書評『信仰生活の手引き 礼拝』(越川弘英著、日本キリスト教団出版局、2013年初版)

川上純平(2014/7/7)

 

この本はかつて30年程前に日本キリスト教団出版局から「教会生活の手引き」という小冊子がシリーズで出版されたものを新たに書き下ろした教会生活の新入門シリーズの一冊である。

これはその中で「礼拝」に重点を置いて述べられており、日本で活躍する礼拝学者の一人で、現在、同志社大学キリスト教文化センター教員の越川弘英氏によって執筆されている。著者は同志社神学部の出身者であり、組合教会(会衆主義教会)で牧会伝道の経験がある。そのことは、この本が従来の考え方に捕らわれない内容でありつつも、しかしながら、礼拝の伝統をなおざりにはしていないことを意味する。著者は以前、週刊『キリスト新聞』に「礼拝探訪」(2006年6月〜2007年9月)を連載していたり、既に多くの著訳書等を執筆していたり、今回のシリーズの一冊に適切な執筆者であると言える。また、「あとがき」にも記されているように、著者はこの本で礼拝についての基礎的な事柄について執筆したとしており、難しい神学が展開されることもなく、逆に信仰生活を長く送っている者にとって解りきった事柄だけが記されているわけでもない。

この本はそれほど厚くなく、かつコンパクトであり、示唆に富んでいる。この本は教会に来始めた人の疑問に答えるだけでなく、教会生活について考えさせ、またそれを豊かなものにすることが目指されている。また、より深く学ぶことを求める人のために最後に参考文献表が載せられているのも良い。

内容を見ていくと、著者は「はじめに」で「そもそも礼拝とは何か」という問いを立てる際に、礼拝が自らにとって定着したものであることから、その問いを始めることを説いている(9、10頁)。礼拝に出席し、礼拝とは何かを考えることはキリスト者として歩み始めたその本人によって信仰の成長を促すものとなっていくのである。

本書は三部構成によって成り立っており、一部では、私たちキリスト者はなぜ礼拝するのかについて、二部では、礼拝の形と在り様、その多様性等について、三部では、教育、牧会、宣教という三つの重要な働きが礼拝との関連で述べられ、特にその働きが生み出されるものとしている。

まず一部で、著者は現代の多くの日本人にとってキリスト者が日曜日に教会に通い、礼拝することは奇異であるとされていることを指摘している。このことについて著者は単に自らの信じている宗教が異なる宗教であるからとか、日本人に無神論が多いからということを述べるわけであるが、ただ、それだけではなく、歴史的・政治的理由がそうさせているということでもあり、そこから日本人の生活に密着している事柄が異なるものであるということでもある。そして、もしキリスト者がそのような状況で終わるなら、キリスト者は日本社会の中で孤立した変わり者ということになるが、しかし、キリスト教の礼拝は教会の生命線であり(15頁)、人間に対して与えられたものであり、それは聖書に示されたように神の愛のわざである招きによるものであり、礼拝でキリストの出来事が想い起こされ、自らが立ち直らされることであるとしている。

また著者はキリスト者が神の愛に応答し、礼拝を行う必要のある存在であるとしている(30、32頁)。もちろん、この応答は簡単には出来ないということがあるかもしれない。その場合、どのようにすれば良いのか、時期や状況によって変えていくものなのか、これらは今後の課題であろう。著者はさらにキリスト教の礼拝が自らを礼拝する自己礼拝を打ち破る外からの語りかけでもあることを語る(38頁他)。他の諸宗教の像や金銭だけでなく、自らを神としやすいのが人間であるとされる。著者は興味深いエピソードとして讃美歌のエピソードを記し、年齢に関係なく、キリスト者は神の愛の呼びかけを求めているとされている。それゆえに礼拝は世界と隣人のために、また執り成しとして行われる礼拝である(43頁)。その礼拝は世のために祈る礼拝である。そして、もしそうであるなら、キリスト者は、この世に代わって、この世を代表して礼拝していることにもなる。それゆえに神を突き動かすような大胆な祈りも大切であると述べられる(52頁)。世のために執り成しの礼拝を行うのは教会の特権であるとし、これらはキリストの執り成しの業のゆえであるとされる。

