「カール・バルトについて」川上純平

Über Karl Barth von Jumpei Kawakami                                2009/12/08(初稿1995/5/18)

 

・カール・バルト Karl Barth(1886-1968

 

1886年にスイスのバーゼルに生まれる。彼の父は保守的で正統主義的(16世紀の中頃から17世紀後半までにルター派、改革派、カトリックが共に自らの教理と聖書解釈の固定化という自己保存的動機によって形成した立場)な信仰を持つ改革派(カルヴァン派)教会の牧師であった。バルトはベルン、ベルリン、テュービンゲン、マールブルクの各大学に学び、神学者アルブレヒト・リッチュルの影響を受けた「自由主義神学」と呼ばれた立場に立つ歴史神学者のアードルフ・フォン・ハルナックや教義学者のヴィルヘルム・ヘルマンに師事、コーヘン、ナトルプ等の新カント学派からの影響も受け、ロマン派文学にも親しんだ。

1909‐21年の間、牧会伝道に従事するが、その時に「自由主義神学」の立場ではイエス・キリストの福音を宣べ伝えることが出来ないと考え、それを「説教という牧師特有の問題」とした。またバルトが当時、取り組んでいた宗教社会主義、労働運動の問題も「自由主義神学」では解決することができないとし、さらにエルンスト・トレルチが神学部から哲学部に移ったことや、1914年の第一次世界大戦勃発に際してハルナックをはじめとする自由主義神学者たちがドイツの戦争政策を支持していることを知り、ショックを受けた。バルトが受けたショックは激しく「彼らが倫理的に誤ったことはその倫理的行為の前提となる彼らの哲学や神学もまた誤ったことになる。」と(やや、カント的に)判断し、自由主義神学の哲学や神学の礎となり、「近代神学の父」と呼ばれたフリードリッヒ・ダニエル・エルンスト・シュライエルマッハーを批判して、シュライエルマッハーの神学を受け継いでいるとされた「自由主義神学」と訣別した。(1)さらにドイツ社会民主党の戦争予算承認、宗教社会主義者フリードリッヒ・ナウマンの愛国主義的変貌からイデオロギーとしての宗教社会主義とも訣別した。もっともバルトはその生涯において単なるイデオロギーや抽象的思弁として終わることのない宗教社会主義者として実践的に生きたとされる(2)

バルトは、その頃から「聖書は人間による宗教的文献だが、その人間は人間を超えた神を示している。」とする、厳密で徹底的な聖書研究を行い、キルケゴール、ニーチェ、ドストエフスキー、オーフェルべック、カルヴァン、カント、プラトンを読み、『ローマ書』(ローマの信徒への手紙の注解書)を出版するに至る。『ローマ書』の主題は「神の自由な恵みによるイエス・キリストにおける神と人間の一致」であった。(3)

1921−30年のゲッティンゲン、ミュンスター及びボン大学の教授時代、フリードリッヒ・ゴーガルテン、エドゥアルト・トゥールンアイゼン、ルドルフ・ブルトマンエミール・ブルンナー、ゲオルク・メルツ達と共に『時の間』(“Zwischen den Zeiten”)誌を通して「人間は神ではないゆえに、神について語ることはできない。しかし、人間(ここではイエス・キリストの福音を宣べ伝える者)は神について語らなければならない。」を主張する「神の言葉の神学(弁証法神学)」運動を推進。この神学はしばしば、「危機神学」「新正統主義神学」等とも呼ばれた。

1927年に『キリスト教教義学への序論』を出版するが、ナチスが台頭し始めた頃の1930年にカンタベリーのアンセルムス研究を始め、1931年にはドイツ社会民主党に入党、アンセルムス研究を『知解を求める信仰』というタイトルで出版。そのアンセルムス研究の影響もあり、1932年には『キリスト教教義学への序論』を『教会教義学』(“Die Kirchliche Dogmatik”)にタイトルを変えて第1巻第1分冊を出版。タイトルを『キリスト教教義学』から『教会教義学』に変えたのは、キリスト教の教理の哲学的、すなわち人間学的な基礎づけと解釈の最後の残滓を除き去るためであり、教義学が自由な学問ではなく、教会という領域に縛られており、教会においてのみ可能な、意味深い学問であるということを示すためであった。(4)『教会教義学』においてバルトは聖書を人間に語りかけ、それによって人間が変えられるという、その出来事において「神の言葉」となるとしている。

彼はナチスを批判した自分の論文『今日の神学的実存』をヒトラーに送り、1934年には「聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々がその生と死において信頼し、服従すべき、神の唯一のみ言葉である。」(5)を第一テーゼ(定立、命題)とする反ナチス闘争の象徴とも言える『バルメン宣言』の起草にあたった。彼はナチスに利用されるか、又はナチスに従うような神学を持っていると考えた、エマヌエル・ヒルシュ、パウル・アルトハウス、エミール・ブルンナー、フリードリッヒ・ゴーガルテンの考え方を批判した後、大学でのナチスの強制したヒトラーに対する誓約を拒否することによって、ボン大学を追放され、故郷バーゼルに帰り、1962年までバーゼル大学神学教授となった。第2次世界大戦が始まった際にはナチスを批判するだけでなく「スイスをナチスから守らなければならない」と考え、軍隊(国境警備兵)にも入隊している。

