「人間と信仰(特にキリスト教信仰)について」
川上純平 2009/4/21
目次
序
1.旧約聖書において
2.新約聖書において
3.教会史において
4.現代において
5.結論
序
人間は「信仰」を持つ者である。このことは、全ての人が信仰を持っているかということも関連するが、無神論者でさえも無神論に対する信仰心を持っているということを考えることができるかもしれない。人間は必ず何かを信じて生きている者である。
それでは、その信仰とは何であろうか。ここでは特に、人間と「信仰」、特にキリスト教信仰について考えてみたい。キリスト教信仰の歴史は遠く旧約聖書にさかのぼる。そこではイスラエルの神に対する信仰が生まれ、新約聖書の時代においてイエスに対する信仰と教会という共同体におけるキリスト教信仰が生まれた。それは教会史において、様々に展開され、現代においてもキリスト教信仰は存在する。本論文においては、キリスト教信仰の起源と発達を概観し、現代においてどのように受とめられているかを考察し、結論を導き出したい。
1.旧約聖書において
キリスト教のそもそもの起源は旧約聖書に求めることができる。もちろん、旧約聖書時代、あるいはそれ以前の多神教に旧約聖書における信仰の起源を求めようとする向きもあるかもしれないが、キリスト教の土台である聖書にその起源を見るという意味で旧約聖書における「信仰」を見ることとする。
旧約聖書全体における神に対する信仰と、それぞれの文書、また、文書を構成している資料によって「信仰」という言葉の内容は異なっているが、基本的には旧約聖書においては歴史において人間の背反にもかかわらず、唯一の神による救いの業が行なわれ、その神に対して応答として信仰を持つということを意味する。その信仰内容は、イスラエルの民を選んだ神は、全世界の人々を救おうとされるお方であるということでもあった(創世記9章9‐11節、17章4‐8節、出エジプト記34章6、7節、申命記7章6‐8節、イザヤ書40章28節、エレミヤ書33章8節)。
それでは旧約聖書において、「信仰」を意味する言葉にはどのようなものがあるのであろうか。ヘブライ語の「エームナー」は新共同訳聖書では「真実」と訳されているが、これは「信仰」という意味を持つ言葉である(イザヤ25:1、申命記32章4節)。それは神が真実な方であることに由来する。この言葉は語源的には「アーマン」というヘブライ語に起源があり、この言葉も「信じる」という意味を持つ(創世記15章6節)。またヘブライ語の「エメト」も、新共同訳聖書では「まこと」「真実」と訳されている(創世記24章27節、詩編15編2節)。それは、神に対する「信頼」を意味する。
2.新約聖書において
新約聖書には、イエスによる旧約聖書の神に対する信仰、イエスの言葉と行いによる人々が持つに至った信仰、イエスに対する信仰がある。
共観福音書においては、イエスの奇跡が人間の信仰によってなされるにもかかわらず、イエス自身はその力(奇跡行為)や憐れみによって人々に信じられるに至っている。それは、神の子、救い主であるイエスに対する信仰を表す(マタイによる福音書16章16節)。また弟子たちはイエスの呼びかけに答えて従ったとされる(マルコによる福音書1章18節)。
新約聖書において多くの場合「信仰」はギリシア語で“πίστις(ピスティス)”と言うが、この言葉の動詞形で「信じる」を意味する“πιστεύω(ピステュオー)”という言葉も、新約聖書において“πίστις”と同じ数だけ使われている。(1)
パウロはイエスをキリスト(救い主)とし、イエス・キリストに対する信仰を“πίστις”という言葉を用いて語っている。
パウロ及びヨハネによる福音書においては、イエス・キリストを信じることが、旧約聖書の神を信じることになるとされる(ヨハネによる福音書12章44節、13章20節、14章7節、24節、16章27節等、ローマの信徒への手紙4章24節、テサロニケの信徒への手紙T1章8節)。さらにパウロの場合、「信じる」あるいは「信仰」という言葉が神という言葉なしに使われていた場合も、神を信じることを意味する。(2)
