論文日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 

(2)アメリカン・ボードの日本伝道から現代まで」

川上純平  200911・9

 

 

 

第4章 日本組合基督教会の設立

 

(1)設立に至るまで

 

a アメリカン・ボードの日本伝道、組合教会との関係

 

アメリカン・ボードは日本への伝道(ここで言われている「伝道」は「宣教」と同じ意味である)に際して、日本で伝道を行うことによって信徒が生まれた時には教会を組織し、信徒を自給自治のために訓練すべきことを指示されていた。

1874年に摂津第一基督公会(神戸公会の前身、後の日本基督教団神戸教会)が1869年に来日したアメリカン・ボードの最初の宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンを仮牧師として11名で設立されたが、それまでにグリーンらによる活動を忘れてはならないであろう。もっとも、グリーンは既に横浜の地にアメリカの長老・改革派系の宣教師が訪れ、宣教活動を行っていたため、競合を回避して、神戸で伝道を始めたわけである。神戸の地にアメリカン・ボード宣教師の影響によって教会が建てられたことには当時の兵庫県知事であった神田孝平によるキリスト教に対する好意(1)や三田知事となった九鬼隆義の力が関係しているとも言われている。神戸の地が、国際的で、宗教的な地であったことに加えて、(2)この時代、没落士族ゆえに、経済的に困窮する一方で、知識人であった者が多かったことも、その一因となったと言えるかもしれない。しかし、それはアメリカン・ボード宣教師たちによる影響、またその土地の人々の信仰がなければなされなかったものなのである。

神戸の地にはアメリカン・ボード宣教師として数名の者がいた。それはメソジスト教会員であったが、アメリカン・ボード宣教医として来日し、刑務所の制度改良にも尽力したジョン・キューティング・ベリー、同志社創立に協力したジェローム・ディーン・デーヴィス、アメリカン・ボードの女性宣教師としては最初に日本に訪れ、神戸女学院、鳥取英和女学校等を設立したエリザ・タルカットとジュリア・エリザベス・ダッドレーらである。また中国地方や今治や土佐等の四国地方にも伝道を行なったジョン・レイドロウ・アッキンソンらがいた。

グリーンらは1872年頃から神戸の地で英語学校を始めている。それは一時廃校になったが、神戸女学院や同志社創立に影響を与えるものとなった。彼らは、その後、礼拝堂のある書店を経営し、その礼拝堂で1873年から日本語による礼拝と祈祷会を始めた。そして、その祈祷会において神戸公会設立という教会形成と伝道への霊的な成長が促されたのであった。(3)

滋賀方面への伝道がなされたのもこの頃である。既に1872年にアメリカン・ボード宣教師のオラメル・ヒンクリー・ギューリックとアン・エリザ・ギューリックが、続けて、1873年にグリーン夫妻、デーヴィス夫妻らが滋賀県へ伝道に向かった。1879年に、神戸公会で洗礼を受けて同志社で学んだ23歳の本間重慶を牧師として12名により彦根教会(後の日本基督教団彦根教会)が設立されたが、ここにおいては、当時、差別されていた者も教会員として受け入れられており、また日本人キリスト者による説教が一般の日本人に聞き入れられる可能性を経験できたとされる。(4)

神戸公会設立の年、1874年に、梅本町公会(後の大阪基督教会)もアメリカン・ボード宣教医のマーキス・ラファイエット・ゴードンによって洗礼を受けた5名と2名の転会者によって設立された。

ゴードンはカンバーランド長老教会の信徒であったが、アンドーヴァー神学校を卒業後、医学を修め、アメリカン・ボード宣教医として1872年に来日した。彼はこの年、オラメル・ヒンクリー・ギューリックと共に大阪にミッション・ステーション(その地域における宣教師の組織団体)を作り、アン・エリザ・ギューリックとアグネス・ヘレン・ゴードンは女性の教育を始めた。翌年、ゴードンの家で30名の学生によって学校を開校、日曜日には礼拝も行ない、グリーン、デーヴィスがこれを手伝った。感動的な祈りと気運の高まりにより教会(梅本町公会)が設立された。またこの教会から医療奉仕を兼ねた伝道のための松村出張所が設立された。この出張所は、後に高木出張所(診察所)と呼ばれるようになり、そこにおいて、1877年に日本最初の自給教会である浪花公会(後の日本基督教団浪花教会)が11名で設立された。初代牧師の沢山保羅は日本で最初に按手礼を受けた25歳の牧師であった。(5) 沢山は日本伝道は日本人が行なうべきであるというアメリカン・ボード宣教師ホラース・ホール・レーヴィットの影響を受けていた。1879年には天満橋教会(後の日本基督教団天満教会)が沢山保羅を兼任牧師として浪花公会の9名の信徒とレーヴィットの応援により設立されており、さらに浪花公会信徒であった成瀬仁蔵らが大和郡山からの伝道要請を受けて1880年から沢山と共に同地で伝道を始め、1884年に大和郡山教会(後の日本基督教団大和郡山教会)が26歳の成瀬仁蔵を牧師として21名で設立されている。(6)

さらに1882年には大阪教会(後の日本基督教団大阪教会)の信徒たち24名(あるいは19名)を中心として島之内教会(後の日本基督教団島之内教会)が設立され、牧師として同志社で神学を学び、デーヴィスから按手礼を受けた24歳の上原方立が1884年に就任した。(7)岸和田教会(後の日本基督教団岸和田教会)は、1878年に岸和田藩主であった岡部長職の伝道依頼によって新島襄が伝道を行なったことに始まり、アメリカン・ボード及び大阪の会衆派諸教会の援助によって、1885年に教会設立式が行われた。その後も岸和田教会はアメリカン・ボードから援助を受けていたが、1888年にはこの援助を返上すると同時に、伝道活動それ自体はアメリカン・ボードからの支援を得ていた。(8)このように商人の町である大阪において、ミッション・ステーションが作られ、青年キリスト者の活動が活発になされたのである。

1872年、デーヴィスは兵庫県三田に訪れることになった。それは彼が同県の有馬に滞在していた時に3人の侍の訪問を受け、彼らに聖書の話をしたことがきっかけであった。1873年に宣教医ベリーが三田の九鬼家に滞在し聖書研究を行なったことによって、デーヴィス夫妻らも三田で聖書研究を行なうようにもなった。(9)これが土台となり、1875年には三田公会(後の日本基督教団摂津三田教会)がギューリックを仮牧師として16名の信徒によって設立された。1876年には1874年のグリーンの伝道から始まった兵庫公会(後の日本基督教団兵庫教会)が29歳の村上俊吉を牧師助手として16名で設立された。さらに1877年には摂津第一公会(後の神戸公会)を母体として多聞基督教会(後の日本基督教団神戸多聞教会)が30歳の横山(二階堂)円造を教務主任としてギューリック一家、アッキンソン、村上俊吉らの助けによって18名で設立されている。一方、ベリーは1873年から神戸の病院で診療を行ないつつ、祈祷会も開いたが、兵庫県の明石等においても診療所を設置し礼拝を行ない、聖書を配布した。(10)この頃、ギューリック、村上俊吉、摂津第一公会の信徒であった今村謙吉らの意向によって日本で最初のキリスト教週刊紙『七一雑報』というキリスト教界の新聞も発行されている。

