レポート「『哲学的神概念の受容 ‐初期キリスト教神学の教義学的問題として』(ヴォルフハルト・パネンベルク)を読んで」               川上純平 2009年8月30日

 

 

 

(ヴォルフハルト・パネンベルク著、近藤勝彦・芳賀 力訳「五 哲学的神概念の受容 ‐初期キリスト教神学の教義学的問題として」『組織神学の根本問題』、1984年。 Grundfragen systematischer Theologie,Gesammelte Aufsätze,Göttingen,1967.もともとはZKG〈=Zeitschrift für Kirchengeschichte70,1959,S.1-45に収載されたものの再録)

 

 

 

 

 この論文「哲学的神概念の受容 ‐初期キリスト教神学の教義学的問題として」はドイツのプロテスタント神学者ヴォルフハルト・パネンベルクが1959年に雑誌“Zeitschrift für Kirchengeschichte”に発表したものであり、初期キリスト教神学者がギリシア哲学における神概念をどのように受容したのか、またそのことに、どのような意義と問題があるかについて述べたものである。

 パネンベルクは、まず20世紀のプロテスタント神学者であるアドルフ・フォン・ハルナックやカール・バルトらが19世紀のプロテスタント神学者アルブレヒト・リッチュルの影響によって古代キリスト教弁証家たちを低く評価していることをとりあげ、そこから初期キリスト教神学者の、特に古代キリスト教弁証家の神論がギリシア哲学との結びつきにおいて形作られたことに関して考察している。

 パネンベルクはそれをプラトン主義(古代ギリシア哲学者プラトンとその後継者たちの思想)との結びつきであると考え、初期キリスト教神学者たちはヘレニズム的世界観で生きていたゆえに、それを土台とする哲学的神概念に関して徹底して考えぬくことが出来なかったとしている。しかし、そうであるとすれば、初期キリスト教神学者たちの、そもそものキリスト教信仰はどのようなものであったのか、キリスト教信仰が変容されるということは必然的なものなのかということが考えられる。それは、つまり、彼らの神学が本質的な部分において聖書的なものであったのかということである。そこには彼らの神学形成が関わっているようである。

 一方、ギリシア哲学には、その土台となっているオリンピア(ギリシア南部地方で古代ギリシア神話に登場する神々の一人ゼウスの聖地とされた)神話における神々の特質が影響を与えている。その神々は「自然的秩序」に属しているとされ、存在させているものの究極的起源とされた。また古代ギリシア哲学は神と存在させるものを一者であるとし、その二つを結びつけた。しかし、それは今日で言う「唯一神教的な」ものではなかったと言える。またさらに、その神の本質は人間によって把握できないものとされ、特にギリシア哲学者でプラトン主義の土台を作ったとされるクセノファネスは一なる神を目に見える体を持ったものとは対立する不変で不動の異なるものとし、プラトンはその神を「精神・理性」として、同時に混じりけのない純粋で一なるものとして考えた。

彼らにおいては、神学者やキリスト教を信じる者にとっての「神とは何か」という問いが生じることはない。なぜなら、彼らはオリンピア神話における神々の特質の影響のもとで、神の存在を自明のものとし、それを前提にして彼らの「世界についての、また人間存在の解釈としての神はこのようなものである」と定義づけているに過ぎないからである。その点が特に初期キリスト教神学者とは全く異なる。

 しかし、ヘレニズム時代のユダヤ教やキリスト教の神学の中にこのような哲学的要素が存在するのは、それと手を結ぶためということだけでなく(197頁)、聖書に由来するからであるとパネンベルクは主張する。旧約聖書においてヤハウェ信仰はイスラエルの神が他の神々と結合したことによって生まれたものであり、そのヤハウェは地上を普遍的に支配するとされている(イザヤ書2章2節以下)。また新約聖書ではイエス・キリストの神が異邦人の神とされている(ローマの信徒への手紙3章9節)。

もっとも、それらはギリシア哲学の神概念と結びついたものではない。それはヘブライズムを源とした唯一神教なのである。それゆえに、、旧約聖書におけるバアル神のような異教の偶像に対する旧約聖書の神の位置づけやヨハネによる福音書におけるグノーシス主義の影響等も考慮する必要があるのではないか。もっとも聖書においてイエス・キリストの神は本質的な部分で形を変えてはいないであろうが。

パネンベルクは、ユダヤ人が非ユダヤ人の哲学的問いに対して「神ヤハウェは万人に関わりを持つ唯一の神である」(199頁)という言葉を含めてその問いに答え、伝道がなされることによって、神ヤハウェが哲学において述べられている神として認識されたのであり、後にキリスト教神学はその伝道方法に従ったとしている。

