての教派間における共通部分の一致が具体化された。(38)

また現代の聖書学研究の発達によって伝統的なキリスト教の教義と聖書学研究の成果とでは内容に矛盾が現われており、また、他の要因も加わって現代の教会における「洗礼」「聖餐」に影響を与えているということがある。

たとえば、それは、もし洗礼をキリスト者の信仰生活の「入門」として考えるならば、それを信仰生活の「完成」とし、洗礼を受けていなければ、聖餐に与ることができないとするのはおかしな事ではないだろうかというような事である。(39)洗礼を受けた者のみが聖餐に与ることができるということは、洗礼によって個人が教会の信仰生活に公的に認める形で入ったということであるが、しかし、それは聖書学的研究から得られた多くの結果とは明らかに異なるものである。

言うまでもなく、聖餐論の目的は、その聖書学的な理解と教義学的な理解のどちらかに優越を付けるということではない。そこには教義学が教義学であることの前提とは何かということ、教会史についてのいくつかの解釈、正統主義的とされていない教会の教理、神学者の思想、総合的・総体的な現代の聖書学的研究の成果、原始キリスト教史を前提にした教義学においては、どのようなものとなるのであろうかということが関係している。さらに洗礼を受けた者のみが陪餐者であるすることによって教会という共同体と地上の共同体との境界線を明確にするという立場について、それは未受洗陪餐を行なうことによって、地域における教会の存在を主張し、他の共同体にはないものを示して教会を明確にするということと同様に、いくつかの伝道論の中の一つの立場にすぎない。聖餐が、二元論的にではなく、多元論的に理解されることが望まれているように思われる。(40)

このように「聖餐」についての解釈は多様であり、現代のキリスト教会において様々な形式で行なわれている。キリスト者にとって聖餐式において「ぶどう酒」あるいは「ぶどう汁(アルコール成分を含んだぶどう酒を飲むことのできない方への配慮)」を飲み、「パン」を食べることは、人間の罪のために流されたイエス・キリストの「血」と、人間の罪の代わりに献げられたイエス・キリストの「体」によって、私たちの罪が許され、救われたことを含めて、イエス・キリストの全生涯を通しての、一方的なその愛による救いの言葉と行いを想い起こして感謝し、そこから聖霊の働きによって、交わる、神との契約の保証である。それは、またイエス・キリストが再び来られることを待ち望む教会の行為であるが、自らが教会の交わりの中にあることを再認識することができる、我々と共におられる神の奥義の行為でもあり、解放を告げることと社会正義の実現(貧困と不正に苦しむ者の友となられたイエスとの連帯を表すこと)をも意味するものである。(41)



(13)   聖書学者によって、福音書におけるイエスのパン割きの記述についての解釈が異なり、それを後の「聖餐式」からの影響があるものとして解釈する立場と、そのような影響はないものとして解釈する立場とがある。『新共同訳新約聖書注解T』、1996年〈3版〉、386頁参照。『新共同訳新約聖書略解』、2000年再版、70、74頁。以下『略解』と略す。山口雅弘著「第7章 聖餐の豊かさを求めて」(以下『聖餐の豊かさ』と略す。)、『聖餐の豊かさを求めて』、2008年、188頁の注27を参照。

(14)  『神学』、25、26、41、42頁。この「パン割き」という言葉は、後に「聖餐式のパン割き」を表わすようになり、さらには「聖餐式」全体を表わす言葉として使われるようになったが、結局、「感謝」を意味する“ユーカリスティア(εύχαριστια)”という言葉がそれにとって変わったとされる。Joachim Wankeκλασιςクラシス)”『新約聖書ギリシア語釈義事典U』、1994年。

(15)  『新共同訳新約聖書注解T』、1996年〈3版〉、152頁参照。『略解』、226,227頁。また、ルカによる福音書22章19節に関して、これはイエスの言葉でなく、後の教会の付加であり、聖餐式を繰り返して行なうことによって教会が罪の赦しを告げる権威を示した、ともされている。橋本滋男著「マタイによる福音書における罪の赦し」『基督教研究 59・2号』、1998年、112頁。もっとも、繰り返し、聖餐に与るということは、イエス・キリストの罪の許しという形での神の恵みを受けるという信仰生活にとって重要な意味を持つということでもある。聖餐の起源を旧約聖書における「過越しの祭」に求めているものとして、最近の論文では中村信博氏の「聖餐の起源としての過越しの祭 ‐わたしたちは何を想起するのか‐」『福音と世界 2007年9月』、2007年、26‐29頁がある。

