論文日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 

(2)アメリカン・ボードの日本伝道から現代まで」

川上純平  200911・9

 

 

 

第5章 合同教会である日本基督教団への加入、教団成立から現代まで

 

(1)日本基督教団成立前から敗戦に至るまで

 

 1931年に満州事変勃発の際、日本基督教会同盟を前身として、1923年に設立された日本基督教連盟は発言を行わなかった。むしろ、日本のプロテスタント諸教会の多くは、教育勅語の重視、戦時体制に同調した国策を強化するキリスト教を主張した。渡瀬常吉も1934年に『日本神学の提唱』という著作を出版し、天皇制とキリスト教は一致するとした。(1)一方、柏木義円のようなキリスト者はこれを批判した(2)

さらに、1939年に公布された「宗教団体法」によって、1941年6月に組合教会を含む日本のプロテスタント教会の35教派は国家による弾圧から逃れるために「日本基督教団」設立へと向かった。この「宗教団体法」は朝鮮にも適用された。「宗教団体法」は国家神道である天皇制、国家の政策に従う限りにおいて、宗教を保護するものであるゆえに、到底「信教の自由」を認めたものではなかった。そもそも1889年に公布された「大日本帝国憲法」も完全な意味で「信教の自由・思想の自由」を認めたものではなかったのである。

一方で、「日本基督教団」設立に関しては、世界恐慌のあった1929年9月にプロテスタント諸教派の指導者たち34名の署名による「日本基督教諸派合同案」が発表されており、諸教派間において合同しようとした気運があったことも否めないゆえに、これを「神の摂理」と見ることもできるであろう(3)ただ、その時期と動機において、1940年に文部省が教派を認可することを明らかにし、「救世軍取調べ事件」を始めとして国家による圧力が加わっていたことも否めない事実なのである。実際、1940年10月の日本組合基督教会の第56回総会は十分に論議することなく、体制に順応して「無条件に」合同に対処し、日本基督教団が設立される際の教会合同準備委員会は「宗教団体法の要求する教義の大要を掲げること」で合意した(4)1939年の時点で日本組合基督教会の属する教会は139教会あった(5)

日本基督教団の成立には、日本のキリスト教会が天皇制や大日本帝国憲法に対する本質的な批判、神学的・歴史的な検討をせず、自らが国家社会の中で有用なものとして認識されることを求め、宗教団体法によってキリスト教が他の諸宗教と同じ扱いをうけること、つまり、先述したが、保護されることによって官憲の介入をさけることが期待されていたとも言われる。(6)

ちなみにアメリカでも「会衆派教会は」1931年に「キリスト教会」と合同し、1957年に「福音改革派教会」と合同し、「アメリカ合同キリスト教会」を成立させ、イギリスでも「イギリス・ウェールズ会衆派連合」が1972年に「長老派教会」と合同し、「合同改革派教会」を形成したが、それは、現在「スコトランド会衆派教会連合」となり、またイギリスにはいくつかの会衆派教会の団体がある。しかし、それらは国家からの要請によるものではない。またイギリス・ウェールズ会衆派連合は1833年に“Declaration of the Faith, Church Order, and Discipline of the Congregational or Independent Dissentersイギリス会衆派宣言)を発表し、その信仰告白に対する見解、信仰箇条、教会制度や政治の原則を述べている。その序文においては、各個教会の会衆がそれぞれ直接的にキリストを首(かしら)として相互に結ばれているという会衆派の基本的な立場が述べられている。そのような信仰的確信を共有していたゆえに信仰告白を一般的告知“general information”として宣言したのであった。1877年にアメリカの会衆派教会の全国総会であるオベリン会議では“The Obelin Declaration of the National Congregational Council(会衆派全国総会オベリン宣言)を発表し、教理と教会政治について簡潔に述べている。(7)またアメリカにおける「会衆派教会」と「キリスト教会」の合同に伴い、1930年には「日本クリスチャン教会」(アメリカの「キリスト教会」の伝道によって出来た日本の教会)が組合教会と合同した。それにより、それらの教会、たとえば、石巻クリスチャン教会(1887年創立、後の日本基督教団石巻栄光教会)、涌谷教会(1888年創立、1903年創立の涌谷組合教会と合併するに至る。後の日本基督教団涌谷教会)、麻布教会(1889年創立、後の日本基督教団聖ヶ丘教会)、王子教会(1893年創立、後の日本基督教団王子教会)、宇都宮教会(1906年創立、後の日本基督教団四條町教会)等は組合教会に加入することになった。