二部で、著者はどのような礼拝をするのかについて述べている。何が良い礼拝なのか考えることは信仰とは何かを考えさせ、教会の成長を促す一因となる(58頁)。礼拝は歴史の中で多様に展開しており、それは教会の礼拝が生きている一つの証しである。どのような礼拝を行うかにあたって礼拝の伝統という視点からユダヤ教の礼拝、新約聖書の礼拝、古代教会の礼拝の順で述べられている。新約聖書の中で信徒が自発的行為を行なっていることから礼拝を形成することに参与していくことが重要であるとされ(64頁)、礼拝には形式と構成があり、一回ごとに完結するドラマとして行われるものであることが述べられる(74頁)。もちろん、礼拝がドラマであるということは、例えばテレビで放映されるような「ドラマ」のような意味のものではなく、この箇所で司式者や牧師、奏楽者、会衆の演技力について云々されているわけではないが、「筋書き」に沿って展開される出来事であり、同時に、それはその教会や教派の宣教計画あるいは伝道方針、牧師の神学的姿勢等に乗っ取ったものとなるということであろう。さらに筆者は第二次世界大戦中のキリスト教会や中世ヨーロッパで行われた私的ミサ等を例に挙げて、キリスト教の現実理解とは何かを問い、そこから救済史、それに基づく教会暦による礼拝について説明している。ただ、この事に関して88頁で、日本では「教会でさえ12月25日以降は年末年始モードに切り換わる場合もありますが、」と語られており、これはこの箇所の内容に照らせば、キリスト教が語る現実は、この世にあって生きることとの兼ね合いが存在することを含んでいるものということになるが、如何であろうか。

次に「神の民のわざとしての礼拝(レイトゥルギア)」について語られている。礼拝は「神の民のわざ」(礼拝参加者)によって成り立ち、それによって「神の民の集い」(教会)が造り上げられると述べられており、この指摘は重要である(92頁)。その取組みについて述べる中で、プロテスタント教会で聖餐を各自が席に座ったまま受けるようになった起源がどこにあるのかが記され、聖餐をどのように行うのかが、「その教会の礼拝の神学がとりわけ明らかになる大切な課題」であるとされている(96頁)。同時に筆者は「私たちの礼拝」(個別の教会の礼拝)について語り、それが「イエス・キリストの名による礼拝」であるためにより良く実践されるよう提言を行なっている。ちなみに「私たちの礼拝」ということであるなら、地域によって教会の礼拝は異なるということもあるのだが、私は10年程前から五回ほど太平洋、赤道近くにあるミクロネシア連邦ポナペ島のポナペ合同教会〈超教派宣教団体アメリカン・ボードの宣教によって建てられた教会〉を訪れ、その主日礼拝に出席したことがある。ポナペ島にあるキリスト教主義高校の施設建設ボランティアのため、その島に訪れたのであるが、そこでは以下のような礼拝が行なわれている。つまり、礼拝開始時間は信徒が教会に揃った時としており、定まっておらず、礼拝において司式者と牧師はいるが、週報等は存在せず、讃美歌は楽譜や伴奏がなくても会衆によるアカペラ合唱が行われ、その讃美歌は、ほとんどアメリカのプロテスタント教会の讃美歌をポナペ語に訳したものや曲によっては地元の民謡のメロディーに基づいて作られた讃美歌であり、牧師は平日、牧会伝道とは別の職業に就いており、日曜日だけ教会の礼拝を担当している、という形のものである。「所変われば・・・」と言うが、礼拝とは何かを考えさせられた覚えがある。

