資料「主日礼拝説教『与え・与えられる』聖書箇所:新約聖書マタイによる福音書7章1‐14節」

説教者:川上純平(2009年7月12日)

 

 

先ほど、お読しました、聖書のこの箇所は、有名な「山上の垂訓」の箇所の一部です。「山上の垂訓」は、イエスが山の上で人々に語ったとされる説教で、マタイによる福音書5章からの「祝福」の言葉で始まっています。この箇所、7章の中では、特に12節「黄金律」(時と場所を超える倫理の原則:愛の教え)が有名です。

イエスは人々に対して、特に神の国の宣教を行なったと言われていますが、そもそもイエスの生涯自体が神の国についての宣教でありました。イエスは様々な場所で神の国についての福音を語りました。この「山上の垂訓」も、イエスが様々な場所で、何回かに分けて話したことをまとめたものであるとされています。それは、もともとはイエスの言葉であったものに、様々に付け加えがなされ、形が変えられていったものであるということです。そこにはイエスを信じる者の姿が反映しています。ですから、この事と大切なものの形を勝手に変えるということとは別なのです。

まず7章1節以下では、神による「裁き」と「許し」が語られています。人は多くの場合、物事の判断を人間関係で捉えます。自分がどう思われているか、相手をどう思っているか、そして、それで物事を考え、安心感を得るのが一般的なのかもしれません。それゆえに、人を裁いてしまう時も人間的な目や価値観で捉えがちです。

しかし、この箇所では、人間関係が神との関係で語られています。イエスはよく言われますように、自分と神との関係を、親しみを込めて親に呼び掛けるような、そのような関係で捉えていたところがあります。これは当時のイスラエル社会ではあまりないことです。

しかし、親がただ厳しく裁き罰する者であったら、子供はどのような子となるでしょう。逆にほったらかしにして甘やかすだけなら、どうなるでしょう。イエスの場合は、そういったイメージで神を捉えてはいなかったようです。人は多くの場合、自分には寛容に他人には厳しくなりやすいものです。もちろん、そうでない人もいますが、イエスは人間を神の国というもので考えていたのです。パウロによれば神の国にある者は、もはや裁く必要がないということでした。なぜなら、それは神が裁くからです(ローマ12:19)

この箇所は、自らがいかに罪深い存在であるか理解している人には、イエスの言葉もわかるということでしょうか。私たちキリスト者の集まりであります教会は罪人の交わりでもありますから、イエスの言葉がわかるのです。私たちの罪はイエスによって十字架上で神に裁かれました。そして、罪の許しを得ました。

この箇所には、イエスが十字架上で亡くなり、復活後に出来た原始キリスト教会が、キリスト者同士の法的問題が法廷に持ち込まれることがないように望んでいたことも反映していると言われています。

一方、イエスは律法学者、ファリサイ派のことを「偽善者」と呼びました。彼らは神と人から評価や報酬を得るために人前で善行をなし、律法に従うことができない人々を差別していました。イエスはそれを批判し、結果的には、それがイエスの十字架につながりました。

最近、「裁判」というものが様々な意味で問題となっています。それは冤罪事件、裁判のやり直しであるとか、国民が裁判に参加することについて等です。「法律」に従って裁判を行なうということは人間社会において必要なことなのでありますが、「法とは何か」、その責任と人間という存在について深く考えることも必要なのではないかと思います。

人間が裁く者として神を名乗るということも歴史上ありました。しかし、神が本当に人間を裁くとしたら、人間はいかに裁かれるのでしょうか。神の側から見るなら、他人よりも自分の罪の方が軽いとか重たいということはないのではないでしょうか。

この箇所の中で、続いて7章6節で言われている「神聖なもの」とは「神殿の供え物の肉」を指すと思われます。それは祭司だけが食べて良いとされていました。キリスト教ではこの「神聖なもの」を「福音」と解釈してきました。ですから、同時に、それはすべての人に伝えられるものとされました。

