論文日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 

(1)イギリスの宗教改革からアメリカン・ボード来日まで」

川上純平  200866

 

 

 

 

本論

 

第1章 イギリスの宗教改革における会衆派教会

 

 (1)ピューリタン(清教徒)運動に至るまで

 

 そもそもイギリスの宗教改革は、マルティン・ルターによるドイツの宗教改革及びジャン・カルヴァンによるスイスの宗教改革に端を発するが、一方では、イギリスの宗教と政治にもその起源がある。

 イギリスにおいては、宗教改革前にジョン・ウィクリフやウィリアム・オッカムのように先駆者的な存在が全くなかったわけではなく、既にマルティン・ルターの影響もあったが、イギリスにおける宗教改革は、ピューリタン(清教徒)運動に至る、国王ヘンリー8世による宗教改革をその始まりとする。

イギリスにおいては宗教改革がなされるまで、国の宗教はローマ・カトリック教会であったが、16世紀前半に国王ヘンリー8世によって宗教改革運動がなされることによって、国の宗教が変わることとなり、「英国国教会」が誕生した。しかしながら、ヘンリー8世による宗教改革の場合、そこには王妃であったキャサリンとの離婚問題が関係していた。離婚それ自体はヘンリー8世の個人的政治的理由によるものであったが、ローマ・カトリック教会にしてみれば、結婚はサクラメント(秘跡:聖礼典)であるゆえに、離婚は認められなかった。それゆえに、ヘンリー8世はイギリスの教会をローマ・カトリック教会から独立させて、合法的に離婚問題を解決し、宗教改革を行った。しかし、そこには修道院の財産を手に入れることが目的であったことや、内容がローマ・カトリック的でありつつ、かつプロテスタント的であったため、反感も多く買っていた。

 ヘンリー8世の後、エドワード6世が宗教改革を行ったが、この時にカンタベリー大主教トーマス・クランマーが活躍し、イギリスの教会はプロテスタントの教会となった。1549年には礼拝式を統一化するために「統一令」が公布され、トーマス・クランマーはルターやカルヴァンの影響を受けたこともあって、1553年に作成された「42箇条」ではプロテスタント的信仰告白がなされた。

 しかし、その後、女王メアリーはイギリスの国教をローマ・カトリック教会としたため、トーマス・クランマーは殉教しなければならなかった。この頃、多くのプロテスタントたちが海外に亡命し、スイスの宗教改革者たちのもとで過ごした。1558年、次に即位した女王エリザベスの宗教改革は興味深いものであり、それはプロテスタント的でありつつ、ローマ・カトリック的でもあった。1563年に「42箇条」を修正した「39箇条」を作成し、それは現在に至るまで英国国教会の信仰的立場を表明したものであるが、その内容はカルヴァン主義的なものであった。また、ローマ・カトリック教会が占めていた聖職者の席は、プロテスタント教会の聖職者が占めることとなった。このため、エリザベスはローマ・カトリック教会に攻撃を受け、またプロテスタントの側からはエリザベスの改革を不徹底としたピューリタン(清教徒:英語の“purify”「清める」「純粋にする」に起源がある)が現れた。

 ところで、スコットランドはローマ・カトリック教会を国教としていたが、ヨーロッパ大陸の宗教改革の影響によって、スコットランドの司祭ジョン・ノックスはプロテスタントの立場をとり、エドワード6世付きの牧師となり、メアリーによる迫害の時代に、大陸でカルヴァン主義者となった。しかし、彼は1559年にスコットランドに戻り、1560年、スコットランド議会はノックスによる「スコットランド信仰告白」を制定し、スコットランドはカルヴァン主義的長老派教会を国教とした。この頃に、メアリーはノックスと争い、エリザベスに処刑されるに至っている。

 さて、ピューリタン運動は、英国国教会の祭服について、教会政治上の理念について、礼拝についての問題から批判が起こり、長老派のトーマス・カートライトを指導者として行われた。しかしながら、それに対しては、当初エリザベスによる弾圧が加えられた。