特に、またパウロはイエス・キリストに対する信仰によって義とされることを語っている(ローマの信徒への手紙3章22、23節)。そのことは人間が罪人であるにもかかわらず、罪を許されて、義とされ、神との正しい関係に入ることを意味し、旧約聖書の律法を無意味なものにするのではなく、確立することを意味する(使徒言行録26章18節、ローマの信徒への手紙3章31節、5章1、9節)。また彼によれば、信仰は服従であり(ローマの信徒への手紙1章5節)、「恵み」(ギリシア語で“χάρις”〈カリス〉)であり(エフェソの信徒への手紙2章8節)、同時に「恵み」によるものである(フィリピの信徒への手紙1章29節)。(3)またイエスをキリストと告白する信仰は聖霊の働きによるとされ(コリントの信徒への手紙T12章3節)、実存的な「愛」の行為を起こさせる(ローマの信徒への手紙14章22、23節、コリントの信徒への手紙T13章13節、ガラテヤの信徒への手紙5章6節)認識である(フィリピの信徒への手紙3章8節以下)。
生前のイエスの時代には多くの場合、明らかに旧約聖書の神に対する信仰のみが重要なものであるとされていたこともあり、歴史的に生きたイエスが自らに対する信仰を弟子たちや人々に求めたことについての客観的根拠性は、確かに乏しいかもしれないが、原始キリスト教会においては明確にイエスを神の子、救い主として信じるということが行なわれていたのであろう。しかも、そこにはイエスと信仰の関係についてのいくつかの理解もあったと考えられる。
3.教会史において
キリスト教信仰は、教会史において、どのようなものとして存在し、また解釈されてきたのであろうか。聖書において、個人が信仰を持つと同時に、教会という共同体が信仰を持つに至った。そして、それは教会が発展するにつれて「信条」、「信仰告白」を生み出すに至った。
初期キリスト教の教会教父と呼ばれる神学者たちの時代から中世の時代まで、キリスト教信仰は、主に教会における三位一体論の形成を始めとする正統的信仰の問題、信仰と理性の関係として取り扱われた。キリスト教信仰を哲学的に貫徹させることは、古代キリスト教がそれによって多神教から守られたように、重要なことであった。(4)
2世紀末から活躍した弁証家(護教論家)である神学者テルトゥリアヌスは「不合理である故に、我信ず」の言葉にあるように、哲学との結びつきを排除しようとした。中世に近づくに従って信仰は、4世紀末から活躍し始めた神学者アウグスティヌスに見られるように(アウグスティヌス自身が信仰の真理を絶えず信じなけれなければならないものとしたにもかかわらず)、教会の権威を重んじる方向へ向かった。11世紀の神学者カンタベリーのアンセルムスは「知り理解するために信じる」としてまず自らが信じることから出発して、後で教会によって正しいとされている信仰を受け入れるとした。
このアンセルムスに対して同時代の神学者ペトルス・アベラルドゥスは、教会における正しい信仰について思考する必要性があるとした。そして、中世を代表する神学者トマス・アクィナスは、信仰と理性との間の調和を説いた。
宗教改革時代においては、マルティン・ルターが聖書を土台とした生ける人格を持った神との出会いという主体的信仰、信頼としての信仰を強調した。そこには自分自身を義とせず罪人とし、自分自身に逆らって神を義とし、み言葉(律法と福音)における神の意志を承認するという人間の側の態度が関係している。人間はそのように信仰によって自らを罪人とし悔い改め、罪の許しは受動的に信仰によって受け取られ、さらに信仰により行いが生ずるとされる。ルターにおいて神の義は理性、良心、道徳を必要としないが、信仰は観念ではなく、自らにおいて罪と神の義の両方が存在することであり、神の働きが「わたし」あるいは「わたしたち」のためであるかどうかによって真の信仰であるかどうかが決定されるとした。(5)