そのことが可能であったのは、プラトン主義的な宗教理解と聖書における神理解がそれほど似ていたからにほかならない。しかし、問題は両者の決定的な違いである。それはギリシア哲学が聖書の神の本質である自由で人格的な神による人間に対する恵みと選びという概念を理解しなかったということと関係する。

パネンベルクが言うように、キリスト教神学は哲学による批判によってキリスト教の神について考え続けることができ、キリスト教神学と哲学的神概念との接合は「哲学的神思想の根本にまで突き進む改造を試みる」ということ、あるいは、哲学的神思想の諸要素を「聖書的神信仰の批判的な光の中で改造しなければならない」ということであり、キリスト教の「神信仰の中に異質な内容を持ち込むこと」ではない(202、203頁)ということを忘れてはならないだろう。

 古代キリスト教神学者たちは哲学者たちの神論を皆同じように受容したわけではないが、彼らと哲学者たちの両方に共通の土台があったことに関して、それをある者は哲学者たちが旧約聖書を土台していた、あるいは、ギリシア人たちによる窃盗であるという理論で説明しようとしたとも言われる(205頁)。

それではギリシア哲学の神理解とユダヤ・キリスト教的神理解で最も類似しているものは何であろうか。先ほども触れたが、パネンベルクはそれを「神の一者性」というテーゼ(命題)であるとするが、それも詳細な部分においては異なっている。

初期キリスト教神学が「質料は永遠に神と共存する」という哲学思想を退けたことによって、はじめて、唯一神教の神概念を持つに至ったが、「事物が神から由来する」という考えはまだ哲学的に理解されていたのではないかとパネンベルクは主張する。

 一者性から生ずる神の「異質性」(神は唯一人、あるいは、一つのものであり、他に同じものはない、また他のものと共に存在することはないということ)に関しては、キリスト教弁証論においてプラトン主義は神の異質性を強調するものであるということによって聖書の神思想に特別に近いものとしている(もちろん、そこには「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の概念が考慮されるべきであるが)。キリスト教弁証者は神の霊についてパウロが理解したのとは異なり、神の精神性を非身体性(神は物体ではなく、不可減、不可変であるとすること)と関係づけることによって、プラトン主義の霊肉二元論に近いもの、「理性」としてしまった。

 「神の名」については言葉による表現が不可能であると、中期プラトン主義においては考えられていた。しかし、キリスト教弁証家は全て必ずしもこれを哲学的神論と関係付けたわけではない。2世紀の弁証家で中期プラトン主義を批判しつつ、葛藤の中にありながらもプラトンの影響を強く受けたユスティノスの場合、それをヘブライ思想とギリシア思想とを調和させようとしたアレキサンドリアの哲学者フィロンに遡らせることができる。その内容はグノーシス的であり、「もし誰かが名を持っているなら、名を与えたものは彼よりも古いもの」、彼に「先立って存在する者」[1]であり、神は生み出されたものではないゆえに名も持つことはないとする(212頁)。ユスティノスは、旧約聖書出エジプト記3章18節においてモーセに自らを示した神は「わたしはある(ヘブライ語で“エフエ”)」というものであるとしたことに関して、それを見えざる神御自身ではなく、御子イエス・キリストであったと解釈する。しかしながら、「神の名」に関して旧約聖書出エジプト記3章18節の解釈を含めて旧約聖書神学においては様々に論じられ、これらのことは「神の名」とは何なのかということと関係する。もちろん、神の名は神の属性(例:全知全能、永遠)や位格(例:父なる神)等とは異なる。

一方、グノーシス主義を論駁した神学者エイレナイオスの場合、神の本質について言葉による表現が不可能であることは、神がその偉大さのゆえにあらゆる人間的な認識を越えていることと関係しているとし、これを(後に述べる)神の純一性の中に見ている(213頁)。アレキサンドリアの神学者クレメンスも同様であり、神はいかなるカテゴリーによっても捉えられないとしている。そして、彼らの場合は哲学的考察を行っている。

 しかし、旧約聖書においても新約聖書のパウロにおいても、「聖性」は神の異質性を表わし、神と人間との関係においては人間による所有の行為が働く命名の行為は禁止され、神を認識することは不可能であることが大前提とされている。出エジプト記20章7節においては神の名をみだりに唱えることが禁止されている。それゆえに神の名」についての初期キリスト教神学者の思想は、ここでもまたパネンベルクが言うように、言葉による表現が不可能であるとするギリシア哲学に似ているに過ぎないと言える。

 同時にパネンベルクは「哲学はそれ自体として神の概念把握不可能性や異質性を本当に真剣に取り扱っているかどうかという問いを、哲学自体に向けるべきではなかったであろうか」と問うている(217頁)。しかし、その問いは彼ら古代キリスト教神学者たちにとって自明のものであったのかという問題を含んでいた。

