「信仰告白(信条)について」    2011/12/05 川上純平

 

 

〈序〉

今日、日本基督教団を始めとするの多くのプロテスタント諸教会の礼拝において告白されているものに信仰告白(信条)がある。この信仰告白というものについて述べ、信仰告白の歴史と現状とそれに関連する課題や、なぜ信仰告白を行なう教会と行わない教会があるのか、新しく信仰告白を作ることを提唱することについて、子供との合同礼拝や教会学校においてはどうか等についても考えたい。

 

 

1.「信仰告白(信条)とは何か?」

信仰告白とは「個人あるいは団体として信仰を公に表明すること、また表明された信仰内容の要約をさすこともある」(1)というそのようなものである。

「信仰告白」という言葉はラテン語で「告白する」という意味を持つ“confessio”という言葉に起源があるが、そもそもの由来は、聖書において「神を讃美する」という意味で用いられている“ξομολογω というギリシア語の言葉が信仰に対する迫害に耐えて行なった信仰告白を意味するようになったところにある。(2)さらにこの言葉は“μολογω ”というギリシア語の言葉に由来するが、聖書においてはローマの信徒への手紙10章10節でも用いられ、この言葉には既述した「讃美する」という意味の他に「罪を公に言い表す(ヨハネの手紙T1章9節)」という意味もある。

一方、「信条」という名称であるが、これはローマ・カトリック教会で言うところの信仰告白のことである。プロテスタント教会でも宗教改革以前の教会の「信仰告白」を「信条」と呼んでいる場合が多い。(3)

「信条」という言葉はラテン語で“symbolum”と言うが、この言葉は4世紀頃に遡るとされ、そもそもギリシア語で「一緒に投げる、投げ合せる」を意味する“συμβλλειν”という言葉に由来するとされる。それは戦争において敵と味方を区別する符号、印や合言葉を意味した。(4)もっとも、この言葉を同じ信仰を持つ者同士を結びつけるということから「結び合わせる」という意味を持つ言葉であるとする解釈もある。その解釈から信条は異教との対論の中で同じ信仰を持つ者同士を結び付ける印とされ、信条は教会が置かれた状況によって新たに告白されるものであるとされるようになった。(5)

信条は、しばしば「信仰の基準」として聖書と並ぶ権威を与えられてきたという歴史的経緯がある。それは“συμβλλειν”という言葉について、信条は聖書の中に含まれるキリスト教信仰の重要事項を一つの文に「結び合わせたもの」であるという解釈から、信条は聖書の内容が整えられ並べられることによって「信仰の基準」とされ、聖書は信条にとって規範であるが、信条は聖書によって規範を与えられて、教会にとって規範となったと言われる。(6)

もちろん、聖書が永遠の書物であり、恒久のものであるのに対して、信条は時代と伝統に拠っている。「信条は具体的には聖書の告知に対する教会的な応答を内容とする」(7)

また「信条」を“credo“というラテン語で表現することがあるが、これは信条の冒頭の言葉である「私は信じる“credo”」という言葉に起源を持つ表現である。

信条はプロテスタント教会における「信仰告白」とは違い、その内容と構造は限定的なもので、明瞭であり、いわゆる「洗礼信条」と「公会議信条」とに分けられる。「洗礼信条」は「使徒信条」に代表されるようなもので、教会の教理についての教育用に用いられた。一方、「公会議信条」は自らを正統として異端と区別するために「洗礼信条」を基礎としつつ、それらを修正・加筆し、教会の公会議で制定されたものである。もっとも431年の「エフェソ公会議」において公会議での信条の作成は禁止されるに至った。

信仰告白を行なうのは自らの信仰がどのようなものであるかについて、また共同体や団体に自らが属していることについて、自らに対して想い起させ、考えさせ、信仰を深めさせるためである。信仰告白は、たいていは礼拝の中で個人で、また集団で、記載された信仰告白の言葉を読みあげたり、暗唱したりするのが常である。

信仰告白が定式化される理由は教会としての伝道や宣教を行なっていくために、教会教育や自らの教会あるいは教派の信仰内容の維持、教会の自己同一性(アイデンティティ:教会が教会であること)を確かなものとするためのものであるとされる。特に受洗者の教会教育において用いられもするが、それは教会生活を行なう、たとえば、聖書を神の言葉として理解し信じるということにおいて必要なものともされる。

 

 

