レポート「『信仰と現実』(ヴォルフハルト・パネンベルク)を読んで」          

川上純平

2013年3月17日

   

 

(ヴォルフハルト・パネンベルク著、佐々木勝彦訳、『信仰と現実』、日本基督教団出版局、1990年初版。

Glaube und Wirklichkeit,Kleine Beiträge zum christlichen Denken,Chr Kaiser Verlag,1975

 

 

「序」

 

 この本はドイツのプロテスタント神学者ヴォルフハルト・パネンベルクが1975年に出版したものであり、その内容は1960年から1974年にかけて発表された論文や講演である。内容は全部で十章に分かれており、序において「本書に収められた講演と論文は、その大部分が神学的な専門知識を前提とせず、広範な読者を対象にしている。」とあるが、少なくとも大学の神学部あるいは神学校卒レベルの知識がないと読みこなすことはできない。同時にこれらの論文はパネンベルク神学の基本が土台とされ、読むに従ってそれを理解することができるようにもなっている。

 なお自分が本書を読むことになった動機はこの本のタイトルにある。「3・11」以後のキリスト教信仰と神学の理解について学び自分なりに考えるに従い、それが信仰生活・説教等を始めとして、様々に自らに影響を与えていることとの関連が本書にあるのではないかと考えたからである。

 

 

「本論」

 

 第1章は「わたしたちの生は神のみ手のうちにあるのだろうか」という表題の論文である。この論文でパネンベルクは人間の生の現実と神との関係について述べ、神について想い起こすという信仰生活は自らの生活〈仕事や家事、勉強〉とぶつかることなのかと問うている。そして、それでは神の本来的現実は一体どこにあるのかと問い、さらに彼は因習的な神理解を不必要な者として斥け、私たちの生の現実は神なしにはいかに不可解なものであるかとも問う。

この箇所で述べられている「神」が聖書の神、キリスト教の神を土台としたものであることは言うまでもないが、「人間の生の現実と神との関係」については、信仰生活だけがそのようなものなのか、人間の生や存在そのものが持つ問題があるのではないかということ、またパネンベルクがヨーロッパ文明・ヨーロッパのキリスト教の中で生きているということが関係しているのではないかということがある。

パネンベルクはさらに現代における人間理解と近代以前のそれとの違いを明確にしようとし、それは@近代以前は物事には第1原因があるとし、それと神を結びつけたが、近代においては神に代わる物理的運動が導入されるようになった「自然の理解」A近代以前は生き物の命は神の霊の働きにあるとしたが、近代においては細胞等にその根源があるとされるようになった「生命理解」B近代以前のキリスト教では伝統的に神の意志によって人間の歴史が決定され、人間が用いられるとされたが、近代以降は人間の行為、また様々な出来事の諸関連によるものとされた「人間の歴史」の3つを挙げている。

彼は生命や歴史の本来の意味について語り、それを理解する時に神について語り理解することになるとしているが、それは信仰において理解することにつながることなのか、また信仰心を持ってそれらを見ているということかは明確ではない。

第2章は「聖書の現実理解」という表題の論文でまず「現実」という言葉の定義について述べられている。それは例えば、日本と中国と韓国とでは「現実」理解が異なるように個々に異なるものである。彼は「現実」が「全体としてどれほど生き生きとしているのか」、「どれほどわたしたちにかかわるのか」(23頁)によって決まるものであるとしているが、これは観念論的理解であろう。続けて彼は聖書において現実理解は様々に異なっているが、聖書の現実理解を一言で表すなら、それは「歴史」であるとする。そして、現実を歴史としてとらえる理解する二つの立場として@物事の始まりについての神々の神話に依拠し、その儀式によって現実が意味あるものとなるとされる「祭儀的・神話的な考え方」A宇宙的な秩序の中に自らの現実を見出そうとする「古代ギリシア人の宇宙的思惟」が紹介され、以上の二つの立場とも聖書の現実理解と異なるものであるが、同時に、聖書はこの二つの立場の基本的な特色を自らの中に含んでいるものとしている。