神学者エイレナイオスは哲学的神概念に対して反論せず、神の愛の啓示内容を神の偉大さと並ぶ第二のものとし、神概念における哲学的要素とキリスト教の啓示神学的要素を重ね合わることによって中世スコラ神学の道備えを形作ってもいる(219頁)。

 初期キリスト教神学はギリシア哲学における「神の存在証明」と「遡及的推論(現存の世界からその起源にまで遡って推論する方法)」を受け入れ、パウロ的な神の自己告知、「神について人が知りうる事柄を神が示された」(ローマの信徒への手紙1章19節)ということ、人間による神的な真理の転倒、「神を知りながら神を崇めず感謝もしないこと」(ローマの信徒への手紙1章21節以下)について、パウロが言う哲学的な神問題に関しては深く考えることなく、これを軽視した。そこには聖書的な神思想を狭隘化し、超越的自由と全能とを縮小化するということが含まれていたとパネンベルクは主張する(220頁)。

 神の「不変性」(神が変わらない方、変化しないものであること)について、ユスティノスは、それが聖書的でないにもかかわらず、この言葉を用いていることに関して、聖書においては神が「運動しない方ではなく、そうではなくてこの内的な豊かさのなかで生ける方なのである」(222頁)とされていること、神はその自由な決断によって自己を変えず、自分自身の行為(例:イエス・キリストの行為)を捨てることなく、それを新しいものの中に合わせ受け入れていく方であるとしている(223頁)。

 哲学における「根源的原因の不変性」、「神の本性(自然)的な不変性」という概念は、神の歴史的行為についての神学的な理解、つまり、神の真実が偶然的・歴史的行為における自由として行われるという理解を妨害せざるを得なくなった。

プラトンにおける神の「純一性」も初期キリスト教神学の中に受け継がれているとされる。それは「不変性」から生じたものである。その「純一性」とは、これ以上は「分割され得ない」、「生まれたのでない方」、究極的起源としての神であった(226頁)。エイレナイオスにおいて神の純一性についての主張は、神は合成物ではなく、神の知恵は神とは別の産物でないゆえに、グノーシス主義批判となっている。彼において神の純一性という概念は「あらゆる完全性と属性の充満が神の中で統一の様態をとって実現していることを意味している」(227頁)。

パネンベルクは、エイレナイオスの主張が厳密には神の本質が属性のないものという結論に達するはずであるとする。ちなみにプラトンは神が属性のないものであるとする。プラトンにおいては第1原因はその純一性のゆえに特性を持たないもの、属性のないものということになるが、しかし、エイレナイオスにおいて、それは神概念に関して哲学思想を導入した際の誤りなのではないであろうかという問いも生ずる。属性とは何か、純一性は属性かという問題が関わってくるであろう。それは神についての学問的理解と信仰の関係として存在する。パネンベルクは、古代キリスト教神学は普遍実在論の制約のもとにあったゆえに神の純一性の思想から神の属性喪失という結論を引き出したとしている。

しかし、現代において、キリスト教神学はそのような哲学的神概念的制約からの脱却を必要とするのであろうか?もし必要であるとしたら、それは、どのようにかということになる。それは聖書の神がどのような方であるかということと無関係ではない。古代教会最大の神学者の一人オリゲネスのように神を属性のない純一性の神とすること[2]は抽象的超越的な神とすることになるとされる。しかし、それは厳密に批判されなかったともパネンベルクは主張する。さらにカール・バルトもこのことと関連して啓示についての問題を問うている。神に対してどのような属性が適切なのかを人間の側からたどることは可能であろうかということが生じる。

神的作用の偶然性(作用が原因の中に本質必然的に基礎づけられているのではないことによるもので、神が因果法則によるのではなく、自由に存在し行動するということ)を前提としていることにおいては、被造物に対する神の異質性が徹底的に保持される。それは、ある作用から原因の本質を推論することはできないことによる。世界についての様々なことに関して、その原因は神が行動したからであり、結果として、世界がこのようになったとは言いきれないからである。それに対して、神の働きと神の本質との因果的な類比連関は、「神を必然的に作用する世界根拠として理解するギリシャ的な神理解を前提としてのみ保持され得るだけである」(231頁)。その神は神自身で自由に行動する神ではなく、その神の本質は、全知全能や永遠性というような属性を持たないということになる。

聖書の神は、偶然的に働く神であり、「人格的」にその働きの中に存在している。その神は行為を「神の永遠の本質の属性となるように御自分のものとする。そして、そうすることによって神は一つの属性を獲得するのである。」神は「その行為の中にその本質を示す」。神の異質性は神についての適切な認識モデルが存在しないということによってはじめて表現されるものであるが、神の働きが「特定の属性の言表を引き出すことを損なうわけではない」(232頁)、それは、たとえば、神の行為によって神が永遠の存在であると言葉で言い表すことができるのである。