第2次世界大戦後は旅行や書簡によって激動するヨーロッパ諸国の教会を激励し、共産主義に対して寛容な態度を取り(東と西の間にある教会)、適切な指針を与え、核武装に反対し、世界教会運動にも重要な役割を果たした。バーゼル大学教授を退官した後は、アメリカ合衆国に赴き、そこで「もし自分がアメリカの神学者であれば、『自由の神学』(“a theology of freedom”)をつくり上げようとするだろう。それは古き良きヨーロッパに対してのあらゆる劣等感から解放された自由の神学であり、アジアやアフリカに対する優越感からも解放された自由の神学であり、それゆえに『人間性』(for humanity”)へ解放された自由の神学である。」と発言した。(6)また敬虔主義に関心を示し、ベトナム戦争に反対し、バチカンでカトリックと対話し、晩年は他の諸宗教に対しても神学的関心を改めて示している。(7)

彼の神学は、徹頭徹尾「神の恵みの神学」であった。代表的な著作である『教会教義学』は「キリスト論的集中」による「信仰の類比」及び「関係の類比」を方法論とする「神の恵みの勝利」が主題であり、1967年に第4巻第4分冊まで出版され、未完成に終わっている。2009年現在、全集が刊行中であり、20世紀における最も重要な神学者の一人として世界のキリスト教会内外に多大な影響を与え続けている。

 

 

〈参考文献〉

 

(1)カール・バルトの著作

 

・カール・バルト著.井上良雄訳『カール・バルト教会教義学 神の言葉T/1』、新教出版社、1995年(第1版第1刷)。Die Kirchliche DogmatikKD,T.Bd.,Die Lehre von Worte Gottes  Prolegomena zur Kirchlichen Dogmatik,1.Teil(T/1.,Zürich,1942.

   

・カール・バルト著、佐藤敏夫訳『バルト自伝』、新教出版社、1996年復刊。Der Götze wackelt. Zeitkritische Aufsätze, Reden und Briefe von 1930 bis 1960.Hg. von Karl Kupisch,2.Aufl,Berlin,1963. S.181209.

 

・カール・バルト著、小塩 節、野口 薫訳『最後の証し』、新教出版社、1973Letzte Zeugnisse,Evangelischer Zollikon -Verlag, Zürich.1969.

 

 

(2)カール・バルトに関する著作

 

・『新教コイノーニア3 日本のキリスト教とバルト』、新教出版社、1986年.

 

・大崎節郎著『カール・バルトのローマ書研究』、新教出版社、1987年(第1版).

 

・大島末男著『人と思想75 カール=バルト』、清水書院、1990年(第1版第4刷).

 

・カール・クーピッシュ著、宮田光雄、村松恵ニ訳『現代キリスト教の源泉2 カール・バルト』、新教出版社、1994年(第1版)。Karl Barth in Selbstzeugnissen und Bilddokumenten,1971,Hamburg

 

・エーバーハルト・ブッシュ著、小川圭治訳『カール・バルトの生涯 1886‐1968』新教出版社、1995年()。Karl Barths Lebenslauf Nach seinen Briefen und autobiographischen Texten,4. Aufl.,München.1987

 

 

(3)その他の参考文献

 

・『信条集 前後編(オンデマンド版)』(基督教古典双書刊行委員会編)、新教出版社、2004年.

 

 

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(1) もっとも、「自由主義神学」と呼ばれた立場の神学が果たしてシュライエルマッハーの神学的立場を正しく理解し継承していたかどうかという問題もある。ちなみにバルトは晩年、自らが「自由主義という言葉も正統主義という言葉同様に好きでない」ことを語り、「私もまた自由主義的であるし−もしかすると、自ら・・・自由主義をもって任じている人々よりも、もっと自由主義的であるかもしれません。」という言葉を残している。カール・クーピッシュ著、宮田光雄、村松恵ニ訳『現代キリスト教の源泉2 カール・バルト』、1994年(第1版)、176頁。カール・バルト著、小塩 節、野口 薫訳『最後の証し』、1973年、48頁

(2)  それは理論と実践の差異と言うことも出来る。そこには1948年における東西対立の中で共産主義に対して不安を持つことに対して批判を行なったり、1957年の「ハンガリー動乱(危機)」における危機に直面したハンガリー人たちへの援助を行なったりしたこと等からも明らかである。そもそもバルトが宗教社会主義に関心を持ったのは父親の影響によるのかもしれない。牧師時代のバルトにとって社会主義はイエスが実践したようなものであった。エーバーハルト・ブッシュ著、小川圭治訳『カール・バルトの生涯 1886‐1968』、1995年()、17、101、504、607頁。以下『カール・バルトの生涯』と略す。また彼の態度は状況によって仕方なく態度を変えたものではない。それは「事柄」(“Sache”:聖書の語るイエス・キリストの救いの出来事)に基づく態度であろう。

(3)  大崎節郎著『カール・バルトのローマ書研究』、1987年(第1版)、80、81、84、86、99頁他。以下『ローマ書研究』と略す。

(4)  カール・バルト著、佐藤敏夫訳「バルト自伝」、1996年復刊、60頁。カール・バルト著、井上良雄訳『カール・バルト教会教義学 神の言葉T/1』、1995年(第1版第1刷)、C頁。もっともこの後も彼の教義学に哲学的要素が見られないわけではない。ちなみに大島末男氏によれば、神学者パウル・ティリッヒはカール・バルトを深い哲学的素養のある人物であったと述べたと言う。『新教コイノーニア3 日本のキリスト教とバルト』、1986年、30頁

(5)  『信条集 前後編(オンデマンド版)』(基督教古典双書刊行委員会編)、2004年、322頁

(6)   『カール・バルトの生涯』、656頁

(7)   同書、636、685-693頁。『ローマ書研究』、251頁(注103)