この頃、教会は社会的活動を行なわなかったわけではなかった。特に「社会的キリスト教」の立場は特筆に値する。その主導者である中島重は組合教会に属する高梁教会(後の日本基督教団高梨教会)で洗礼を受け、東京大学で吉野作造の下で学ぶが、1916年に強く影響を受けた海老名弾正に招かれて同志社で法学を講ずるに至った。

中島は1928年頃から、キリスト者で社会運動家の賀川豊彦らと「同志社労働ミッション」を結成し、「社会的キリスト教」の理論を形成。イエスが行なった贖罪愛による社会の完成としての神の国実現を目指した。その影響を受けて堺教会牧師であった中村遥は貧困の中にある水上生活者の子供4名を引き取り、水上子供の家(後の大阪水上隣保館)を1931年設立。現在では保育園、幼稚園、乳児院、児童養護施設、社会福祉専門学校、養護老人ホーム、診療所を開くに至っている。また中島自身は後に関西学院で教えるようになるが、彼の弟子である嶋田啓一郎は、神学者カール・バルトの影響を受けて、思索を深めた人物であった(8)

バルト神学も1930年代に日本に導入され、神学者の熊野義孝、桑田秀延、SCMの指導者であった菅円吉、哲学者の滝沢克己、戦後、「日本基督教団戦責告白」を行なった鈴木正久だけでなく、一つの神学のみに依拠することのない同志社においても紹介された。同志社で歴史神学を教えた魚木忠一、組織神学を教えた大塚節冶、村上俊らがバルトを始めとする弁証法神学(神の言葉の神学)を日本に紹介したのである。

しかしながら、カール・バルトがナチス・ドイツと闘ったにもかかわらず、日本において多くのバルト主義者たちは多くのキリスト教会、社会的キリスト教同様、神の言葉に拠って抵抗運動を起こすこともなく、国家の政策に従っていくに至った。(9)

この当時、渡瀬常吉や魚木忠一のように「日本的キリスト教」と呼ばれるキリスト教も盛んであった。それは天皇制や神道とキリスト教を結びつけて考える、あるいは、日本人の宗教心と外国の宗教であるとされたキリスト教を信じることとの間で日本人としての宗教心の重要性を説く、そのようなキリスト教であった。(10)

1935年、同志社総長に京都大学教授であった湯浅八郎が就任するが、天皇制国家の統制と学徒動員政策に振り回され、ついには辞職へと追い込まれるに至った。(11)また1935年に同志社卒業生の長谷川初音が女性として最初に牧師に任ぜられるための按手礼を受けている。(12)

1939年に、ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が勃発、1940年にはイギリス・アメリカ両政府により宣教師たちに対して帰還命令が出され、キリスト教主義学校がミッションとの関係を断ち切らざるを得なくなった。1942年11月の第1回日本基督教団総会において、教団の神学校設置が決議されたが、同志社大学神学科は、私学としての同志社の中に位置づけられることになった。1943年1月の第2回総会においては、東亜局が設置された。1933年に結成された中国伝道のための東亜伝道会と1919年に小崎弘道が海軍省の委託で結成し、ミクロネシアのトラック群島(チュ‐ク)、ポナペ島で宣教活動を行なっていた安積清(同志社神学部卒)を始めとする南洋伝道団がその管轄下に置かれたが、東亜局はその活動のために政府からの補助を求めるに至った。(13)

第2次世界大戦中も、組合教会の伝統に立つ日本基督教団所属の教会にも戦争反対を叫び、平和運動を行なった牧師たちや信徒たちが少なからずいたが、皆、迫害に遭わざるを得なかった。多くの教会は宮城遥拝、国歌斉唱、教育勅語奉読、戦没者への「祈念」を、多くの教団教師たちは勤労奉仕を強制され、中には兵隊として戦地に赴いた者もあった。もっとも、この頃の日本基督教団所属の教会の教勢の悪化はキリスト教に対する迫害や社会的雰囲気ではなく、戦局の悪化が関係しており、戦時中の時代の流れに乗ったキリスト教会における被害者意識は、戦後、作られたものであるとも言われている。(14)1944年に教団は「日本基督教団決戦態勢宣言」を発表し、そして、1945年に日本は敗戦を迎えるに至った。 

 

(2)戦後から現代において

 

 戦後、いくつかの教派は日本基督教団より離脱した。1946年には「日本国憲法」が発布され、ようやく「信教の自由」が保障されるに至った。1951年より教団常議員会は「日本基督教団信仰告白」制定を決議し、1954年10月の第8回教団総会は、その草案を可決するに至った。しかし、それは各個教会の信仰告白ではなかった。当然のことながら、日本基督教団は様々な教派の合同教会であるゆえに、その信仰告白が会衆主義の内容であるわけがなく、教団の信仰告白において会衆主義は生かされていないと言ってよいであろう。