最後に、パネンベルクは「聖書的神証言の変形と維持」について語る。哲学的神概念は聖書的な神についての証言を理解するに際して、初期キリスト教神学に影響を与えている。「神の永遠性」についての思想の中に哲学的な永遠概念が入り込んできたと言える。アンティオキアの神学者イグナティオスは神を「時間のない方(άχρονος)」として定義づけている。無時間性ということと不変性は関連しているゆえに、不変であるものにとって時間は意味がないとされる。

しかし、不変であるものが時間というものを測定することはあり得るであろうか?。そのためであろうか、ユスティノスは「不可変的」という哲学の概念と「永遠的」という聖書的な概念とを同じものと考えた。一方、聖書における神の永遠性は全ての時に対して「力に満ちた同時性としてのみ理解される」(234頁)。初期キリスト教神学は神の「永遠性」を主張する際に、聖書の主張ともプラトンの主張とも受け止められるものを主張したのである。

神の義についても、聖書においては神が人と交わした契約に対して真実であることとされるのに対して、それがギリシャ的な「配分の正義(δικαιον διανομητικον/iustitia distributiva):各人の価値能力に応じて富は配分されるべきであるという能力主義的考え方」と考えられ、その人の功績に対して報いるものされた。

神の創造についても、ギリシア哲学的世界観は初期キリスト教神学に影響を与えている。パネンベルクはユスティノスは神の善を語ったが、それは聖書の神を示したのか、プラトン主義的な善のイデアを示したのかわからないのではないかとしている。しかしながら、エイレナイオスはアンティオキアのキリスト教弁証家テオフィロスがそうしたように神的な善の完全な自由を強調、クレメンスは、神は自由な意志で世界を創造したと考えた。神の自由を行使する全能については『ローマ信条』において強調されている。

パネンベルクの主張を総括すると、初期キリスト教神学が哲学的神概念を同化したことに関してリッチュルやハルナックの主張は完全に正しいとはと言えず、全体的に見ると初期キリスト教神学に哲学的神概念が無批判に受容されたわけではないということになる。初期キリスト教神学者たちは深く考察することなく哲学的神概念を取り入れたわけではないが、自分たちと最も近い思想概念を取り入れたのである。彼は初期キリスト教神学については、ヘレニズムの宗教哲学、ヘレニズム的ユダヤ教との比較研究が重要であり、初期キリスト教神学は「神の自由」を哲学的な意味での「神の本性」以上のものとしたと評価する。

哲学的な神概念とキリスト教的・ユダヤ教的な神概念との結びつきは徹底した意味では完全には処理されておらず、表面的なものとして、その結びつきが残っている。神の一体性と異質性は、哲学的な問題設定において、父と子の一体性、父と霊の一体性として、はじめて思惟され、三位一体の神の啓示が哲学的な問いに対して答えを与えるとパネンベルクは主張する。

さらに彼は哲学的神概念を批判的に造り変えることを初期キリスト教神学は根本的には完全に行えなかったが、キリスト教神概念から形而上学的要素を取り除いてはならないとしている。哲学的神概念の批判的受容は徹底した仕方で行われることが必要であり、そのことで「古代教会の神学作業との連続性が表現され」(243頁)、そこにおいて近代の形而上学の危機そのものの克服にも貢献するとも主張されている。そして、それは教理史で取り扱われる問題であるよりも、教義学において取り扱われる問題であろう。しかし、それをどのように行なうのか、また、そのことは教会における信仰の正しさということにどのような影響を与えるのであろうか、曖昧な部分もある。

このように、この論文においてパネンベルクは古代キリスト教神学者たちの哲学的神概念受容に関して、それは厳密さに欠け、また歴史的限界にありながらも、受容されたことを述べた。そして、彼は神概念に関してのみ触れているが、神論だけにどどまらないものではないであろうか。

また、これらのことは聖書の世界とは異質の現代日本におけるキリスト教の伝道についても語るものがあるのかもしれない。

 

 

〈参考資料〉

 

・小高 毅編『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』、教文館、1999年。

・『キリスト教大事典』、教文館、1991年〈改訂新版第10版〉。

・『岩波キリスト教辞典』、岩波書店、2002年。

・『岩波哲学・思想事典』、岩波書店、1998年。



[1] 柴田 有訳 (小高 毅編『原典 古代キリスト教思想史 1 初期キリスト教思想家』、1999年、60頁より引用、以下『初期思想』と略す)

[2]  『初期思想』、333頁。