「キリスト教会における『キリスト教教育』という言葉について」
川上純平
2010年7月19日
「キリスト教会における『キリスト教教育』」という言葉は「キリスト教主義学校における教育」という意味での「キリスト教教育」ではなく、「総合大学の神学部や神学校における教育」でもない。(1)
「キリスト教会における『キリスト教教育』」を「教会教育」、あるいは、「教育」という言葉を使うのは不適切であるとするゆえに「キリスト教会における『キリスト教養育』あるいは『キリスト教共育』」と言い換える人々もいる。それは先ほど述べたような学校の授業で学ぶというようなことに重点が置かれるという誤解を避けることを含んでいる。また、この「キリスト教会における『キリスト教教育』」という言葉は子供から大人までを含んだものを意味するゆえに、幼少時から一般の学校における教育を終えた後も、続けられるものである。
さらに、この言葉は「教会学校」や「日曜学校」(2)を連想させるが、「教会学校」や「日曜学校」は「キリスト教会における『キリスト教教育』」の中の諸部門の一つのようなものである。
いずれにしろ、キリスト教会におけるこのような業は人をキリスト教信仰に導くということを含んだものであり、同時に神によって導かれた自らの人生を受け入れ、教会生活を通して自らを育てる神に感謝しつつ、成熟し、他者との交わりへと目を向けていくという意味合いを持つものであろう。「伝道」「宣教の業」もこのことを覚えて行なわれている。
人間は個々人によって理解内容や理解するスピードが異なるので、それが個々人に応じた仕方で行なわれるのが適切であることは言うまでもない。近年は、障害者や高齢者に対しての配慮も検討されることも多い。また地域によって多少の差異もあるかもしれない。
そもそも、なぜキリスト教にこのような教育的要素が含まれるのかと言うと、そこにはキリスト教がユダヤ教の「シナゴーグ」(礼拝を行なう会堂)からの影響を強く受けているということに依存すること、ユダヤ教においては年長者が子供たちに律法を教育するということに主眼を置いているからということがある。(3)キリスト教において救い主とされているイエスもそのような教育を受けており、イエスの言葉にもその影響は見られる。
キリスト教は知識人をも含んで全ての人に伝えられ得るものであるゆえに、このようなことが重要視されているのである。
一方で、戦争の悲惨さと平和の大切さ、差別問題を学習すること、福音のダイナミクス等は現場において、人と接すること、共感理解や五感を通じて影響を受ける要素もある。そういったこともこの教育において必要なことであろう。
同時に、そこにおけるキリスト教教育は「キリスト教共同体教育」であるとも言える。(4)しかし、この「共同体」において行なわれるということは、個々人の置かれた状況や個々人の理解が異なることと矛盾しない。
なぜなら、キリスト教会は様々な人が神によって集められたものであり、そこに集う者の信仰は一人の神に向けられたものであり、特に礼拝における神に対する態度の多くは共同作業でもあるからである。これらのことは福音とその共同体が、キリスト教教育的実践を求める。(5)ということにもよる。説教や牧会は教育的機能を持つものとしても存在するのである。
現代日本の社会においては「神の愛に根差した被造物として命のやすらぎ、安らかな息を取り戻す」ということがキリスト教教育として必要であるのかもしれない。(6)その業は「隠された、小さいものの、見捨てられたところに」おいて行われる場合が多かったし、また多いのであろう。(7)
このように「キリスト教会における『キリスト教教育』」は現実化が難しいものも含みつつ、今日、社会の変動の中にありながらも、聖書に根ざしつつ、福音と共同体が求めるものとして行なわれていくのである。
<参考文献>
・今橋 朗著「キリスト教教育」『総説 実践神学』、日本キリスト教団出版局、1993年〈再版〉、189‐215頁。
・吉高 叶著「和解の網を打とう NCC教育部100周年記念礼拝説教」『福音と世界 2007年10月』、新教出版社、2007年、12‐17頁。
・小見のぞみ著「『名も知られぬ』人々との出会いから NCC教育部100周年記念シンポジウム載録」『福音と世界 2007年10月』、新教出版社、2007年、18‐20頁。
・朴 憲郁著「世代を超えて交わりと、人づくりの源泉を見つめて NCC教育部100周年記念シンポジウム載録」『福音と世界 2007年10月』、新教出版社、2007年、21‐23頁。
・江藤直純著「証しし奉仕する、宣教の担い手である信徒になる NCC教育部100周年記念シンポジウム載録」『福音と世界 2007年10月』、新教出版社、2007年、23‐25頁。
(1) ちなみに「キリスト教主義学校における教育」の目的は聖書やキリスト教についての学びを深めると同時に、キリスト教の意(神の御心)に沿った人格形成をすることである。また「総合大学の神学部や神学校における教育」そのものも「キリスト教主義学校における教育」と異なり、基本的には牧師や伝道者、キリスト教主義学校における聖書科・宗教科教師、神学研究者、社会福祉等の道を志す者に対して聖書やキリスト教・その他についてより深く学問的に研究がなされるために行なわれる教育である。
(2) 「日曜学校」は1780年にロバート・レイクスがイギリスで貧しい子供を対象に読み書きと信仰教育を行なったことに始まると言われるが、はっきりしていない。
(3) もっともユダヤ教のシナゴーグはパレスチナという絶えず外的に侵略され、異教の影響を受けやすい地域環境の中で自らの共同体を守るための教育として機能していた部分もある。
(4) 今橋 朗著「キリスト教教育」『総説 実践神学』、1993年〈再版〉、191頁。
(5) 同書、213頁。
(6) 吉高 叶著「和解の網を打とう NCC教育部100周年記念礼拝説教」『福音と世界 2007年10月』、2007年、13頁。
(7) 小見のぞみ著「『名も知られぬ』人々との出会いから NCC教育部100周年記念シンポジウム載録」『福音と世界 2007年10月』、2007年、18‐20頁。