神戸公会はそれまで伝道費を日本人が拠出し、教会の経費をミッション(伝道団体:この場合はアメリカン・ボードの方針を行なう決定権を持つ)からの援助に頼っていたが、浪花公会において沢山保羅が牧師に就任したことや三田公会が自分たちで会堂建築を始めたことに刺激を受け、自給自立のために独立しようとした。1877年に、大阪基督教会(後の大阪教会)も宣教師に頼ることなく自給自立の道を歩み始めた。それはミッションが教会を自立させるという方針とはやや異なるものであった。またこの頃は日本の信徒による努力にもかかわらず、宣教師たちがミッション・ステーションによって教会の活動を考えたゆえに、教会の自治は考えられないものでもあった。この頃、独立自給した教会の形成はどこの国でもまだ実現されていない課題でもあったとも言われている(11)

京都においては、「京都ステーション」が設立されたわけであるが、1875年に新島によって建てられたキリスト教主義学校である同志社が「教育ステーション」であった。ただ当初、京都においては京都府知事植村正直により宣教師による医療活動は、積極的には受け入れられなかったが、知事の交代もありキリスト教が徐々に理解されるようになった。(12)

1876年に京都第一公会(西京第一公会 後の日本基督教団平安教会)が18歳の市原盛宏を仮牧師としてラーネッド宅(13)において17名で設立、同じ年に、京都第二公会(西京第二公会)が新島を仮牧師として新島宅において23名で設立されている。この京都第二公会はデーヴィス、ゴードン、ラーネッドが協力し、1886年には同志社校内に移転され同志社教会(後の日本基督教団同志社教会)として新しく発足した。この教会は新島によるキリスト教学園の精神的中心としての学園教会設立の志によるものであり、経済力の弱い学生が主体である同志社関係者による教会であった(14)さらに1876年に京都第三公会(西京第三公会)が本間重慶を仮牧師としてドーン宅(アメリカン・ボード宣教師であったエドワード・タッピング・ドーンの住居)において23名で設立された。(15)1885年には京都第三公会からの21名を中心にして京都第四公会(西京第四公会 後の日本基督教団京都教会)が神学生竹原義久を仮牧師として京都第三公会信徒であった沢寅吉宅において33名で設立。デーヴィス、ゴードン、新島、金森らが協力した。この教会の設立に関しては当時の同志社におけるリバイバル運動の影響とゴードンによる京都の下町商人への伝道に対する志及び信徒たちが京都市民による独立自治の教会設立を願っていたということがあった。(16)1887年に京都第三公会は京都第一公会と合併して170名で平安教会(日本基督教団平安教会)を設立している。「京都ステーション」については京都という土地が内陸部であったという特異性もあり、そのことも伝道に影響を与えたと思われる。(17)

1879年までにミッション(日本ミッション)においてはステーション毎に「自給観」や「伝道観」に違いが生じ始め、医療活動は、その地域毎に受入態勢が異なったにもかかわらず、後に現地医師が伝道活動に影響を及ぼすことが高く評価されるに至った(18)

 さらに1877年に沢山によって「日本基督伝道会社」が設立されたが、この団体は日本の会衆派に連なる教会の信徒たちが自発的に作った伝道団体であり、国内各地の諸教会からの献金によって各地に伝道者を派遣した。この「日本基督伝道会社」設立と同志社神学生の伝道活動により、1882年から神戸教会の牧師である19歳の原田助やアッキンソンらによる開拓伝道が行われることにより、1885年、現在の兵庫県西宮市に西宮教会(後の日本基督教団西宮教会)が戸川安宅を仮牧師として22名(その多くが地元有力者や資産家)で設立された。(19)

「日本基督伝道会社」設立後、1879年に同志社を卒業した伝道者たちが直接伝道(そのほとんどが開拓伝道)を行ない始めたため、会衆派に連なる教会の信徒たちが伝道会社、伝道者たちを経済的に支えられなくなっていった。それらの伝道者たちの中でも、例えば小崎弘道(牧師、後の同志社社長)と金森通倫(後の同志社神学校校長)の場合を例にあげてみよう。

関西にいた際に会衆主義の影響を受け、上京した青年たちによる群羊社の11名で1879年12月に新肴町教会(後の日本基督教団霊南坂教会)が23歳の小崎弘道によって東京で初めての会衆派教会として設立された。この教会はアメリカン・ボードや日本基督伝道会社の支援や諒解等を得て設立されたわけではなく、最初、新島襄を通して伝道会社から援助をもらうほど経済面で困難な道を歩んだ。ところが、後に小崎弘道は東京第一基督教会(新肴町教会をその前身とし、1882年に麻布にあった日本基督教会と合併して出来た教会、後の日本基督教団霊南坂教会)からの転入会者11名を含む30名の教会員(そこには政治家や大学教授等が少なくなかった)によって1886年に番町教会(後の日本基督教団番町教会)を設立し、その初代牧師となってもいる。(20)

1875年から旧藩士で水平社運動の先覚者中川横太郎らによって岡山県に招かれて医療伝道を行なったアメリカン・ボード宣教医ワレス・テーラーやアッキンソンらによって、その土台が築かれた岡山教会(後の日本基督教団岡山教会)が23歳の金森通倫によって1880年に設立された。この教会は他教会からも、ミッションからも援助を受けず、自給自立を主張した。教会設立にあたっては、同志社で神学教授、神戸女学院初代理事長を務めることになるアメリカン・ボード宣教師オーティス・ケリー・ジュニアが中川横太郎に同意しつつ、誰が教会員になるか洗礼を受ける者の信仰について明確にする必要があると考えた。献堂式及び按手式には被差別部落のキリスト者が同席することによって部落に対する偏見が克服されたとされている。岡山においては、県令や高官から伝道活動を了承され、岡山を中心としてアメリカン・ボードはミッション・ステーションを新たに作り、後述するが、日本人キリスト者の寄付によるキリスト教主義学校も建てられ、西日本(四国、山陰、九州)へと活動が展開された。(21)

1876年から1896年まで、この「日本基督教伝道会社」はミッションからの援助を受けながら、自給自立の問題に取り組んだが、同時に各地でアメリカン・ボード、同志社に連なる教会が設立された。それらの諸教会のいくつかを以下に表としてまとめてみた。

 

名称

伝道開始年

伝道開始者

設立年

備考

安中教会

(後の日本基督教団安中教会)

1874年

新島襄

1878年

群馬県安中にて新島襄(アメリカン・ボード日本人準宣教師)によって伝道が行われ自給教会として設立された。

今治教会

(後の日本基督教団今治教会)

1877年

アッキンソン

1879年

愛媛県今治にて自給教会として設立された。

高梁教会

(後の日本基督教団高梁教会)

1879年

金森通倫他

1882年

岡山県高梁にて自給教会として設立された。

笠岡基督教会

(後の日本基督教団笠岡教会)

1877年

アッキンソン

1884年

岡山県笠岡にて設立された教会

天城基督教会

(後の日本基督教団天城教会)

1880年

加藤寿・川越義雄

1884年

岡山教会・倉敷教会による伝道によって設立された農村教会

高崎教会

(後の日本基督教団高崎教会)

1883年

星野光多

1884年

群馬県高崎に設立された教会で、1888年に日本組合教会に加入。

甘楽第一教会

(後の日本基督教団甘楽教会)

1884年

海老名弾正

1884年

群馬県富岡にて養蚕・製糸業や農業を中心とした町の教会として設立された。

丹波教会

(後の日本基督教団丹波新生教会)

