「私と『キリスト教』との出会い」                                    川上純平 (20099) 

 

川上純平と言います。よろしくお願いします。今日は、「私と『キリスト教』との出会い」と題して皆さんにお話をさせていただきます。

私は今日本基督教団という教会が集まった団体に属していて、この津軽の地域のいくつかの教会で聖書研究や礼拝説教を担当させていただいています。私はキリスト教の教会の牧師の家庭に生まれ育ちました。ですから、「キリスト教」に生まれた時から出会っているわけですが、私が幼い頃から親しんだのはルターやカルヴァンといった人たちを起源とするプロテスタントという教派の「キリスト教」です。しかしながら、皆さんはご存じでしょうか、「キリスト教」にも様々なものがあります。

私は幼い頃からキリスト教に親しんだと言いましたが、子供の頃からキリスト教を信じていたわけではありません。神様の存在を信じていたわけではないのです。信仰を持つようになったのは高校生の時からです。よくわかっていなかったということもあるかもしれません。

それでは、それまではどうしていたのかと言うと、確かに教会学校(つまり、子供の教会)に通ったり、大人の礼拝に出席したりはしていましたが、それは親に言われて何となく出席していたにすぎません。学校のクラブ活動が忙しくなっていくと、もう教会には行きませんでした。

しかし、高校生の頃になって、また教会に行き始めました。不思議なものです。神様の導きだと今でも信じています。

私たちは、今、このようにキリスト教主義の学校で学んでいますから、一般の人々と比べて聖書やキリスト教に触れることがまだ当たり前のように感じられるのではないかと思います。なぜなら、日本で生まれ育った場合、たいていの場合は、キリスト教というものは当たり前のようにあるものではないからです。

「いや、クリスマスとかサンタクロースとかはキリスト教とは違うのかな」と皆さんは疑問に思われるかもしれません。確かにクリスマスやサンタクロースはキリスト教と大いに関係があります。でも、私たちは、そういったものが、どう関係あるのか、この学校で、あるいは教会等を通して初めて知ったと思うのです。

もし、クリスマスはどうしてクリスマスと言うのか、なぜその時に祝うのか、サンタクロースはなぜ子どもたちにプレゼントを渡すことになっているのか、その意味がわからないとキリスト教に触れたことにはならないのではないでしょうか。なぜなら、それは上澄み部分だけをすくったようなものだからです。

言いかえれば、シュークリームの皮の部分だけ食べて、それで「これがシュークリームか」と思うようなものです。菓子パンで言うなら、チョココロネの外側のパンの部分だけを食べてチョコレートクリームを食べないようなものなのです。きっかけは与えられているのに、それっきりということです。

それは、どうしてそうなってしまうのかと言うと、クリームの部分が、おいしくないからではなくて、見栄えがしない、儲からない、馴染みがないものだからです。でも、それはキリスト教では最も大切な部分です。

それでは、どうしてヨーロッパにあるキリスト教のカトリック教会は、あんなにきらびやかに飾られているのかということが疑問としてあるのではないかと思います。

私は最初に「私と『キリスト教』との出会い」と題してお話します、と言いましたが、それは様々なキリスト教との出会いということです。それらは、まとめて言うなら、ヨーロッパのカトリック教会みたいなものよりも、むしろ目立たないような、意外な所で繋がっているということの方が多いということでしょうか。そういった意味での「キリスト教との出会い」です。今日は、その中からイスラエルに行った時のことを皆さんにお話ししたいと思います。

私は今から15年ほど前ですが、京都にある同志社大学の神学部というキリスト教や聖書について専門的に学ぶ学校に行っていました。牧師になるため、神学という難しいお勉強をしていたのです。

その頃、学生でしたが、運よく機会に恵まれて「イスラエル」という国に教会関係の方々と団体で行くことになりました。皆さんはこの「イスラエル」という名称をお聞きになったことがあるでしょうか。このイスラエルという国は聖書の物語の舞台となった所です。聖書の後ろにもイスラエル周辺地域の地図が載っています(地図1)。この国は日本の四国ぐらいの大きさの国です。日本よりは西側にあります。ドイツやフランス等のヨーロッパ等の国よりは東側にあります。ヨーロッパより東にあるという、それだけで、昔、イスラエルはアジアの一部と思われていました。それは昔のヨーロッパの人々の世界観、考え方によるものです。私たちから見るとどうでしょう。同じアジアでしょうか。

