聖書研究「新約聖書マルコによる福音書2章13‐17節」

川上純平    2008・6・11

 

 

 

 

 

前回は、イエスが祈りによって宣教を開始された箇所について共にお読みしました。今回は、イエスがその宣教の中で、罪人とされていた人を招いたとされている箇所をご一緒に読んでいきましょう。

先ほど、お読みしました、このマルコによる福音書2章13‐17節の中でのイエスとファリサイ派との論争は、初期キリスト教徒と同時代のユダヤ教徒との間の論争を反映していると言われています。それは、イエスは律法に従って生きるユダヤ人だけのために来られたのか、それとも異邦人(外国人)のためにも来られたのかということであったようです。当時、徴税人はイスラエルを占領する外国人に手を貸す者と見なされていました。

17節のイエスの言葉は、ギリシアのある哲学者の言葉を思い起こさせるものであるともされています。その哲学者が下層の民、つまり、社会的に差別されていた人たちと一緒にいることを批判されたのに対して、「医者も健康な人々に教えるのではなく、病人のいる所で教えるのが普通ではないか。」という言葉を言ったということです。それゆえに、17節の言葉は、イスラエルでは主にヘブライ語が話されていたわけですが、ギリシア語を話す教会の人々に由来するとも言われています。ある学者は、そもそもは16節後半と17節があり、15節と16節前半はそこから成立したとしています。17節の後半部分は、当時のキリスト教会がイエスの行なったことを総括し、説明を加えたものとされているのです。

イエスが徴税人たちと食事をしたことは歴史的事実としてあります。当時の律法において、徴税人は外国人と頻繁に接触を持つことから、嘘つきであり、宗教的に汚れたものとされていました。イスラエルの民ではない外国人はモーセ五書(創世記等)に記されている神ではなく、異教の神を信じる者であり、それゆえに、モーセの「十戒」に従わない罪人とされていたのです。それはユダヤ教徒にとって絶対的なものでありました。

それゆえに、この箇所に記されているイエスの発言と行動は、当時の宗教的指導者と対立することを強めることをも意味しました。そして、イエスの発言と行動の、そもそもの意味は神の国の到来であり、それは、徴税人のような罪人とされている人々への救いと、罪人がイエスに従うことによって実現しているとされたものでした。罪人とされていた人々が、イエスに従い、食事の席に同席していることは、イエスの招きは、罪人とされていた人々と神との間の壁を突き破るようなものであることを表しています。

しかしながら、ここで問題となるのは、イエスは、徴税人が罪人であるとする律法を認めているのか、そうだとしたら、イエスが言う「罪人」「救い」とは、どういうことかということです。

もともと、この箇所で言われている「罪人」という言葉は、ギリシア語では「間違える」「誤る」という意味で用いられていた言葉に語源がありますが、この言葉は、宗教的に「罪を犯す」という意味で用いられていた言葉でもありました。つまり、道徳的に問題を起こしたというそれだけが罪であるということではなかったのです。15節にある「罪人」という言葉を、ある英語聖書は、「見捨てられたもの」と訳しています。当時の社会状況においては、そのような者とされていたということです。

14節のイエスの呼びかけは、ペトロを始めとする漁師たちに呼びかけ、弟子として従うように招かれたのと同じように、「召命」を意味します。レビはイエスの呼びかけに答えて従っています。マタイによる福音書では、レビではなく、徴税人マタイになっており、それを12人の弟子の一人マタイと同一人物であるとしています(マタイ10章3節)。ちなみに「アルファイ」というのは、レビの父親の名です。

 おそらく、14節に登場する収税所は,ガリラヤ地方に搬入される物品に課せられた税と通行税のためのもので、そこはヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の子で、がリラヤ地方の領主であった)が支配していた地域でありました。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配の下にあり、ローマの政府は税額を査定するだけで、その取り立てはユダヤ人の徴税人に任せたため、徴税人たちは相当の利幅(りはば:もうけ)を取って私腹を肥やすことができました。税の固定レートはほとんどなく、徴税人にその額がゆだねられていたのです。また彼らは相当な額のお金を納めて、その仕事をローマ帝国から借りて、仕事を行なっていたものと思われます。ちなみに徴収されたお金はヘロデ・アンティパスの金庫に入りました。そのためにイスラエルを含むローマの属州の至る所で徴税人の悪評は高かったとされています。それに加えて律法に触れている職業であるということがありました。もちろん、ローマ帝国やヘロデ・アンティパスのような権力者たちにも問題がありました。 