1884年

ゴードン

1884年

京都府丹波地方の広範囲な農村地域の教会として設立された。

松山第一基督教会

(後の日本基督教団松山教会)

1879年

今治教会

1885年

愛媛県松山にて設立された教会

福岡基督教会

(後の日本基督教団福岡警固教会)

1879年

不破唯次郎

1885年

福岡県福岡にて独立自給教会として設立された。

姫路和光教会

(後の日本基督教団姫路和光教会)

 

1882年

バプテスト派

神戸浸礼教会

内田正

1885年

もともとは兵庫県姫路にてバプテスト教会によって1883年に設立された講義所から独立して出来た教会

新潟第一基督教会

(後の日本基督教団新潟教会)

1875年

エディンバラ

医療伝道会

1886年

もともとは新潟県新潟にてエディンバラ医療伝道会によって出来た信徒集団をアメリカン・ボードが引き継ぎ、1883年に分裂して出来た教会

前橋基督教会

(後の日本基督教団前橋教会)

1879年

海老名弾正

1886年

群馬県前橋にて設立された教会

元浦河公会

(後の日本基督教団元浦河教会)

1881年

赤心社

1886年

北海道元浦河に開拓者団赤心社(大部分が摂津第一公会及び摂津三田公会信徒)によって設立された教会

 

このように各地にアメリカン・ボード、同志社に連なる教会が設立された。もっとも伝道当初、キリスト教の伝道が許されていても、理解されず、他の宣教団体、神学校に連なる教会同様、迫害に遭った教会も少なくなかった。しかし、一方で宣教師たちのその教えと人柄、特に禁酒を始めとするその倫理観は人々に強い影響と感化を与えた。1880年代に入るとプロテスタント・キリスト教が一時的に日本において受け入れられ、1884年には日本のプロテスタント教会で起こったリバイバル運動が同志社でも起こった。その影響もあって、1886年4月、この「日本基督伝道会社」の第9回年会において、「日本組合教会(後の日本組合基督教会の前身)」が設立されるに至り、その年会が第1回の日本組合教会総会となった。そこには諸教派のミッションが組織上の結束を固めるようになったので、それらに対抗して日本各地にあった会衆派の伝統に連なる教会の伝道や活動のために組み合わされた組織として設立されたという経緯がある。もっとも、日本組合教会の規約には、アメリカの会衆派教会とは別の各個教会としての主権を持った独立と自治が述べられており、会衆主義的教会概念を持っていないとされている。(22)規約第1条には目的として「各地に在る独立自治の教会互に交誼を厚うし相い扶助し且各孤立して行い能はざるの業を為さんため此組合を立つるものとす 但し各教会の内冶には干渉せざるべし」とある(23)

その信条は1878‐85年に開かれた日本基督教信徒大親睦会(後の日本基督信徒福音同盟会)を前身とする万国福音同盟会の「教理的基礎九か条」と同じものであった(24)それらのことが行われた背景にはエキュメニカル運動とヨーロッパのキリスト教に対する劣等感を含んだ依存意識があったとも言われている(25)

さらに、この「日本基督伝道会社」の第9回年会において、伝道の振起が図られ、1886年10月、東京、本郷湯島の大名屋敷にて30歳の海老名弾正(後の同志社大学総長)によって伝道が開始され、翌年、30歳の伊勢(横井)時雄を牧師として本郷教会(後の日本基督教団弓町本郷教会)が設立された。

1894年、日本組合教会の第9回総会では、日本基督伝道会社に対するアメリカン・ボードの指定寄付金を断る提案がなされた。そこには天皇制によって統治された国家からの圧力で日本国民としての外国からの独立を促されたこと及び宣教師の提案、沢山が「自治教会論」を提唱したこと、キリスト教が西洋の宗教であるとされていたということがあった。後の1895年、第10回総会では、指定寄付金を断ることが決議され、同時にアメリカン・ボードの宣教師は日本基督伝道会社に協力するように求められた。しかし、寄付金を断ったことに関して、経済的に自立出来ていない教会からは無責任であるという批判がなされた。そのこともあったためか、1900年の第16回総会において、自給できない教会を応援することが決められ、さらに1905年には、それらの教会を組合教会が引き受けることが話し合われた。(26)

またこの頃に同志社で学んだ者で海外伝道、特にハワイにおける伝道を行なった者が数多くいることも特色の一つとしてあげられるであろう。奥村多喜衛、辻密太郎、曽我部四郎、大久保真次郎、岡部次郎、上代知新等である。特に辻は沢山から受洗し、熊本に伝道した後に、島之内、群馬の甘楽第一教会、高崎等で伝道を行い、1895年から九州伝道を始めたが、97年にアメリカン・ボードが九州地方の伝道援助を中止したため、ハワイ伝道へと向かった。彼は1933年に帰国するまでアメリカ西海岸の邦人教会で牧会伝道を行なった。また岡部はメソジスト教会がハワイ・ホノルルに伝道したのを避けて、ハワイの中でもヒロ市を中心に伝道し、聖霊を教師として労働者の問題に取り組んだ。(27)

 

  アメリカン・ボードの日本伝道、キリスト教主義学校との関係

 

アメリカン・ボードは宣教を行っていく中で教育にも力を入れた。そこにはミッションとアメリカン・ボードに連なる日本人キリスト者との関係は日本人と宣教師が協働する「京都方式」をとることになったことが関係している。それは宣教師の活動を学校教育中心とし、日本人との協力関係の維持を運営の原則としたということでもあった(28)

1873年にエリザ・タルカットとジュリア・エリザベス・ダッドレーによって女性への伝道と教育を目的とした神戸女学院の前身となる学校が誕生した。もっとも、1875年の神戸女学院開設は日本ミッションが1874年の年次総会において「伝道拠点における女学校の建設とボードによる女性教師の派遣」を決議したことによっている。(29)

さらに1880年には彼女ら2名とアメリカン・ボード女性宣教師マーサ・ジェーン・バロースによって女性伝道者養成のための神戸女子伝道学校(後の聖和大学)が創立された。1887年には神戸教会婦人会の要請でアメリカン・ボード宣教師アニー・リオン・ハウが神戸に来た。彼女は1889年に頌栄保母保育所、頌栄幼稚園を開設、後にそれらは幼稚園保育と保母養成校として高く評価された。

京都では同志社英学校(後の同志社大学)が新島によって1875年に創立された。新島は神戸に学校を設立するつもりであったが、京都府顧問山本覚馬の協力で京都御所の北にあった旧薩摩藩亭を購入し、そこに設立するに至った。しかし、仏教界からの批判とミッション間における同志社に対する評価の差異があり、さらには新島にとって父親的存在であったアメリカン・ボードのアルフィーアス・ハーディーが新島の大学構想に反対した。1885年、アメリカン・ボードが高等教育の重要性を認識することにより、それが新島の大学構想に対する支えとなった。(30)

ところで、創立当初から同志社は「キリスト教主義であること」「神学部の位置づけ」についても苦慮し、特にアメリカン・ボードや外国人伝道団体側と新島、デーヴィス側とは容易には意見の一致を見なかった。多くの宣教師たちは19世紀のプロテスタント的キリスト教の教義に基づくミッション・スクール建設を目指し、新島は留学時代のニュー・イングランドのキリスト教に基づく自由学芸と科学を教えるカレッジ建設を目指していた。1896年に同志社は一時的にではあるが、アメリカン・ボードと袂を分かつ決議さえ行った。(31)しかし、そこには価値観の相違だけでなく、長い期間に渡る精神的な葛藤や感情的なものが支配していたということもできる。