第3章は「生命の霊」という表題の論文で、まず彼は新約聖書において聖霊は「復活、死人の甦り、生命の息」〈コリントの信徒への手紙T15章45節〉とも結びついているゆえに、信仰的な意味での「生命」に限定してはならないと指摘している。

さらにキリスト教の歴史の中で人間の精神と聖霊が同一視されるようになったとし、現代キリスト教神学において聖霊の主観主義的解釈の問題を解決する二つの試みが存在するとして、パウル・ティリヒ とテヤール・ド・シャルダンを紹介している。

彼は人の生に意味と希望を与える、新たな命を約束するキリスト教のメッセージは、霊の新たな現臨(そこに存在すること)を伝えるとし、最後にキリスト教会に存在する霊が「現代世界の不条理と厄介さに耐え」「それを克服することができるようにさせる力である。」(72頁)。とする。

・この論文について、聖霊を捉えることができないというキリスト教の普遍的真理が彼の主張とどのように関係するのか、また人間の行為をそれ即ち聖霊の行為して良いのかということがある。

第4章は「人間‐神の似像?」という表題の論文で、まず彼は近現代に至るまで人間の存在は宗教的に理解されてきたが、近現代に入り、人間は自らを世界の主とし、神を追放したかのように思われているとしている。しかし、聖書の語る「人間は神の似像である」ということが人間と神との競争を意味するわけではないことが見落とされ、神との類似性を獲得できていない状態にあるとする(74頁)。彼は宗教と敬虔さは人間が進歩しても存在し、それは人間が「神的な光の中ではじめて、自分自身の規定の豊かさを発見したからである。」とする(77頁)。この箇所からはパネンベルクにおいては哲学的探求によって求められる神と聖書における信仰対象としての神は同一ではないということがどのように位置づけられているのかが疑問となる。

さらに彼は人間の人格的尊厳と近いのは聖書に登場する神の似像としての人間という理解であり、これは人間の生命の不可侵性に対する宗教的根拠づけであるとする(79頁)。また近代における人格の不可侵性は敬虔な恐れによるものであるとし(80、81頁)、キリスト教神学において理性的存在としての人間というギリシア理解は、旧約聖書と新約聖書に関係付けられたとする(84頁)。そのことによる近代における人格の理解が生まれたのである。旧約聖書における人間は神の似像であるとの理解は、さらにキリスト教神学において神の代理者としての人間の自由を語るようになった(85頁)。近代において人間の人格存在は常に「汝(あなた)」との関係として存在するとされたが、最初それは父なる神と子なるキリストと聖霊という三位一体論の中で展開されたともされる。彼はまた「キリスト教の神の統一性は、その愛の相互性の中にのみあるのである。」ともしている(88頁)。人は信仰により聖書のイエスに神の似像を見出し、神に出会い、人間性を取り戻すのである(90頁)。 

しかし、この論文においてパネンベルクがキリスト教の歴史において三位一体における位格と「我と汝」の人格とを同一視するのはなぜであろうか?それらの違いは明確なものではないだろうか。「我と汝」という概念は人間の人格的関係についての基本的なものの一つに過ぎない。

第5章は「神はいかにしてわたしたちに啓示されるのだろうか」という表題の論文で、パネンベルクはこの第5章を以下の七つに区分している。「T.前提‐隠された神」「U.神顕現?」「V.歴史を通してなされる神の自己証示」「W.神はただイエス・キリストのうちに啓示される」「X.イエスにおける神の啓示の普遍性」「Y.神認識と経験」「Z.啓示と信仰」

Tについて彼は「神は、私たちの知っているいかなるものとも全く異なっている、」とし、さらに「近代の自然に対する信仰も、神の啓示を必要としない。」とする(92頁)。彼はニーチェの「神は死んだ」という言葉は形而上学的世界像の伝統的な神観念は信じるに値しないものであることを意味するわけであるが、第1次世界大戦後、ルドルフ・オットーとカール・バルトは神を「全く他者」であるものとして告知したとし、「神が神である」という神の啓示について問うことは重要であるとする。