2.「信仰告白の歴史」

そもそも信仰告白は旧約聖書に由来する。旧約聖書に登場する人々は神ヤハウェに対する自らの信仰を告白してきたが、それはしばしば想起という形でなされた。信仰告白をさせるのが、神ヤハウェであるならば、信仰告白は神が人間にさせているにすぎないものであるかというと、そうではない。なぜならば、信仰告白はあくまでも人間の側の応答であるからだ。新約聖書においてはイエスが神に対する信仰を告白しているが、イエスの弟子たちはイエスを「主」「神の子」とし、救い主として死んで復活したこと等を信仰として告白するに至った。新約聖書時代の教会において、それらの信仰告白は「洗礼」を受ける際の告白文として存在していたとされ、それらの言葉が後の「信仰告白」のように定式化される際に用いられ拡充されるに至った。(8)

それは昔から使徒によって口伝されたものと言われてきた歴史的経過があり、2世紀の神学者たちがそれに言及している。それが後の「洗礼信条」となり、「公同教会(ecclesia catholica)」、つまり、「どこにおいても同じ神を信じる教会」を成立させていくものとなった。

古代教会においては、信仰告白は他の諸宗教や諸思想に対して証していく中で形成され、また教会会議で認められるに至った。そこには自分たちと異端とされた教派や立場の人々たちとを区別するということが目的としてあった。教会会議において認められた「信仰告白」は聖霊が証ししているか、キリストを告白しているかによっても決められたとされる。そのような「信仰告白」には381年に宣言された「ニカイア信条(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)」、7‐8世紀に確立したとされる「使徒信条」がある(もっとも確立した時期については諸説あり、4世紀末とも言われる)。「使徒信条」は紀元200年頃に成立したとされる「古ローマ信条」から出来たとされているが、それも推論に過ぎない。「古ローマ信条」はヨーロッパ各地で作られた洗礼を受ける際の告白文から成立したともされる。「使徒信条」が自然発生的特徴を備えているのに対して、「ニカイア信条」はその背景にキリスト論論争という神学的動機があったとされる。(9)「使徒信条」が普遍的な信条となった背景にはゲルマン・ヨーロッパ統一帝国の形成とフランク王国の教会が帝国の教会として発展したということに起因するとも言われている。(10)アタナシウス信条」は5世紀前半までにネストリウス派を否定する目的で作成され、「カルケドン信条」は451年のカルケドン公会議においてキリスト論についての論争を背景にして成立している。

さらに、「使徒信条」「ニカイア信条」「アタナシウス信条」の三つで「基本信条」と呼ばれ、「使徒信条」「ニカイア信条」「カルケドン信条」「アタナシウス信条」の四つで「公同信条」と呼ばれる。これらの信条は「キリスト論」と「三位一体論」を中心的主題としている。(11)

16世紀の宗教改革以降、プロテスタント教会は自らの立場を表明し、保持するために、様々な「信仰告白」を生み出したが、それらはローマ・カトリック教会の信条をどう解釈するか念頭に置いたものであったのは言うまでもない。そこでは「聖書のみ」の視座から、信条の主題に着目したとも言われる。代表的なものに「アウグスブルク信仰告白」や「ジュネーヴ一致信条」等がある。同時にカトリック教会では反宗教改革運動も行われた。

第2次世界大戦中、カール・バルトらがナチス・ドイツの国家宗教に対して「バルメン宣言」を提唱した。これは既述のような意味での信仰告白とは異なる。第2次世界大戦後、1945年にドイツの諸教会は自らの戦争中の立場を罪として告白した「シュトットガルト罪責告白」を宣言した。そこにはディートリッヒ・ボンヘッファーの影響があったことも忘れてはならない。

日本基督教団は1954年「日本基督教団信仰告白」を制定している。『教憲教規』によれば「旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して」制定されたことになっているが、(12)もっともその作成にあたっては戦時中の「教義ノ大要」が基となっており、戦後においても内容修正に関して当時の教団指導者層が戦時中の教会と国家の関係を意識していたと解釈されてもいる。(13)さらに1967年に当時の教団議長の名前で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(戦責告白)」を宣言している。これらも単なる信仰告白ではなく、人間の罪に重点が置かれ、それとの関わりで告白されたものであった。それは教会が世において責任を持つということでもある。

現在も、世界の諸教会・教派で様々な「信仰告白」が作られ告白されている。

 

 

3.「信仰告白の現状と考察」

現代において信仰告白は、特にプロテスタント教会である日本基督教団に属する多くの諸教会・伝道所の礼拝においては「使徒信条」や「日本基督教団信仰告白」「戦責告白(1967年)」が用いられているが、中には「ニカイア信条」「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」「アタナシウス信条」等を用いている教会もある。