女子教育の必要性を考えていたデーヴィスによってアメリカの「会衆派女性宣教委員会“Congregational Women’s Board of Missions”」は京都の女学校設立運動を支援することを決め、募金を始めた結果、1876年秋にアメリカン・ボードの女性宣教師アリス・J・スタークウェザーがデーヴィス宅で「京都ホーム」と呼ぶ小さな学校を始め、5人の少女と住み、教育を始めた。これが同志社女学校(後の同志社女子大学)である。(32)

「京都ホーム」は毎日の生活を通してキリスト教信仰や文化に日本の女子がなじむようにするための教育施設としての寮であった。この学校は、キリスト教をよりよく理解するために英語教育に力が入れられ、事実クリスチャンになった生徒もいた。女子教育を通してのキリスト教伝道が行われ、学生により教会学校を始めとする伝道も行われた。1892年には専門科設置の際に神学科も設置され、社会奉仕や慈善事業も奨励された(33)

さらに当時、新島は医学部構想も持っており、1883年に記したベリーあての手紙の中で新島は14教会とその牧師たちによる連署と共に医学部設置協力を求めている(34)新島が構想を持っていた「同志社医学校」はアメリカン・ボードの反対もあって実現しなかったが、1887年、アメリカン・ボードの任命を受け「アメリカ最初の有資格看護師」であったリンダ・リチャーズが「同志社看病婦学校」を5人の生徒によって始め、校長として新島が就任。同時に看病婦学校の実習病院でもあった同志社病院が開院している。院長はジョン・キューティング・ベリーであった。そこでは宗教教育、日曜礼拝、毎日の祈祷会等が行われ、また家庭訪問等も行われ、高い評価を得ることができた。そもそも、それらにはベリーによる近代アメリカ医学・看護という文明とキリスト教信仰に基づく使命が土台としてあったが、当時の京都府による衛生行政政策によっても設立に力が注がれたということがある(35)

大阪では、1877年の梅本町公会と浪花公会の親睦会の席上、両教会が協力してキリスト教主義の女学校を設立することが話し合われた。学校名は、両教会の名前を合わせて「梅花女学校」(後の梅花学園)と名付けられた。開校したのは1878年、創立者には沢山保羅、上代知新、成瀬仁蔵、レーヴィット、アメリカン・ボード宣教師ジョン・キン・ホイド・デフォレストらが名を連ね、特にレーヴィットは「学校は教会によって維持され得る」と主張し、女学校を教会による事業と考えていた。多くの女性宣教師たちは教会での集会を行なうと共に、女学校での授業や宗教的活動、さらに英語、洋栽、編み物、オルガン指導等をも行なうことによってそれを「キリスト教教育への機会である」とし、女学校は地域社会に受容されていった。(36)

宮城県の仙台では、1886年にキリスト教主義の宮城英学校(後の東華学校)が新島を校長として創立されている。それは新島がアメリカン・ボード総主事ナタニエル・ジョージ・クラークと日本の東北伝道を協議し、さらにニューヨーク副領事であった富田鉄之助と協力した結果、建てられたものであった。そこではデフォレストが聖書を教え、礼拝を守り、新島はこの学校を「同志社の分校」と位置付けたとされる。そこには宮城県令松平正直らの全面的援助もあり、「仙台ステーション」も開設され、「同志社方式(京都方式)」の再現でもあった。しかし、この学校は1892年に廃校となっている。(37)

群馬県の前橋では、1886年にキリスト教主義の共愛学園が創立されている。もともとは廃校となった前橋英学校跡に深沢利重、高津仲次郎らが女学校設立を図ったもので、前橋教会を始めとする群馬の諸教会やアメリカン・ボードの支持を得て、前橋英和女学校として開校した。初代校長は不破唯次郎で、発起人に新島襄、海老名弾正、湯浅治郎らがいた。

岡山県では、1886年に岡山教会の信徒を中心にしてキリスト教を道徳の基本とし、女子教育、婦人社会の改良を目的とした山陽英和女学校(後の山陽学園)が創設されている。そこには創設に尽力した小野田伊之吉、石黒涵一郎等の信徒たちの他にアメリカン・ボード宣教師ケリー・ジュニア、ジョージ・ミラー・ローランドらの賛同協力があった。ちなみに、この学校においてはアメリカの会衆派教会牧師で創立者のフランシス・エドワード・クラークとデーヴィスによって1885年に日本に伝えられた「キリスト教共励会」が最初に組織され、後に各地の教会とキリスト教主義学校に影響を与えるに至っている。「キリスト教共励会」とは創立者のクラークが妻ハリエットと共に組織したもので、青年をキリストに導き、教会に仕える者として育てるための運動であった。

愛媛県の松山でも、松山第一基督教会を設立した二宮邦次郎がピューリタン精神に共鳴して1886年に松山女学校(後の松山東雲学園)を設立、自ら初代校長となった。1906年、同校はアメリカン・ボードに移管され、アメリカン・ボード女性宣教師コーネリア・ジャドソンが校長となっている。またジャドソンは大阪教会の信徒であった西村清雄らの協力を得て貧しい子供たちのための学校として1891年にキリスト夜学会(後の松山学院、松山城南高校)を設立している。

 

c 一致教会との合同問題

 

1886年から1890年にかけては、日本基督一致教会との合同運動とそれに伴う合同問題が生じた。

そもそも組合教会として合同運動に入った理由は、組合教会の指導者たちが、かつて学んだ熊本洋学校教師のリロイ・ランシング・ジェーンズから影響を受けたことに起因すると言われている。彼の影響を受け、同志社で学び、後に組合教会の指導的立場に立つこととなった学生たちは、新島襄とジェローム・ディーン・デーヴィスを批判していた。新島やデーヴィスと違い、ジェーンズは教派的伝統や訓練を重要視せず、リベラルであり、人格面での教育及びキリスト教による日本国民の教化、啓蒙に力を注いだ。そのこともあって熊本洋学校で学んだ学生たちの中にナショナリズム(国粋主義)や教会の自給独立性が生じていったともされる。(38)また、彼らはかつて新島がアメリカで宗教について学んだ時代とは異なるリベラルな思想から影響を受けたのであるが、そのことも関係しているのかもしれない。

この合同についての草案が作成された際に、新島はこれに反対していた。しかし、そこには新島なりの見解が存在している。それは自らがこのことについてあらかじめ殆ど相談を受けなかったことと、会衆主義的自由がないがしろにされ、その独自性が喪失することを考慮したゆえであるということであった。新島はアメリカにいる間に自由の価値について強く感銘を受けており、それゆえに日本に自由が必要であると考えていたということもあった。その当時、組合教会牧師の宮川経輝、海老名弾正も組合教会と一致教会との違いを明確化していた(39)

新島は、1887年10月28日に、合同に賛成していた小崎弘道にあてた手紙においても、長老主義は組合教会の主義と対立するものであり、合同は各教会の独立と自治を失うことになりかねないとして、これに反対し、合同するならば、自らは組合教会から脱会することさえ考えているとしていた。(40新島にとって会衆主義は「考えられる限り最上の教会の形態(教会運営)」であった。彼は教会形態に関して、自分は「民主的行政組織」を強く信奉する者であり、それは政治的見解ではないと主張している。(41)