部では礼拝から三つの重要な働きである教育・牧会・宣教が生まれることについて述べられている。その中で著者は礼拝学者ウィリモンの言葉を引用しつつ、「礼拝それ自体が目的となる行為」であることを語る(106頁)。旧約聖書詩編102編19節を想い起こさせる。良き礼拝は「良き副産物」を生み出すとされる(108頁)。礼拝は教育を生み出し、それによって人はキリスト者として形作られていくと語られる。特にプロテスタント教会の礼拝では聖書と説教に重点が置かれていることが指摘されているが、そもそも礼拝そのものが、また教会暦が教育的な役割を持っていることが述べられている。この箇所で興味深いのは讃美歌の影響力について筆者が述べている点である。つまり、讃美歌に差別的な、また不快な表現があったり、情緒性や主観性が強すぎると教育的に良くない効果を与えたり、余りにも美しすぎるメロディーや合唱技術が讃美歌本来の意義を損なう恐れがあるとする(117頁)。また人々が様々な違いにもかかわらず、共にあずかることの出来る礼拝を目指すことは教会にとって重要な課題であるとされ(121頁)、礼拝に集う人々の信仰が教会を良き教育力を引き出す場とする(122頁)と語ることによって礼拝が教育という重要な働きを生み出すとされる。

次に礼拝が牧会を生み出すことについて触れ、良き礼拝について深く考えることから良き牧会が生まれると述べられている。これについて著者が語るように礼拝の中で行われる「牧会祈祷」には執り成しの祈り等が含まれ、まさにこれは「牧会の祈り」である。同時に著者は説教や讃美歌等、礼拝の一つ一つに牧会の働きが含まれていることを語る。この箇所では、また「聖餐」についてルターやウェスレーの興味深いエピソードが記されており、著者による牧会共同体という視点から会衆による牧師への祝福というユニークな提案は、おそらく多くの日本の教会の信徒にとって初耳のものではなかろうか(134頁)。

次に礼拝が宣教を生み出すことに触れ、宣教は教会の行為であるが、これは牧会とは逆に「外に向かって働きかける行為」とされる(135頁)。そして、「宣教」と「伝道」という言葉についての説明がなされ、新約聖書の福音書ではイエスの宣教がユダヤ教の礼拝から始まったとしていることが述べられている。著者は教会が「直接的な宣教」である伝道礼拝等の礼拝、「間接的な宣教」である奉献や派遣等を行なってきたとし、奉献は信徒が宣教の業に参与する決意の表明であり、また特に最近、プロテスタント教会によっては礼拝の祝福が派遣の言葉を伴いながら祝福して終わる形式に変わってきているとしている(141頁)。教会は宣教共同体であり、礼拝それ自身が宣教であり、証しであるとされている(146‐148頁)。

これらの箇所を読む時に教会にとってなくてはならない礼拝について、教会が自らの行なう宣教のために祈りを持ってそれに備え、神に整えられることの意味を思わされる。

終わりに著者は、礼拝は神と人間との「聖なる戯れ」であるとする(150頁)。「戯れ」という言葉を聞くと、それは「遊び」を連想させ、「礼拝で遊ぶとは不適切な行為ではないか」と疑問を持つ方もおられるであろうが、この著者は「戯れ」という言葉で私たちが通常、連想するものとは異なった定義づけを行なっている。つまり、それはこの本に記されているように「悪しき力が絶対的なものではないことを暴露する行為であり、終末的な勝利は神の愛のもとにあることを宣言する祝祭」であるとされる(152頁)。キリスト者はこの祝祭を毎週日曜日に、また人によっては日曜日以外の時に聖書の神に、イエス・キリストに対して行っていること、つまり、それが礼拝であることと、それゆえに、それは単なる「遊び」の意味での「戯れ」ではないことを思わされるのである。

この本は信仰生活の入門シリーズであるゆえに、難しい神学の展開はなされていない。しかしながら、著者は「礼拝の神学」が必要であることを語っている。ただどのような神学が必要なのか、その神学がどのような状況、場で必要なのか、ということなのであろう。礼拝においては神学が必要のない場面もあるかもしれない。言うまでもなく、これは組織神学をそのまま実践すれば良いとする類いのものではないのである。この本が「礼拝」という実践との関わりで用いられることは素晴らしいことであろう。教会での読書会等のテキストとしても良いのではないかと思われる。

 

 

これは筆者が2014年7月7日に日本キリスト教団奥羽教区北西地区教師会で発題したものを付加訂正したものです。

 

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