論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について』 川上純平

      2007/10/12

改訂第一2012/08/06

 

(2)礼拝の諸問題について

 

一方、現代における礼拝の問題としては、基本的には、この現代社会において教会で礼拝を行なうことによって生ずるものであるが、それゆえに社会状況(国家、政治、経済を含む)の変化によって、あるいは、教会においても思想・信条の重点の置き方や方向の変化によって問題点が変わる場合も多いようである。

たとえば「聖礼典」に関する問題がある。これは日本キリスト教団の場合であるが、これに関しては二つのことがあり、一つは、現在の日本キリスト教団の「教憲教規104条」によれば「聖礼典」を執行することができる者は、正教師に限られているゆえに、補教師(伝道師)は、「聖礼典」を執行することができないとされている。(3)それゆえに、補教師(伝道師)が教会に主任担任教師として遣わされた場合、正教師の資格を得ることができるまでは「聖礼典」を執行することができないとされている。しかしながら、現状は、補教師(伝道師)であっても、遣わされた教会が「聖礼典」を執行する際に他教会の正教師を招くことができないゆえに、「聖礼典」を執行しているという状況があり、そのことを巡っての議論が現在もなされているということがある。(4)また補教師(伝道師)であるゆえに、聖礼典を執行できないことの根拠をめぐっての議論がある。

もう一つは「聖礼典」における「聖餐式」に与ることに関して、しばしば問題とされることがあるということである。これは現在の日本キリスト教団の「教規135条、136条、138条」等(5)と関わりのある論議である。現在、日本キリスト教団に属する教会または伝道所においては聖餐についての解釈がいくつかの立場に分かれ、その立場の名称は一定ではない。そこには洗礼を受けていなくても聖餐に与ることが出来るとする立場がある(これは「未受洗陪餐」と呼ばれる立場である)。そして、この立場が正しくない異端とされることがあるのに対して、(6)この立場は、洗礼を受けた者のみが聖餐に与ることが出来るとする立場の主張する「正しく執り行うこと」に縛られずに、たとえば「この世の人々と共にある教会」という宣教(伝道)の観点から教団の中で多様性を認め合うこと、あるいは、洗礼を受けた者のみが聖餐に与ることが出来るとする立場とは異なる意味で「正しく執り行うこと」が重要であるという主張を行う場合が多い。さらにこれに関して「教憲教規」の内容それ自体を問う立場や「教憲教規」の解釈の違いを主張する立場、「教憲教規」をどう取り扱うかを問題とする立場もある。

もちろん、日本基督教団に属する教会または伝道所において、全ての信徒がこれら全てを理解しているわけではない。

他にも、たいていの場合、教会においては主日である日曜日に礼拝は守られているが、日曜日に仕事、あるいは、町内・学校などの集まりや行事を優先しなければならず、日曜日の主日礼拝に出席できないという信徒の状況がある。このような現状に対して、教会はどのようにあるべきか、ということも問題の一つであろう。たとえば、病院に入院している信徒の方々と共に聖餐の時を持つということは一つの方法であろう。

また、言うまでもなく、国家の政策主導のキリスト教の礼拝等というものは、間違っても行なわれてはならないであろうゆえに、第二次世界大戦中の日本の教会の罪責との関係で、礼拝を考える必要があるのかもしれない。(7)

もちろん、「教会の礼拝はどのようなものであるべきか」ということに関しての根本的な問い、神学的な問いを持つことも重要であろう。これは重要な課題であり、キリスト者がこれからも聖書と伝統に聞きつつ模索していくことではないであろうか。(8)

 

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(3)   『日本基督教団 教憲教規および諸規則』、1997年改訂版。以下『教憲教規』と略す。

(4)   ちなみにボンヘッファーは説教と聖礼典との強い結びつきを主張し、「もしひとりの牧師補が、説教することはできるが、しかし、聖礼典の執行は許されないとしたら、それは正しくないことである」としている。ディートリッヒ・ボンヘッファー著、森野善右衛門訳、『教会の本質』、1989年、79頁。しかし、そもそも、これらのことは聖書に拠っているのか、またどのような伝統に拠っているのかということも問題であろう。

(5)   『教憲教規』参照。

(6)   しかし、ここで言われている「正しく」とは何を基準にして、どのような意味で「正しく」ということなのかも問題となる。正しくないことが、正しいとされるようなこともあるのだろうか。これは聖書において、またそもそも日本キリスト教団が合同教会であるという観点において「聖餐」がどのように位置づけられるのかということも深く関わっている。さらに日本キリスト教団では未受洗陪餐を行なう教師が免職となり、それを巡っての裁判も行なわれた。

(7)    第2次世界大戦中、二つの聖礼典がない救世団が日本キリスト教団と合同する時に、二つの聖礼典執行を条件に合同を促されたが、これは合同準備委員会の圧力と収拾によるものであるとされている。『多様性を生きる教会』、50頁。

(8)    日本における礼拝の問題として由木 康氏の主張も重要であろう。『概論』、第十章参照。ちなみに越川弘英氏は「聖餐をめぐって」『福音と世界 2007年9月』、2007年、12‐16頁の中で、日本キリスト教団における聖餐について、神学と議論の必要性を説いている。