(16)  『新約神学』、190、191頁。竹内謙太郎著「主教、司教、監督」『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、2006年〈初版〉。ルドルフ・ブルトマン著、川端純四郎訳『新約聖書神学T』、1963年〈初版〉、74,75、182頁。以下『新約神学T』と略す。

(17)  エドゥアルト・シュヴァイツァーは、もし原始キリスト教会が洗礼を受けたものはすべて救われており、洗礼を受けていないものはすべて失われていると考えたとしたら、イエスの志は裏切られたことになり、聖餐も、それと類似のユダヤ教の食卓の交わりと同様、それにあずかるものを、神殿および食堂における礼拝から締め出すことはしなかったであろうとしている。『教会像』、54、70頁。

(18)  新共同訳新約聖書注解U』、1992年〈第3版〉、98、104頁参照。

(19)  ハンス・コンツェルマン著、田川建三・小河 陽訳『新約聖書神学概論』、1974年、72頁。以下『神学概論』と略す。同著、田中勇二訳『原始キリスト教史』、1999年〈第3版〉、75頁。以下『原始』と略す。『新約神学T』、186頁以下参照。またルドルフ・ブルトマン著、川端純四郎訳『ブルトマン著作集4 新約聖書神学U』、1994年〈第1版〉、182頁参照。

(20)   制定の言葉についての解釈の一つは、「主の晩餐」の制定の言葉が最初期の教会の中で「復活信仰」ゆえに形成されたとする立場である。加藤義治著「イエスの食卓と教会の食卓」『福音と世界 1996年5月』、1996年、11頁。以下『イエスと教会』と略す。もう一つの解釈は、紀元55年頃に作成されたとする立場である。『新共同訳新約聖書注解T』、1996年〈第3版〉、152頁参照。ちなみに、マルコによる福音書に記されている「制定の言葉」の方がパウロのものよりも古いとされているが、パウロはマルコによる福音書成立の15年ほど前にコリントの信徒への手紙Tを記している。さらに、パウロは既成の教団伝承、あるいは、アンティオキア教会の伝承を用いているが、それが作成された頃から、その書簡が書かれた頃に至るまでに「聖餐式」に関しての発展があったのではないかという意見もある。ちなみにコリントの教会が成立したのは49年頃である。この制定文によってパウロが、聖餐式の歴史的な創立の性格を確定したとされてもいる。『神学概論』、63、66、345頁参照。André B.du Toit+小林信雄著「晩餐」『旧約新約聖書大事典』、1989年。

これとの関連で、聖書学者のキュンメルは、興味深いことを述べている。彼は、まずコリントの信徒への手紙T16章22節にある「マラナ・タ(主よ、来てください)。」という言葉は、パウロがアラム語で叫んだ言葉であり、これは、コリントの教会の「主の晩餐」において用いられていた「祝いの冒頭の言葉」に由来するとした。このことからキュンメルは、コリントの教会の信仰のルーツでもあるアラム語を語る原始キリスト教会は、共同の食事において、この「祈祷」を行なったのではないかと推論し、さらにパウロがイエスは最後の晩餐を神の国の到来を指し示すものとして教えようとしたことを承知していたこと、あるいは、パウロが用いた「主の晩餐」についての伝承及びパウロ自身共に「最後の晩餐」を過ぎ越しの食事であるとはしていなかったのだろうということを述べてもいる。『新約神学』、133、161頁。

(21)   ちなみに、この「食事」を貧者、奴隷、孤児たちが飢えを満たせるように配慮された「愛餐」であるとする立場がある。青野太潮著「『主の晩餐』への参与」『アレテイア 1994年 NO.5』、1994年、19頁。以下『主の晩餐』と略す。また、パウロにとっては具体的に食事を共にすることのない儀式的な「聖餐」は、礼拝の誤用であった。『教会像』、346頁。