また一方で、彼は、日本基督一致教会牧師で、後に明治学院総理となった井深梶之助にあてた1888年11月12日の手紙で、組合教会と一致教会が十分、合同の意味をよく理解し、納得の上で合同するならば、これに反対しないとした。(42)それゆえに、新島自身が語っていることであるが、新島を合同反対論者であるとするのは、誤解であると言える。この頃、新島は合同草案を修正するに際して、仙台神学校(後の東北学院)創設者の押川方義と意見交換を行なってもいる。それによって新島は合同草案修正について押川の提案を群馬の牧師たちに伝え、組合教会側の修正案は一致教会側にも受け入れられた。(43)

二つの教会が合同することにより、「日本連合基督教(公)会」が生まれる予定であったが、1888年11月の組合教会の臨時総会において、合同決議について諸教会の準備が整っていないこと、新島の反対意見、アメリカン・ボードの宣教師の間でも意見が分かれるに至ったということもあって、いくつかの経過を経て、1890年、組合教会の第5回総会は一致教会との合同中止を決定した(44)

そこには新島を含めて組合教会に属する多くの指導者たちが、宣教師に依存しつつ、教会の組織問題を考えるあまり、合同は、会衆主義にとってどのようなもので、それをどのようにしていくべきかを考えることができなかったということもあった。それは教会の独立自治と言った場合に、彼らの中に他教派との関係での独立自治の概念の曖昧性があったことを示してもいる。

 

(2)設立以後から組合教会の朝鮮伝道まで

 

a 日本組合基督教会設立、海老名・植村論争

 

1886年、同志社大学内の神学校は正式に認められ、続いて1888年に「同志社大学設立の旨意」が公表され、同志社は日本人によって管理・運営されるようになった。(45)しかし、1890年1月23日に同志社大学のために維持基金を訴えて全国を奔走していた新島襄が大磯にて召天したため、重要な指導者を失った同志社と組合教会は揺れ動いた。(46)

そのことと「新神学」が流布したこともあって1892年、組合教会の第7回総会で小崎弘道による「信仰の告白」(穏健なプロテスタント信仰内容を箇条書き風にしたもの)が採択された。(47)彼は1911年には『基督教の本質』を執筆したが、それも新神学の流入によって組合教会から多数の有力な牧師(金森通倫、横井時雄等)が脱会し、危機を感じ、福音主義を守るため執筆したと言う。(48)

「新神学」はヨーロッパのキリスト教神学の中で「宗教史学派」との関連が深く、その学派においては「キリスト教の絶対性」及び「信仰と聖書学」の関係等、重要な問題が提起されてもいた。(49)ちなみに同志社校長代理であった金森通倫も番町教会牧師を歴任後、「新神学」の影響を受け、1891年に『日本現今之基督教並ニ将来之基督教』を執筆した。この本は、神人和合、日本の宗教とキリスト教の融合を説き、多くの人に読まれたが、彼は教会を去るに至っている。

1895年の第10回総会では、自給独立に向かって一致・結束する必要性が説かれ、同年に、奈良大会が開かれ、海老名弾正起草による「奈良大会宣言」が出された。その宣言は「新神学」の影響から、それまでの福音主義的ではない信仰を持つようになった人々を受け入れる内容となっている。(50)さらに同年に日本組合教会の第1回の教師会が開かれ「日本組合教会教役者大会宣言書」が出された。

1897年の第12回総会においては、日本組合教会が「日本組合基督教会」と名称を変更することになった。また、そこにおいては「協会相互の結束、協力や掲載、各教会の教会としての主権、経済的自給、法的な上下関係のない教会政治」等規約の内容が変更され、話し合われた。同時に、この頃、安中教会牧師であった柏木義円は会衆主義に反する中央集権的組織による統合推進に対して教会合同問題における新島襄の態度を論じて会衆派とは何かを確認したとされる(51)

その後、1901年に神戸基督教会(後の日本基督教団神戸教会)は教会条規を制定し、六条の簡潔な「信仰ノ告白」を掲げた。そこにおける内容は小崎の作成したものよりも、ゆるやかなものとなった。他の組合教会もこれに倣って信仰告白を作成するに至った。組合教会に属する各個教会がそれぞれの信仰告白を掲げるようになったのである。(52)

また、この頃、海老名弾正と植村正久との間に論争があった。いわゆる「海老名・植村論争」である。海老名弾正は、キリスト教の神を汎神論的に解釈し、宗教的意識を強調。イエス・キリストにおける神の啓示ではなく、神の子となること、神との合一を説いた。彼は、イエス・キリストを神とせず、神とキリストの関係を父子有親の関係でとらえたのである。海老名の主張には「新神学」の影響があった。海老名は、熊本洋学校のジェーンズ、横井小楠の実学からも影響を受けたが、キリストについての贖罪理解はなかったとされる。また同志社において新島は海老名に強い影響を与えた(53)

小崎弘道は「新神学」を批判している。小崎の説いたキリスト教は、進化論的・儒教的・理性重視のキリスト教であるとされている。そのことが関係しているのであろうか。最初、小崎は天皇の神格化を否定していたが、1900年に「不敬事件」を行った山川均を始めとするキリスト者たちを植村正久、本多庸一と共に批判し、第2次世界大戦のファシズム的傾向が強くなる以前に、キリスト教と天皇制の融合を行っている。(54)これに対して福音主義的信仰を説く植村正久は、キリストが神であることを認めなければ、神の愛を知ることは出来ないとした。

海老名がキリスト教信仰理解について主観的に考え、植村は客観的に考えたとする見方もあるが、一方で、この頃、日本の農村社会への伝道は見捨てられたのではないかとする意見もあった(55)それには日本における伝道の対象とされた人々がどのような人々なのかということが関係している。

「海老名・植村論争」が関係したのであろうか。1906年には、日本基督信徒福音同盟会の第12回大会が開かれ、そこにおいて日本基督教会同盟結成が決定された。それには、日基、組合、メソジスト、福音、美晋、友会、クリスチャン、同胞の8教派が加盟した。

 また、1912年の日本組合基督教会の第28回総会において、日本基督伝道会社が伝道部に吸収され、1921年の第37回総会においては、組合教会理事会とミッションとによる「伝道事業合同協定」を結ぶことによって、アメリカン・ボードによるミッション所属の教会を組合教会に加盟させ、ミッションは伝道費を毎年、組合教会に拠出することを決めた。(56)

 

b 明治期から大正期にかけての組合教会と社会

 

1880年代から1890年代にかけては、教会や諸教派の様々なグループや部門が作られ、社会に対するアプローチや事業、運動が盛んになり始めた頃でもある。

1887年5月に日本基督教青年会(YMCA)が設立された。それは1878年に植村正久らが銀座の原女学校(後の女子学院)で結成した「共成社」に由来するが、その近くにあったキリスト教書店十字屋に集まっていたグループによって80年5月、東京基督教青年会が結成されたことから始まった。その時の会長は小崎弘道であった。(57)

 また後に組合教会の機関紙となった『基督教世界』は、1883年8月に湯浅治郎により設立された警醒社から刊行された週刊新聞『東京毎週新報』に由来し、編集を小崎弘道、植村正久、浮田和民(熊本バンドの一人で、後の早稲田大学教授)が担当、会計を湯浅治郎が引き受けた。この新聞は最初、教派と関係なく、キリスト教関係、社会問題の記事や論説を載せたものであった。

