聖書研究:「聖書における食事と感謝 ‐旧約聖書を中心にして‐」

川上純平  200629

 

 

 

 

 

 

 

 人間は「食事をすること」を生きていくために、あるいは生活の一部として、あるいは楽しみとして当然のことのように行なっていますが、一体、いつ頃から、どのように感謝して食事をするようになったのでしょうか。これについて聖書はどのように語っているのでしょうか。また、それは特に旧約聖書の「犠牲や生贄」というものと関連があるのでしょうか。それについて考えてみましょう。

 一般的な見地から言うならば、人類が誕生した頃は、人は食事に際して、感謝の言葉など述べていなかったのではないかと思われます。しかしながら、自然に対する「畏敬の念」というアニミズム的(原始宗教的)背景の中で食事に際して、その源である神(聖書の神以外の神々を含む)から与えられたものとして感謝して食事をするようになったと考えられます。

 一方、聖書を読んでみると、モーセ五書においては「食事をする」際に、「感謝をする」記述のある箇所が極めて少なく、食事をする際に祈らなければならないと記されているわけではありません。しかしながら、モーセ五書が歴史的に最初に書かれたわけではなく、また、たとえ、歴史的に最初に書かれた聖書の文書に、その記述がなかったとしても、キリスト者として聖書全体を見ると、食事をする際に、感謝をすることは当然のことであると述べているものとして読むことができます。

 古代イスラエルでは、食事は単に飲食物を摂取するということにとどまらず、むしろ、人と人、また神と人との間の交わりの表現でありました。粗食を食べる階級にとっては、祭日に犠牲として献げられた動物の肉の神饌(神に対して供えた飲食物)にあずかることは、気持ちを新たにする役割も持っていました。

 「犠牲として献げられた肉」に関して言うと、レビ記7章12節以下では、「和解の献げ物」を「感謝の献げ物」としてささげる場合について述べていて、それは、その犠牲によって神との交わり(和解)を経験するための感謝の犠牲でした。また興味深いことに同じ7章にある「和解の献げ物」は、祭司と信徒が共に食事にあずかることのできるものとなっています。

さらに、出エジプト記12章において「過越しの食事」をする際に「感謝」や「祈り」をすることは記されていません。もちろん、だからと言って、感謝も祈りもしなかったというわけではないと思われます。

現在、ユダヤ人の家庭で行なわれている「過越しの祭り」の食事においては、「祝福の祈り」「祝祷」「感謝」がなされています。その起源は、かつてイスラエルの人々が神によって救い出され、契約を結んだことと神との交わりを抜きにしては考えられないものです。

一方、興味深いことに、イエスはマルコによる福音書6章41節で、それがどのような内容のものか詳細はわかりませんが、「賛美の祈りを唱え」、パンを裂いたことが記されています。その祈りは当時のイスラエル人々が家庭において食事をする前に祈ったことに類似すると言われ、ユダヤ教の規定にあるものであり、神による「祝福」という意味合いが強いものです。またマルコによる福音書14章23節では、イエスが「最後の晩餐」としての「過越しの食事」をする際、「感謝の祈り」を唱えたと記しています。それは、神に対する「感謝」という意味合いが強いものです。

6章41節にある「賛美の祈りを唱える」と14章23節にある「感謝の祈りを唱える」という言葉には、それぞれ別のギリシア語“ευλογέω(エウロゲオー)”“ευχαριστέω(エウカリステオー)”が使われていますが、聖書においても両者は混同されがちです。

マタイによる福音書6章に登場する「主の祈り」においては感謝については語られていませんが、イエスは「感謝」の重要性を語っています(ルカによる福音書17章16‐19節)。

またパウロは以下のように語っています。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」エフェソの信徒への手紙5章20節)。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙T5章17、18節)。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピの信徒への手紙4章6節)。

さらに、次のような箇所もあります。「この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです」(テモテへの手紙T4章3、4節)。

イエス・キリストがそうでありましたように、またパウロが語っていますように、原始キリスト教会においては、後の聖餐式の原形となった、いわゆる「主の晩餐」においてその順番、形式等は定かではありませんが、祈りを持って食事がなされたのです(使徒言行録2章42、46節、コリントの信徒への手紙T11章24節)。言うまでもなく、キリスト教会はイエスを主として信じる人々の集まりです。

 詩編50編12節にも記されていることですが、この世にあるものは、すべて神のものです。しかし、そうであるならば、人間のものだと思い込んでいる物は、実は神から与えられた物であるということになります。それゆえに、ささげ物も、神に対する感謝の貢ぎ物です。歴代誌上29章10節以下において、ダビデ王は神殿建築に際しての祈りの中で「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(14節)と祈っています。

 ささげ物は神から与えられた全てのものの一部をとって聖別し、それを神のものとして感謝して返す行為です。

また、「和解の献げ物」は、神の前での聖なる食事につながるわけですが、これは、その人が神と共にあることを示すものであり、中でも犠牲として献げられた肉にあずかることにより、神との契約関係にあることを経験し、それを味わうということです。そこには、神との交わりを味わう喜びと感謝、讃美が伴うのです。

 そして、犠牲をささげる行為には、言葉が伴っています。もちろん、そこには感謝の言葉もあります(たとえば、詩編107編)。しかし、言葉が失われ、ただ機械的にささげ物をささげることによって、神から何かを得ようとするという傲慢な思いが、犠牲や供え物を堕落させ、世俗化させていきました。それは預言書で預言者たちが批判していることでもあります(サムエル記上15章22節)。

 旧約聖書においては、サムエル記上9章13節のみが、食前の感謝の祈りについて語っています。そのこともあって、聖書において、史実としては歴史的に最初から、(たとえば、人類誕生から)食事をする際に、感謝はせず、いつ頃からか、感謝をするようになったのかもしれないし、犠牲をささげる行為も、最初から行なわれたわけではないでしょう。

しかしながら、キリスト教の信仰理解では、食べ物は神から与えられた「糧、目に見える恵み」であるゆえに感謝するのは当然と考えられています。それは食事をするに際して、犠牲をささげる行為とは異なり、神に感謝してお返しするということはないゆえに、感謝の内容がやや異なるものであったとしてもそうなのです。

ちなみに、そのようになったのは、バビロン捕囚(紀元前598年)によって神殿を破壊され、そこにおける犠牲による礼拝を奪われたイスラエル民族にとって、祈りは唯一の効果的な礼拝手段となったということも関係しているのかもしれません。また、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が律法の教育と共に祈りを教育することによって人々に影響を与え、食事の前後に祈りをするようになったとされてもいます。

 聖書においては、歴史的にいつ頃から食事をする際に、祈るようになったかは定かではありませんし、歴史的に詳細に定めることは重要なことではないかもしれません。食事をするということ自体が人間の食欲という意味での「欲望」と結びついているということがあって、タブー視され、関心を持つことが許されなかったというわけでもないようです。むしろ、食事をするということは神から与えられた人間の「命」と結びついているゆえ、なくてはならないものとされました。

キリスト者の信仰生活における食事の際の感謝の祈りは、食べるということそれ自体に心の全てを奪われるということではありません(ローマの信徒への手紙14章15‐21節)。また単なる自然崇拝的なもの、つまり、自然を神とし、その自然を信仰の対象としているということではありません。それは食べ物も人々を救う神が与えた「恵み」であることへの感謝であり、そして、何よりも生活の中で神に感謝することが必要であることが忘れられてはならないゆえのものでしょう。

 

 

 

※これは、2006年2月9日に日本基督教団安中教会での聖書研究・祈祷会で筆者が話した内容のものに若干の加筆・訂正を行なったものです。