論文日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 

(1)イギリスの宗教改革からアメリカン・ボード来日まで」

川上純平  200866

 

 

 

第3章 アメリカン・ボードの設立から来日まで

 

 (1)アメリカン・ボード設立、教会の社会への関心

 

 第一次信仰復興運動とそれによる独立戦争、アメリカ建国の後、新しい国家であるアメリカの教会は内的基盤を確立し、内外の伝道に力を注ぎ始め、そのための団体が数多く設立され始めた。

 1779年に、ヴァージニアにおいて、ウェスレー派の長老会が、1784年にメソジスト監督教会がメソジスト派総会議後に成立したのを始めとして、1788年、アメリカ長老派の教会会議によって「教会条例」と「ウェストミンスター信仰告白」が採決され、また次の年には長老派教会の「総会議」が開かれた。

会衆派は、1799年に「マサチューセッツ伝道協会」、1803年に「マサチューセッツ全体協議会」を組織した。また、1807年、ハーバード大学がユニテリアン主義(三位一体を否定し、神は単一人格であり、イエスを神と認めず、人間であったとする立場)の牙城となっていたことを憂いたコネチカットのホプキンス派(ジョナサン・エドワーズを継承し、かつ修正した神学的立場)と正統主義的カルヴァン主義によってアンドーヴァー神学校が設立された。

 1790年代には、ニュー・イングランドにおいてアメリカ最大の教派となったメソジスト派、そして、会衆派の諸教会に信仰復興運動が再び始まった(第二次信仰復興運動)。それは教派的なものにこだわらず、野外での大集会を伴ったものであったが、1830年代後半になると、徐々に衰退するに至った。

 しかしながら、国内外への伝道の意欲が強い頃、1810年にコネチカットにある会衆派教会のサムエル・ジョン・ジュニア・ミルズやイェール大学の学長であったティモシー・ドワイトによってアメリカ最初の超教派的な外国伝道団体「アメリカン・ボード(アメリカ海外伝道協会理事会)」が設立された。

 この団体は他の諸教派、特に長老派の協力を得て設立されたわけだが、そもそもはアンドーヴァー神学校の学生の要請に、マサチューセッツ会衆派総会が答えて設立したものであった。その学生たちの中心人物がミルズであり、彼がウィリアムズ大学の学生だった頃、信仰覚醒運動の影響が強い1806年、雷雨が轟く中での祈祷会において、インド伝道を決意したことに、その起源を持つ。(1)

この団体により、インド、セイロン、ハワイ諸島へと次々に、伝道がなされ、1860年頃までには、中国、ギリシア、アフリカ南部、ミクロネシアに宣教がなされた。(2)

続いて、1819年にメソジスト教会が「メソジスト伝道協会」、メソジスト監督教会が「宣教師並びに聖書協会」を設立、1837年には、長老派教会が「外国伝道理事会」及び「長老派海外伝道協議会」を設立した。

 その一方で、教会は禁酒運動や奴隷制廃止など社会の問題にも関心を持ち始めた。もちろん、それまでにも教会は社会の様々な問題に関心を持っていたのだが、信仰復興運動が神の国実現を目的とした時に、教会はより社会に深い関心を持ち始めた。また、そこには人道主義(ヒューマニズム)の傾向が強いクェーカーやユニテリアンの影響が強くあったということも関係している。

そして、それらはまず禁酒運動と奴隷制廃止運動によってなされた。禁酒運動の場合は植民地時代からのピューリタン的な倫理精神も深く関わっていた。それは、1826年、長老派の牧師ライマン・ビーチャーがボストンの牧師と信徒と共に始めたものであるが、そこから他の諸教派も関わるようになっていった。また、女性による禁酒運動も始まり、後の「キリスト教婦人矯風会」も結成された。同時に婦人解放運動も活発となり、(3)諸教派の支持も得て、参政権獲得のための運動がなされた。1833年には女子学生を受け入れたオベリン大学が創立され、オベリンを卒業したアントイネッテ・ブラウン・ブラックウェルは、1853年にアメリカの教会では初めての女性の牧師(会衆派教会)となった。しかしながら、女性の参政権(選挙権)は、1920年まで認められなかった。