ジャン・カルヴァンは信仰を神の慈しみについての知識とし、その知識は確かさによって作られるものであるとした。(6)このようなプロテスタント教会において信仰は善き行いの前提であり、信仰者は神からの罪の許しを必要とするものであった。(7)
後のプロテスタント正統主義においては、哲学と神学の一致が語られ、客観的信仰と信条及び信仰告白が強調され、そこにおいては宗教改革者たちの神学から逸脱した要素も含まれており、敬虔主義と啓蒙主義はそれを批判し、主体的信仰を強調した。また、そこでは歴史的・批判的学問の興隆により、教会や教義の権威が揺るがされ始めもした。
18世紀にカルヴァン主義から影響を受けたアメリカの神学者、哲学者で会衆派教会の牧師でもあったジョナサン・エドワーズは、理性を越えた聖霊の力による回心を強調し、信仰復興運動に貢献した。彼は、神の絶対的主権を強調しつつ、人間自らの性格と一貫性を持って作用する最も強い動機となる意志や感情を重視した。彼にとって信仰は神の美、聖性、真理を認識することであった。(8)
19世紀ドイツの神学者であり、哲学者でもあった、フリードリッヒ・ダニエル・エルンスト・シュライエルマッハーは、信仰、特にキリスト教信仰を人間の直感や感情との関係で考えた。(9)彼によれば、信仰とは「絶対依存の感情」であり、その宗教的経験は理性との関連で考えられるものであった。
19世紀の哲学者であり、キリスト教思想家であった実存主義哲学の祖セーレン・キルケゴールは、信仰を決断して選び取るもの、飛躍することによって神と関わるものとした。シュライエルマッハーの影響を受けた神学者アルブレヒト・リッチュルは、信仰を神と人間との道徳的関係とした。そして、その弟子であるドイツの神学者エルンスト・トレルチは信仰と理性による歴史認識を調停しようとした。
4.現代において
20世紀に入ると、いわゆる「文化プロテスタンティズム」が台頭するが、シュライエルマッハーの影響を受けたドイツの神学者で宗教学者でもあったルドルフ・オットーは、宗教における「聖」の本質を「ヌミノーゼ」という概念で表し、それは人を魅了・戦慄させ、神聖さ、崇高さ等をもたらすものとした。それはキリスト教における「信仰体験」を分析したものでもあった。
20世紀を代表する神学者の一人、スイスのカール・バルトは、初期において、そのような宗教体験を重視する神学的傾向に対して「神秘主義」と断定し、イエス・キリストにおいて現れた神の歴史的な啓示を説いた。彼は「弁証法神学(神の言葉の神学)運動」というかつての宗教改革者たちの精神に立ち帰ったグループの運動の指導者であった。
彼によれば、信仰は神の信実であり、神の働き、イエス・キリストの力、聖霊から与えられるものである。人間は自らを神の位置へ到達させようとし、同時に聖書が語る神の言葉を聞くことができないほど罪深いものである。それゆえに、信仰は人間のそのような直感や感情、神に対する敬虔な宗教心によるものではない。神が御自身を人間に対して開き示す時にのみ、人間は聖書において神と出会い、それを知り、認め、信仰を告白することができる存在である。そのことは神の啓示なしに人間が神を信じることが歴史的・心理学的に「不可能な可能性」であることを示す。つまり、それは、まことに神であり、人であるイエス・キリストにおいてなされることであり、また、同時に、そこには人間からの神に対する応答がある、それがバルトの言う人間による神に対する信仰であった。
彼の信仰についての神学的認識は後期においては、初期と異なり、キルケゴール的実存及び逆説的弁証法による描写は影をひそめている。そこにおいては、キリスト教信仰には、直感や感情というものが必要ない、あるいは、存在しないということではなく、まず神の言葉、イエス・キリストを無視しては、キリスト教信仰でないものとなりかねないということが主張されている。
彼にとって、キリスト教信仰は理性的なものであり、彼はすべての神学の中に哲学的なものを充分に認めている一方で、その信仰理解との関係で言うならば、神が人間に対して自らの意志によって関わるということ、そのような神の言葉に依拠する「神学の自由」ということを語っている。(10)それらにはバルトがおかれた状況、時代状況も関係している。
