主日礼拝説教「記念として行う」ルカによる福音書22章1‐23節(新153頁)     

2012・5・13  川上純平

 

 

 

・先週の主日礼拝では主イエスが十字架に架けられ殺されたことが人の罪のためのものであること、主イエスが死の墓から復活し、甦ったことは人間の「永遠の命」を与える事を意味するものとして、主イエスを信じることで与えられるものであること、そのことを覚え、そこに真の希望があること、この時代に聖書の神の言葉に従い生きることを神からのメッセージとして受けとめました。

・今朝の主日礼拝の聖書箇所は「過越祭でのイスカリオテのユダによる裏切りの計画」と「最後の晩餐」と呼ばれる「主の晩餐」についての箇所です。前回と同じく都エルサレムが舞台です。レオナルド・ダヴィンチの描いた「最後の晩餐」の絵をモチーフにした『ダヴィンチ・コード』という映画が上映されましたが、その「最後の晩餐」の聖書箇所が先ほどお読みしました聖書箇所です。

・それぞれ有名な箇所です。時は「過越祭と言われている除酵祭」の期間でした。厳密に言えば「過越祭」と「除酵祭」とは、それぞれ異なるユダヤ教のお祭りです。それが後に一つのものとして考えられるようになりました。

・「徐酵祭」というのはパレスチナ地域で春に大麦を収穫する時のお祭りで、1週間、パン酵母〈パンを膨らますためのイースト菌〉を入れずに作ったパンを食べたことにその源があります。それは私たちが食べるふっくらとしたパンとはまた少し違うものです。それを遡ると旧約聖書の出エジプト記の中でイスラエルの民がエジプト脱出する時に食べた食事に起源があります。脱出の準備をするのに時間がなくてパン粉を膨らましている時間を省略してパン酵母を入れないパンを急いで焼いて食べたということにちなみます。漬物で言えば、ぬかにつけて待つと時間がかかるので、浅漬けを作って済ませた言えば分かりやすいでしょうか。ある人はイスラエル民族がエジプトの地を脱出してパレスチナ地域に入った時にその土地の先住民族の農耕文化から取り入れた祭であるとしています。このことは出エジプト記の中に見られる描写が後の時代の話に影響を受けていることを表わしているとされています。

・それに対して「過越祭」というのは、出エジプト記に神がエジプト王ファラオに対して災いとしてカエルやイナゴが異常発生するとか、ナイル川が血の色に染まるというようなことを起こしたとされていますが、実際は自然現象が偶然重なっただけなのですが、その第10番目の災いとしてエジプトの初子が殺されるという災いがあり、それにちなみます。その時にイスラエルの人々が羊や山羊を屠って神に犠牲として献げ、その血を家の戸口に塗って初子が殺されるのを防いだ、つまり、死が通り過ぎていくのを待ったわけですが、そのことを記念するお祭りです。もともとはイスラエル民族が遊牧民族だった頃に魔除けとしてそのようなことを行っていたことも関係していると言われています。

・その春の祭りの時期に弟子の一人であったイスカリオテのユダは主イエスをユダヤ教の宗教者たちに売り渡そうとしていました。4節では祭司貴族と律法学者の利害関係が一致したことが物語られています。

・福音書はユダの裏切り行為をサタン(悪魔)によるものとしています。ユダはサタンに襲われたのかもしれませんが、しかし、ユダの行為は何と大それた罪深い行いだったのでしょうか。弟子たちは主イエスに世話になっただけではありませんでした。彼らは救われ人生を変えられ、神の国を求めて生きる者とされたはずであったのですが、しかし、そこが人間模様なのかもしれません。人間の弱さを担おうとする主イエスの生き様に私たちは触れなければなりません。なぜ人は安易な道を選ぶのかということを想い起こす箇所であるかもしれません。

・2節の「彼らは民衆を恐れていたのである。」という言葉は民衆が主イエスの逮捕を止めていたということもできるかもしれません。しかし、計画は秘密裡になされました。ユダにとって主イエスを裏切ることは最初何でもないことでした。弟子であったはずのイスカリオテのユダは後で後悔するという事をこの時、まだ知らなかったのです。

・ユダヤ教の祭りの時であったので、主イエスは弟子たちの中でもペトロとヨハネという主イエスに最もつき従っていた二人を呼び、「過越祭」の準備をするように言ったと記されています。おそらく羊の肉、香料、ブドウ酒、パンを用意したと思われます。

・弟子たちは未だ良くわかっていなかったのでしょうが、「最後の晩餐」が始まった時に14節には「時刻になったので」とありますが、「時が来て」と訳す方が良いという解釈があります。つまり、「最後の晩餐の時」という特別の時が訪れたというのです。

・当時のキリスト教会は「主イエスの死」と最後の晩餐を結び付けて考えたために最後の晩餐を「過越の食事」として位置付けようとしました。主イエスの死はエジプトからの解放、過越しの小羊としての罪の贖いの死と考えられていたようです。15節には「苦しみを受ける前に」とあります。それは主イエスの受難のことです。

・主イエスは「最後の晩餐」で20節にあるように杯、ブドウ酒を「新しい契約の血」であるとしています。それは「あなたがたのための」と記されています。それは神と人間との契約、主イエスの死により旧約聖書のイスラエルが新たにされ、救いが異邦人(外国人)にも及ぶという意味での神との約束でした。そして後にそのことが記念されて行われるようになったのです。