ユニテリアン教会の牧師で博愛主義者のジョセフ・タッカーマンは貧困問題に力を注いだが、1775年にクェーカーによって奴隷制廃止のための団体が組織され、ベンジャミン・フランクリンが会長に選ばれた。(4)そこから、諸教派において奴隷制廃止のための取り組みがなされるようになり、1833年にクェーカーによって結成された「アメリカ奴隷制反対協会」の初代会長には会衆派教会牧師ベリア・グリーンが就任している。

 しかし、1840年代に入ると、北部アメリカと南部アメリカとでは奴隷制についての主張の違いが顕著となり、北部の即時廃止論が優勢になると、南部は硬直化し、これらはメソジストや長老派やバプテストにも影響を与え、同じ教派内での分裂に至るようになった(もっとも、メソジストの場合は、1939年に再び合同している)。1860年、アブラハム・リンカーンが大統領に就任、翌年、南北戦争が勃発し、その戦争に北部・南部の諸教会が多くの従軍牧師を派遣した。1863年、リンカーンは「奴隷解放宣言」を公布、1865年、南北戦争が終結し、同時に、リンカーンは暗殺されてしまった。

 一方で、教会として奴隷解放のための取り組みが「奴隷解放宣言」以前よりなされており、1848年に福音伝道と奴隷制廃止を標榜して会衆派の人々が中心となった超教派団体「アメリカ伝道協会」が組織され、黒人たちのために教育事業を行った。また彼らは1865年には黒人の牧師養成のため、アトランタ大学を設立した。また特にメソジストやバプテストでは黒人のための多くの教会が設立され、黒人のバプテスト教会はアメリカの黒人教会で最大のものとなった。ちなみに黒人による最初の教会は1777年にバプテスト教会として設立されている。(5)

 19世紀後半、アメリカ西部への伝道が続けられ、それと同時に、第三次信仰復興運動が、特に会衆派のドワイト・ライマン・ムーディによって行われた。彼は正統主義の立場に立ちながらも、神の愛を中心とすることによってアメリカの教会の自由主義的な立場の源ともなった。

 また、この頃、YMCAとYWCA、「キリスト教青年共励会(Christian Endeavor Society)」がイギリスとアメリカで組織された。特に「キリスト教青年共励会」は1881年、会衆派牧師フランシス・エドワード・クラークによって組織され、YMCAとYWCAが青年同士の人格的なふれ合い、共同の祈り、聖書研究等を中心に行ったのに対して、礼拝や宗教教育のプログラムを考えること、教会生活の充実を計ること等がその活動内容であった。

 ダーウィンの「進化論」、「新神学」、「社会的福音」等がアメリカの教会に影響を与えたのもこの頃である。生物学者のチャールズ・ダーウィンは自らの生物観察による『種の起源』を1859年に発表、エール大学やプリンストン大学はこれに反発したが、ムーディーはこれを支持した。また、ドイツの新しい神学や哲学、シュライエルマッハーやヘーゲル、アルブレヒト・リッチュルの影響によって「新神学」が形成され、その特色は人間が地上に神の国を建設すること、社会倫理と結びついた終末論であった。そして、そこから「社会的福音(Social Gospel)」が生まれた。

 19世紀の後半は、産業社会が発達した時代、「進化論」を土台とした経済的な面での成功主義が重視された時代でもあり、そのこともこれらに関係していた。産業社会の発達は貧困社会をも生み出した。そして、それに対して、教会が超教派の団体を作り、慈善活動を始めた。会衆派教会の場合は、1883年に「シカゴ都市伝道協会」を結成した。この頃、多くのキリスト教社会運動家たちが活躍した。

 「社会的福音の父」とも呼ばれたマサチューセッツ州スプリングフィールドの北会衆派牧師ワシントン・グラッデンは、同じ会衆派で、アメリカにおける宗教教育の原理的基礎を作ったとされる自由主義神学者ホリス・ブッシュネルの影響を受けて、労働者と資本家の対立をイエスの愛の精神によって解決すべきであるとした(6)同じ会衆派のウィリアム・ポーター・ブリスはその社会主義的信仰によって1889年、ボストンに「キリスト教社会主義協会」を設立した。さらにアイオワ州バーリントンの第一会衆派教会牧師であり、アイオワ大学教授であったジョージ・ディヴィス・へロンはブリスと協力し、イエスの十字架の犠牲愛を人々が社会において実践する「社会的犠牲(Social Sacrifice」による「社会贖罪の福音」という急進的立場を主張した。