カール・バルトの影響を受けたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは信仰をキリストに対する「服従(nachfolge)」という概念で捉えた。それはイエスが神に忠実に従おうとしたことによる。またボンヘッファー自身も彼なりにそうであろうとした。
20世紀にアメリカで活躍した、ドイツの神学者パウル・ティリッヒはシュライエルマッハーの主張した「絶対依存」の感情を「究極的な関わり」という言葉で表現し、この「究極的な関わり」という言葉によって人間の神に対する関係、信仰の本質を次のように言い表した。
「究極的な関わり」は「無制約的に捕えられている状態」、脱自的かつ人格的で、その人格を基礎づけ統合させるものであり、「人間精神の最も内面的な包括的活動」である。信仰は、その「信条的表現はそれ自身に対する批判を含んだものでなければならない」ように自己否定の要素を持つものである。同時に、信仰それ自体が他の学問によって排斥されることはなく、信仰と知識とには共通の土台である理性があるが、信仰は理論的知識や構造そのものではなく、またそれらによって造り出されるものではない。信仰と理性は矛盾せず、もし仮にその二つが矛盾したとしても、神の啓示によって克服される。信仰は究極的な関わりを適切に表現している限りにおいて、また信仰内容が真に究極的なものであるならば、それは真理である。信仰は、愛の行為を生み出し、共同体として実現されるものであり、そこには実存的決断がある。信仰は諸類型に分けられる多様性を持ち、その諸類型の統一は現実の経験において捕えられるものである。(11)
ドイツの神学者ルドルフ・ブルトマンやゲアハルト・エーベリングは、ルター、キルケゴールの影響を受けている。彼らによれば、信仰は、知性を用いるものであり、迷信ではなく、同時に科学でも捉えることの出来ないもの、実存的「決断」を必要とするものであり、神の言葉においてイエスに主体的に出会うものであることが強調された。
彼らの後の世代で最も代表的なドイツの神学者の一人であるヴォルファルト・パネンベルクは、神の啓示が歴史の中に表されており、そこには信仰を引き起こすもの(しかし、これだけでは人が持つ信仰にはならない)が存在し、人間の理性によってその出来事が受け止められ、人は、未来に関する信頼を持っているゆえに、「信仰」を持つに至るものであるとした。もっとも、これに関しては歴史の中に神の啓示を見出す信仰の目はどうなるのかということがある。
また彼によれば、信仰と理性は異なるものであるが、信仰は終末論的将来と完成に向かうものであり、歴史性において考えられる理性はそれが何であるかということ、本質に関して終末論的将来と完成を先取りし、それを前提として持っている。理性はそれを忘却するゆえに、信仰は理性に対して理性自体の絶対的前提を想い起こさせ助けるものである。それゆえに、信仰は理性の理性的性格にとっての基準でもある。(12)
さらに「解放の神学」を始めとする様々な神学的傾向に見られるように、キリスト教信仰は社会的実践のような、その行為との関係で考えられるべきであるとされる。
5.結 論
以上見てきたように、キリスト教における「信仰」についての言説は、聖書に始まり、教会史を通して、現代に至るまで多様である。
そこに見られることは、キリスト教信仰が、妄想的なもの、単なる思い込みに過ぎない等とは言い難いばかりでなく、理性との関係で考えられてきたものでもあるということである。新約聖書は、それに関して「神の知恵」(コリントの信徒への手紙T1章18‐31節)を語る。
何を持ってキリスト教信仰とするのかという問題もある。それは信仰を告白するということか、心の中でイエスに対する思いを持つことか、あるいは、特に日本もそうであるが、他の諸宗教の神や仏を信じつつ、キリスト教の神を信じようとする態度をどう見ればよいのか等がある。
