論文日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 

(1)イギリスの宗教改革からアメリカン・ボード来日まで」

川上純平  200866

 

 

 

 

第2章 ピルグリム・ファーザーズ、アメリカにおける信仰復興運動、社会への関心

 

 (1)ピルグリム・ファーザーズとアメリカの植民地

 

プリマスにたどり着いたロビンソンによる分離派教会の信徒たちは、プリマスにおいて多難の中、先住民である「インディアン」と呼ばれた人々に助けられながら、(1)植民地を築くに至った。彼ら102名は後に「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれたが、それはアメリカ建国の祖として神話化されたものである。1628年、多くの「非分離派」たちがプリマスの北、セイラムに上陸、次の年、マサチューセッツ湾植民地会社が創立された。同じ年に「非分離派」の牧師ラルフ・スミスがセイラムに渡来し、アメリカ最初の会衆派教会を設立した。それらのアメリカ東部植民地のニュー・イングランドでは、「会衆派」が本格的に取り入れられて各個教会の独立した運営が行われ、植民地会社の構成員は成人男子教会員であり、教会契約が社会契約に適応された。そこでは教会員であることが救われていることであるとされ、「神の栄光と教会の福祉のため」に聖書に示された真理に基づく国家建設が目指された。(2)1636年には、牧師と植民地指導者養成のためにハーバード大学が設立された。ちなみに大学の名称は会衆派教会牧師であったジョン・ハーバードが大学新設にあたり多大な蔵書とお金を寄付したことによる。しかしながら、この頃は、まだバプテストやクェーカーは、会衆派によって迫害され、女性はリーダーシップをとることができなかった。

 1633年にニュー・イングランドに移住し、会衆派のボストン第一教会の牧師となったジョン・コットンと(3)会衆派のドーチェスター教会の牧師であったリチャード・マザーによって「ケンブリッジ綱領」が1648年に制定された。これは「ウェストミンスター信仰告白」に基づくものであるが、教会制度の面等では注意深く長老派的な要素を避けているもので、これによりニュー・イングランドの会衆派の信仰が規定された。

 しかしながら、17世紀後半になると、経済的な利益を得る目的で渡来する者たちが増え、またイギリス本国の政治的圧迫も相まってピューリタンの権威が衰退してきた。それらのこともあってか、1657年に、ボストンの牧師会議で、聖餐式に与ることと教会選挙への関与を認めないという条件で、教会員の子供たちに、幼児洗礼のみで、悔悛(悔い改め)の経験、信仰告白なしに教会員の資格が与えられることと自分の子供に洗礼を受けさせることが許可され、それは、1662年には植民地教会総会議において「半途契約」として決議された。そこには教会員でなければ、社会構成員とされないということも影響していた。1669年、それを支持する人々によって会衆派のボストン第三教会が設立され、この教会の立場がボストンでは会衆派の主流を形成する立場となったとされている。(4)この立場は信仰面ではカルヴァン派の正統的信仰を保持しつつも、商人層のような世俗を包括的に考えていた教会である。1680年、イギリス会衆派の「サヴォイ宣言」がニュー・イングランドの会衆派の信仰告白として採択される。

その後、教会員であること、聖餐式の陪餐者となることについて、いくつかの異なった意見が現れ始めた。会衆派のインクリース・マザー(リチャード・マザーの息子、ボストン第二教会の牧師、ハーバード大学学長歴任)は、「半途契約」を結んだ半途会員は、回心体験がなくても信仰告白をすることによって聖餐式に与ることができるとし、会衆派のソロモン・ストダード(神学者ジョナサン・エドワーズの祖父、ノーサンプトン教会牧師)は信仰の決断に未だ至らない半途会員であっても、道徳的に問題のない者は聖餐式に与ることができるとした。特にストダードは、教会に多くの地域住民が集まることを考え、信仰復興運動(リバイバル運動)へとつながるような人々を回心させるための説教を行った。