これらとの関連でJoachim Wankeδειπτον『新約聖書ギリシア語釈義事典T』、1993年参照。さらに何人かの学者たちは「主の晩餐」を後の「聖餐」の原形と見るという意味で、「愛餐」全体を「主の晩餐」と呼んでいる。『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ コリント人への第一の手紙 コリント人への第二の手紙』、1997年〈第5版〉、202頁参照。また、他の何人かの学者たちは、「主の晩餐」という名称を「聖餐」そのものを表わす言葉として使用し、「愛餐」を「共同の食事」としている。『イエスと教会』、9頁

(22)  ルドルフ・ブルトマン著、川端純四郎訳『ブルトマン著作集5 新約聖書神学V』、1995年〈第1版〉、162,163頁参照。

(23)  山田耕太著「新約聖書の聖餐」『福音と世界 2007年9月』、2007年、17、18頁。ブルトマンが指摘するように、パウロが述べたコリントの教会における「主の晩餐」と『ディダケー』が伝える「愛餐」とは明らかに異なるということもある。『新約神学T』、190頁参照。

聖餐式の陪餐者を受洗者に制限したことに関して、『イエスと教会』においては、『ディダケー』にある未受洗者に対する参加禁止の論拠が引用されているが、ここに記されている論拠では、禁止の理由として不明瞭ではないだろうかということがある。なぜならば、「死への道を生きる未信者の参加によって・・・悪から守られ、神の愛の中で会衆が完全となることが妨げられることへの心配」があったからであるという内容は教義・信仰内容というよりもむしろ、『ディダケー』を著した人の世界観(「礼拝」に対する誤解、「神の愛」を「人間の愛」と取り違えているという意味で聖書に根拠を持たないもの)や当時の教会の置かれた状況が反映されているのではないだろうかということがあるからである。『イエスと教会』、10、11頁参照。

(24)   『キリスト教礼拝』、427‐429頁。ちなみにホワイトは同書436、439頁において、葬儀において聖餐式を執り行うことを述べているが、死者とイエス・キリストとの同一視、死者の神化を含んでいるゆえに、記念会の式後に行なわれる「愛餐」とは異なり神学的に同意し難い。

(25)   『礼拝の歴史』、『新約神学T』、183頁。新約聖書において、キリストの臨在は、たとえば聖餐におけるよりもはるかに明瞭な形で、言葉において現実的に伝えられる、ともされている(テサロニケの信徒への手紙T2章13節他)。『教会像』、346頁、350頁 注19。

(26)   湯木洋一著「ディアコニア論」『総説 実践神学』、1993年〈再版〉、226‐228頁。『新約神学T』、189頁。『礼拝の本質』、197、199頁。『キリスト教礼拝』、333頁参照。なお、コリントの教会での「食事」は、会員がその交わりへ自分で食べ物を持参したものであるとする興味深い意見がある。ハインツ・ディートリッヒ・ヴェントラント著、塩谷 鐃、泉 治典訳『NTD新約聖書註解7 コリント人への手紙』、1974年、198頁。

(27)   船本弘毅著「愛餐」『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、2006年〈初版〉

(28)  『礼拝の本質』、27,28頁。

(29)   『神学』、42頁。中世後期、西方教会において信徒にとっての「聖餐式」はただ眺めるだけのものとなり、結果、信徒が次第に礼拝から遠ざかるようになったが、1215年の第4回ラテラノ会議において信徒は少なくとも年に一度は「聖餐」にあずかるようにと教会が命じるようになった。『礼拝の課題』、17頁。『礼拝の歴史』、485頁参照。

