論文『礼拝論 ‐キリスト教会における礼拝について‐』

川上純平 改訂版 2012/08/06初版 2007/10/12

 

結 論

 

キリスト教の「礼拝」は、聖書の神、イエス・キリストを神とし、神が最高であると再び認める信仰の応答を伴った表現であり、また、それは神の賜物でもあり、「復活したイエス・キリストとの出会い体験が今日、ここでも起きているという出来事」で、神の和解のわざであると同時に、「神の共同体、神の民である教会のなすべきわざ」ある。それはまたキリスト教の共同体生活の中心であり、この世のものとは異なり、私たちの努力や意志ではなく、むしろ終末論的に神によって救われたことを想い起こすことが中心となっている。(1)神に対して共同の礼拝をささげることは教会の存在理由でもある。礼拝はそれ自体が目的なのである。

同時に、岸本羊一氏が、C・C・リチャードソンの言葉を引用しながら、礼拝は日常生活に根をおろしているという条件が必要とされ、「日常性のなかでゆがめられ、失われた存在が、そこにおいてみずからの本来的な存在の根源を見いだすこと」でもあると言う時、(2)それは、神によって、また交わり、つまり、共同性においてなされるということであるが、もし、そうであるならば、「キリスト者にとっての『偶像礼拝』とは、キリスト以外の何者かを礼拝することではなくて、自己流にキリストを礼拝しようとする欲求であり(ルター)、私たちは絶えず、この誘惑と戦わなければなりません。」(3)礼拝は、人間のなす業であるゆえに、ある特定の礼拝形式だけを絶対化し、正しいとするということに関しても例外ではないということを意味する。

それでは、逆に礼拝の形式、正しさとは何であろうか。このことについて考える時、最も重要な源泉となるものがある。それは伝統であり、また、それ以上に聖書が確かな根拠とされる。そして、聖書と伝統は異なるものである。もちろん、たとえ、聖書に礼拝の起源を求めたとしても、聖書における礼拝というものが、多様なものであるのだが、礼拝の形式を聖書の記述どおりにすればよいというものではないのかもしれない。そもそも、正しい礼拝というものを求めること自体が多様性という点に照らし合わせて考えた場合、矛盾があるのではないかという意見もある。しかし、聖書時代後に、教会がそれまでの多様性と本来の豊かさを犠牲としてしまったように、本来の意味を見失うような形式に執着する時、それはキリスト者の共同体の礼拝がそのような形式化にならないように、新しくされる必然性を持つ時であり(それは聖霊の働きによってなされるものであるが)、聖書は礼拝理解に関して極めて重要な提言を語っているのである。そういった意味での正しさが必要なのかもしれない。

新約聖書テサロニケの信徒への手紙T5章19節には「“霊”の火を消してはいけません。」とある。「聖霊によって導かれる礼拝は教会の古典的典礼の中に結晶した過去のキリスト教礼拝に一致し、調和するものとなるであろう。」(4)また、伝統は、単に歴史的に繰り返すというものではなく、伝統それ自身が語ることによって、伝統それ自身に対する批判によって新たにされることがあるものである。それは、伝統の中にある真理によって新しくされるということであり、その行為を冷静に神学的に行なうことも必要なのかもしれない。

 キリスト者は、これからも礼拝において神と出会う喜びを持ちながら、信仰生活を送るものであり、聖書が語る神の言葉に聴きつつ礼拝について考え、神との、そして、人との出会いを感じ、共に礼拝に参与するものであることが願われる。

 

 

 

 



(1)  『礼拝学』、133頁。

(2)  『神学』、16頁。

(3)  対話と参与』、37頁。

(4)  『礼拝の本質』、16頁。