Uについて、彼は旧約聖書に記されている神顕現の箇所について、聖書に記されているからそれを真実だとするのではなく、この神顕現とはどのようなものかという問いは神の自己証示、神の啓示によって答えられるとしている。

このUの内容はその時代の旧約聖書研究の成果によるものであるのかと思われる。

 Vについて、彼は聖書において神が自らを示したということは、神の名において告知された出来事が実際に起こったことによるものであるとし、。イスラエル人の啓示理解には三つの特徴があるとして@イスラエルは神の啓示を間接的な事象として、また神の名によって告知され、引き起こされた一回限りの出来事から理解した。A啓示の出来事はそれが完全に起こった時に初めて人が神の神性を認識するものであり、そのことを引き起こすことが出来る。B神の神性を証し示す力は出来事の全体連関の中に認められ、古代イスラエルでは預言されたことが現実に起こった時に、その預言は真実であったと見なされたのであるとしている。

 Wについて、彼は信仰ある者はイエスの復活を通して自らの神性を明らかにしたイスラエルの神が全ての出来事を支配していることを確信するのであり、神の本質はキリストを抜きにしては考えられず、イエスの復活において啓示された神の本質を言い表すことが、三位一体論の唯一の意義であるとする。

しかし、彼のこの三位一体論理解では、神・キリスト・聖霊がそれぞれどのように位置づけられ存在し、また特質を持つのかが曖昧にされることになってしまわないだろうか。

Xについて.彼は旧約聖書の中で捕囚期の預言者たちは全ての民に対してヤハウェの神性が示されるとしたが、パウロにとって神の啓示はイエスの復活の出来事を通して全世界に示されたものとされたとし、。聖書における神理解はギリシア哲学的な宇宙の思想に比べて深みのある包括的理解であり、「イスラエルの神は、すべての現実の唯一の根源、したがってまことの神であるのかどうかという問い」(114頁)が大切であり、それにより、その哲学的な根源的なものが神なのかという問いにも答えることができるとしている。

この箇所においてはユダヤ教とキリスト教の神理解の差異について考慮すべきかどうかということが指摘できるであろう。

 Yについて、彼は聖書時代に起こった神の啓示を現代の我々はどのように経験するのかについて、イエスの生涯とイエスの再臨の間に生き、現代においてはイエスに代わって聖霊が臨在しているとし、イエスをキリストとして認めるという信仰によって聖霊は与えられるとする〈ガラテヤ3章2、14節〉。

Zについて、彼は神についての認識や知識の探求によって信仰は余計なものとはならず、信仰は知識で代替することはできないとし(118頁)、同時に認識や知識のない信仰も立つことができないとする。さらに旧約聖書における神の啓示の認識は歴史における神の約束についての実証によるものであり、イエスの復活前と復活後の信仰は異なるが、全てイエスの復活に基づくものであり、このイエスの復活における神の啓示を認識することができるのが信仰であるとしている。

この論文において彼は新約聖書における「ケリュグマ(原始キリスト教会の宣教内容)」の問題についてどのように考えているのか、またそれをどう取り扱うのかが触れられていないということ、神の啓示とは何なのか?また信仰内容が限定されていないかということが問題なのではないだろうか。

 第6章は「イエスの歴史とわたしたちの歴史」という表題の論文で、パネンベルクはこの論文を以下の六つに区分している。「T.信仰と洞察」「U.歴史的研究」「V.超歴史?」「W.歴史の統一」「X.ヨーロッパの歴史意識」「Y.復活の希望の真理性」

パネンベルクはまずキリスト教に固有なものをイエスの十字架と復活だけであるとし、旧約聖書のイスラエルの神がイエスのこの出来事を通してはじめて全世界の前に唯一の真の神として自らを示したと考える。イエスの十字架と復活に焦点をしぼり、他の要素はキリスト教に固有なものとはしていないというよりも、むしろ、そのことだけがキリスト教にとって大切な事であるとする態度はカール・バルトの「キリスト論的集中」を思わせる。ここにはカール・バルトの神学の影響が色濃く反映されていると見てよいかもしれない。