 また、この頃、本多庸一(後の日本メソジスト教会初代監督、青山学院院長)や湯浅治郎らはキリスト教信仰とその信仰理解に基づいて行なったわけではなかったが、自由民権運動に力を尽くした。さらに湯浅治郎はキリスト教倫理に基づいて公娼廃止運動を行なった。組合教会に属する岡山教会の信徒であった石黒涵一郎はキリスト者として民権運動に参加、後に宣教師ベリーの影響を受けた石井十次によって1887年に設立された岡山孤児院に貢献した。岡山教会関係者として同志社を卒業後、社会事業家となった留岡幸助、同じく同志社卒業後、石井十次の下で働き、メソジストから派生した教派である救世軍の指導者となった山室軍平といった人々もこの頃、活躍している。1891年にアメリカン・ボード宣教師のアリス・ピッティー・アダムスによって日本最古のセツルメント(社会事業施設)である岡山博愛会もこの頃に創設されている。これは岡山の花畑地区と呼ばれるスラムに日曜学校を開いたことから始められ、現在では日本基督教団岡山博愛会教会が建てられ、病院、特別養護老人ホーム、保育園等が運営されている。

一方で、当時、天皇制が国家によって国民を支配するための制度とされていき、キリスト教会の多くが天皇制に従い始めた。同志社社長兼校長となった横井時雄は、本多庸一と同じく国家主義とキリスト教が一致するものであると考え、植村正久、組合教会牧師の柏木義円、無教会主義の内村鑑三は、キリスト教が国家を完成させるものとして考えた。また本多庸一や宮川経輝らは1894年に始まった日清戦争の際に日本の軍隊を慰問したが、それは国家と社会からのキリスト教会に対する迫害があり、自分たちが天皇制国家に忠実であることによって、その迫害から自分たちを守ろうとしたためであるとされる(58)

もちろん、国家主義に対して抵抗も行なわれなかったわけではない。特に柏木義円や内村鑑三たちは天皇制に対して批判的であった。

1890年代には田中正造、永島与八が関わった足尾鉱毒問題があった。永島は政府に請願した際、逮捕され、前橋刑務所に捕らえられていた。その時に組合教会に属する前橋教会(後の日本基督教団前橋教会)の牧師堀貞一より新島襄を知り、前橋教会で受洗するに至り、組合教会に属する佐野教会(後の日本基督教団佐野教会)の牧師となった(59)

 1890年代に輸入されたユニテリアン主義は片山潜、安部磯雄、河上清、木下尚江らに影響を与え、彼らを労働問題に関わらせるに至った。また海老名弾正はキリスト教社会主義を唱え、石川三四郎らに影響を与え、柏木義円も社会主義運動に関わり、長加部寅吉、佐野教会の近藤政平、組合教会に属する甘楽教会の住谷天来らに影響を与えた。1904年に日露戦争が勃発した際、海老名弾正は主戦論を唱え、柏木義円は戦争の悲惨さを訴えた。

 この頃、海老名弾正は大正デモクラシー運動の指導者である吉野作造に影響を与えている。海老名のキリスト教は吉野の民本主義の精神的基礎理論であった。吉野は海老名の影響を受けながらも、人格の尊厳を国家権力や社会的機構以上のものとして、その価値を重要視している(60)

この頃、組合教会においては今治教会のように民族主義的国家主義やその精神的土台となった異教文化に対して、また、公娼設置論や部落差別に対して批判の声を上げる教会もあった。(61)もちろん、そのことにより教会が迫害に遭わなかったわけではなかった。

第1次世界大戦が勃発した年の1914年10月、日本組合基督教会は、第30回総会における決議文において連合国であるアメリカの勝利を希望し、1919年に行なわれた第35回総会では、社会部が設置され、政治、道徳、教育問題にも組合教会が取り組むことが確認された。

この頃のキリスト教社会主義は、多くの場合、キリスト教信仰から離れ、キリスト教は社会の問題を担えなくなっていった。それはキリスト教会と社会主義者たちの、それぞれの認識違いもあるが、それ以上にキリスト教会がその地域にあって様々な困難性の中にある人々と共に生きることをしなかったこと、国家による迫害に負けて、戦争に加担したこと等があげられるだろう。しかし、マルクス主義と聖書を無理矢理、結びつけようとして、このような失敗に終わった「学生キリスト教運動(SCM)」から、後に「社会的キリスト教」という立場も現れている。

 これら組合教会関係者や同志社出身者が社会問題に多く関わったのは、おそらくアメリカン・ボード宣教師のラーネッドや同宣教医であったジョン・キューティング・ベリー等からの影響に代表されるように、組合教会と同志社が持つ「自由主義の精神」によるものであると言われている。それは一人一人の持つ特性を活かす多様性の尊重であり、一人一人の賜物を用いて社会的責任を果たそうとするものである。(62)

 

c 組合教会の朝鮮伝道

  

朝鮮伝道は日本の教会が自らの手で海外伝道を行なった最初の試みであった(63)1876年に日本が朝鮮に開国を強要して以来、両国間の関係は良かったとは言えず、平和が必要であると考えたメソジスト教会宣教師の訴えが同教派による朝鮮伝道の一因となっている。1904年に日本基督教会(長老派教会)、次いで、美以教会(メソジスト教会)が朝鮮伝道を始めている。

組合教会は1904年6月に韓国京城で伝道を開始し、創持省吾を主任として派遣、翌1905年には平壌に山田兵助を派遣し、教会を設立し洗礼式を執行していた(64)

そもそも海老名は日露戦争の頃から、朝鮮合併論を唱え、朝鮮人の偏狭な民族意識をなくし、朝鮮人を教化しなければならないと考えていた。1910年の第26回総会における信徒大会で公式に朝鮮伝道実行委員会が組織され、同年、海老名弾正の弟子であり、組合教会伝道幹事で牧師であった渡瀬常吉が朝鮮伝道を行うに至ったが、1919年1月に発表した「新時局伝道宣言書」によって組合教会はその宣言のもとで1920年に起こった呂運亨事件に関する事柄と朝鮮伝道の活動を行なったとされる。(65)呂運亨事件は当時の日本の総督府が「3・1独立運動」を行なった朝鮮人キリスト者を自国にとって都合の悪い危険な者であるとし、これを日本人に同化させ、鎮静化し排除することを組合教会に行なわせた事件で、事件の発端から収拾まで組合教会朝鮮伝道部が関わっていた。それは同年に大韓民国臨時政府外交部次長であった呂運亨らを来日させ、呂が朝鮮独立は世界平和につながると語り、その演説が日本で激しい議論を呼ぶに至り、後に呂は発言を撤回させられるに至ったものであった。(66)

当時の組合教会の朝鮮伝道論を要約すると、宗教家、日本国民として誇りを与えるキリスト者として、組合教会が朝鮮民族の精神的指導者とならなければならないということであった。その朝鮮伝道に対して、寺内正毅、大隈重信、同志社創立を支援した渋沢栄一が後援し、岩崎、三井、住友、古河らの財閥が寄付を行なった。しかし、そもそも渡瀬は、押川方義が本多庸一らキリスト教関係者と共に1894年に設立した大日本海外教育会の朝鮮京城学堂で教育活動に従事していたのである。(67)この教育会は日本の文化政策のためのもので、伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一がその賛助者であった。