 このようなキリスト教社会運動家たちの中で、いわゆる「社会的キリスト教」を生み出したのが、バプテスト派牧師のウォルター・ラウシェンブッシュである。ブリスの影響を受けた彼は、労働者階級にある人々を信仰によって立ち上がらせようとし、1908年「アメリカ・キリスト教会連合協議会」を成立させた。彼はイエスの倫理思想に服従することによってそれを宣べ伝え、労働者の魂を導き、神の国を社会に実現させようとした。また、その神の国は全ての人々のためのものであった。

キリスト教社会主義運動とラウシェンブッシュとの違いは、前者がキリスト教的色彩を持った社会主義運動であったのに対して、後者は、宗教運動であることとされている(7)そして、そのルーツにはかつてのピルグリム・ファーザーズたちの信仰があると言えるであろう。

19世紀後半の西部への伝道と同時に、海外への伝道も活発に行われていたが、この頃、1898年、スペインとの間で米西戦争が勃発し、アメリカは帝国主義へと向かい始めた。アメリカはフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得、1899年にはハワイを併合した。

 この時代の重要なキリスト者として、さらにジョサイア・ストロングの名前を挙げることができる。もともと彼はラウシェンブッシュとともにキリスト教社会運動の指導者であり、会衆派牧師であった。彼は1885年に30年間で175万部を出版した『わが祖国』を執筆し、アメリカは出エジプト記に記された「約束の地」であり、イスラエルの民、選ばれた民であると考え、非キリスト教国民への伝道、アメリカの膨張に、ダーウィンの影響による国の「進化」を見ると同時に、神の摂理を見ようとした。彼にとって、それは信仰的使命、祖国愛の表れであった。しばしば、ストロングとアメリカ帝国主義、植民地主義との関係が論説されることがあるが、彼自身は帝国主義やバチカン主義(ローマ教皇を中心としたバチカンの権威を重視し、バチカン以外の全教会を支配下に置くような形での中央集権的教権主義)には反対していたと言われる。(8)

この頃、19世紀後半から20世紀前半にかけてイギリスの会衆派教会において活躍した神学者としてピーター・テイラー・フォーサイスの名を挙げることができる。彼は最初、ヘーゲルやアルブレヒト・リッチュルの影響を受け、神学的に自由主義の立場に立ち、政治・社会活動に参与していたが、後に福音主義的立場に立つようになった。彼はしばしば「バルト以前のバルト主義者」と呼ばれる。

 

(2)アメリカン・ボードによる外国伝道の中の日本への伝道

 

アメリカン・ボードによる外国伝道は、もちろん、ジョサイア・ストロングのような思想によって、なされたわけではないが、しかしながら、いわゆる「アメリカの膨張」を別にして部分的に共通した部分もあった。彼らの外国伝道について、特にその来日までを中心として次に見ていきたい。

 信仰覚醒運動の影響によって、1810年にコネチカットにある会衆派教会によって「アメリカン・ボード」が設立されたわけであるが、そもそも、アメリカン・ボードの宣教方針は「キリスト教を知らない人々の間で、福音を伝え広めるための方法と手段を考察、採用し、実施する」ことを目的とし、「各地域の言葉に翻訳された聖書の出版と配布」と「宣教師の支援」によってそれを行なうことであったが、そこにはニュー・イングランド人の歴史と使命感、アメリカン・ボードが超教派的であることが土台となっていた。(9)

そして、それによって1812年に最初の宣教師ゴードン・ホールがインドに派遣されている。1817年にはアメリカ国内の先住民であるチェロキー族に対する宣教活動が始められ、1820年には会衆派教会牧師のヒラム・ビンガムが宣教師としてハワイに渡り、聖書をハワイの言語に訳し、伝道事業を発展させた。1823年には、ウィリアム・グッデルが宣教師として中東に派遣され、1829年にはエリジャ・ブリッジマンが宣教師として、1834年には、ピーター・パーカーが医療伝道者として、それぞれ中国に派遣されている。

アメリカン・ボードにおける最初の海外宣教は、このように始められたわけであるが、そもそも彼らは設立時にロンドン伝道会(LMS:1795年に会衆派も加わって作られたイギリスの超教派の海外伝道団体)から情報を提供され指導を受けており、さらにアメリカ合衆国政府は、伝道団体の考えとは関係なく、合衆国が拡大していたことや政策と関連して、キリスト教の海外宣教活動があると認識していたということがあった。(10)

