書評『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか

  神の恵みの手段としての洗礼と聖餐』(赤木善光著 教文館)                  

川上純平 2009年6月4日

 

 

本書は2006年と2008年に日本基督教団に属する二つの教会で行われたサクラメント、特に聖餐についての著者自身の講演を一冊にまとめたものであり、わかりやすく読みやすい内容となっている。

著者はキリスト教教理史に関して、特に宗教改革者の聖餐論に関して優れた学者であり、長く東京神学大学で教鞭をとってこられた。

 本書において、著者は「サクラメントは人間の理性を超えたものである(8、9頁)」とし、教会史的考察から記述を始めている。宗教改革者の聖餐論についての研究を屈指しながら、「洗礼についてはまだ本格的な議論が起こっていない(25頁)」ということ、「イエスはキリストである」とイエスにもキリストにも傾かない形で信仰告白することの重要性(70頁)を含めて自らの立場を述べ、「未受洗陪餐」の問題点を明らかにしようと試みている。そこにはルター神学において特徴的な「隠された神」という概念が、実は聖餐のパンというただの物質に神が自らを隠すというルターの考えにあったこと等も述べられている(58頁)。

近年、聖書学が盛んに研究され、聖書本文批評や聖書記述の歴史性、聖書解釈の多様性等、それは様々な内容で展開されているが、そこから解ってきたことと、キリスト教信仰の歴史における理解、教会における教理等がどのようにかみ合っていくのかということについて、部分的にではあるが、本書は、その答えを示唆しようとしてもいる。

同時に、本書を読んで疑問に思った点や気づいた点等もある。

それは、まず「未受洗陪餐問題」について述べられている箇所についてである。その箇所は幾つかあるが、内容は日本基督教団の現状とは異なるものがある。たとえば、11頁では「現代のキリスト者の一部はサクラメントを神の恵みの手段として受け取ることができない」としている。確かにそのようなキリスト者もいるかもしれない。しかし、それが日本基督教団において「未受洗陪餐」が問題であることの根本的理由と述べられているのは疑問である。また、その根本的理由は教会史的考察において述べられている内容とは関係がない。

次にコリントの信徒への手紙Tでパウロが「主の晩餐」について述べている箇所を中心にして聖書釈義の必要性のある箇所や推論である箇所、疑問点がある。それは、たとえば、83頁では、そこで述べられている「聖餐」とは何なのかということ。91頁では、「キリストの体である教会」に組み入れられるかどうかは別問題ではないかということ。96頁では、新約聖書釈義の必要性があること。97頁では、裁きや呪いの言葉がパウロの頃からあったかどうかは不明であるということ。26、28頁では、「聖書においてキリストから命じられているから」という「命令の必然性」の根拠として、聖書正典と信仰告白が同列に並べられているのはなぜかということ。140頁では、「聖餐以外にイエスに連なる者であることを体感しうる方法」を教会が持ち得たかどうかに関しての論述は推論であるということ等である

また「聖餐」と「愛餐」について、29−32頁では、「現代人は『聖』を理解しない。『地震』は神の審判である」等の誤認がある。また「未受洗陪餐問題」は「聖餐の愛餐化についての問題」とは必ずしも言えないのではないかということがある。ある人々が聖餐と愛餐とを区別しないで同一視しているというのは事実である。一方で、これと「未受洗陪餐」は必ずしも同じものとは限らないのではないかということがある。40頁以下の記述については、未受洗陪餐容認は聖餐を「恵みの手段」と考えないで、「倫理化し、行動化」することであるとしているが、そうではないのではないかということがある。

洗礼について、86頁では、「未受洗陪餐」否定の意味で洗礼について述べられている。洗礼についての聖書学的研究、神学的研究が必要とされると思われる。また、ここで述べられているキリスト教とはどのようなキリスト教かということがある。87頁では、洗礼は決断であるとされるが、陪餐の有無は決定していないのではないかということがある。94頁では、原理そのものが間違っている場合、それを問うことの必然性があるのではないかということがある。

120頁では、聖霊の力によって現臨するキリストの体と血に与るという重要な点が指摘されている。

カール・バルトのサクラメント理解については、バルトの影響を受けた者がバルトのサクラメント理解を継承しているわけではないということをどのように理解すべきかということがある。

なお、赤岩栄について述べた文も収録されているが、赤岩栄自身のバルト理解は現在のバルト理解と異なるものであり、歴史的限界のあるものであることは念頭におく必要があろう。

このように疑問点もあるが、現在、日本基督教団では「未受洗陪餐」が問題とされており、そのような中で、理性では把握できない、難かしいものである聖餐(118頁)を理解するにあたって本書は興味深い一冊となるであろう。

また最近、出版された本で日本基督教団における「未受洗陪餐問題」について考える上で示唆を与えるものとして以下の4冊があり、『聖餐の豊かさを求めて』(山口雅弘編著 新教出版社)と『聖餐 イエスのいのちを生きる 57人の発言』(禿準一、高柳富夫編 新教出版社)は、(全てではないが)「未受洗陪餐」肯定派が執筆したものであり、『宗教改革者の聖餐論』(赤木善光著 教文館)と『まことの聖餐を求めて』(芳賀力編 教文館)は、「未受洗陪餐」否定派が執筆している。

 

戻る