その一方で、全くそのような既成の「信仰告白」を教会の礼拝で用いない教会や、その教会等で独自に作成した「信仰告白」「戦争責任告白」等を行なっている教会もある。これは既成の教理から自由な立場に立つ教会を中心にして見られるものである。

また「信仰告白」を礼拝のどのような時に用いるかも教会や伝道所によって異なり、聖餐式や洗礼式等において、あるいは、それだけでなく、結婚式や葬儀式においても用いる教会もあるが、同時に用いない教会が存在する。当然、毎週の主日礼拝において「信仰告白」を行なう教会もある。これらにはたとえば求道者や初めて教会に来た人は信仰告白するか、しないかということが関わってくる。

信仰告白を教会学校や子供の教会、子供の礼拝等で行なっている例もあるが、それは、しばしば、子供向けに作成されたものである。教会によって大人と子供の合同礼拝においても、信仰告白の使用は有無共にあり、異なる。

礼拝において、これらを用いる、用いないということは、その教会や伝道所の伝道方針や宣教方針に関係する。個人の信仰内容を信仰告白が束縛するのではないかということが懸念されたために信仰告白の権威を認めない教派も存在する。

ところで、信仰告白の内容や用い方が、教会の現状の、その時代の状況の変化等によって変えられるということはあるのだろうか?それについてはいくつかの意見がある。たとえば、信仰告白や信条に対する批判は許されるという主張があり、(14)また信条について、信仰も「批判的に考え抜かれたもの、そして明瞭かつ理路整然と表出されるもののみが、人々の心をつかむことができる」とする(15)という主張もある。教会史においてはニカイア信条の用い方の理解には多様性があったとされてもいる。(16)ちなみに2010年12月発行の日本基督教団信仰職制委員会編「教憲教規の解釈に関する答申書」においては教憲は教団信仰告白の改訂手続きを定めていないとしている。(17)こういったことには神学的なものよりも政治的なものが反映しているのかもしれない。

信仰告白の形式や内容が変化するものであるかどうか、その教会・教派によって異なるものであると考えて良いのかもしれない。なぜなら、信仰告白のその存在自体が、絶対的でない、この世を旅する神の民の暫定的な告白でもあるからである。

さらに信仰告白を口で表明することができない人、たとえば、障害者の場合、配慮が必要とされるということもあろう。また日本の教会の置かれた地域性を背景とした信仰告白はあるのだろうか。以上「信仰告白の現状と考察」については多くの方の意見を聞くことが必要なようである。

 

 

4.「結論」

信仰告白(信条)は聖書を土台とし、古代教会の教理に従っているものであるという特質を持つ(それゆえにそれはまた神学に基礎を与えたものであり、そもそもは実存的な祈りが関わっている)。そこには自らがキリストによって救われたことについて聖霊の働きにおける感謝や喜びが 述べられ、また聖書が証する神を拝し、神の御計画・御心に対する信仰的応答を語る。それゆえに礼拝で告白されるものでもある。信仰告白は信仰生活や行為と切り離されたものではないことは言うまでもない。

信仰告白は自らの信仰、あるいは諸教会・諸教派の信仰を表わし、それらの信仰理解を確立させ、伝道や宣教を行なっていくために存在するとされる。またその教会や教派の立場によっては信仰告白をする、しないということも含まれるであろう。

信仰告白は教会が異教の神を拝まない、偶像崇拝を行なわないということのためにも必要なものであるが、教会に入会する、また、その教会、教派に自らが属するということの印でもあるゆえに、それに属す自らとそれ以外の人々とを区別する機能を持つ。

それゆえに、これらのことは教会それ自体の絶対化・神聖化に貢献することを拒否するものでもある。信仰告白は人間の行なうものであるゆえの限界を持つものであることを覚える必要がある。一方で神によって与えられた信仰に対する応答とされ、その時代における証でもあることを覚える必要がある。

 

 

 

〈参考資料〉

 

・大崎節郎著「神の権威と自由」、日本基督教団出版局、1982年

・アラン・リチャードソン著、佐柳文男訳「信仰告白、信条主義」『キリスト教神学事典』、教文館、2005年(新装版)

Alan Richardson“Confession(s),Confessionalism” inAlan Richardson and John bowden(ed.), A New Dictionary of Christian Theology, SCM Press,1983.

・ジョン・ H・リース著、佐柳文男訳「信条」『キリスト教神学事典』、教文館、2005年(新装版)

John H.Leith“Creeds” inAlan Richardson and John bowden(ed.), A New Dictionary of Christian Theology, SCM Press,1983.

