聖書研究「新約聖書マルコによる福音書8章27節‐9章1節」

川上純平 2009・5・13

 

 

 

前回はマルコによる福音書7章からイエスが外国人の女性の粘り強い信仰にふれて、その女性の娘を癒し、イエスによって外国人にも神の恵みが現わされていることを学びました。

今回8章のこの箇所では、イエスに対する弟子たちの信仰告白、イエス自身の受難予告、弟子たちの誤解、イエスによる弟子たちへの訓戒が記されていて、これらはマルコによる福音書の中で中心的な位置を占めるものになっています。

場所はガリラヤの北、フィリポ・カイサリアに向かう途中の出来事です。彼らは、さらにそこからエルサレムへ向かう途中でもありました(新共同訳聖書付録の地図6を参照)。エルサレムへ向かうということは、イエスの苦難と死と復活へ向かっていることを表しています。

フィリポ・カイサリアという地域は、聖地と異教の地との境界線がある地域でもありました。もちろん、そこに白線のような線がひいてあるわけではありませんが、昔から異教の神々の神殿のある地域で、ローマの領地になった時に、ヘロデ大王が皇帝から譲り受けたり、ローマ軍の基地にされたりもしました。現在では遺跡は残り少なくなっていますが、かつてはギリシア・ローマ文化の中心地でもあったのです。

そこで、イエスはまず人々が自分を誰であると思っているか、何者だと言っているのか、どのように思っているかを弟子たちに尋ねています。そうすると、弟子たちは、イエスのことを「洗礼者ヨハネ、預言者エリヤ」だと言っていると答えました。そこには単なる噂のようなものが含まれていたのかもしれませんが、実際にイエスが語った言葉や行いが、洗礼者ヨハネや預言者たちに似ている、思い起こさせるということもあったのでしょう。それは宗教的に最高の者とされたということです。あるいは、イエスは神によって選ばれた者、預言の成就であるゆえに、イエス復活後に出来た原始キリスト教会が、そのような人々と同一視したということを語っているのかしれません。

イエスは、その次に最初に弟子となったとされるペトロに「あなたは私を誰だと思うか、何者だと思うか、どのように思っているか」と尋ねました。イエスのこの問いには、「あなたがたは世間一般の人々とは別に責任を持って発言するのだ」ということが含まれています。ペトロは「メシア、救い主、キリストです。」と答えました。それは信仰告白でした。

私たちも洗礼を受ける時に信仰告白を行なったことと思います。自分の場合は、高校生の時に、緊張しながら、大真面目に証しを入れながら、会衆の前で信仰告白を行いました。どのような内容の信仰告白だった、全てはっきりと覚えているわけではありませんが、信仰生活はそこから始まったことを思わされます

この箇所で、ペトロは何となくそう思ったということではないことが書かれています。この箇所では「メシア、キリスト、救い主とはどのような者のことを言うのか」ということが問われています。

「メシア」という言葉はヘブライ語で「油注がれた者」と言う意味です。しばしば、旧約聖書の中でイスラエルの祭司、預言者、王たちは、その役職に任ぜられる時に頭に油を注がれました。油を注がれるということは、神に選ばれ特別に仕える者、聖なる者とされることを意味しました。「メシア」というこの言葉は、ギリシア語で「キリスト」という言葉になります。ですから、「イエス・キリスト」とは「救い主・イエス」「油注がれた者・イエス」という意味になるわけです。

イエスの時代にイスラエルの人々は「メシア待望」という宗教的な意識を持って生きていました。救い主を待ち焦がれていたわけです。しかし、そのメシアは、イスラエルのダビデ王の家系に生まれ、イスラエルの人々のために王国を建てる、そのような者とされていました。同時にその理解には多様性がありました。ところが、イエスの弟子たちは、イエスをそのメシアであると考えました。イエスの生涯、死と復活によって神の国が始まり、イエスを人々のためにこの世に来たメシアであると考え、そう信じるようになったのです。それゆえに、マタイによる福音書ではイエスをダビデの家系に生まれたものとしてその系図を記しています。イエス自身はそのことを言わないようにと弟子たちに語りました。

ペトロの信仰告白の後、イエスは自らが苦しみを受けることを語りました。イエスの受難予告はイエスが復活した後の原始キリスト教会の信仰を反映していますが、それは人々が信仰を持つための力をイエスが持っていたことを示します。

もちろん、この箇所の全てがイエスの復活後に出来た言葉ではなく、ある学者によると、少なくとも31節にある「苦しみを受け、排斥される」、33節、38節等の言葉はイエス自身の語った言葉であることがわかっています。イエスは旧約聖書の預言者たちが迫害されたことを知っていました。同時にイエスは当時の社会の指導者層と激しく衝突していました。この事は神の御心が当時のイスラエルの宗教的指導者たちと対立することを示していますが、31節の「することになっている」という言葉は神がそのようになさるということを意味します。それでさえも神の御心にあるということです。

31節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」とありますが、これはそのことを示しています。「人の子」というのはイエス自身のことです。イエスは自分自身をイスラエルとその預言者たちの苦しみを最終的に完成させる者として自分自身を理解していたとされています。