1699年にボストンに会衆派のブラトルストリート教会(設立の中心となった人物ジョン・レヴェレットはハーバード大学学長であった)が設立され、初代牧師のベンジャミン・コールマンは教派合同の理念を取り入れ、そこにおいては「半途契約」に従い、牧師の判断によって信仰告白なしに聖餐式の陪餐者となることができるとされた。これによって、ボストン会衆派の中心はブラトルストリート教会へと移ったとされる。

1692年にはニュー・イングランドのセイラム村で魔女狩りが行なわれ、19人の男女が処刑されている。このことは、ニュー・イングランドの教会が未だに自然科学的なものの見方を取り入れず、迷信的なものを信じていたということを暗部している。それは社会不安が引き起こしたものであるともされる。(5)

1701年には、コネチカットの会衆派教会によって厳格なカルヴァン主義に基礎付けられたイェール大学が創立されたが(6)教師はハーバード大学の卒業生であった。

 

(2)第一次信仰復興運動

 

 17世紀末、マサチューセッツ植民地は、イギリス領となり、アメリカに渡ったピューリタンが目指した国家建設の夢は消え去ったかのように見えた。しかし、一方、18世紀になると、ドイツの敬虔主義と心理学の影響がアメリカにもたらされ、感覚に訴える形での超教派的福音主義運動(信仰復興運動)が行われ始めた。これが第一次信仰復興運動であった。それは、聖霊の働きによって著しい信仰の目覚めが起こるとされる運動であった。

 そこには植民地において、形式化した宗教に飽き足らず、魂の渇きを潤してくれるものを人々が求めるようになったことと、説教者たちによる人間の罪深さ、神の裁きと救い、罪からの解放の喜びを語る力強いメッセージがあったことによる。

この頃、会衆派のボストン第一教会の牧師チャールズ・チョウンシイと信仰復興運動を行った会衆派神学者ジョナサン・エドワーズは、スコットランド長老派との一致を目指していた。エドワーズの救済論は一貫してアルミニウス主義の影響を受けたカルヴァン主義的なものであり、彼がイェール大学で神学を修めた後の最初の赴任先はニューヨークの長老派教会であった。1701年、フィラデルフィア最初の長老派教会は、ハーバード大学の卒業生によって建てられ、中部植民地長老派草創期には、ハーバード大学、イェール大学で教育を受けたニュー・イングランド出身者が活躍している。(7)

 また18世紀前半に、英国国教会の説教者であったジョージ・ホイットフィールドはアメリカに渡り、野外で大伝道礼拝を行い、多くの人々が集まり、彼はウェスレー兄弟と共にメソジスト運動の創始者となった。

そもそもメソジスト運動は18世紀後半の英国国教会から生まれた教派である。当時のイギリスは貧富の差が激しく、かつての正統的ピューリタンも含めてキリスト教は道徳的なものとされ、衰退していた。その中で民衆の霊的な、そして、社会的な救いのために指導者となったのが、ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー、ジョージ・ホイットフィールドであった。彼らは厳格な規律に従って生活をしたので「メソジスト(几帳面な人)」と呼ばれた。初期のメソジスト運動は敬虔主義の影響が強く、社会的弱者に対する実践も重視されていたようである。

 1740年、ホイットフィールドは、ボストンのブラトルストリート教会牧師ベンジャミン・コールマンの呼びかけにより、ニュー・イングランド会衆派が、ホイットフィールドに教会訪問を促したこともあって、ブラトルストリートのミーティングハウスでホイットフィールドによる集会が開かれるに至り、それが会衆派牧師たちに支持され、ホイットフィールドは、ウェスレーとは訣別し、カルヴァン主義的なメソジストとなっていった。(8)このようなホイットフィールドの運動、信仰復興運動を通してニュー・イングランドの会衆派と中部植民地の長老派は近づき、1691年に、「合意項目(Heads of Agreement)」が交わされるに至った。ベンジャミン・コールマンは、ジョナサン・エドワーズと交流を持ち、ジョナサン・エドワーズは、後に長老派によって建てられたプリンストン大学学長となり、自由主義や倫理主義を含む18世紀以降のアメリカのプロテスタントに影響を与えるに至った。