・しかし、そのような場面で21節にイスカリオテのユダが主イエスを裏切ったということが語られています。この裏切りそれ自体も既に神の計画によるものであるとされています。もしかすると福音書が書かれた時代のキリスト教会において「誰が聖餐に与るのにふさわしいか」という議論が戦わされ、そのことがこの箇所に反映しているのかもしれません。

・「主の晩餐」は後のキリスト教の歴史において様々に変化していくことになります。現代ではそれは礼拝の中で「パン」を食し、「ブドウ酒」「ブドウジュース」を飲むことによって主イエスを想い起こし、神に感謝する交わりとなるとされています。聖餐式と呼ばれるものです。

・そもそも、これは最初「主イエスのパン割き(供食:食事を供する、与える)」と言われていましたが、この「パン割き」という言葉はおそらく、少なくともユダヤ教の「食事の開始」を表わす言葉であったとされています。主イエスによって「感謝の祈り」を唱えることによって行われた終末時の神の国での祝宴の先取りであったようです。その「神の国」は「最後の晩餐」との関連で述べるなら、主イエスが罪人とされていた人たちと食事をしたことや主イエスが譬えで示されたこと等を含めて、主イエスによって神の国の喜びがもたらされること、主イエスによって罪が贖われて、罪の許しを受けること、悔改めて福音を信じることであり、そのことが終りの時である現在に主イエスが来られたことによって私たちに与えられている、あるいは、将来において来られる主イエス(主イエスの再臨)によってもたらされることが今、前もって私たちに与えられている、ということです。

・この「主イエスのパン割き(供食)」はイスラエルでは「晩餐」がいつもそれ自体一つの礼拝的な意味をもつわざであったので、「食事」は単なる「飲食」ではなく、救いの出来事を「想い起す」という意味合いがありました。主イエスが生きていた時代には「救い主(メシア)」がイスラエルで過越しの祭の夜に現れイスラエルを外国の圧政から救ってくれるという信仰がありました。それゆえに行われていたと言われています。

・「主イエスのパン割き(供食)」には洗礼のような清めの儀式は前提とされず、すべての者が招かれたとされています。福音書の中で主イエスは神の国での祝宴のたとえを述べていますが、それは日常生活の只中で起こるもの、礼拝から排除される人間は一人もいない状態であるとしています。またそこでは律法学者に対する批判が含まれています。それゆえ、そこでは飲食にふけることによる堕落が意味されているのではなく、むしろ主イエスのそのたとえは教育的でさえあるのです。

・聖書のこの箇所では特にそれが「主イエスの別れの食事(最後の晩餐)」とされています。主イエスが十字架に架けられる前に弟子たちと共に食事をしたことを表わしています。「記念して」ということはパンを割くことで、主イエスの最後の晩餐を想い起すということ、そして、旧約聖書で神が人と契約を結んだこと、その契約は派遣社員とか車の契約期間保障ということではなくて、かつて神にアブラハムが祝福を与えたように信じる人に祝福を与えること、神の国の実現の約束という意味での契約でした。過越しの祭で献げられた小羊は「契約」のしるしとされましたが、この箇所は主イエスがその小羊、「契約」のしるしであるというのです。その契約が主イエスにおいて新しく結ばれるという事を意味します。

・これが後の時代に「聖餐」となりましたが、現在、日本基督教団ではそれが随分と問題になっています。それは聖餐式で洗礼を受けていない人に、信仰告白をしていない人にパンとブドウジュースを渡して良いかどうかという事から始まり、日本基督教団の規則である教憲教規や教師とは何か、つまり牧師とは何かということも絡めて問題となっています。そこには日本基督教団の旧教派の教会理解、つまり、長老派、会衆派、メソジスト派、ホーリネス派、バプテスト派等の信仰と神学も多分に影響しているようです。

・そのようなこともありますが、聖餐において「主イエスの死に与る」という事が明治時代の日本ではキリスト者は「人の肉を食らっている」という噂話を生み出したというエピソードもあります。

・「食事」や「食品」は人にとって必要な栄養や交わりの時を与える素晴らしいものであると同時に、昨年の3・11の地震以来、原発放射能事故による放射能汚染の問題等様々な苦しみがそこに伴うものでもあります。聖餐式のパンは人間的な目で見るなら、どう見ても小麦粉や卵などによって、またブドウ酒やブドウジュースは果物のブドウによって出来た物以外の何物でもありません。しかし、主イエスを信じ、洗礼を受け、信仰告白をした者にとって、そのような形で「主イエスの死に与る」ということです。それは先週も述べた主イエスによる「罪の赦し」と「永遠の生命」に与ることを意味することを忘れてはならないでしょう。信仰によって理解するとはまさにこのことなのです。この世にある全てのパンがキリストの体なのではなく、礼拝の聖餐におけるパンがまさにキリストの体なのです。

・人間は忘れやすいものですが、主イエスが行なったこの「主の晩餐」は、私たち人間のためのものであり、主イエスが私たちと共におられることを目に見える形で覚えることのできるものでもあります。主イエスを信じる者が忘れてはならないことではないでしょうか。私たちは主イエスを想い起して、神との契約を覚え生きていくものなのです。

 

・これは2011年5月13日に日本基督教団藤崎教会の主日礼拝で筆者によって語られた説教です。