Tについて、彼はキリスト教信仰は「自らを繰り返し現実として確証してくれるものを前提にして」おり(124頁)、それはイエスの生涯における出来事についての知らせである。信仰はイエスの復活の出来事についての知識を前提としており、信仰は理性の判断にさらされているとする。

Uについて、彼は特にイエスについての知識は一般的な過去の出来事に関する知識を入手するのと同じ方法で入手できるとし、それは歴史的研究の成果によるものであるとする。

Vについて、彼はイエスの復活が歴史的な事実であるという仮定に対する決定的な異論はなく、その仮定がなければ教会が生まれたことについて歴史的に納得のいく説明も難しくなるとし、「キリスト者は、イエスの復活の現実がまさに歴史学的研究においてくり返し実証されること、そして歴史学的な疑問は、その研究を継続する中でくり返し克服されることを、確信しなければならない。」(131頁)。とする。

Wについて、彼はイエスの生涯にはイスラエルの民の歴史との関連で信仰を基礎づけるという特別の意味があり、イエスはイスラエルの民の歴史に属するものとし、イスラエルの民を導いた神の歴史はキリスト教信仰の伝道の歴史になっていった、またヨーロッパの歴史も聖書の神と共に一つの歴史の中にいるとする。

Xについて、彼はヨーロッパの近代の歴史哲学は全て現実を歴史として捉える聖書の理解の世俗化の過程で生まれたとし、歴史の担い手が神ではなく人間であるとするならば。歴史はその統一性を失ってしまうとする。

Yについて、 彼は新しい人間学は全ての精神的出来事と肉体的事象との統一性を指摘しており(例:脳と心の連動)、それゆえ、肉体のない魂は考えられないとし、我々はプラトン的な魂の不死性ではなく、死人の甦りがあると考えているとする。最後に彼はイエスの復活は、歴史の完成の始め、人間が復活の生命に将来与ることの始めとして再び理解できるものであるとしている。

これらの論考は当時の諸学問における一般的な見解を取り入れて導き出されたものであるが、そこにはパネンベルクの神学の方法論が反映されていると言って差し支えない。特に131頁で言及されているキリスト者と歴史学的研究の関わりは興味深い。教会という観点からイエスの復活を考えようとしていることは重要であろう。

第7章は「そのお方は、わたしたちの神となるであろう」という表題の論文であり、パネンベルクは諸科学の世界像とそれに対応する聖書の表象との間に関係がなく、神の現実とのはっきりした関係を持たない世界では神の戒めは守られないとすることから始め、旧約聖書におけるイスラエルに言及し、新約聖書においてイエスの神の国宣教、イエスの復活、「イエスの歴史において決定された新たな神の啓示は、イスラエルにだけではなく、すべての人に向けられている。」(142、143頁)とし、イエスにおける全ての人と神の和解という救いの出来事により、世界規模の宣教となったとする。この箇所にはパネンベルクの信仰理解が神学に反映されていると見て良いであろう。それは歴史の中に神の啓示があり、それは歴史を通して神は人々を救いに導くという信仰である。

 また彼はこの論文において、世界伝道を行なっていくことについて言及しているが、そこには145頁にあるように「その時代の密儀宗教的敬虔のもつ救済待望」が取り込まれていることや地中海世界、ローマ帝国との関係で成り立つものであるとし、同時に新約聖書の教会が終末論的共同体であるということが重要であったとされている。 

第8章は「神の啓示と近代の歴史」という表題の論文で、パネンベルクは現代において神学者やキリスト者は人間の歴史の出来事は神の啓示とは別の地平に起こると考えているかのようであるとし、「神の啓示と近代の歴史」について考えるにあたって以下の七項目に分けて述べている。「T.啓示と歴史は対立するのか。」「U.普遍性と暫定性」「V.民族(主義)的思想」「W.ヨーロッパ教会の分裂」「X.ヨーロッパ文化の世俗化」「Y.工業社会へと発展した資本主義」「Z.議会制民主主義」「[.ヨーロッパとその他の世界」