 しかしながら、ジョージ・ホイットフィールド、チャールズ・チョウンシイ、ジョナサン・エドワーズ、ベンジャミン・コールマン、ジョージ・ホイットフィールドの影響を受けた巡回伝道者ジェイムス・デイヴォンポートとでは、それぞれ、その思想的立場や霊性をめぐって対立することもあった。

 アメリカのプロテスタント主流派は、その方向を民衆的な個人の体験を重視したものへと変化させ、その結果、以後、メソジスト、バプテストが、その主流となっていった。(9)信仰復興運動は、対立していた諸教派がお互いに共鳴し合い、そのことによって民主化が促進され、独立革命へと向かうことにもなった。

まだそれぞれの植民地は、英国本国から独立しておらず、政治的、経済的に支配されていることもあって英国に依存せざるをえなかったが、1770年にボストン虐殺事件、そして、1773年にボストン茶会事件が起こった。その際に牧師たちは政治を論じ、植民地の権利を訴えた。牧師の発言は世論を形成するものとなり、人々に大きな影響を与えることになった。(10)1775年、独立戦争が勃発、多くのプロテスタント諸教派は「愛国派」、つまり植民地側としてイギリスに反対したが、英国国教会は「王党派」としてイギリス側に付いた。ちなみに、メソジストは国教会に同調的であり、クェーカーは中立的であった。もっとも教派間で、また同じ教派、教会の中でも戦争についての見解が一致していたわけではなかった。

1776年7月4日、「独立宣言」が布告され、アメリカはイギリスから政治的、経済的に独立し、一つの国として建国されるに至った。1786年、アメリカの諸教派が本国より独立、また、次の年には「ヴァージニア宗教自由法」が制定され、思想の自由、信仰の自由が法的に認められるようになった。それまでは法律によって特定の教派を保護し、住民から取り立てる税金によって、その教派の教会を維持しようとする「法定教会」が会衆派を含めて存在していたのである。1789年には「アメリカ合衆国憲法」が制定された。

戻る



(1)   ピューリタンたちは、当初、自分たちの理想が先住民たちにも受け入れられることを望み、彼らの世界を憐れみ、1643年からトーマス・メイヒュウが、46年からは牧師ジョン・エリオットが伝道したが、次第に対立に至った。後に、アメリカ政府は、1812年の対英戦争や1861年の南北戦争等によって多くの先住民を西へ強制移住させている。彼らの名誉が回復されたのは20世紀に入ってからのことであった。『教会史』、70頁。『キリスト教史』、121‐123頁。竹中正夫著「D.C.グリーン研究 ‐アメリカンボードの背景と日本伝道の開始」『同志社アメリカ研究 第13号』、1977年、24頁。以下『D.C.グリーン研究』と略す。

(2)  『アメリカの宗教思想』、66、67頁。『教会史』、60、66頁。

(3)  ちなみに、会衆派牧師であったトマス・フッカーはジョン・コットンと共に渡来したが、コネチカット植民地を形成し、「コネチカット基本法」を制定、政教分離と人民主義の政治を確立した。『教会史』、62頁。さらにこの時代に生きた会衆主義の神学者としてジョン・コットンと共にジョン・オーエンの名が覚えられる必要があろう。  

(4)  『アメリカの宗教思想』、139頁。『教会史』、92頁。『キリスト教史』、46、47頁。

(5)  森 孝一著「キリスト教史5 講義ノート」、1993年より。

(6)  『教会史』、93、94頁。またイェール大学創立時には、会衆派のブラトルストリート教会初代牧師ベンジャミン・コールマンが深く関与している。『アメリカの宗教思想』、285頁。

(7)  『アメリカの宗教思想』、210頁。

(8)  『アメリカの宗教思想』、251頁。

(9)  『アメリカの宗教思想』、299頁。

(10) 『教会史』、112頁。