「説教(2008年8月の礼拝説教『畏れと平和』

ヨブ記28章12‐28節より 説教者:川上

純平)とその批評」   

 

川上純平 2008年10月

 

 

今日は、日本キリスト教団の暦では「平和聖日」となっています。皆さんは「平和」という言葉を聞くと、どういったものを思い浮かべるでしょうか。それは、「戦争」という言葉との関係で想い起こされる「争いのない平和な家庭や社会」「シンボルとしての鳩」「商売敵との陣取り合戦」「核ミサイルの廃絶」等でしょうが、今の時期ですと、60数年前の第二次世界大戦に関連することを思い起こされるのではないでしょうか。

先ほど拝読しましたのは旧約聖書の「ヨブ記」の中にある箇所です。「ヨブ記」は旧約聖書の中でも「知恵文学」と呼ばれる作品の一つです。この「知恵文学」には、他にも「箴言」という作品がありますが、「箴言」では、知恵があって賢い人々が正しく、そうでない人は悪であるかのような内容であるのに対して、「ヨブ記」では、主人公のヨブは非常に敬虔で神に対して逆らったことのない人物であるにもかかわらず、様々な苦難を受け、結局の所、神の前で自らの罪深さ、人間の罪深さを認め、悔い改めに至り、神によって苦難が取り払われるという内容です。そして、そこに登場するヨブの友人たちは、「箴言」に登場するような賢い人々でありますが、彼らの態度が偽善的であることが描かれています。

聖書は正しく生きよということを、しばしば語っておりますが、自らが善であることと神によって善しとされるということは、異なるようです。第二次世界大戦中、神のみを神としなければならないはずのキリスト教会も罪を犯しました。被害者である一方で、加害者なのです。その罪は、一つは聖書が証する神ではなく、国家や権力者を神としたことですが、もう一つは、世界平和のためと言いながら、戦争に参戦したことです。戦後、戦責国である日本やドイツのキリスト教会は「戦責告白」を行いました。教会がそのような罪に陥ったことを自ら神に対して懺悔したわけです。

現代においても、権力者が聖書の「神」を戦争に利用しようとすることがしばしば見られます。一方、罪を罪として見、戦争に反対し、裁きを神に任せるだけではなくて、戦争を行う者のために執り成しの祈りを行うことも大切なのでしょう。戦争には必ず人間の傲慢さがつきまといます。

聖書に戻りますが、ヨブ記4章から27章に至るまでヨブは友人たちと自らが負った苦難について議論をし、結局の所、その議論は人間の知恵の限界で終わっています。そして、その経過を経て神の知恵が登場します。

ヨブは最初、神に疑問を持ったり、逆らったりはしませんでした。拷問のような目に遭っているにもかかわらずです。しかし、それにもかかわらず、神は苦難を取り除けようとはしないのです。どうしてでしょうか。ヨブは最後にはその苦難を理解するにあたって人間の知恵には限界があることにまで至ります。

人間が自らの限界について知るということは重要です。その限界というのは、ちょっとした間違いを犯した程度ではありません。買い物をしていて、あれを買い忘れたから、もう一度、その売り場まで行ってみよう、というようなこととは比べられないほどのものなのです。

その限界は人間が神によって、神の祝福のもとで造られたにもかかわらず、人間が罪の中に堕ちたことや人間が犯してしまう罪というものも含んでいます。あるいは、人間であるゆえの限界ということです。自らがどのようなものであるのか、神の前ではじめてわかること、自らの中にある罪や悪に気づくことにより、人間は神を避けないで生きることが求められています。それは神の救いに与ることです。

28章では、神の知恵はどこにあるのかということが問われ、最後に神のみがその知恵のありかを知っている、知恵に至る道は神だけが知っている(23節 NTD訳)としています。

詩編104編24節には「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。」とあり、ヨブ記38章36、37節には「誰が(とき)に知恵を授け 誰が雄鶏(おんどり)に分別を与えたのか。誰が知恵をもって雲を数え 天にある水の袋を傾けるのか。」とあり、自然が神によって創造されたこと、自然に対して神の力と知恵が及ぶことが語られ、そこでは人間の無力さと傲慢さ、人間が神に対して謙遜であることの必要性が語られています。

私たちは人間の知恵も、人間が霊的なものを求めることも重要であることは、わかっています。しかし、人間の知恵だけにより頼むことの浅はかさと傲慢さ、同時にただ単に霊的であるものを求めるということから、気がつくと、わけのわからない、突拍子もないものにすがりついているという人間の罪深さがあります。

戦争というものは、まさにそのようなものによっても成り立っています。また、この百年間の科学技術の進歩は、必ずしも良いことだけを私たちに提供したわけではありません。私たちは、その恩恵に浴していますが、一方で、人間だけではなく、他の生物も含めて地球全体を破壊しかねないほど罪深いものを作り出した責任が人間にはあります。

マタイによる福音書11章25節には「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」とあり、コリントの信徒への手紙T1章25節には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とありますが、なぜ幼子は、どれだけ悪いことをしても、大人が行うほどのことはしないのでしょうか、なぜ人間は自らの愚かさに気づけないのでしょうか。