今では、よくニュースで戦争との関連で時々報道されていますね。アメリカとの関係とか、中東、パレスチナ、ガザというような言葉をお聞きになったことがあるかと思います。ガザという所はイスラエルの国の中にあって、今年の1月にイスラエルが攻撃をした所です。聖書よりも戦争の舞台になっているのではないかと思うほどの事件でした。

しかし、このイスラエルという所は「聖地」と呼ばれています。聖地というのは、「聖なる土地」と書いて「聖地」ということです。ユダヤ教とキリスト教(但し、プロテスタント以外の教派)とイスラム教という世界三大宗教の聖地と呼ばれる所があるからです。

よく日本の秋葉原とか東京ビッグサイトがオタクの聖地というような言い方をしますが、同じ「聖地」でも、そういう所とは全然違います。何が違うのかと言うと、雰囲気が全然違うのです。

イスラエルまでは飛行機で行きましたが、イギリス経由で16時間以上かけて行きました。日本とイスラエルとでは7時間時差があります。日本の方が7時間早いのです。ですから、日本がお昼の12時なら、イスラエルはまだ、その日の朝の5時なのです。そうすると、時差ぼけになります。慣れるまでは大変でした。昼間眠気がさし、夜眠れないという状態です。

そんな状態でも、イスラエルに着いて、まず、イスラエルの南の方に行きました。聖書の後ろの方に「地図2.出エジプトの道」という地図があります。旧約聖書の出エジプト記には王様ファラオの奴隷としてこき使われていたイスラエルの人々が神の導きでモーセに連れられてエジプトを脱出し、現在のイスラエル(カナン)に定住する話がありますが、この地図にはイスラエルの人々が歩いた道が記されています。この地図の右上にある「ツインの荒れ野」周辺地域に行ってみました。

イスラエルは場所によっては、荒れ果てた砂漠が地平線の彼方まで続いているような所があります。砂漠と言っても、いろいろありますが、たとえば、空には月が出ているような所で鳥取砂丘のような砂埃が飛ぶほど細かい砂で出来た砂漠に人を乗せたラクダが歩いているという光景とは少し違うのです。それでは、どういう所かと言うと、季節は12月なのに、空を見渡すとは青空で、それが360度、果てしがないほど続いています。ぎらぎらと照りつける太陽で夏の暑さ以上に暑い所でした。ごつごつした岩があちこちに転がっていて、草や木が所々に生えているのは、まだマシな方で、場所によっては草木も生えていないような所もありました。動物の姿もなかなか見受けられません。それが延々と地平線の彼方まで続いています。

そして、そういった場所に行くと、どういった気分になるかと言いますと、広大な自然の雄大さと、その中で本当に人間が無力でちっぽけな存在であることを思わされます。私という一人の人間とこの世界を造った神との関係を考えさせられる、そのような気分になります。

ですから、聖書の時代、今から数千年前に、そのような地域に生きた人は、本当に死ぬか生きるかということを絶えず考えさせられていたのではないかと思います。場所によっては山賊(追い剥ぎ)の出てくるような所ですから、自分の、そして、自分の家族や部族の身の安全を考えなければならなくなってしまいます。食料は保存の効くものが必需品だったでしょうし、水がなければ、まず生きていけないとされたことでしょう。実際、私たちもミネラルウォーターを購入して訪れました。

ところで、旧約聖書には詩編42編(875頁)という箇所があります。詩編というのは旧約聖書の時代に礼拝で歌われた讃美歌であるわけです。

イスラエルの季節には雨季と乾季がありますが、南部の方では、雨季は大雨となり、大洪水が発生します。乾季には灼熱の太陽と熱風の季節となります。

この詩編の意味は、そのイスラエルの南の地方の砂漠のような所は、場所によっては大雨の降る時期でなければ、灼熱の太陽でカラカラに干からびた谷に水は流れていないということが関係しています。でも、そこに鹿がわざわざ降りてきて水を飲もうとする、水が流れていないのに、他の所にも水が流れていなかったのかもしれない、だから、谷底にある小さな川に水が流れているのだろうと思ってやって来たのに水は流れていなかった、しかし、それでも水を求めて飲もうとすることを歌っています。