・熊野義孝著「信条」『キリスト教大事典』、教文館、1991年

・北森嘉蔵著「信条」『キリスト教組織神学事典』、教文館、1992年〈第5版〉

・『新約聖書ギリシア語釈義事典U』、教文館、1994年。

Exegetisches Wörterbuch zum Neuen Testament.Hrsg.von Horst Balz und Gerhard Schneider,Band2,2.,verb.aufl.Stuttgart,1992.

・佐藤敏夫著『キリスト教神学概論』、新教出版社、1994年

・石井裕二著『キリスト教会・教派概説』、同志社大学神学部、1994年

・土肥昭夫著「日本基督教団信仰告白の成立について」『アレテイア 1995年 NO.11

特集 信条』、日本基督教団出版局、1995年、4‐9頁。

・磯部理一郎著「基本信条における『公同教会』と日本基督教団」『アレテイア 1995年 NO.11 特集 信条』、日本基督教団出版局、1995年、10‐15頁。

・寺園喜基著「信仰とは告白を意味する ‐信条・信仰告白についての神学的考察」『アレテイア 1995年 NO.11 特集 信条』、日本基督教団出版局、1995年、

16‐21頁。

・小高毅著「信条」『キリスト教辞典』、岩波書店、2002年

・百瀬文晃著「信仰告白」『キリスト教辞典』、岩波書店、2002年

・松村重雄著「バルメン宣言と日本基督教団信仰告白」『福音と世界 2005年5月号 特集 バルメン宣言の継承』、新教出版社、2005年、17‐23頁。

・山本尚忠著「信仰告白式」『キリスト教礼拝学事典』、日本基督教団出版局、2006年

・勝田英嗣著「信条」『キリスト教礼拝学事典』、日本基督教団出版局、2006年

・日本基督教団事務局編『日本基督教団 教憲教規および諸規則 2007年4月改訂』、

日本基督教団出版局、2007年第1版

・川上純平著「ディートリッヒ・ボンヘッファーの思想 ‐特にカール・バルトとの関連で(2008年改訂版)」、Jumpei Kawakami2008年

http://theologie.weblike.jp/jump2Theologie2007b.htm

DVD-ROM Bible Works 8,Bible Works LLC,2009-2010.

・日本基督教団信仰職制委員会編『教憲教規の解釈に関する答申書』、日本基督教団信仰職制委員会、2010年

 

 



(1)   百瀬文晃著「信仰告白」『キリスト教辞典』、2002年。

(2)   アラン・リチャードソン著、佐柳文男訳「信仰告白、信条主義」『キリスト教神学事典』、2005年。

(3)   もっとも信条を条項化された信仰告白であるとする解釈もある。寺園喜基著「信仰とは告白を意味する ‐信条・信仰告白についての神学的考察」『アレテイア 1995年 NO.11 特集 信条』、1995年、16頁。

(4)   小高毅著「信条」『キリスト教辞典』、2002年。

(5)     北森嘉蔵著「信条」『キリスト教組織神学事典』、1992年〈第5版〉、以下『組織神学事典:信条』と略す。

(6)   『組織神学事典:信条』

(7)      熊野義孝著「信条」『キリスト教大事典』、1991年、以下『信条』と略す。

(8)    石井裕二著『キリスト教会・教派概説』、1994年、3頁。

(9)    勝田英嗣著「信条」『キリスト教礼拝学事典』、2006年、以下『礼拝学:信条』と略す。

(10)   大崎節郎著「神の権威と自由」、1982年、331頁。

(11)   『組織神学事典:信条』

(12)    日本基督教団事務局編『日本基督教団 教憲教規および諸規則 2007年4月改訂』、2007年第1版、6頁。

(13)    土肥昭夫著「日本基督教団信仰告白の成立について」『アレテイア 1995年 NO.1 1 特集 信条』、1995年、5頁。日本基督教団信仰告白の問題点については松村重雄著「バルメン宣言と日本基督教団信仰告白」『福音と世界 2005年5月号 特集 バルメン宣言の継承』、2005年、17‐23頁においても記されている。 

(14)  佐藤敏夫著『キリスト教神学概論』、1994年、27頁。

(15)  『神学事典:信条』

(16)  『礼拝学:信条』参照

(17)  日本基督教団信仰職制委員会編『教憲教規の解釈に関する答申書』、2010年、9、10頁。

 

 

 

これは2011年度12月日本基督教団奥羽教区北西地区教師会で著者が発題したものに加筆・修正したものです。