同時に、信仰は力動的なものであり、信仰についての歴史的な、あるいは地域別の相違点があることも受け入れなければならないことではないであろうか。聖書におけるイエスと神との関係を信仰との関連でどのように解釈するのか、キリスト教的世界観とキリスト者の信仰との関係をどのように位置付けるのか等の課題もあるであろう。
キリスト教信仰は、それについて把握、理解し、考えること自体に限界があるものかもしれないが、そのことは信仰について学問的に考えることの無意味性を意味してはいない。信仰と理性だけでなく、人間性も破壊する信仰ほど危険なものはない。
信仰は、特に教会との関連で存在したことも含めて、歴史上に、出来事として、現象としてかつて存在し、また現在もこれからも存在するものである。神学者たちの主張をまとめるなら、信仰は、実存的であり、信仰の対象である神に出会い、その存在を認め、それに信頼し、依存し、関わり、そのことを告白し、愛の行為に結びつけるものである。
信仰者は、これからも聖書を土台とし、教会と繋がりを持ち、信仰それ自体を神の恵みとして、信仰の先達の歩みに目を通しながら、信仰を持つ者であることができる。
〈参考文献〉
・ハンス・ヨアキム・イーヴァント著、竹原創一訳『ルターの信仰論』、日本基督教団出版局、1982年〈初版〉。
Glaubensgerechtigkeit nach Luthers Lehre, Christian Kaiser Verlag,1941.
・『カルヴァン キリスト教綱要抄 新教セミナーブック3』ヒュー・カー編、竹森満佐一訳、新教出版社、1997年。
A Compend of the Institutes of the Christian Religion by John
Calvin, edited by Huge
Thomson Kerr, Jr., 1939.
・増井志津代著『植民地時代アメリカの宗教思想 ‐ピューリタニズムと大西洋世界』、上智大学出版、2006年。
・カール・バルト著、井上良雄訳『カール・バルト教会教義学 和解論T/4』、新教出版社、1987年〈第1版第3刷〉。
Die
Kirchliche Dogmatik.W.Bd.,Die Lehre von
Versöhnung.1Teil(W/1). Zürich ,1953.
・カール・バルト著、小川圭治訳「ルドルフ・ブルトマン ‐彼を理解するための、一つの試み」『カール・バルト著作集 3 教義学論文集(下)』、新教出版社、1997年〈第1版第1刷〉。
Rudolf Bultmann
Ein Versuch, ihn zu verstehen, Theologische
Studien,Hf.34,1952.
・カール・バルト著、井上良雄訳「教義学要綱」『カール・バルト著作集 10 教義学要綱 福音主義神学入門』、新教出版社、1989年〈第1版第6刷〉。
Dogmatik im Grundriß im
Anschluß an das apostolische Glaubensbekenntnis.2.Aufl.München,1942.
・大崎節郎著『カール・バルトのローマ書研究』、新教出版社、1987年〈第1版第1刷〉。
・パウル・ティリッヒ著、谷口美智雄訳『信仰の本質と動態』、新教出版社、2007年
Dynamics of Faith,London,1956.
・ヴォルファルト・パネンベルク著、近藤勝彦・芳賀 力訳『信仰と理性』「組織神学の根本問題」、1984年。
Grundfragen
systematischer Theologie,Gesammelte Aufsätze,Göttingen,1967.
・ハンス・ゲオルク・ペールマン著、蓮見和男訳『現代教義学総説 新版』、新教出版社、2008年〈第1版第1刷〉。
Abriß der Dogmatik, Sechste,verbesserte und
erweiterte Aufl.,Chr.Kaiser/Gütersloher Gerd Mohn, Gütersloh,2002.