それは作者の心境に照らして言うなら、自分は鹿が水の流れていない所に水を求めるほど、それほど、あなた、つまり神様の救いを求めています、という意味です。

詩編には神に対する様々な人間の思いも記されています。詩編の中には、詩編を作った人は、こんなことも考えていたのかという箇所もあります。これからも、どうぞ機会があれば、詩編をお読みになって下さい。

次にイスラエルの北の方に行きました。イスラエルという国は縦長の国です。北と南とでは全く気候が違います。12月に行きましたから、北の方は、南の方とは全く違う気候で、長袖でないと寒かったような記憶があります。

北の地域で印象に残った場所としてはガリラヤ湖という湖があります。およそ144平方キロメートルほどの大きさの湖です。聖書の後ろにある地図6をご覧下さい。ガリラヤ湖は新約聖書に何度か登場します。イエス・キリストがペトロを始めとする弟子たちを招いた所でもあります。ガリラヤ湖の岸辺付近にはイエス・キリストが大勢の人に話をしたり、人々の病気を癒したり、パンと魚を5000人分配ったと言われている丘のような所があります。

新約聖書マタイによる福音書5章3‐12節(6頁)は「山上の垂訓」と呼ばれている箇所です。イエス・キリストがおそらくガリラヤ湖の岸辺で人々に話したのではないかと言われています。皆さんは聖書を読んで心に残った言葉、印象に残った箇所はないでしょうか。そして、その場面は、どんな情景だったのだろうかと思ったことはないでしょうか。

そのガリラヤ湖の岸辺にある丘はちょうど、なだらかな斜面になっていました。実際に私たち日本から行ったグループでそこで礼拝もしてみましたが、そこで、ある疑問がありました。マイクがない時代にイエス・キリストはどうやって大勢の人々に話をしたのかということです。しかし、そこに行ってわかりました。なだらかな斜面に上の方から下を向いて人々が座って、そして、斜面の下の方から上に向かって喋ると、座っている全員に喋っている声が聞こえるということだったのです。地中海世界一帯にはローマの円形劇場跡があります。それは、今言ったような仕組みを利用して座席が石段のように段々に丸く組んである劇場です。そして、当時の人は下の方にあるステージで歌を歌ったり、劇をしたりしたわけです。

その次に聖地エルサレムに行きました(地図6)。先ほど言いましたように、エルサレムという所は、世界三大宗教の聖地です。それはユダヤ教、キリスト教(但し、カトリック、正教会)、イスラム教です。皆さんは、これらの宗教のそれぞれの違いをご存知でしょうか。

ちなみにイギリスのロックバンドにビートルズというバンドがいましたが、そのビートルズのマネージャーのお家の宗教はユダヤ教でした。ですから、幼い頃、ビートルズのマネージャーはユダヤ教の会堂に礼拝に行ったそうです。ビートルズのメンバーにはポール・マッカートニーという人がいましたが、この人はお父さんがプロテスタント、お母さんがカトリックだったそうです。子どもの頃、どちらの教会に行ったかは定かではありません。

エルサレムという所は、それぞれの宗教についての知識がなければわけがわからない所です。たとえば、ユダヤ教の人たちはキリスト教徒と違って、旧約聖書だけを絶対としています。この絶対ということは、神の言葉であるから、命よりも大切なものであるということです。そして、ユダヤ教の人々は「コシェル」という特別な食事をします。

ちなみにイスラエルという国は第2次世界大戦後、国として建国されました。今のイスラエルの人々の祖先のユダヤ人の多くは第2次世界大戦中、世界中に散らばっていました。そして、ナチス・ドイツによって数百万のイスラエルの人々の祖先にあたるユダヤ人が強制収容所に入れられたり、迫害されたりして殺されました。ユダヤ人は敵国の人間だからというのではなく、イエス・キリストを殺した民族、お金もうけしか考えていない、汚れた人々だというレッテルがヨーロッパの人々、特にドイツ人の中にあったのです。

そして、その人々が戦後にイスラエルの土地に戻ってきて出来た国なのです。それに世界各国からイスラエルの聖地に向かって巡礼客が多く来るわけですから、イスラエルでは中華料理からハンバーガーまで様々な料理が食されています。