また19世紀前半のアメリカン・ボードの活動においては、特に教育活動に力が注がれ、キリスト教主義の学校が各国に数多く設立されたが、それは宣教師たちがキリスト教の文化や生活を教え、それが伝道活動につながる相互交流であることをアメリカン・ボードが承認したこと、さらに宣教師たちが高度な教育を受けていたことが関係している。(11)

各地で宣教活動を行なった宣教師たち自身の認識は、基本的には共通したものであるが、多少の差異もあり、その地域における宗教を他の宗教であるゆえに偶像宗教であり、その宗教を罪であると批判し、福音によって非キリスト教徒の倫理的問題を改善しようとした者もいれば、一方では、その他の宗教の儀式に参加し共存を試みる者や、その地域の人々を愛し、信頼を得、連帯しようとした者もいた。(12)これはアメリカン・ボードの基本的な方針において細かく定められていないからであるよりも、むしろ宣教方針にある目的に従っていた結果であると言えるであろう。

ちなみにアメリカン・ボードは、各地の宣教師たちの報告を関係者たちに知らせたが、アメリカン・ボード当局の宣教思想は19世紀前半においては、特にその立場が変わらなかったとされ、さらにアメリカ国内のアメリカン・ボード支持者たちの意向にアメリカン・ボードは影響を受けていたとされるが、アメリカン・ボード支持者たちに対する宣教師たちの影響があったのかどうかは不明である。(13)同時に、19世紀前半の宣教師たちの活動が結果的に後のアメリカン・ボードの宣教思想に影響を与えたことは言うまでもない。

1837年にアメリカン・ボードのピーター・パーカー、アメリカン・ボードのサムエル・ウェルス・ウィリアムズ(後にペリー艦隊の通訳官として来日)、ロンドン伝道会のカール・フリードリッヒ・アウグスト・ギュツラフ(彼は1932年に琉球諸島に宣教に来ている)が日本の本州での宣教を試みたが、本州に上陸することを許されず、これは失敗に終わった。

1853年、アメリカの海軍司令官マシュー・カールブライト・ペリーが日本の浦賀に来航。1858年には日米修好通商条約において日本におけるアメリカ人居住地内の信教と礼拝の自由、踏絵廃止が明記されるに至った。1859年、日本の幕府が神奈川、長崎、函館を開港し、最初のプロテスタント宣教師であるアメリカ聖公会(英国国教会)のリギンズ、チャニング・ムーア・ウィリアムズ、アメリカ長老派教会のヘボン、アメリカ改革派教会のブラウン、シモンズ、フルベッキらが来日した。ちなみにブラウンはイェール神学校で学んでいる。

1869年、アメリカのピッツバーグにおいて開かれたアメリカン・ボードの第60回年会(大会)で日本への宣教師派遣が決定され、同年、アメリカン・ボードの最初の宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンが来日し、ヘボンと共に聖書を和訳した。彼が来日する際、アメリカン・ボードから任務を与えられていたが、それは、独立自給の教会形成、文書活動や教育活動ではなく直接的な福音宣教を行なうこと、日本人の牧師を育成し、信徒による献金があれば教会を組織すること、着任後は日本語の習得に努め、直接伝道が可能になるまでは、聖書または他の教科を教えて良いこと等であった。(14)

また、19世紀前半のアメリカン・ボードと違い、この頃は1832年から66年まで総幹事であったルフス・アンダーソンによる「自治自給自力伝道(三大主義)」が方針とされていたが、その方針は1870〜80年代の間にリーダーシップがアンダーソンからナタニエル・ジョージ・クラークに代わることにより変化することになった。それは特に、教育重視の伝道活動、現地人(日本人)伝道者や現地人キリスト教指導者と宣教師(特にアドバイサーやカウンセラーとして)との協力伝道による「三大主義」が方針とされたということであった。(15)

1871年、アメリカン・ボードの宣教師ジェローム・ディーン・デーヴィスが来日し、新島襄の同志社創立に協力。1872年、日本で最初のプロテスタント教会である日本基督公会(後の日本基督教会横浜海岸教会)が横浜に創立され、受洗者の中には、植村正久、本多庸一、井深梶之助、押川方義らがいた(横浜バンド)。1873年には、メソジスト監督教会の宣教メリマン・コルバート・ハリスが北海道最初のプロテスタント宣教師として来日し、函館教会を設立した。