現代日本の社会では、ワーキング・プアや過労、貧富の格差拡大、偽装、物の安全性、企業と行政の不正の問題等があります。あるいは、弱者へのしわ寄せ、差別、高齢者を見捨てたような医療制度や、平和、命の大切さが軽んじられやすい傾向等があります。昔から、人が生活のために働く、あるいは、お金を使うこと、食べるということには問題が付きものでした。しかし、人間の最も大切なことが出来ていないとするなら、これは、どうでしょうか。なぜ、巷では恐ろしく悲惨な事件が起こったりするのでしょうか。

 16節に登場する、ファリサイ派の律法学者たちは、紀元前2世紀ごろに、イスラエルの文化がギリシア・ローマ化されることに対して、自分たちは旧約聖書の信仰を守るとした敬虔な人々に遡ります。その多くは職人、農夫、商人であったと言われています。彼らは律法を生活の中心において、特に宗教的儀式を重んじるあまりに、一般大衆と自らを分離したゆえに、「ファリサイ派(分離された者たち)」という名称で呼ばれるに至りました。彼らは自らを聖なる者とし、特別な服装をし、生活様式も普通の人々と異なるものでした。当時、同じようなグループでサドカイ派というグループがいましたが、彼らが旧約聖書のモーセ五書のみを遵守したのに対し、ファリサイ派は口伝の諸規定である「昔の人々の言い伝え」をも遵守し、死人の復活や来世の報い、天使を信じたとされています。また自らの業績と行いを誇り、律法を守らない人々を軽蔑したとされています(ルカ18章9‐14節)。イエスはご自身において神の国が到来し、ちょうど病人が医者を必要とするように、罪人を救うために招いたとお語りになりました。 

 14節に「彼(レビ)は立ち上がってイエスに従った。」とありますが、この言葉をギリシア語の文法と照らし合わせて考えると、そこには「回心すること」「悔い改めること」に関して、はっきりとした意味が与えられていないとされています。つまり、弟子たちのようにイエスに従った人々と、徐々にイエスの交わりに入れられていった人々とは、はっきりとした区別をしていないというのです。むしろ、それはイエスが、罪人を神の御前に招いたということです。同時に、イエスは、ファリサイ派の律法学者が、自分たちを、そのような人々と切り離すことによって神の恵みというものをないがしろにしていないか、ということをお語りになりました。

イエスが徴税人のような罪人とされていた人々をあえて招いたということは、律法による規定を認めたことになります。なぜなら、そのような人々が律法によって差別されているゆえに、イエスは招いたということがあるからです。しかし、イエスは彼を救い、神の国が到来したということによって律法に対して否定的な態度、律法を克服した態度をとっています。それゆえに、イエスの宣教は単に共同体から追放された人が戻ってきたというような意味だけに終わるものではないようです。そこには霊的に病める人への癒しが語られています。

 一方、後に執筆されたマタイやルカでは「悔い改め」が強調されています。マルコでも冒頭の洗礼者ヨハネについて悔い改めが語られていますが、それは「古い皮袋」(洗礼者ヨハネ)であって「新しいぶどう酒」(イエス)ではありません(マルコ2章21‐22節)。洗礼者ヨハネが語っている言葉とイエスが語っている言葉はかなり異なるものであるということがあります(マタイ3章7‐12節)。そして、それは「悔い改め」が必要ないということではないようです。むしろ悔い改めなければ、罪は許されないとするような、神の大きな恵みを無視する態度が問題なのです。イエス・キリストの十字架によって示されたように、神はその大きな恵みでもって、私たちの罪を許され、私たちは、それゆえに、悔い改め、許されたことを感謝しています。スイスの宗教改革者でジャン・カルヴァンという人がいますが、その人は「悔い改めが罪の許しの根拠であるかのように・・・、悔い改めは最初におかれているのではない。人々に与えられている神との和解を受け入れるように、悔い改めることが人々に命じられているのである」と言っています。

私たちも、かつて、救いを必要とする罪人でありました、今も神の御前に招かれていることを感謝し、現代の日本社会が良くなることを望み、祈るものでありたいと思います。

 

 

・これは2008年6月に日本基督教団藤崎教会の聖書研究・祈祷会にて筆者が述べたものです。

 この聖書研究を同年12月26日に天に召された同志社大学神学部名誉教授の故橋本滋男先生に捧げます。