それでも、そのイスラエルにいるユダヤ教徒の旧約聖書に書かれてあることだけを絶対だとする人々は、旧約聖書に記されている内容の食事だけを今でもしています。それが「コシェル」です。旧約聖書のレビ記11章9‐11節(177頁)に記されているように、貝、海老は食べてはいけないことになります。旧約聖書では、他にも豚肉は食べてはいけませんし、牛乳で作った製品と牛肉を一緒に食べてはいけないと書いてあります。ですから、カキフライも海老フライも、肉まんもユダヤ教の人は食べませんし、ミルクとビーフのハンバーガーの組み合わせは許されないことになっています。

ユダヤ教の人々にとってはそれで満ち足りた素晴らしいものなのです。イスラエルでは、たいていのレストランでは観光客用の料理と一緒にユダヤ教徒用の料理も用意してあります。

エルサレムというのは、そういう地域なのですが、それではキリスト教はどうなっているのかと言うと、エルサレムの中心部は宗教ごとに区分けがなされています。その中にキリスト教の区域があるわけです。

そこには興味深い教会がありました。それは「聖墳墓教会」という教会です。この教会はイエス・キリストのお墓の上に建てられた教会とされています。畏れ多い有難い場所ということで、今でも世界各地から多くのキリスト教徒が集まって来ます。

でも、この教会はイエス・キリストのお墓の上にありますから、最も神聖な場所として様々な教派ごとに場所を取り合うようにひしめき合っています。建物の中に、カトリックの礼拝堂、ギリシア正教の礼拝堂、それ以外の教派の礼拝堂というように、建物は同じ屋根の下なのにいくつかの教派ごとに礼拝する所が違います。

普通は教会とか、礼拝堂というと、カトリックなら、カトリックの礼拝堂、プロテスタントなら、プロテスタントの礼拝堂が独自に建てられているわけです。

それでは、この教会全体をどのような人が管理しているかと言いますと、わかりますか?いくつかの教派が同じ建物の中にあるわけですから、当番で管理しているのかと言うと、そうではありません。イスラム教徒が、毎朝、その教会全体の扉を、開ける決まりになっているのだそうです。教派間のケンカになるのを避けるためでしょうか。

しかし、それぞれの礼拝堂は荘厳な雰囲気に包まれたものになっています。およそ2000年の歴史の重みを感じました。人々の神に対する思いがここまで結晶させたのかと思わされました。その宗教的な雰囲気は、日本の仏教寺院にも似ています。

暗い礼拝堂の中にたくさんのロウソクが灯されていたり、香が焚かれていたり、イコンというイエス・キリストやマリアの絵、それから金や銀の様々な飾り付けがなされていました。あちこちから、いろんな国のいろんな讃美歌が聞こえてきました。香をたいたり、イコンを飾ったりするのは東方正教会(ギリシア正教会)という教派です。その教派は目に見えるものを通して目に見えないお方を拝むということが信仰としてあるのです。

ただそこにはプロテスタントの礼拝堂はありません。私たちは「プロテスタント」という教派の信徒ですので、少し離れた所にあるプロテスタントの教会に礼拝に行きました。私たちが、その時に行ったのは「ルター派」という教派の教会でした。宗教改革者のマルティン・ルターの教えに基づく教会です。

しかし、ルターは、プロテスタントという教派を作った人なのですが、礼拝はそれまでのカトリック教会の形式を、かなり取り入れた人でした。そうすると、ルター派の礼拝はカトリック教会の礼拝に近いものになってしまいます。

それでは、プロテスタント式の礼拝の形式は誰が作ったのかと言うと、ルターの後に宗教改革を行なった人たちです。ですから、私たちが行ったその教会はカトリック教会のようにきらびやかな飾り付けがなされたりしました。内容もプロテスタント式の礼拝のように素朴なものではありませんでした。私たちが知っているプロテスタント式の礼拝というと、イエス・キリストやマリアの絵も像も飾り付けもありません。なぜなら、私たちはそういう像を通して神様を拝む信仰ではないからです。私は初めてルター派の礼拝に出席したその時に、で自分がプロテスタントの礼拝はこういうものだと、それまで思っていたものとは明らかに違いましたから、カルチャーショックを受けたことを覚えています。