Tについて、彼は神が自らを啓示することにおいて、神はこの世に存在し、この世の中で自らを示す事が歴史であるとし、さらに神の究極的な啓示が終末において起こるのは、それが全ての出来事の全体と関連しているから、聖書の神が全ての出来事の全体を通してのみ、全ての事物に対する主としての神性を示し得るからであるとする。さらに歴史はイエス・キリストのうちに現れ、その終末との関連においてのみ啓示の性格を持つものであるとしている。

Uについて、彼はまず原則的観点について論じ、唯一の神の啓示は全ての時代における、全ての人の生活に根差した証言であるという意味で普遍性を持つが、イエスの復活における死からの自由な生命は我々人間には現れてはいないゆえに暫定性を持つとし、教会はそのような将来の救いを想い起こさせるが、自らの暫定性を無視すると、自らを救済の所有者と考えることになるとする。

そこから彼はさらに三つの局面について論ずる。

第一局面:キリスト教においてギリシア哲学的思想は暫定性と完結しない歴史性を与えられ、変えられた。それが古代教会の思想でもあった。

第二局面:キリストの啓示の普遍性は法生活の密接に関連し、それゆえにキリスト教を国教としたローマ帝国のように暫定性を持っている。

第三局面:「教会は、イエス・キリストに基づいて神の将来を待ち望む人々の共同体として存在し続けている。」(161頁)。彼はそう言った意味では教会は普遍的であるとしているが、この統一性がローマ司教の首位権という教皇制度の発展として誤解されて用いられ、教会の暫定性が無視されてしまったという歴史があるとしている。

Uにおいて、パネンベルクは「イエス」をどのように理解しているのかが疑問として生じる。

Vについて、彼は近代において民族(主義)的思想が国家のキリスト教的な普遍主義を排除し、その普遍主義が全ヨーロッパで貫徹されることはなかったとし、ドイツは超国家的思想へと向かう事でキリスト教の普遍主義の伝統も新たな効果を発揮するものであるとしている。

Wについて、彼はヨーロッパの教会分裂はヨーロッパ諸国民の生活領域全体に根本的な影響を及ぼしたが、プロテスタント教会がカトリック教会の君主制的中央主権的教皇制に反対しつつ、キリスト教信仰に敵対する新たな活動勢力に対決して教会の教派を統一することで、それを乗りこえることができるとする。

エキュメニズムが大切であるということが語られているわけであるが、これについてはカトリック教会の教義との差異と歴史的経緯を対話や相互陪餐等で解決することを語っているのかどうかはわからない。

Xについて、彼はヨーロッパ文化の世俗化の原因は「教会分裂」だけではなく、「現実に適応した生活形態」(172頁)と「17世紀に実現された非歴史的な思想〈合理主義〉へと方向転換した」「自然主義」(173頁)等によるものであるとしている。さらに「教派的対立」はキリスト教からの離脱につながるゆえに、「世俗化」がキリスト教に根ざしていることを自覚することで、脱キリスト教を食い止めることが出来るとする。

Yについて、彼は社会産業組織には政治問題が関与しており、それゆえにこれは社会全体の責任として受けとめられなければならず、これは、そもそもは個々の職業が仕えている社会の福祉とプロテスタント的職業エートス(人間的形成力)との関係に対応しているとする。

これにはプロテスタント的キリスト教精神が如何に社会に浸透しているのか、それによって如何なる影響が現れるのか、それはドイツやイギリスの場合等は特別であるということなのかという前提をどのように考えるべきかが関わるのであろう。