また、ちょうど、敗戦からその時期に至るまでは、日本は、いわゆる「キリスト教ブーム」であり、多くの人々が教会に詰めかけ、信仰あるなしにかかわらず、洗礼を受けるということも少なからず存在した。戦後から現代に至るまで同志社大学神学部を卒業した牧師の中でも有名な榎本保郎(元日本基督教団世光教会及び今治教会牧師)の伝道牧会にもそのようなことが土台として存在している。そこには日本人が敗戦後、間もない頃、文化的なものを含めて精神的な渇望を満たすものをキリスト教会に求めたということもあったであろうし、また人々が民主主義の精神的基礎をキリスト教に見出そうとしたということもあったのであろう。

しかし、「民主主義の精神的基礎をキリスト教に見出そうとした」ということに関して言うならば、そこにはキリスト教会が民主主義の精神的基礎がキリスト教であることを、きちんと示し、民主主義とは、そもそもどういったものであるのか語らない限り、人々はその民主主義がどのようなものか理解できないということもあったであろう。

また教団は戦後も社会問題、特に平和運動、天皇制・靖国問題、部落差別問題、人権問題等に関わり、1960年には日米保障条約改定について反対声明を発表している。それ以前の1954年3月、アメリカが原水爆実験を行なった際には、日本キリスト教協議会(NCC)が水爆実験中止を決議し、日本基督教団総会議長であった小崎道雄(日本基督教団霊南坂教会牧師 NCC初代議長)は、第2回世界教会協議会大会でその水爆実験中止決議について主張している。関西では1956年頃から「関西労働者伝道委員会」が発足した。それは組合教会の伝統を持つ日本基督教団南大阪教会で牧師として奉仕し、同志社大学神学部実践神学教授及び学長をも歴任した大下角一のフィールドワークを基にしたものであった。その委員会は労働者の中に生き、彼らと問題を共有して、その人間性の回復と社会の正義のために働くことがキリスト者の証しであるとする委員会で、特に京阪神三教区の牧師たち、同志社や関西学院の神学部関係者有志がこの運動を支えた(15)同志社神学部卒業生で社会福祉事業の道を開拓する者も少なからずあった。

教団はアジア諸国を始めとする外国の諸教会や他教派との関係を築くことにも努力し、宣教基本方策や伝道計画を立て、それを行なったが、それらには平和運動に関わった人々によるものも含まれている。1967年には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白戦責告白)」が教団議長鈴木正久により宣言された。(16)そこにはドイツの教会が戦後、間もない頃に行なった「罪責告白」が影響している。

同時に教団は、1960年代後半より、いわゆる教団紛争(万博問題、神学部・神学校における大学紛争、教師検定試験問題等)により、福音派と社会派に分かれ、また混乱を極めたが、そのような中にあってこの世における教会として神を証しし続けている。日本基督教団の立場について、三井氏は教団の諸教会が各個教会の自治独立を認めながら、協力する会衆政治をとっているという意味では会衆主義が影響を与えているとしているが、(17)必ずしもそうとも言えないのではないだろうか。

戦後、同志社大学神学部は大学院を設置し、欧米での新しい神学研究を吸収しつつ、現場からの問いかけに聞く立場を保持し続けた。現在でも、伝統を尊重し、国際的な視野で宗教について考え、教会だけでなく様々な場で自由に物事を思考し実践する人材を輩出し続けている。

 

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(1)   『日本組合教会海外伝道の光と影(1)』、99頁。

(2)   『安中教会』、146、147頁。

(3)    『日本プロテスタント史』、346頁。原氏は日本のキリスト教の特質として教会で入信する際に、その教派の教会であることを自覚して入信した例は稀であったとしている。原 誠著「日本基督教団とファシズム時代」『基督教研究 第61巻 第1号』、1999年、2頁。以下『日本基督教団とファシズム時代』と略す。

(4)   土肥昭夫著「日本組合教会の信仰職制について」『基督教研究 第46巻 第2号』、1985年、164頁。以下『組合教会の信仰職制』と略す。『日本プロテスタント史』、351頁。

(5)  塩野和夫著『日本組合基督教会史研究序説』、1989年、313頁。

(6)   『日本基督教団とファシズム時代』、3、23頁。原 誠著「戦時下の教会の伝道‐教勢と入信者」『基督教研究 第63巻 第2号』、2002年、73頁。以下『戦時下の教会の伝道‐教勢と入信者』と略す。