そもそもイスラエルでは、何もかもがカルチャーショックなわけです。イスラエルの国には聖書との関連で観光地がたくさんあるわけですが、そのような所では、たいてい小学生ぐらいの子供たちがグループで絵はがきや小物類等を売っています。日本人やヨーロッパ人がその観光地にやって来ると、必ずと言っていいほど「ワンダラー」、つまり「1ドルでどうですか」と言いながら、絵はがきや小物類を差し出してくるわけです。お小遣いというよりも生活のためにという印象があります。イスラエルでは経済的状況も様々です。

先ほど、イエス・キリストが十字架に架けられたとされる場所に建てられた教会の話をしましたが、新約聖書にはイエス・キリストが死んで復活した時に、弟子たちの前に姿を現わしたと記しています。エマオという場所で弟子たちに現れたとルカによる福音書24章13節以下(160頁)には記されています。これはイエス・キリストが十字架に架けられて死んで墓に葬られた後のお話です。弟子たちが意気消沈している所にイエス・キリストがやって来て弟子たちは喜んだという箇所です。実際に「エマオ」とされる場所にも向かいました。聖書の後ろの地図6にもあります。

さて、そのエマオとされている所にバスで行ってきました。でも、そこはエルサレムから西へ25キロメートルほど行った所でした。ヨーロッパの歴史の中で重要な時期にイエス・キリストの復活等を記念して教会や修道院が建てられました。

しかし、エルサレムから11キロメートル離れたとある村には、やはり教会が建てられて、ローマ時代の道路の跡が発見されている所があります。ですから、そこもエマオなのではないかと言われています。さらにエルサレムから西に12キロメートルほど行った所にも教会が建てられ、ここがエマオであるとされてきたということもあります。このようにエマオだけでも3つの地域があって、学者の間でも議論がなされているそうです。

私たちが行ったエルサレムから25キロメートルほどの距離の所にある「エマオ」という所は本当に何もないような荒野に近いような所に道があって、そして、その時は、ちょうど、時間帯は朝だったわけですが、霧がかかっていました。

弟子たちが復活したイエス・キリストに出会った時にも、もしかすると霧でイエス・キリストの姿が見えなかった、あるいはお互いの顔があまりよく見えないような場所であったのではないかと、その時、思ったことを覚えています。しかし、復活したイエス・キリストに出会った弟子たちはどのように変わったのでしょうか。皆さんはご存じですか。

その時のイスラエル旅行では現地にいる日本人の方が通訳兼ガイドをして下さいました。その方はイスラエルの大学に聖書の勉強をするために留学していた方でした。懇切丁寧なガイドの方だったので、きちんと案内して下さって本当に素晴らしい旅行となりました。

このように、キリスト教と言っても様々なタイプのキリスト教があります。しかも、どのキリスト教もイエス・キリストを信じているという点では変わりありません。確かにイスラエルでイエス・キリストを信じるのと日本でイエス・キリストを信じるのとでは、いろいろなことが全く違うかもしれません。しかし、距離が数千キロメートル離れていても、それでもキリスト教なのです。千数百年かけてイスラエルから、ヨーロッパを通ってフランシスコ・ザビエルを通して日本にたどり着いたカトリック、ヨーロッパからアメリカを経て日本にたどり着いたプロテスタント、日本にプロテスタントが伝わって今年で150周年とも、163周年とも言われています。どのキリスト教も人を通して伝えられました。そして、その源はすべて聖書にあります。距離が離れていても自らがイエス・キリストを信じるということで、神と、そして、人々とつながっているのです。

ただ残念なことに、先ほどお話しましたように、宗教同士の、あるいは、同じ宗教でも教派間の対立は「宗教」がなくなれば良いとか、「教え」がなくなれば良いとかいうことで解決するような甘いものではありません。その背景には、その国の歴史や経済や政治もからんでいます。今回はそのことについては、時間がなくあまりお話できませんでしたが、皆さんも様々な意味で「キリスト教」と出会うチャンスがあると思いますので、どうぞ様々な意味でキリスト教を探求して下さればと思います。

 

これは2009年9月に日本基督教団奥羽教区北西地区のキリスト教主義学校の聖書科授業において筆者によって話されたものです。

 

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