 エリザベスの死後、スコットランド長老派出身のジェームズ1世の時代(1603‐1625)に、その専制政治に対してピューリタンの牧師たち千人が英国国教会改革を望み、「千人請願」を行い、また1611年にジェームズ1世は「欽定訳聖書」を刊行させた。次の国王チャールズ1世の時代、1628年にピューリタンたちは「権利請願」を提出し、王に承認させたにもかかわらず、王は専制政治を行った。英国国教会大主教のウィリアム・ロードは礼拝の形式上の統一を重視し、ピューリタン運動弾圧を行った。その後、ロードはスコットランド教会の典礼を英国国教会式に強制的に変えようし、ピューリタンの反対に遭い、ロードは投獄され、1642年に議会派と王党派の間に内乱が勃発した(ピューリタン革命:清教徒革命)。議会派はピューリタンの中で会衆派の源泉の一つである独立派のオリバー・クロムウェルが中心となった。1643年には議会派によってウェストミンスター教会会議が開かれ、その席を長老派が大多数を占め、1646年には「ウェストミンスター信仰告白」、翌年には「ウェストミンスター大小教理問答」が完成し、国教会は長老主義政治を取り入れなかったが、これらの「信仰告白」と「教理問答」は後に長老派教会で重要なものとされた。

 1649年、議会は王政と上院を廃止し、共和政が敷かれることになった。また「護民官政」となり、最高指揮官にオリバー・クロムウェルが選ばれ、信教の自由が保障されたが、クェーカーにはまだ信教の自由はなかった。1660年、王政が復古し、1688年、国王ジェームズ2世の逃亡とオランダのオレンジ公ウィリアムとその妃メアリーが王位に就くことによって「名誉革命」となった。翌年、「権利法(権利宣言)」「宗教寛容法(信教自由令)」が成立した。

 ところで、このピューリタン運動には、いくつかのタイプがあるので、それを以下に表してみる(しかしながら、この区分に、特に「非分離派の会衆派」との関係で異論があることは言うまでもない)。

@英国国教会内で改革運動を行ったもの

A英国国教会内で長老主義教会政治を行おうとした長老派(当初、大多数のピューリタンはこれに属した)

B英国国教会からの独立を望んだ独立派、会衆派(オリバー・クロムウェルの護民官政の時代のピューリタン)

C会衆派と同じルーツを持つバプテスト派

Dクェーカー派(フレンド派)

 しかしながら、エリザベスの時代、長老主義的なピューリタンの多くは弾圧のため、挫折し、会衆派に移った、ともされている。(1)

 また、これらのピューリタンには共通した信仰があった。一つは聖書主義であり、もう一つは霊的礼拝生活を目指すこと、さらに、もう一つは神の意志を実現しようとする責任意識とそこから社会を改革しようとする姿勢、倫理である。また、救済における神の絶対的な主権の強調も共通したものであった。

 

(2)会衆派教会の設立

 

 ピューリタン運動の中で、「分離派」「分離主義」と呼ばれるグループがあった。それは、後の「会衆派」「会衆主義」の基盤の一つであり、その中心人物はロバート・ブラウンであり、彼は英国国教会からの分離こそ真の改革であると説いた。

 ロバート・ブラウンは、1581年、ノーリッジ(ノーウィッチ)に分離派の教会を設立した。彼は、ケンブリッジ大学で学び、最初は長老派の指導者であったトーマス・カートライトの影響を受けていたが、教会改革は王権によらず、教会自身の手によって行われるべきであるとし、教会はイエス・キリストによって集められた会衆によるものであり、それは個々人が神との契約を結んだという聖霊の働きによる信仰に土台を持ち、個々の教会は自治という会衆主義政治を行うべき(各個教会主義)であるとした。

 1592年には、ブラウンの影響を受けたロンドンにある教会がヘンリー・バロウ、ジョン・グリ−ンウッドによって建てられたが、二人とも逮捕され、処刑された。それゆえに、教会の信徒はオランダのアムステルダムに移住した。

17世紀の初頭には、ジョン・スミスによるゲーンズバラの教会と、ジョン・ロビンソンによるスクルービーの分離派教会とが建てられたが、迫害されたためアムステルダムへと逃れ、スミスの教会からバプテスト派が派生した。ロビンソンの仲間の一人であるヘンリー・ジェーコブは、1616年にロンドンで「独立派」を設立、これは後の「会衆派」の基盤の一つとなった。ちなみに、この「独立派」は後の広義の意味で使われた「独立派」、つまり、「会衆派」の別称で使われた「独立派」とは異なる。もっともジェーコブは、分離派ではなく、半分離派の立場をとっていたとされ、(2)後に神学者ウィリアム・・エームスと共に英国国教会の一員として非分離派的会衆派の立場を表明している。ロビンソンの教会はオランダのライデン、からプリマスへと移住し、1620年、「メイフラワー誓約」を作成し、(3)アメリカ大陸にプリマス植民地を建設、その信徒たちは「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖:その名称はヘブライ人への手紙11章13節にちなむ)」と後に呼ばれた。