さらに、この1872年に興味深い出来事が起きている。それは横浜で開かれた第1回宣教師大会における教会設立問題に関する決議であり、そこには、主にオランダ系改革派、アメリカ北部長老派、アメリカン・ボード、聖公会系の宣教師が参加していた。彼らは諸教派の協調のために「基督公会(the Church of Christ)という公同的な」名称の教会の設立を考え(横浜に設立された「日本基督公会」とは別)、自己の教派的伝統を放棄せず、信条や教会相互の関係のような教派的対立を回避したものを考えていた。もっとも、この教会は不成立に終わっている。(16)

この頃、アメリカにおいては会衆派教会の全国会議が開かれていた。そこにおいて信条としては聖書を信仰と実践についての誤りなき規範とし、その解釈を福音主義的なものであるとした。さらに教会政治は統治の主権がイエス・キリストに責任のある地域教会あるいは信仰者の会衆にあるものとし、同時に教会をキリストの公同の教会の一部分として相互に交わりを持ち、交友の義務に生きる負い目を相互に持つという信仰において同意するものとした。(17)

その数十年前に、上州安中藩の江戸屋敷で生まれ、函館から出国し、アメリカで学んだ新島 襄は、1874年、アンドーヴァー神学校を卒業し、アメリカン・ボードの準宣教師に任命された。おそらく彼は、この時、アメリカ会衆派教会の信条を念頭においていたと思われる。彼はアメリカン・ボードの第65回年会で「私はキリスト教主義の大学を建てるお金なしには日本に帰ることが出来ません。それを得るまでこの演壇の前に立たせて頂きます。」とスピーチの最後で嘆願を行い、スピーチに感動した人々によって、多額の募金が寄せられ、(18)日本に帰国、同じ年に、両親の在住する安中において伝道を行なった。

また、同じ年にはアメリカン・ボードの宣教師ジョン・キン・ホイド・デフォレストが来日した。彼は大阪で伝道した後、同志社の仙台の分校である東華学校の創立(1886年:校長は新島 襄)に尽力。東二番丁教会の牧師を務め、東北伝道に力を注いだ。さらに、この年、アメリカン・ボードによる日本で最初の教会(会衆派)である摂津第一基督公会(日本基督教団神戸教会の前身)が創立され、グリーンが仮牧師を務めた。同時に、大阪には梅本町公会(日本基督教団大阪教会の前身)が創立され、マークィス・ラファイエット・ゴードンが仮牧師を務めた。

1875年、新島 襄が京都府顧問の山本覚馬と出会い、キリスト教主義の同志社英学校(同志社大学の前身)を開校する(11月29日、生徒8名)。新島はアメリカン・ボードの協力や援助もあってこの学校を建てたわけであるが、彼は、日本を近代国家として確立するためには、キリスト教による自由自治の精神を持ち、かつ欧米の高度な学問を習得した人間を養成する必要がある、と考え、同志社を高等教育機関にしようと考えていた。しかしながら、開校前に新島が京都府に対して、学校で宣教師が聖書を教えることを願い出たところ、それは規則違反であり、神仏二教徒の反対のため、不可能であるとされた。それゆえ、当初は、神学教育は余科という名称で行なわれることになった。ちなみに1873年に日本政府はキリスト教禁制の高札を撤廃したが、それは外交政策上の理由によるものであった。(19)

同じ年に、アメリカン・ボードの婦人宣教師たちによって私塾神戸ホーム(神戸女学院の前身)が設立された。翌年の1876年には、熊本洋学校で学んだ卒業生たち、伊勢(横井)時雄、宮川経輝、不破唯次郎、金森通倫、海老名喜三郎(弾正)、小崎弘道らが、洗礼を受け、プロテスタント・キリスト教を日本に広めようと「奉教趣意書」に署名(熊本バンド:後に同志社に入学)した。彼らは後の日本の会衆派教会(組合教会)を代表する先達たちであった。彼らが同志社大学に入学したことを契機として、この年、京都に西京第一、第二、第三公会(後の同志社教会、京都教会、平安教会)が建てられたが、これらは同志社関係牧師、学生らが形成したものであった。

