書評:深井智朗著
『シリーズ神学の船出03 神学の起源 社会における機能』(新教出版社 2013年 )
2013年7月 川上純平
この本は、最近、多くの本を記し、活躍している著者が、昨年2012年に、勤めている大学があるのと同じ市内の古本屋の2階で行なった読書会における講義をまとめたもので、「シリーズ神学の船出」の第3巻目にあたる。
著者は、この本において、いわゆる「神学とは何か」という問いに対して、その歴史や概念、位置付け等によって説明するのではなく、「神学がその時代の精神的状況によって規定されている」とし(31頁)、「神学とは何か」という問いに対して、「神学の社会的機能を説明するということで答え」ている(29頁)。
内容は全部で8講に分けられているが、まず第1講では、キリスト教における「神学」という言葉に基づく様々な事柄を語りながら、「神学とは何か」を述べている。
その中で、「神学」が「教会」という具体的な現場を持つ「実践的な学」であるということは、シュライエルマッハーが提唱したことであり、著者は「この実践の場としての教会がどのような社会的なコンテクストの中に置かれているかによって『神学』という学の性格もまったく異なってくる。」とする(32頁)。この本の中で「教会」は「信条」や「信仰告白」等に基づくものであり、また「教会」はそれを生み出してもいることや神学的立場や教派によっては現実にある教会における普編的で変わらないものであるとする「信条や信仰告白」で唱えられる信仰について言及せず、別の観点から神学を考えていることがわかる。また著者は神学のアクチュアリティー(現実性)を説き、神学は「極めて現実的な政治や社会に影響力を持ち、人間の行動を規定してきたし、現在もそのようなものだ」と位置付け、さらに神学を「教会の学」であるとする立場を近代以降の社会的コンテクストにおける立場としている点としているのが興味深い(36頁)。ここには何を「神学」とするのか、その立場が時代制約的なものなのかという問題が含まれてもいる。
ちなみに17頁に記された『福音主義神学入門』は「使徒信条」の解説として行なわれたものではない。
第2講で、著者は「神学」がなぜ必要になったのかということを新約聖書のイエスや原始キリスト教団から始めている。そこでキリスト教がローマ帝国に公認されることによってキリスト教の神学誕生の社会的条件が生まれたとされているわけであり(57頁)、地中海世界に伝えられ、ギリシア的な枠組みの中で受けとめられ、キリスト教は既に存在した「神学」という言葉と出会い、その言葉を用いるようになったと述べられている(63頁)。イエスを神の子、救い主とし、その福音を信じたがゆえに、信徒は終末の遅延に対して、イエスの説く終末は必ずあると信じ、そこに何か意味や理由を見出そうとしたり、現実の出来事を終末の出来事と考えたりすることによって、そこからも信仰に基づく「神学」が生み出され、新約聖書に記されるようになった事を思わせられた。
第3講では、キリスト教的ヨーロッパの成立と神学について述べられ、キリスト教的ヨーロッパが成立することによって、イエスの「神の国」を語る者が異端視されるようになり、社会の仕組みがキリスト教的に説明されるために神学が必要とされるようになったとされる(83頁)。また中世神学は「普遍論争」、「科学」、「政治」等の特質を持っており、今でこそ明確に区別されるものと深い関わりがあったと述べられている。
第4講では、中世の終わりと宗教改革について述べられ、宗教改革によって近代が始まったとするのは19世紀ドイツのナショナリズムの産物であると著者は語る(107頁)。そこで近代についてのそのようなスローガンを掲げていたのがアドルフ・フォン・ハルナックらのプロテスタント神学者たちであり、ルターの思想の中には中世神学の考え方が含まれており、思想というものは全くオリジナルなものはないゆえに、そのようなことは当然であろうが、ルターは当時のカトリック教会の説く人間の救われ方について疑問を持っていたのであった。さらに「アウクスブルク宗教平和」の政治的土台についての説明も興味深く、神学の地域化がこの時代になされたとされる。また岩倉具視を中心とした日本からの使節団は近代のナショナリズムと結び付いたプロイセンの「政治神学」から日本の国家のあり方に対して影響を受けたと著者は指摘する。
第5講では、17世紀イギリスの宗教改革と神学について述べられている。「アングリカン(英国国教会)」から「ピューリタン(清教徒)」が生まれ、ピューリタンの神学によって「ピューリタン革命(清教徒革命)」が起こり、「聖書主義」という立場の神学が生まれたとされる。「アングリカン」と「ピューリタン」について一般社会の小学校区や企業等に例えられて語られている。
第6講では、フランス革命と神学について述べられている。フランス革命によって教会という制度を否定するキリスト教が登場した。その起源は中世、そして理性を重視する啓蒙主義、哲学者デカルトにあり、それは18世紀に政治家マクシミリアン・ロペスピエールの独裁政治に対する反発として人々に受け入れられたと著者は述べる。教会は革命政府により特権をなくし、宗教は人の心に場所を移すに至る。神学は心理学化され、宗教学となり、神学の学問性が問われ、ドイツの神学者アルブレヒト・リッチュルとその学派が提唱した「道徳」としての神学が生まれた。国家は宗教の一部分を管理し、神学の一部は理性や学問性を重視し、伝統的な教義や教会、教会の権威を批判する神学となり、近代において新しく生まれた神学と従来の伝統的な神学という二つの神学は対立することになったと著者は説明する。
わかりやすい説明がなされた箇所であるが、ただこの箇所では神学者シュライエルマッハーについて言及がなされておらず、また「世界的に見れば現在はキリスト教の多くはこの『教会外のキリスト教』の方になってしまった可能性がある。」(158頁)という一節には同意し難い。
第7講では、アメリカのプラグマティズムとしての神学について述べられ、著者はアメリカの教会はピューリタンの影響で、民間の自発的結社となり、加入者の意識が重要となり、当然、英国国教会の制度とは異なっているとする。また著者はアメリカでは教会は伝道という自由競争を行う場で活動し、人々が教会を選んだ歴史があるとし、現代のアメリカでは神学の市場化、神学の社会学としての機能化があり、また神学は実践的に行ってみて、結果を見て考察する「プラグマティズム」という要素を持っているとする。
第8講では、著者が神学は教会の学であること、神学が現代社会にとって必要であること、自らの神学を相対化するという意味を持つものであることを述べることで、神学のアクチュアリティーに将来性を見ている。
この本では神学やキリスト教についての様々な例が用いられていることにより、著者の学問的知識の豊かさを垣間見ることが出来る。一般向けにわかりやすく書いており、時折、そこに面白おかしい説明も盛り込んでいる。神学を従来とは異なった点から見ている興味深い一書である。