彼らは、オランダにおいて、フランス、オランダ、スコットランドの改革派系の教会の人々をも教会の陪餐会員として受け入れたわけであるが、そうであるにもかかわらず、彼らはアメリカに向かった。それは、生活苦、老齢化、教育の問題、そして、また「キリストの王国の福音を遠隔の地にのべ伝える情勢」やスペインとの戦争が再開される危険性があったからであるとされている。

ちなみに英国国教会大主教のウィリアム・ロードによる弾圧のため、マサチューセッツ植民地に移住した非分離派の会衆派の人々たちは、イギリスにおける会衆派の大多数派であった。彼らは、英国国教会を浄化した構成員として、英国国教会と分離せず、大陸で開始した宗教改革をさらに推進するという使命感を持っていたと言われている。(4)

のように一口に「会衆派」と言っても様々な立場があるわけであるが、信仰内容に関しては。1658年のサヴォイ会議で正式に一致することになった。そこで作成された「サヴォイ宣言」はカルヴァン主義を主張する「ウェストミンスター信仰告白」とほぼ同じものであった。「サヴォイ宣言」の序文には、信仰告白の見解としてそれをキリスト者が神に対して行なう義務であると同時に、それは相互の信仰の共通内容の表現であり、それが強いられるなら、それは信仰告白ではなく信仰の強制となると記されている。(5)

この 「会衆派教会」Congregational Church)の語源はラテン語の“congregationes”「共に集まれるもの」にある。「会衆派」は、神によって集められたという意味での人間の応答が教会形成の核であり、それは自らの責任においてなすべきことであり、それゆえ、その関係に介在するいかなる権威をも認めないことを意味した。国家との関係では、神の言葉である聖書のみに神の権威があるゆえに、国家によって建てられた教会を認めることができず、それゆえに、イギリスで彼らは非国民とならざるを得ず、そこには葛藤があったと思われる。しかし、それは国を愛するがゆえに、自ら国の改革を行うということをも意味した。また特に、分離派の場合は、教会が国家と一体であることは、彼らがその教会に属することができないだけでなく、国民であることもできないことをも意味したのである。(6)しかしながら、もともと会衆派教会が、このような土台を持っており、その一部が「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれたにもかかわらず、後のアメリカの教会において国家との関係があまり考慮されていない点は誠に残念という他ない。



(1)  増井志津代著『植民地時代アメリカの宗教思想 ‐ピューリタニズムと大西洋世界』、2006年、51、53頁。以下『アメリカの宗教思想』と略す。

(2)  石井裕二著『キリスト教会・教派 概説』、1994年、41、44、45頁。ちなみに『アメリカの宗教思想』では、そもそも「会衆派」とは、教会の独立を主張しつつも、公認された教会であることを重視し、「独立派」とは、教会が、その運営における教会外の干渉を拒否し、可能な限りの自由裁量を持つべきであると主張した人々であるとされている。

(3)  この誓約においては、分離派教会の信条が政治の原理として採用され、アメリカ民主主義の政治精神とピューリタン精神との深い関係がうかがわれる、と言われているが(曽根暁彦著『アメリカ教会史』、1991年〈第7版〉、55、56頁。以下『教会史』と略す。)、これは、むしろ信条が政治の原理として使われたということに近いのではないであろうかということもある。それは、植民地化のための労働や実務に適した人々をロンドンから同船させた際に、信徒たちと契約によって包括的な市民共同体を形成するためであったとも思われる。なお、プリマス植民地では、植民地の構成員(公民)は教会員である必要がなかった。(森本あんり著『アメリカ・キリスト教史 理念によって建てられた国の軌跡』、2006年、27‐31頁。以下『キリスト教史』と略す。)

(4)  『アメリカの宗教思想』、55、64、65頁。『教会史』、54頁。

(5)   「信条集 後編」『信条集 前後編(オンデマンド版)』(基督教古典双書刊行委員会編)、2004年、335頁。

(6)    岸本羊一著「会衆派教会の伝統について」『合同教会としての日本基督教団』、1989年、106‐109頁。ちなみにカール・バルトが「会衆派」について言明し、これを高く評価しているのは興味深い。詳しくは、福田正俊著「日本基督教団試論」(同書所載)26、27頁。エーバーハルト・ブッシュ著、小川圭治訳、『カール・バルトの生涯 1886‐1968』、1995年(第2版)、486頁。カール・バルト著、井上良雄訳、「教会―活ける主の活ける教団」『カール・バルト著作集3』、1997年(第1版第1刷)、130−155頁参照。