次の年の1877年、日本のプロテスタントの自給教会として日本人によって伝道がなされて、最初に建てられた教会がある。それが浪花公会である。この教会は後の日本基督教団浪花教会であり、沢山保羅が伝道して設立された。創立日に、新島 襄と4名のアメリカン・ボード宣教師によって日本における最初の牧師按手礼式が執行されている。また、浪花教会が創立時に関わったキリスト教主義学校として、1878年に創立された梅花女学校(後の梅花学園)がある。この学校はアメリカン・ボードの経済的援助なしに経営のなされた学校でもあった。同年、沢山は日本国内各地に伝道者を派遣する機関である「日本基督伝道会社」を設立させ、これは後の「日本組合基督教会伝道部」の前身となった。

この1878年には群馬県に安中教会が創立されている。この教会は、後の日本基督教団安中教会であり、日本のプロテスタント教会として最初に日本人によって伝道がなされて(1874年:伝道者は新島 襄)、建てられた教会である。創立時に、新島 襄自身によって30人(男16名・女14名)が洗礼を受けている。初代牧師は海老名弾正。

このようにアメリカン・ボードの外国伝道により日本においても会衆派に連なる教会が建てられた。そこにはアメリカン・ボードの宣教思想があり、地域とその状況等により様々な意味で異なる教会となった。それは、たとえば、キリスト教が外国人居留地及び宣教師やキリスト教主義教育家が招かれて活動した地域に浸透するのと、地方の町や農村に浸透するのとでは、かなり異なり、特に地方の場合は共同体としての社会的規制が強く、それは既成宗教の習俗と結び付いていたということである。また、この時代の政治的・経済的な指導者たちは、その問題性にもかかわらず、西欧文明とキリスト教を結びつけていたということもあった。そこには士族的指導者意識もあったと思われる。もちろん、基本的には、そのキリスト教は福音主義的であり、かつ倫理的なものであり、近代国家の精神的基礎として考えられたものであった。(20)

それゆえ、これらのキリスト教にピューリタン以来の信仰と伝統が、かなり異なった部分もあるが、息づいていることも忘れてはならない。イギリスの宗教改革以来の会衆派教会の信仰と伝統は、アメリカン・ボードを通して日本において会衆派に連なる組合教会を設立させるに至ったのである。また、この時代の会衆派教会に連なる日本のキリスト者たちがイギリスやアメリカにおける会衆派教会と、その働きについて、特に国家との関連で、まだあまり理解していなかったのは無理からぬことであったのかもしれない。

この後、日本において会衆主義がどのようなものとなっていったか、またアメリカン・ボードの日本での働きは、その後、どのようなものとなっていったかは論文の後編である「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展(2)アメリカン・ボードの日本伝道から現代まで」において述べることとしたい。

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(1)  小笠原正敏著『教会史 下』、1987年(第4版新装版)183頁。それゆえに、アンドーヴァー神学校は初期アメリカン・ボードの宣教師たちの主な訓練場の一つとなった。竹中正夫著「ニューイングランド・ピューリタニズムと日本伝道 ‐アメリカン・ボード日本開教100年を迎えて」『同志社アメリカ研究 第5号』、1968年、10頁。以下『ニューイングランド・ピューリタニズムと日本伝道』と略す。

(2)  『教会史』、146頁。西原基一郎著「日本組合教会海外伝道の光と影(2)‐南洋伝道団について」『基督教研究 第51巻 第1号』、1989年、80、81頁。

(3)  アメリカにおける女性解放の起源はサラ・グリムケとアンジェリナ・グリムケという二人の姉妹の運動にある。彼女たちは奴隷、女性として幼い頃から目に焼き付けさせられた悲惨な状況とクェーカーの信仰によって1837年に聖書に基づいた「人間の権利」を求めた本を出版し、運動を展開、後の人々に影響を与えた。『キリスト教史』、112頁。

(4)   そもそも奴隷問題は、1619年にヴァージニアへ労働のために渡来した黒人たちに由来し、彼らが有益な労働者であったことから、最初は年季奉公制度であったのが、奴隷制度へと変更されてしまい、1670年には黒人奴隷の数は二千名となったと言われている。『教会史』、48頁。