・『キリスト教大事典』、教文館、1991年〈改訂新版第10版〉。
・『岩波キリスト教辞典』、岩波書店、2002年。
・『新聖書大辞典』、キリスト新聞社 1971年〈第1版〉。
・『旧約聖書神学辞典』、教文館、1995年〈第3版〉。
・『新約聖書神学辞典』、教文館、1991年〈初版〉。
・『ギリシア語新約聖書釈義事典V』、教文館、1995年。
Exegetisches Wörterbuch zum Neuen Testament.Hrsg.von Horst Balz und Gerhard
Schneider,Band3,2.,verb.aufl.Stuttgart,1992.
・『キリスト教組織神学事典』、教文館、1992年〈第5版〉。
・『現代キリスト教神学思想事典』、新教出版社、2001年〈第1版〉。
Alister E.McGrath (ed.), The Blackwell
Encyclopedia of Modern Christian Thought, Blackwell Publishers,1993.
・『岩波哲学・思想事典』、岩波書店、1998年。
(1)
Gerhard Barth,“πίστις”“πιστεύω”『ギリシア語新約聖書釈義事典V』、1995年参照。
(2) 山谷省吾著「信仰」『新聖書大辞典』、1971年〈第1版〉。
(3) この聖書箇所からもわかるようにパウロにおける「信仰」と「恵み」の関係は、その言葉の用法において興味深いものがある。
(4) ハンス・ゲオルク・ペールマン著、蓮見和男訳『現代教義学総説 新版』、2008年〈第1版第1刷〉、149頁。以下『教義学総説』と略す。
(5)
ハンス・ヨアキム・イーヴァント著、竹原創一訳『ルターの信仰論』、1982年〈初版〉、66、115、123頁他。
(6)
『カルヴィン キリスト教綱要』〈ヒュー・カー編/竹森満佐一訳〉、1997年〈復刊〉、139、140頁。
(7)
菅 円吉著「信仰」『キリスト教大事典』、1991年〈改訂新版第10版〉。
(8)
Mark A.Noll「エドワーズ,ジョナサン」『現代キリスト教神学思想事典』、2001年〈第1版〉。Alister E.McGrath (ed.), The Blackwell Encyclopedia of Modern
Christian Thought,1993.
(9) シュライエルマッハーに関しては、彼の著書及び彼に関する本として日本語に翻訳されたもので、いくつかの本が出版されている。例えば、F.シュライエルマッハー著、高橋英夫訳『宗教論 宗教を軽んずる教養人への講話』筑摩書房、1991年 B.A.ゲリッシュ著、松井 睦訳『シュライエルマッハー 近代神学の父』新教出版社、2000年 ジェームズ・デューク、フランシス・S・フィオレンツァ著、松井 睦、上田 彰訳『シュライエルマッハーの神学』、ヨベル、2008年等である。
(10)
『教義学総説』、40頁。大崎節郎著『カール・バルトのローマ書研究』、1987年〈第1版第1刷〉、72頁以下参照。カール・バルト著、小川圭治訳「ルドルフ・ブルトマン ‐彼を理解するための、一つの試み」『カール・バルト著作集 3 教義学論文集(下)』、1997年〈第1版第1刷〉、252頁。カール・バルト著、井上良雄訳「教義学要綱」『カール・バルト著作集 10 教義学要綱 福音主義神学入門』、1989年〈第1版第6刷〉、25頁。
(11)
パウル・ティリッヒ著、谷口美智雄訳『信仰の本質と動態』、2007年、13‐17、42、49、73、96‐100、118‐120、130、136、142、152、153頁。
(12)
ヴォルファルト・パネンベルク著、近藤勝彦・芳賀 力訳「信仰と理性」『組織神学の根本問題』、1984年、180‐183頁。