ペトロはそれを聞いて「そのようなことがあってはなりません」と言いましたが、イエスはペトロを「サタン(悪魔)」であるとしています。それはペトロがイエスの目には悪魔のように映ったからです。それゆえに、イエスは諌めようとしたペトロを叱りました。イエスはペトロが神のことを思わず、物事を人間的な枠組みでとらえていることから、神に従っていないとしています。この時のペトロの思い描くイエスは、天にいて栄光に包まれるような、王様のような、そのようなイメージがあったのかもしれません。信仰告白した直後に、このような発言を行なったペトロに人間の弱さが表わされているようにも思います。

ペトロはイエスを諌めましたが、それは、ちょうど3章でイエスの兄弟たちがイエスを気が変になっていると言ったのと似ているのかもしれません。あるいは、驚きと悲しみのゆえかもしれません。私たちは一般的なものの見方からすると、ペトロの心情というものを理解できるのではないかと思います。自分が非常に尊敬し、崇め、指導者と仰いでいた人が、いきなり、このようなことを言う、それは子供の視点で言えば、自分が大好きなアイドルやタレント、スポーツ選手が成功への階段を順調に上っているのに、いきなり引退すると言ったり、死んだりするようなものかもしれません。それはショックでしょう。

しかしながら、神が指し示したイエスの歩むべき道はペトロの考えていた道とは異なっていたのです。そこには私たちの思いもつかないようなご計画があったことを表しています。ところで、もともと「サタン」という言葉は「敵対する者」という意味の言葉です。マタイによる福音書1章13節では、「サタン」がイエスを神の御心から遠ざけようとしています。

33節の「サタン、引き下がれ」という言葉は、正確に訳すと、「わたしの後へ引き下がれ」という言葉になります。「弟子たちを見ながら」と記されているので、イエスのこの言葉は弟子たちに対する言葉にもなっています。イエスは弟子たちに自己中心的な思いを捨て、自分を否定して、自らの十字架を背負ってイエスに従うようにと語りました。当時、十字架は罪人を処刑にするために使いましたが、十字架につけられる犯罪者はその十字架を自分で処刑場まで運びました。それゆえに、この箇所ではイエスのためには殉教も必要であることが語られているとも言われています。

しかし、この箇所で語られている弟子となるということは、群衆に向けて語られた言葉であるとも言われています。それゆえに単に弟子たちだけに語りかけられているものではなく、現代の私たちにも語りかけられている言葉です。イエスを救い主とする者の生き様について語られています。それは弟子となることです。イエスは弟子を戒めつつ、苦難に向かいながらも、なお弟子たちと共にあろうとしました。

この頃、つまり、原始キリスト教会時代、紀元64年頃、ローマ皇帝ネロによる迫害があったとされていますゆえに、35節の「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」という言葉は極めてリアルな、現実的な言葉でもあったのです。

同時に、この箇所で言われている「命(プシュケー)」という言葉は、「魂」「霊」「自分自身」と訳すことのできる言葉です。それは人間が感動するような心、魂を持つ存在であること、イエスの愛ゆえにそれを取り戻すことができることが語られています。

ですから、命の尊さがここでおろそかにされているわけではありませんし、殉教するということ、死ぬことをもって弟子とされるというわけでもありません。自分が救われたいという思いを持つことは人間として当然のことですが、弟子となる者はそれだけで終わらないのです。イエスに従って弟子になるということは、それほどのものであることが語られています。ですから、それは自己嫌悪ということでもないようです。イエス以外の様々なことに固執することからの自由であるということもできます。

38節に「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」とありますが、ここに記されている「神に背いた」という言葉は、他の聖書では「邪悪」「不貞」「姦淫」と訳されています。それは、神が夫でイスラエル民族が妻であるという旧約聖書の考え方から来ています。つまり、神に逆らい、偶像崇拝に走ること、聖書の神に対して不信仰になることが戒められているのです。

しかし、偶像崇拝は何も他の諸宗教を拝むということだけではありません。それは「聖書の神以外のもの」を神として拝むということです。キリスト教では旧約聖書の出エジプト記に記されている十戒にあるようにそれは禁止されていることです。ところが、世の中にはたくさんの「偶像崇拝」があります。たとえば、お金がそうです。お金は必要なものであり、現代日本の経済的状況においては、多くの人々が最も必要としているものです。しかし、お金は手段であって目的ではありません。お金は神になりやすいということがあるのです。福音書でイエスが神殿で両替商の屋台をひっくり返したように、金銭のやりとりをイエスはお嫌いになりました。あるいは、健康であることが神になっているということがあります。病気の人が健康であることを望むのは当然のことでしょう。また健康であることに、こしたことはありません。しかし、「健康でない人は罪深いものである」とイエスが生きた時代のイスラエルでは信じられ、そういった人々が差別されていたということがあったことを忘れてはなりません。

38節、9章1節の言葉は、終りの時が近づいていて、イエスが再び私たちの人間の所にやって来て、復活に与ること、神による裁きと救いが完成するという信仰が反映されています。その時に神の国が完成するとされていたのです。

このように、イエスを救い主として信仰告白し、迫害の世の中にあっても自らの全てを私たちのために捧げたイエスの生き様を思って、生きるということが、この箇所には記されています。神の国の完成にあずかるものでありましょう。

 

 

・これは2009年5月に日本基督教団藤崎教会の聖書研究・祈祷会にて筆者が述べたものです。