「真珠」という言葉も登場します。「真珠を豚に投げてはならない。」という言葉は、あまり聞きなれない言葉でありますが、古代イスラエルの諺のようです。「真珠」はそれ自体が高価なものでありますが、イエスの時代の宗教では、宗教的に価値のあるもの、たとえば、祈りを意味するものとされました。

「豚」という動物は、その当時、最も忌むべき動物であるとされていました。このことから、豚は真珠がどれほど高価なものか理解せず、不似合いであるということを意味するとも言えるのですが、6節のこの言葉はユダヤ教徒以外の、外国人に伝道を行なうことに対して消極的であったユダヤ人キリスト者の発言が付け加えられたものであるとされています。

そこには「聖性」「聖なるもの」を重視するということがあります。「宗教的であること」そのことは大切なことですが、そこには、当時の教会、ユダヤ人キリスト者の排他性もあるようです。つまり、私たちのようなイスラエルに住んでいる者以外の人は神の救いに値しないという意味にもなりかねないということがあります。

「聖なるもの」を重要であるとする態度が、実はギリシア・ローマ世界の宗教の考え方に起源を持っている場合もあります。後のキリスト教会では、そのような考え方が取り入れられていきました。それは一方では、イエスのものではないのにイエスのものだと判断していたりする時、これは絶対だと、聖書の神であると人間が思っている、そのものが怪しい時もあったりするということです。それが人間の姿です。むしろ、聖書の中で「聖なるもの」は、人間の思いを超えていたり、言葉にならないほどの戦慄や恐れを抱かせ、同時に平安を与えるものであったりします。神に対する恐れが欠けるとへりくだった思いもなくなり、敬虔なようで、実は他人を裁く者となってしまいかねないのです。

ところで、仏教でも本場のインド仏教と日本における仏教とは、ご飯と味噌汁ぐらいに違うものであると言われています。つまり、時代や旅を経て、全くの別物になってしまっているのだそうです。キリスト教も、そのような部分があるようです。近年、日本において「宗教」に対する理解が、新しく行われ始めているということがあります。それは新興宗教のことではなく、既成の伝統的な「宗教」について、本来は、それが、どのような意味で、どのような状況にあったものなのかを探求していくところから始めているというものです。人間にとって時間が長くかかるものの一つなのかもしれません。

マタイによる福音書7章7節以下は、「求める」とは、祈ることであると語られています。祈りに対しては信頼することが必要です。イエスの神に対する態度がそうでした。

 私たちは親の愛の中に神を見ることがあるかもしれません。子を見る親の目というものも人間にとって普遍的なものでしょう。同時に、神の愛は全ての親の愛を超えています。「全知全能の神」という古典的なキリスト教の教理の言葉がありますが、その言葉が持つ意味は何でしょう。それは化石ではない生きた言葉であるということなのかもしれません。

それでは、なぜ神は困っている人を助けてくれないということがあるのか、それでも神は人を救うとか、神はいると言えるのか?そのような思いを持つのが人間として当たり前なのかもしれません。先日、ニュースを見ていましたら、放火殺人事件が報道されていました。放火した人は「イライラしていた。殺すのは誰でも良かった」と語っていました。悲しい世の中です。このようなこともある社会です。「それで神が全知全能であるという言葉に何の意味があるのか」ということになります。

古典的なキリスト教の教理の言葉は、現代人にとってもう古臭いだけのものなのでしょうか?イエスは私たちに「主の祈り」を教えただけではありませんでした。イエスは私たちに何を示したのでしょうか。イエスは私たち人間のために何をなさったのでしょうか。

私たちが、他人のために祈ったり、人に与えたりするのは、神によって既に与えられているということがあるからではないでしょうか。私たちはイエスを通して神によって既に恵みが与えられています。それゆえに、与えることができます。そのようなことが許されているのです。

私は今年の2月1日から13日まで、日本基督教団に属する教会関係の方々と10人程度でミクロネシア・ポナペ島という所にキリスト教主義学校を建てる手伝いにボランティアとして行ってきました。

