「本多 庸一(ほんだ よういち/よういつ)について」
川上純平
初版:2012年10月
改訂第一版:2012年11月
本多 庸一(ほんだ よういち/よういつ(1):1848‐1912年)
日本メソジスト教会初代監督、教育者。1848年に陸奥国弘前藩(現在の青森県弘前市)の重臣の屋敷で本多八郎左衛門久元(その家系は三河武士に遡る:後に名を「東作」と改める)、とも子の間に長男として生まれる。幼名を徳蔵と言う。弘前藩校である稽古館に入る前から漢籍(漢文の書物)を素読し、1865年、稽古館司監となる頃には陽明学、蘭学、英学に関心を示した。1868年に「庸一」と改名。1870年には漢訳聖書を読むに至った。
同年、横浜に遊学し、アメリカ改革派教会のサムエル・ロビンス・ブラウンの私塾で学び、1872年にはアメリカ改革派教会のジェームズ・バラが開いたバラ塾に学び洗礼を受ける。1873年、青森県にて伝道を開始し、同年、藤崎町にて教会創立の礎となる伝道を行なった。(2)また1872年に創立された東奥義塾の熟頭となり(1878から83年にかけて塾長)、キリスト教主義学校として再興されるのに尽力した。(3)
1874年からアメリカ・メソジスト監督教会の宣教師として来日していたジョン・イングと協力し、1875年に弘前公会(現在の日本基督教団弘前教会)を創立し、翌年、弘前公会はメソジスト教会に所属することとなった。1879年、函館で執事としての按手礼を受けた(これはメソジスト教会における牧師とされたということで、洗礼を施すことができる)。その後、自由民権運動を行ない、国会開設建白書を提出。1882年より青森県会議員、県会議長等を務め、1884年、長老の按手礼を受け(これはメソジスト教会で聖餐式を執行することができる牧師とされたということ)、1886年には来徳女学校(現在の弘前学院の前身)を創立。また同年、県会議員を辞職し、仙台教会(現在の日本基督教団仙台五橋教会)牧師に就任。翌年、1887年には東京英和学校(後の青山学院)校主兼教授となる一方で、青山美以教会牧師に就任。1888年にアメリカのドルー神学校に留学。1890年に帰国。同年より1907年まで、東京英和学校校長(後の青山学院学長)となる。
その後は国家主義の台頭によるキリスト教に対する迫害(井上哲次郎の批判)等、日本のキリスト教界における様々な問題に対処し、1897年には日本福音同盟会会長、1903年には日本基督教青年会同盟(日本YMCA)初代委員長を歴任。1906年にはアメリカの母教会を訪問し、1907年に日本メソジスト教会三派合同を実現、同時に日本メソジスト教会初代監督(この監督は議長代表の意味)となった。その後も国内、朝鮮等で伝道活動を続け、1910年にはエディンバラ世界宣教大会に出席、1911年には日本基督教会同盟が組織され、会長となったが、1912年に長崎で教会年会(メソジスト教会の執行機関)を行なう中、病死。
本多庸一の信仰は単純素朴な正統派的福音主義の信仰であった。宣教師から人格的感化を受け、その影響で彼自身の人柄は多くの人々に感化を与え、また調和を重んじた。教会とキリスト教主義学校に人生を献げ、近代市民社会の日本国家を作ることに力を尽くしたが、同時にそこには元士族であるというエリート知識階級であったことが影響している。また、そのような階級であることの自負とそれゆえの国家主義的側面があったことは日露戦争に対する彼の態度等にも影響している。(4)彼は家庭においては礼拝のみを厳格に守らせ、それ以外に関しては自由にさせ、余暇として書道を愛した人物であった。
〈参考文献〉
・氣賀健生著、青山学院『本多庸一』編集委員会編『本多庸一 信仰と生涯』教文館 2012年
・日本基督教団藤崎教会編『地の塩世の光として ‐藤崎教会百年記念誌‐』日本基督教団藤崎教会 1986年
・相澤文蔵著『津軽を拓いた人々 ‐津軽の近代化とキリスト教‐』弘前学院 2003年
・「本多庸一」『キリスト教大事典』教文館 1991年改訂新版
・氣賀健生著「本多庸一」他『岩波キリスト教辞典』岩波書店
2002年
・松田重夫著「本多庸一」他『日本キリスト教歴史大事典』教文館
1988年
・松田重夫著「本多庸一」他『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局
1986年
・土肥昭夫著「本多庸一」他『CD−ROM版 世界大百科事典・年鑑・便覧』日立デジタル平凡社 1998−2000年(第2版)
※ この文章は筆者が2012年10月に本多庸一召天100周年を記念して執筆したものを同年11月24日に改訂したものです。
(1) 本名の呼称が「よういち」か「よういつ」かに関して本多庸一本人は両方使っていたとされる。詳しくは氣賀健生著、青山学院『本多庸一』編集委員会編『本多庸一 信仰と生涯』2012年、30頁参照。以下『本多庸一』と略す。
(2) 相澤文蔵著『津軽を拓いた人々 ‐津軽の近代化とキリスト教‐』 2003年、4、5頁参照。なお正式に後に日本基督教団藤崎教会となる教会が創立されたのは1886年のことであった。
(3) なお東奥義塾が正式にキリスト教主義学校として再興されたのは1922年のことであった。
(4) キリスト教への入信の前提として儒教的な訓練を受けた事が影響しているとも言われる。『本多庸一』48‐52頁。