魂の救いを、あまりにも安易に求めるということから、人格や家庭を崩壊しかねない危うげなもの、そこには宗教的なものさえもありますが、そういったものに身を投じることになったり、また一歩間違えば、戦争に利用されてしまったりした歴史があります。あるいは、すべてのものを金銭に取り替えたりすることができるという考え方が、人間をつぶしていくことにつながることもあるのです。

28章1−11節では金属や宝石の発掘について語られていますが、それらを手に入れるための技術や知識によっても神の知恵という最も大切な宝を得ることはできないのです。

何ということでしょうか。それでは、神の知恵が何であるかは多くの人にはわからないのでしょうか(27、28節)?ヨブはなぜ自らが苦難を受けなければならないか、その意味を人間的な知恵によって得ようとすることを断念しました。自分では真面目に敬虔に生きてきたと思っていたヨブでさえも、神の前では違うのです。ヨブにとってそれは自らの人生に対する絶望ではないでしょうか。彼は死さえも望みました(3章20節)。

しかし、ここに神のみ心の深さを知ることができます。彼は、そこからまた新しく出発したのです。人間にとって、神のみ心の深さを知るということは一度や二度ではないのかもしれません。彼は神に対する畏れと倫理的服従が人間に示された神の知恵に基づく人間の生き方、旧約聖書の語る生活の知恵であることを理解しました。

そもそもヨブ記に登場する「知恵」という言葉は、ヘブライ語で「ホクマ」と言いますが、この言葉は、ダニエル書では「スキル、技術、能力、才能(ダニエル1章4、17節)」とも訳されている言葉です。最近は、この「スキル」という言葉が社会ではもてはやされています。「技術、能力、才能」というものが就職に有利であるとか、人生にとって特別な意味を与えるものとして使われているわけですが、ダニエル書では、この「スキル」という言葉は、単なる人間の技術のことを言うのではなく、特にダニエルを始めとする少年たちの才能に対して、神から人間に与えられたものとして使われています。

ところで、聖書の中でも旧約聖書のみを用いるユダヤ教信徒にとっては、旧約聖書の神に対する畏れと倫理的服従、つまり旧約聖書の律法だけが神の知恵に基づく人間の生き方、聖書的な生活の知恵でありますが、私たち、キリスト者にとっては、それだけでなく、新約聖書のイエス・キリストによって示されたことが、神の知恵なのです。

コリントの信徒への手紙T1章30、31節には「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」

『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」とあり、コロサイの信徒への手紙2章3節には「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」とあります。

旧約聖書のイザヤ書11章2節は、アドベントやクリスマスによく読まれる箇所でありますが、エッサイの株から平和の王が生まれ、その上に主の霊がとどまり、それは「知恵と識別の霊」でもあることが語られ、この平和の王がイエス・キリストであると解釈されています。

このヨブ記28章は、そもそも、このヨブ記の中にはなく、後から書き加えられたものですが、内容の重要性から挿入されたものです。神を畏れることから、「平和」であること、「キリストの平和」の大切さにつながるということがあります。

私たちだけでなく、この世界を造られた神を畏れ、神の前で厳粛に生きることにより、人間的なものは相対化されるということがあります。つまり、自分だけで存在することができる、自分だけで生きていくことができるという思いは、他の物があること、他の人がいることによって、はじめてある物にすぎないことが示された時に、そのような人間の傲慢さが打ち砕かれるのです。人間は、他者がなくては、他の自然がなくては生きていけないのです。

差し出がましいような話に聞こえるかもしれませんが、私は、自分という人間があまりとりえのない人間であることがわかっていますが、このような私でも他人のために何かしてあげられることがあるはずなのではないかと思っています。

一方で、争いというものが、人間がそれを好む、好まないにかかわらず、現に存在しています。自衛隊のイラク派兵や沖縄辺野古に米軍基地を建設しようとする企て、人間であるゆえに存在する日常的な様々な争いなどもあります。

しかし、キリストと共にある者は、罪の許しを得た者として「キリストの平和」につながってもいます。ローマの信徒への手紙12章18節にある「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」というパウロの言葉は、言葉だけのものなのでしょうか。この言葉は、神の働き、イエス・キリストの生涯の中での苦難からきているのではないでしょうか。

 私たちは、イエス・キリストにある生活、キリストによる慰めを覚えることによって、神の知恵とそこから来る平和を求めるものでありたいと思うのです。

 

 

 

〈批評〉

 

2008年8月の主日礼拝「平和聖日」における私の説教である。これは説教者自らが牧会をしているわけではない日本キリスト教団の教会・伝道所での礼拝説教ということもあって、教会の状況が良く分からず、1998年2月の礼拝説教に比べると、かなり趣が異なるような印象を与えるが、基本的に福音を語ろうとしていることに変わりはない。一方、「平和」に関して具体的状況も述べられ、また聖書の語り手(ヨブ記の作者)の心や魂に触れようとし、彼が何を語ろうとしているのかを探求しようとしている。ただ、聖書研究的な部分が多く、もう少しユーモアを交えても良いのではないかとも思われる。