ミクロネシアという国を皆さんは、あまりご存じないかと思いますが、私もそれほど詳しいわけではありませんが、ヤシの木がたくさん生えている南の島です。位置的には太平洋の、フィリピンよりは東側ですが、ハワイよりもかなり西側になります。そこにミクロネシア連邦という国がありますが、ポナペ島は、その中の州の一つで、赤道の近くにありますから、気候は熱帯性気候です。年間平均気温は27度、年間平均湿度は80%以上にも及びますから、大変蒸し蒸しした所で、洗濯物を干してもなかなか乾かないような環境です。焼き尽くすほどの熱い太陽が照りつけているかと思うと、突然、スコールという大雨が降る環境です。

そこで私たちが行った作業は、その学校の高校生や教職員の方々との共同での建築作業でした。初心者同然の私にとって、そのような作業には苦戦を強いられました。高い屋根の上を歩くような作業も含まれていました。そのようなジャングルの森の中での生活はなかなか大変なものでしたが、休憩時間には神学書を読み、毎晩、皆で聖書を読み、牧師の説き証しを聴き、祈りの時を持ち、禁酒禁煙の生活でした。

外国と言う場所は、私たちに不安や戸惑いを感じさせましたが、ポナペの人々は親日的です。日曜日には教会の礼拝に出席しましたが、特に日本基督教団に属する諸教会が中心となって数十年にもわたってその地で活動したこともあって、ポナペの人々と日本のキリスト者とは非常に良い関係を保ってきました。初対面の方が多いにも関わらず、子供から大人まで多くの人が私たちに笑顔で接してきました。そこにはポナペ島がアメリカの宣教師によって宣教がなされ、キリスト者が多く、日曜日にはほとんどの人がキリスト教会の礼拝に出席しているということがあるのでしょう。

ポナペの人々の笑顔を始めとする彼らのキリスト教精神と澄み切った青空や美しいサンゴ礁の海を始めとするその自然は、神に対する感謝の念と癒しを私たちに重ねて与えました。それは貧しい南の島の人々のためにボランティアとして何かをしてあげようという自分たちが、何かを与えられたように感じました。その作業も来年で終わりを迎えるそうです。

マルコによる福音書7章12節にある言葉は「黄金律」と呼ばれ、実践を含むものとされています。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉です。「黄金律」自体は、古代ギリシアにもありました。しかし、12節にあるイエスが語っている言葉は、神の御心ということです。

それは旧約聖書にある律法と預言を完成させるものとなっています。この言葉を語るイエスは私たちにとって慰めであるということを含んでいるのかもしれません。

近年、残念なことに家庭、学校、その他での児童虐待やセクハラ等が増加しているとされていますが、宗教おいてさえも(私たちの場合はそうではありませんが)、そのようなものがあるそうです。「可愛さ余って憎さ百倍」とは到底、思えないようなものもあるのが実状なのではないでしょうか。

 最近、「終りの時」という言葉が、軽率に使われているのでしょうか、よく耳にします。13節には、そのこととの関連で語られています。終わりの時における「永遠の命」というものは「狭き門」から得られるものです。それは神による裁きと救いという信仰によるものです。そこから「救いと行ない」が生み出されます。それは、神の国への入り口としての門です。しばしば、言われる「狭き門」ではありません。一流の、有名な所ということではないわけです。それは「黄金律」を実践する決断を伴うものです。「広い門」は滅びへの道です。それは地獄に行くということではありませんが、救いから離れようとすることです。

人間は人生において迷路に迷うということもあるのかもしれません。しかし、私たちは、この世の律法ではなく、聖書の律法によって罪人とされたにもかかわらず、神によって裁かれ、それゆえに、救われ、何をすべきかを教えられています。神は私たちに対して善い方です。人は、本当は既に神から何でも与えられているはずなのですが、人はなかなかそれを見ることができないものです。しかし、神に対して、その善き関係の中で与えられていると信じることによって何でも祈ることができるものなのです。それゆえに、私たちには、これからも感謝をもって生きていくことが望まれているのです。

 

 

・これは2009年7月12日に日本基督教団藤崎教会の主日礼拝で筆者によって語られた説教です。

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