Zについて、彼は「私たちはキリスト教ヨーロッパの君主制が立証しているような粘り強い生を、キリスト教の伝統、特に人間の罪についての認識から理解することができる。民主主義的社会秩序の長所は、まず実用的なものだとしても、民主主義的理念の伝統は、その発端であるキリスト教的諸傾向からとらえるとき、さらに実り豊かなものとなる。」(176、177頁)と述べる。平等は神の前での平等として理解されることが重要であり、民主主義的諸原理の起源にはキリスト教的要素があり、これは自由な独創性を尊ぶ点で重要であり、民主主義的社会体制は神の国がこの世では実現されないゆえに暫定的な生活形態の思想に近いとする。

この箇所では他の諸宗教との関係について、それとの対話を含んでの民族問題があり、それらはこの論文が出版されるかなり以前から存在したわけであるが、そのこととヨーロッパがキリスト教を土台として政治・社会を形成してきたことがこの時点ではどのように理解されているのかということがある。これを土台にした場合の「信教の自由」とは一体何かが問われてもいるのである。

[について、彼は紀元1500年以後の時代にヨーロッパの言語、政治的・文化的諸制度が植民地獲得と共に全地に広がり、キリスト教と共にその地域の人々が教化され、それによりヨーロッパの精神的基盤よりもその教化の成果の方が受け入れられ、非ヨーロッパ諸国はその生活等において自分たちの伝統とヨーロッパやアメリカからの影響を結びつける難しさを経験したとする。さらにキリスト者は歴史に関わるゆえに神によって自分たちがそこに置かれている歴史に基づいて自らの状況を明らかにすることを繰り返し新しく行なう必要があると述べている。

この箇所で述べられていることはヨーロッパの文化を他地域に浸透させることではないのだが、キリスト者が如何に生きるかということであるゆえに、そこに文化の問題も含まれている。それゆえに「キリスト者」という言葉で語られている人々が一体何者かということが問われている。

第9章は「民族・国家と人類」という表題の論文でパネンベルクは特にドイツを中心としたキリスト者の政治倫理について述べている。彼はキリスト教の政治倫理を特徴づけるのは、新約聖書に記されたイエスの説いた神の国の待望、聖書の神による到来しつつある世界支配の待望でなければならず、それは旧約聖書の希望の目標とイエス自身の使信の中心に近い思想になるとしている。

そして、三つに分けて論考を進め、@古代教会における神の国思想について、A王国思想と今日の世界市民的思想との相違を生み出している変化した状況についての検討と民主主義的理念の超民族的・人類的意義についてB神の国の倫理という視点から見た民族・国家と民族意識・国家意識について、それぞれ論じている。

彼は最後にドイツの民族・国家問題にあてはめると、自国の国家的利害は自己目的としてとりあつかわれてはならず、超民族的正義と超民族的平和の秩序を目指す努力との関連でのみ追及されるべきであり、自国民を真の自由と平等にむけて教育するとともに、人類が共に暮らすことができるようにする政治はキリスト教の伝統の最良の根源から自分の力を引き出すことができ、国民的な諸々の必要に最もよく仕えるであろうと述べている。

ちなみに「序」で述べられているように、この論文はこれは東西問題の最中にあって1965年になされた講演で、講演後、「大量の匿名の脅迫状が送りつけられてきた」(7頁)という逸話がある。

第10章は「政治問題とキリスト教倫理」という表題の論文で、キリスト者の政治倫理について述べられており、彼はキリスト教信仰が政治行為やそれに関連する諸問題とどのような関係にあるのか神学的に根本的に考えておく必要があるとする(212頁)。彼はキリスト者が経済的・政治的配慮から距離を置く事は重要なことであるとしつつも、旧約聖書の預言書はキリスト教の批判的政治活動について神学的に根拠づけるに至ったとし、キリスト教は神の将来の光の中で自分自身の将来をとらえるように求めなければならず、この世界に可能かつ必要な変革を求めるとする。また彼は聖書に記された終末〈終わりの時〉、それはイエスにおける神の現実であり、それは現在を規定すると共に変革する力として既に働くものであり、原始キリスト教では個人のふるまいに当てはめて考えられたが、これはイエスの使信とは異なり、そこには原始キリスト教会の状況が関係しているとする。