 組合教会の中でも湯浅治郎を始めとして、吉野作造、柏木義円らはキリスト教信仰に根ざして朝鮮伝道を批判したが、結果として組合教会は、「3・1独立運動」を予断と偏見で捉え、自らを被害者とした。後に日本の総督府により、ソウルでの朝鮮神社の設立を始めとして、朝鮮のキリスト教会と諸学校への神社参拝、国旗掲揚、宮城遥拝の強制等の皇民化政策が進められ、迫害が行われたため、組合教会が、その植民地支配の土台作りを助けてしまったとも言える。呂運亨事件によって組合教会朝鮮伝道部に対する日本政府からの信頼と支援はなくなり、1921年、日本組合基督教会の第37回総会は朝鮮人教会を朝鮮会衆基督教会として独立させ、組合教会による朝鮮伝道を中止することを決めた。



(1)   茂 義樹著『日本キリスト教史双書 明治初期神戸伝道とD・C・グリーン』、1986年、120頁。以下『明治初期神戸伝道』と略す。

(2)   『近代日本と神戸教会』(日本基督教団神戸教会編)、1992年、2頁。以下『神戸教会』と略す。

(3)   『明治初期神戸伝道』、115、118、129頁。興味深いことに、同書においては、神戸公会の設立について求道者の青年が主日礼拝説教を引き受けることによって教会形成と伝道へ向かったことが記されていると同時に、そのことによって、それまで回心は個人的なものに過ぎず、お互いに不信感が存在したが、それが集団的信頼へと向かったことが指摘されている。同書、134頁参照。また、この頃の神戸公会における信条は、贖罪信仰、神と人への愛、教会、礼拝、伝道を強調しており、伝道のための献金が重んじられ、十戒を守ること、禁酒禁煙、正直誠実、愛国の情、尊法精神が倫理として唱えられていた。同書、170‐178頁。

(4)  『明治初期神戸伝道』、157‐160頁。

(5)   茂 義樹著「第4章 大阪伝道」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、134‐140頁。以下『大阪伝道』と略す。宮地ひとみ著「第5章 大阪ステーションの自給と女性宣教師の役割」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、170頁。以下『女性宣教師の役割』と略す。

(6)   笠井秋生、佐野安仁、茂義樹著『沢山保羅』、1977年、135、136頁。

(7)   『大阪伝道』、150頁。

(8)   『大阪伝道』、159頁。

(9)   『明治初期神戸伝道』、145‐147頁。

(10)   田中智子著「第2章 J・C・ベリーと伝道診療所 ‐兵庫・飾磨県下における地域社会と医療宣教師」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、68‐76頁。以下『J・C・ベリー』と略す。『明治初期神戸伝道』、140‐143頁。

(11)  『明治初期神戸伝道』、23頁。神戸ステーションの宣教師は自給について必ずしも一致した見解を持っていなかったともされる。石井紀子著「第1章 開港地神戸ステーションと斬新的自給論の形成」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、46‐54頁参照。

(12)  本井康博著「第6章 京都ステーションの特異性」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、216、220、222頁。以下『京都ステーション』と略す。

(13)  アメリカン・ボード宣教師で経済学者でもあったドワイト・ホイットニー・ラーネッドの住居。ちなみに彼は1876年より同志社で聖書神学や歴史神学の他に数学などの科目も教えた。

(14)  『同志社教会九十年小史』(日本基督教団同志社教会編)、1966年、2頁。『京都ステーション』、231頁。

(15)  ドーンは妻と共に西太平洋ミクロネシア・ミッションにおいて1854年からミクロネシア・ポナペ島で伝道していたが、妻が病に倒れたために、兄のデーヴィスを頼って来日し、同志社で音楽を教えていた。安田 寛著「第12章 日本ミッション伝道方針と讃美歌に関する活動」『来日アメリカ宣教師 ‐アメリカン・ボード宣教師書簡の研究 1869〜1890年‐』(同志社大学人文科学研究所編)、1999年、384頁。

(16)  『京都教会史』(日本基督教団京都教会百年史編纂委員会編)、1985年、50、63、64、73、74頁。以下『京都教会史』と略す。

(17)  『京都ステーション』、215、216、226頁。ちなみにゴードンは、1879年に新島によって同志社に招かれ、実践神学を教え、後に仏教の研究を行なってもいる。

(18)  吉田 亮著「終章 ステーション間の相互作用とアメリカン・ボードの日本伝道 ‐神戸・大阪・京都の事例」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、437、443頁。以下『アメリカン・ボードの日本伝道』と略す。竹中正夫著「宣教師J.L.アッキンソンの伝道とその性格」『基督教研究 第49巻 第2号』、1988年、92頁以下においては、新島とレーヴィットとアッキンソンが同じ自立独立論をとりながらも、そのすすめ方において違いの生じたことが記されている。

(19)  『J・C・ベリー』、86頁。『西宮教会百年史』(西宮教会百年史編集委員会編)、1985年、3‐5頁。

(20)  飯 清・府上征三編著『霊南坂教会100年史』、1979年、45、48、57、123頁。『番町教会百年史』(伊藤 潔編)、1986年、2、28頁。

(21)  守屋友江著「第3章 アウトステーションからステーションへ ‐岡山ステーションの形成と地域社会」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、101、102、113、115頁。竹中正夫著「岡山県における初期の教会形成」『キリスト教社会問題研究 第3号』、1959年、11頁。ちなみにこの論文の16‐18頁において、ある教会について「変手古な人々の集りであるという印象を与えたくらい、貧しい人々の集りであった」と表現され、また「特殊部落」という差別語が用いられている。「特殊部落」という言葉は水平社運動が行われた頃は、用いられた言葉であるが、現在では「不適切な差別用語」として用いられていない言葉である。「変手古な人々・・・・」という表現はあまりに不適切な表現であり、竹中氏の思想的態度に疑問を持たざるを得ない。

(22)  土肥昭夫著『日本プロテスタント教会の成立と展開』、1975年、60、117頁。以下『成立と展開』と略す。ちなみに「組合教会」という名称は日本組合教会創立当時の教会総数が31であり、31教会の組合という意味で小崎弘道の提案で名付けられたと言われる。三井久著「日本組合教会について」『キリスト教社会問題研究 第24号』、1976年、1頁。以下『日本組合教会』と略す。

(23)   『日本組合教会の特質と今日的課題及び日本組合教会規約等』(関東同信会編)、1984年、47頁。

(24)   『日本プロテスタント史』、64頁。ちなみにこの日本基督教信徒大親睦会に参加していた横浜教会信徒の23歳の星野光多は1883年の親睦会において安中教会信徒であった湯浅治郎、日本基督一致教会(アメリカ長老派教会の宣教師による教派で、後の日本基督教会)の植村正久(東京神学社創設者)らの影響を強く受けて、高崎教会を設立した。同書、73頁。

(25)  『成立と展開』、101頁。

(26)  『成立と展開』、131、134.136頁。ちなみに沢山の自給論は、資産家ではなく庶民の信仰の活力によって成り立った教会自給を強調したものであった。彼の講演は、日本はもとより、英語に訳されて世界で読まれた。『大阪伝道』、156頁。なお、1890年代の日本人クリスチャンとアメリカ人宣教師の対立原因を欧米からもたらされたリベラルなキリスト教及びそれについての当時のマスメディアに見る向きもある。当時、宣教師たちが批判された時に、日本人クリスチャンは非愛国的行為と誤解されかねないゆえに、宣教師たちを弁護しなかったということさえあった。ポール・F・ボラー著、北垣宗治訳『アメリカン・ボードと同志社 1875‐1900』、2007年、121、134、135頁参照。以下『アメリカン・ボードと同志社』と略す。