(7)   『組合教会の信仰職制』、1985年、155、156頁。『歴史の証言』、176頁。また、同書、175頁において、土肥氏は会衆派教会の信仰告白の問題については、その有無や制定の賛否ではなく、その性格に関する見解の相違にあるとしている。ちなみに1913年に発表された「カンサスシティー信条」はアメリカの会衆派教会がカルヴァン主義から離れたことを明確に示しているとされる。ダニエル・ジェンキンス著、佐柳文男訳「会衆派の神学」『キリスト教神学辞典』、教文館、2005年(新装版)。

(8)   『日本プロテスタント史』、384頁 注7参照。

(9)   これに関してはバルトの生涯からも分かるとおり、「バルト神学にその力がなかった」「当時の教会と神学にその力がなかった」と言うよりも、ドイツと違い、キリスト教よりも他の諸宗教・諸思想が浸透している日本においては軍国主義や天皇制による国家形成を防いだり、阻止したりすることのできる制度や運動が日本社会において存在しなかったからであると言わなければならない。もちろん、キリスト者による抵抗運動それ自体が少なかったのは神学校や教会を軍部による抑圧や迫害から守るためであったのであろうが。

(10)  ちなみに原氏は、「日本的キリスト教」を唱えた者の中でも『日本基督教の精神的伝統』(1941年出版)に見られる魚木忠一の思想は、欧米のキリスト教を相対化し、さらに日本の文化の特性とそのキリスト教も相対化しうる視点を持っていたともしている。原 誠著「戦時期のキリスト教思想 ‐日本的基督教を中心に‐」『基督教研究 第61巻 第2号』、1999年、37頁。しかしながら、当時の状況を考えた場合は神学思想として問題がなかったとは言えないものであろう。

(11)  戦後、1947年に湯浅八郎は日本基督教団安中教会信徒の湯浅正次を中心に、戦後、虚脱状態にあった郷土の青少年を奮起させるため新島襄の精神を受け継いだキリスト教主義の学校として群馬県安中市に設立された新島学園の初代理事長兼校長に就任。第1回の入学式は安中教会で行なわれた。さらに湯浅は1952年に国際基督教大学設立と共に初代学長にも就任している。

(12)  『歴史と課題』、133頁。

(13)  そもそも南洋伝道団は加藤友三郎海相が次官時代に霊南坂教会の向かい側に住んでいて、牧師であった小崎弘道と懇意であり、小崎が彼からドイツ伝道団の行なった伝道継続の依頼を受けたことに始まる。しかし、この南洋伝道団設立に際して組合教会がどの程度関わったかは不明とされる。『日本組合教会海外伝道の光と影(1)』、78頁。西原基一郎著「日本組合教会海外伝道の光と影(2)‐南洋伝道団について」『基督教研究 第51巻 第1号』、1989年、68、69頁。以下『日本組合教会海外伝道の光と影(2)』と略す。ちなみに、この南洋伝道団と日本のプロテスタントのキリスト者(特に日本基督教団に所属する組合教会の伝統にある諸教会)が中心となって2009年現在まで行なわれ続けている「ポナペ・ワークキャンプ」は直接的には関係がないが、1976年か日本基督教団世界宣教協力委員会の派遣により同教団牧師であった荒川義治がポナペ合同教会協力宣教師としてポナペ島に赴いた時、ポナペの教会はそれを念頭に置いていたものと思われる。そのことは南洋伝道団の活動がポナペ島民に感謝されていることの表れであるかもしれない。『日本組合教会海外伝道の光と影(1)』、78頁。もっとも1914年の日本統治時代からポナペ島民に対して日本語使用の徹底がなされ始め、戦時中にはそれと共にキリスト教会の礼拝の中で国民儀礼、皇民化教育、神社参拝が強要され、さらに集団自決強要もなされている。『日本組合教会海外伝道の光と影(2)』、92、125、126、130、131頁。ミクロネシアには1852年からアメリカン・ボードが宣教を行なっており、それによって出来た教会は現在「ポナペ合同教会」に属している。その団体は、日本で言えば日本基督教団に近いものである。

(14)  『戦時下の教会の伝道‐教勢と入信者』、66頁。『京都教会史』、524頁。

(15)  『日本プロテスタント史』、438頁。

(16)  戦時中のキリスト教会の罪責について、原氏は、教会が「罪」を隣人との関係概念において認識せず、また教会が社会、国家に対して執り成しの使命と課題を持つことをあまり理解しなかったことに起因するものであると言う。『戦時下の教会の伝道‐教勢と入信者』、76頁。1967年以後、日本のキリスト者有志は戦時中、日本が韓国の諸教会に行なったことに対して謝罪と償いのための活動も行なった。

(17)   『日本組合教会』、11頁。