また彼はそれらが色褪せるにつれてキリスト者はこの世に対処すること、社会構造の変革を問うことも可能となったはずが、そうはならなかったとする。彼はルターがキリストの支配圏を教会と同一視してしまい、二王国説が出来、「またキリスト教の精神が世俗的職務についているキリスト者の人格に影響を及ぼすべきだと考えられたが、それがこの職務それ自体の理解を規定することはなかった。」(225‐226頁)としている。結局、この世の支配は世俗化され、その支配構造は依然として無傷であり、この支配構造を変革するキリストの支配の影響に対して安全策が講じられたともする。

それゆえに彼は「秩序の思想」それ自体が問題であるとし、キリスト教倫理は変革の倫理であるとする。もし人間の自由と平等がより完全に現れるようにするためには既存の諸関係を少しずつくり返し変革する必要があるとされてもいる。 それは人間性を実現するための第一歩であるとされる。彼の言う「変革の倫理は人間とその生活関連をプロセスと考える」ものであり(229頁)、その時々の歴史的状況と歴史の経過がたえず問題であり、そこにおける神の行為は、人間の行為の領域とみなされ、人間であるということの必然性や限界性を認識し、お互いにそれに向けて一つにする聖霊の働きに従うことが必要であるとされる。また彼はこの霊が人間によって自由に処理され得るものではないともする。

そして、彼は問題がキリスト教の歴史の中にある様々な出来事で、特に宗教と政治という二元論にあり、近代からの宗教と政治という二元論は近代における宗教の私人化という宗教社会学的前提が無くなる時に克服され、キリスト教それ自体が、その教派的特徴にある権威主義的生活様式と思惟様式から抜け出す時にのみ可能であるとする。

 

まとめ

 

 パネンベルクは人間の諸活動を神の導きによるものとするが、どこからその信仰理解を始めているのかが重要とされる。聖霊は人間の想いを超える存在であり、神の働きがそのようなものであるわけであるが、それは何か出来事や運動があったのは、それ以前に何かがあって、その何かが原因でその出来事や運動が生じたというような形で、全てについての根本的な原因である神がおられるというようなことでも、道徳的に素晴らしい生き方が神に近づく方法であるということでもない。歴史上の現実の悲惨な状況の中に神を見るという信仰理解が導き出されるということが大切なのであろうが、それはカール・バルトのように新約聖書におけるキリストから全てのことを考え始めるということでもない。自らの力を超えた存在をその場に見るということなのである。これを例えば、あの「3・11」の大震災という状況においてみた時、どうであろうか。人が悲惨な状況に心を奪われるものであることは言うまでもないが、論理的な企てがどこまで有効なのかということもある。現実的状況から論理が導き出せるということなのか。彼の神学をきっかけにして考えさせられることは多い。

さらにこの本の内容に関して旧約聖書学と新約聖書学を踏襲した組織神学や、そこに時代を超えた普遍性を兼ね備えたものがどのように関係していくのか、キリスト者として生きることがどれだけ国家や社会との関係で考えられ、またそれに関して歴史に起源のある困難な課題を克服することが出来るのかが焦点とされているのではないだろうか。パネンベルクはナチス・ドイツの脅威と戦後の共産主義の問題を経験している。

 この本の『信仰と現実』というタイトルから自らの信仰生活を省みたり、その調味料となるものを求めたり、あるいは信仰と現実との関係を整えたり、認識論を問うたりすることを思い浮かべたが、この本は内容的にはそのようなことについてあまり言及されてはいない。今から数十年前の論文・講演であり、当時としては最先端の内容であったのだろうが、現代においてはこの本において「伝統的なキリスト教」が語られているのではないかという誤解も生じるかもしれない。

パネンベルクがこの本で語るような状況が日本において必ずしもあるわけではなく、彼のキリスト教理解を含めて、彼が生きた時代的・地理的限界性があることとと同時に日本のキリスト教会の歴史はこれからであることも考えると、彼の論考に重要なものが含まれているかどうかは、これからのキリスト者の生き方と歴史が証明することかもしれない。