(27)  『歴史と課題』、167頁。

(28)  『アメリカン・ボードの日本伝道』、432、444頁。

(29)  『女性宣教師の役割』、170頁。

(30)  『京都ステーション』、220、229、230頁。

(31)  『アメリカン・ボードと同志社』、156−158、231頁他参照。それゆえに当時、同志社においては「会衆主義」についての神学の授業がなされたわけではない。同時に同志社大学神学部の根底にある自由に物事を考える立場は「自由自治」を唱える会衆主義にその伝統的根拠を持っている。「同志社と組合教会との関係」については今後も研究されるべき課題であろう。

(32)  正式に開校したのは1877年であり、5人のうちの1人は一家の借金のために娼家に売られているところを救い出され、当初は男性教師たちが女性教師の権威を認めていなかったとも言われている。これについては『アメリカン・ボードと同志社』、66、108頁参照。

(33)  坂本清音著「第7章 京都に根付いた小さなキリスト教女学校」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、238、255‐258、260‐262頁参照。なお後に神学科は廃止されている。

(34)  同志社編『新島襄の手紙』、2007年第3刷、171‐179頁。以下『新島襄の手紙』と略す。

(35)  小野尚香著「第8章 医療宣教師ベリーの使命と京都看病婦学校」『アメリカン・ボード宣教師 神戸・大阪・京都ステーションを中心に、1869〜1890年』(同志社大学人文科学研究所編)、2004年、274、278、288、293頁。これらは1906年に廃校及び廃院となったが、新島の志は後の同志社大学生命医科学部に受け継がれることになった。『アメリカン・ボードと同志社』、90頁。『同志社百年史 通史編 一』(上野直蔵編)、1979年、296頁以下。以下『同志社百年史 一』と略す。

(36)  『女性宣教師の役割』、172‐188頁参照。興味深いことに、梅花女学校で英語を教えていたアメリカ婦人一致伝道協会の女性宣教師であるアビー・マリア・コルビーが宮川経輝の依頼によって大阪の堺に伝道に赴いて集会を開き、それが後に1888年創立の堺教会(日本基督教団堺教会)となっている。同書、185頁参照。

(37)  『京都ステーション』、232頁。『同志社百年史 一』、274、275頁。『新島 襄 その時代と生涯』(同志社編)、1994年、97頁。

(38)  『アメリカン・ボードと同志社』、232頁。ちなみに本井氏は新島が教会形成に関して最初から自給を考えていたとしている。本井康博著『同志社教会双書3 京都のキリスト教 ‐同志社教会の19世紀‐』、1998年、74頁。その一方で三井氏は新島の自治教会の主張は沢山保羅の自治教会論によって支えられたと言わねばならないと述べている。『日本組合教会』、12頁。土肥氏は、新島には「自給自立」という考えはなく、共鳴者や賛同者によって共同で「独立自治」を目指したと述べている。『成立と展開』、141、142頁参照。これらとの関わりで今後、「新島襄と組合教会の関係」についての研究にも期待したい。

(39)  J・D・デイヴィス著、北垣宗治訳『新島 襄(100万人の創造選書20)』、1977年、117頁。しかしながら、同書、同頁及び194頁の第5章(注20)においては宮川、海老名たちが合同協議に参加して基礎固めを進めたことが記されている。『成立と展開』、61頁。土肥昭夫著『歴史の証言 日本プロテスタント・キリスト教史より』、2004年、72頁。以下『歴史の証言』と略す。『新島襄の手紙』、224頁。

(40)  同志社編『新島襄書簡集』、1990年第15刷、214、215頁。

(41)  『新島襄の手紙』、254頁。

(42)  『成立と展開』、86頁。

(43)  『成立と展開』、89頁。これらのことについて『歴史の証言』、80‐85頁も参照。この当時、組合教会においても「長老」は存在したが、それが長老主義教会における「長老」とは様々な意味で異なっていたことは言うまでもない。

(44)  『成立と展開』、72頁。『歴史の証言』、79頁。

(45)  『京都ステーション』、233頁。

(46)  新島の葬儀の際、勝海舟は新島の愛称句である「自由教育自治教会両者併行邦家萬歳」という幟旗(吹流し)があったと語っている。竹中正夫著「日本組合基督教会の歴史と課題 ‐その百年にあたって‐」『基督教研究 第48巻 第2号』、1987年、134頁。以下『歴史と課題』と略す。『アメリカン・ボードと同志社』、118頁。

(47)  『日本プロテスタント史』、144、145頁。『歴史の証言』、178頁。

(48)   佐藤敏夫著『キリスト教神学概論』、1994年、309頁。以下『キリスト教神学概論』と略す。

(49)  『歴史の証言』、243−244頁参照

(50)   『日本プロテスタント史』、147頁。

(51)   『安中教会 創立から100年まで』(新島学園女子短期大学新島文化研究所編)、1988年、135頁。以下『安中教会』と略す。

(52)   『歴史の証言』、179頁。『神戸教会』、70頁。

(53)  土肥氏は海老名のこのキリスト教理解を批判し、それはキリスト教の独自性を希薄なものとし、社会における自らの主体的な福音信仰をなくしかねないものとしている。『歴史の証言』、309−312、347、348頁参照。この頃、ドイツではドイツ観念論後のリッチュル神学から宗教史学派に主導権が移り、英米ではリッチュル神学の影響が続いていた。『キリスト教神学概論』、328頁。

(54)  同書、279‐281頁参照。ちなみに小崎は1893年のシカゴ万国宗教大会で講演し、日本人がキリスト教思想を主導し、宣教師の支配から独立することが願わしいこと、日本のキリスト教が西洋思想と東洋思想の総合であるべきこと等、小崎の言うリベラルな立場を表明している。『アメリカン・ボードと同志社』、129頁。

(55)  『歴史の証言』、268頁〈注10〉。250頁。

(56)  『日本プロテスタント史』、233頁。『成立と展開』、139頁参照。

(57)  『日本プロテスタント史』、73‐75頁。

(58)  『日本プロテスタント史』、124、125頁。その場合、キリスト者たちがキリスト教及び、国家による迫害、世論の批判をどう理解していたかも問題となる。

(59)  『日本プロテスタント史』、200頁。

(60)  『歴史の証言』、339、391頁。さらに、海老名と吉野の影響を受けたキリスト者である今中次麿は、同志社大学法学部や九州大学法学部で教え、ヘブライズム及びキリスト教をデモクラシーの基礎として考え、その政治思想を展開した。同書、392‐398頁参照。

(61)  『創立130周年記念誌』(日本キリスト教団今治教会創立130周年記念行事委員会編)、2009年、10、12頁。

(62)  『歴史と課題』、153、155頁。

(63)  『日本プロテスタント史』、309頁。

(64)  『歴史と課題』、156頁。

(65)  西原基一郎著「日本組合教会海外伝道の光と影(1)‐組合教会朝鮮伝道部と呂運了事件」『基督教研究 第50巻 第2号』、1989年、60頁。以下『日本組合教会海外伝道の光と影(1)』と略す。

(66)  『日本組合教会海外伝道の光と影(1)』、61、66、86、91頁。

(67)  『日本プロテスタント史』、309頁。