(5)   『キリスト教史』、74頁。

(6)  『教会史』、224頁。

(7)  『教会史』、232頁。

(8)  『教会史』、238頁。ちなみにジョサイア・ストロングについての論文として興味深いものに、森 孝一著ジョサイア・ストロングと社会的福音」『基督教研究 第51巻 第2号』、1990年、17‐35頁。森 孝一著ジョサイア・ストロングにとっての米西戦争」『基督教研究 第55巻 第2号』、1994年、53‐71頁等がある。特に後者においては、ストロングが進化思想とアメリカの海外膨張政策とを結び付けて考え、アングロサクソン文明であるアメリカの市民的自由とアメリカ的キリスト教を全世界に伝え、拡大することを目指し、そのためには米西戦争において見られたような武力でさえも「次善の策」と考えていたとされている。

ところで、森本あんり氏は『キリスト教史』、128頁において、「ストロングのようなアメリカ国家の使命意識によって、帝国主義的な拡大政策は、宗教的にも合理化されたのである。」と主張しているが、これはマッキンリー大統領の決断のように政治家が宗教をそのように解釈し、利用したことを意味する。

(9)   塩野和夫著『19世紀のアメリカンボードの宣教思想T 1810〜1850』、2005年、48頁。以下『ボード宣教思想T』と略す。もっとも1837年までに他の教派が離脱したために会衆派教会のみの伝道会となった。三井久著「日本組合教会について」『キリスト教社会問題研究 第24号』、1976年、1頁。以下『日本組合教会』と略す。

(10)  『ボード宣教思想T』、26,27頁。ところで、土肥昭夫氏は、プロテスタント・キリスト教の海外伝道について、宣教師たちにキリスト教の伝道とアメリカの膨張とを結びつけたアメリカ人の宗教的信念があったとしているが、これは、そうでなかった場合も含めて全体として見れば、そのようなものであったということである。一方、宣教師たちが、「宗教的・心情的な回心主義や近代文明」あるいは「国家の精神的基礎としてのキリスト教を唱えた」ことは確かであろう。もちろん、ここには政治家がキリスト教を利用したというような意味は含まれていない。土肥昭夫著『日本プロテスタント・キリスト教史』、2004年、10頁、25頁の注5、32頁。以下『日本プロテスタント史』と略す。

(11)  『ボード宣教思想T』、37、38、180頁。

(12)  『ボード宣教思想T』、181、185頁。

(13)   『ボード宣教思想T』、188頁。

(14)   竹本英代著「第10章 宣教師の日本語教育 ‐一八九〇年までのアメリカン・ボード宣教師を中心に」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』、2004年、360頁。ちなみにアメリカン・ボードによる日本伝道に関しては、そもそもは1828年にボストン郊外に住むウィリアム・ロープスという信徒の家で世界宣教のための集いが開かれ、その際に日本製の竹かごを献金用に用い、その献金を日本が開港した時、伝道を開始するために用いることを提案したこと、1868年の夏に新島襄が留学中にアメリカン・ボード幹事であったナタニエル・ジョージ・クラークの家に泊まった際に日本伝道の急を説いたことに由来する。『ニューイングランド・ピューリタニズムと日本伝道』、11、13頁。『D.C.グリーン研究』、19頁。

(15)   吉田 亮著「終章 ステーション間の相互作用とアメリカン・ボードの日本伝道 ‐神戸・大阪・京都の事例」前褐書、417‐419頁。

(16)   『日本プロテスタント史』、30頁。土肥昭夫著『日本プロテスタント教会の成立と展開』、1975年、29、30頁。なお、興味深い論考として同書、36‐55頁を参照。

(17)   土肥昭夫著『歴史の証言 日本プロテスタント・キリスト教史より』、2004年、69、70頁。

(18)   J・D・デイヴィス著、北垣宗治訳『新島 襄(100万人の創造選書20)』、1977年、47頁。ちなみに、その募金にはアルフィーアス・S・ハーディー〈新島 襄がアメリカ留学時代に世話になったボストンのクリスチャン実業家、アメリカン・ボードの役員〉や中国で医療伝道を行なったピーター・パーカーによるものも含まれていた。

(19)   『日本プロテスタント史』、38、83、89頁。禁制高札の撤廃に関してはグリーンの日本語教師だった市川栄之助が福音書の日本語訳を持っていたため、逮捕され獄中で亡くなり、このことをきっかけとしてグリーンらによって訴えが起こり、岩倉具視を通して日米通商条約を改正するという目的もあってなされたとされる。『日本組合教会』、3頁。

(20)   『日本プロテスタント史』、42‐57頁参照。

 

 

 

※この論文は2008年に日本基督教団安中教会創立130周年を記念して執筆されたものです。