(30)  白浜満著「ミサ」『岩波キリスト教辞典』、2002年。

(31)  宮越俊光著「典礼」同辞典所載

(32)  『キリスト教礼拝』、210頁。

(33)  同書、360頁。

(34)  『教義学』、322頁。

(35)  同書、323頁。竹森満佐一訳『ハイデルベルク信仰問答』、1995年〈第1版第42刷〉、68‐70頁。

(36)   『教義学』、326頁。カール・バルト著、宍戸 達訳、「神認識と神奉仕」『カール・バルト著作集9』、1989年〈第1版第2刷〉、164‐168頁。

(37)   ディートリッヒ・ボンヘッファー著、森野善右衛門訳、『共に生きる生活』、1991年、122‐124頁。ちなみに、奥田知志氏は、ホームレスの人々に対する支援をする中で、その人々と共に食すという現場から学んだこと として、現代の教会の晩餐(聖餐)において最も欠落した要素は、イエスが『罪人』たちと繰り返し行なった共食であり、この共食の結果が十字架であるゆえ、それは命のかかった高価な食事であるとし、さらにボンヘッファーを引用しつつ、日本の教会にとって戦責告白は、晩餐において語るべき言葉であるとしている。奥田知志著「応答的服従としての主の晩餐」『福音と世界 2000年5月』、2000年、28‐32頁。

(38)   『キリスト教礼拝』、351頁。Geofferey Wainwright「典礼と教理」『現代キリスト教神学思想事典』、2001年。

(39)   山口里子著「第6章 世界のディスカッションから考える」『聖餐の豊かさを求めて』、2008年、146頁。

(40)   しかし、もし仮に、聖書学的研究から得られた結果のみによって聖餐を考察するなら、それはどのようなものとなるであろうか。たとえば、イエスが行った聖餐自体が宗派や宗教の規定を超えて、全ての人を招くものであり、マルコによる福音書14章24節にある「多くの人のために流されるわたしの血」というイエスの言葉によって、神の側から出来事としての罪の許しが人間に与えられたということが言われているにすぎないにもかかわらず、多くの人のために」を「すべての人のために」と解釈することができるということから、「イエスがすべての人のために死なれたのであるから、すべての人が聖餐に与ってよい」というのであるならば、それは、どのような聖餐論となるであろうか。逆に、単に教義学的理解のみによって、未受洗者への陪餐に反対して、受洗者への陪餐を単なる食事と解釈し、その陪餐に神の臨在を認めないということになるならば、それでは、神の自由な恩寵を否定する立場にもなりかねないのではないだろうかということがある。また礼拝学者J・F・ホワイトが『キリスト教礼拝』の246頁で「初期の諸教会がキリスト自身の意図に忠実に服従してサクラメントを行なっていた」ということを福音書や使徒言行録を用いて述べているのを始めとして、同書では聖書学的見解を入れないで聖書における「聖餐理解」を行なっている箇所がいくつかあるが、これは学問的な研究であるよりも、むしろ一つの信仰理解なのではないだろうか。

(41)   『対話と参与』、90‐93頁。これらの定義付けにも異論があろうことは言うまでもない。また、これによって未信者が「聖餐」に与ってはならないということを示唆してもいない。ところで、テオ・ズンダーマイアー氏は、キリストの体は世の命に対して与えられたものであるゆえ、教会が所有するものではなく、「聖餐」は神ご自身が招待者であるゆえ、参加条件はなく、「聖餐」への参加にとって重要なことは作法であって、それについての知識ではなく、招かれている人々には他者が含まれている、としている。しかしながら、その「他者」が「客」として招かれているという意見には同意することはできない。なぜなら、「他者」は「客」ではなく、「聖餐」にあずかることによって神との交わりに加わる者だからである。テオ・ズンダーマイアー著、中道基夫訳「ノンクリスチャンは聖餐にあずかれるのか?」『福音と世界 2006年10月』、2006年、54‐65頁。もっとも、そもそも「客」という言葉によって何を言おうとしているのかという問題もあるが。

なお、高柳富夫氏は、聖餐を礼拝の中に位置付けることに重要性を見出し、禿 準一氏は、礼拝に招かれている人は、礼拝の一部である聖餐にも招かれているとしている。高柳富夫「第1章『聖餐』とは 包含的・開放的イエスの食卓の想起として」、禿 準一「第2章 多様性を生きる教会 聖餐あるいは主の食卓をめぐって」(以下『多様性を生きる教会』と略す。)、『聖餐の豊かさを求めて』、2008年、22、52頁。