主日礼拝説教「全ての罪から救われて」

聖書箇所:旧約聖書エゼキエル書37章15‐23節(1358頁) 

 

2014・8・3 川上純平

 

 

 

今朝、私たちが守っていますこの主日礼拝は「平和聖日礼拝」です。私たちは今、平和に過ごしておりますが、この礼拝は、「平和」の大切さを覚え、同時に、今、この時にあって、「平和」でない人々、「平和」でない状況を覚える、過去の事を忘れない礼拝でもあります。

そして、今朝の主日礼拝の聖書箇所はエゼキエル書です。この書に登場する預言者エゼキエルはイスラエルの国がバビロン帝国による捕囚で苦しめられていた頃、今から2500年程前に活動していた預言者です。その頃、イスラエルの国は日本の四国程度の大きさしかないにもかかわらず、北イスラエルと南ユダの二つの王国に分かれていました。しかも、北イスラエルは軍事大国アッシリア帝国に滅亡され、南ユダは軍事大国バビロン帝国に滅ぼされるにいたりました。特に南ユダでは首都であるエルサレムで多くの人々が殺され、政治的・軍事的指導者らはバビロン帝国に連れ去られていきました。イスラエルからバビロン帝国までの距離は二千キロメートル近くあって、その距離を歩かされたとされています。二千キロ近くと言いますと、青森から九州ぐらいまででしょうか。中には途中で殺された者もいました。

ところで、旧約聖書に登場する「イスラエル」という言葉は、戦後、中東パレスチナ地域に建設された国家としての「イスラエル」ではありません。これは旧約聖書の神ヤハウェに従う宗教的集団・部族としての「イスラエル」が、後に王国を築き、その歴史上にあって神ヤハウェによって導かれる民族としての「イスラエル」のことを言います。

15節に「主の言葉がわたしに臨んだ。」と記されています。預言者エゼキエルには神様が「このように語りなさい」ということで、お語りになった言葉が聞こえていたということでもあります。エゼキエル書はイスラエルに対して神から語るようにと促された預言者エゼキエルの言葉を集めたものです。しかし、それまでエゼキエルはイスラエルが悔い改めて正しく生きることによってバビロン帝国から故郷イスラエルの地へ戻ることが出来ると主張してきました。そして、そこに変化が生じました。

先ほどお読みいただきました、エゼキエル書37章のこの箇所は有名な「枯れた骨の復活」についての箇所に続いて記されています。エゼキエル書に記された「枯れた骨の復活」の箇所はイスラエルの復活や主イエス・キリストの復活との関連で、キリストに繋がる者が永遠の命に与り、神の霊によって生かされるものとなるということが語られている箇所です。この37章15節以下は、それに続く箇所です。

この聖書箇所にはイスラエルの歴史的背景が影響を与えています。しかし、イスラエルの歴史観はただ単に時が過ぎ去っていくという歴史ではなく、歴史の中の一つ一つの出来事に神ヤハウェが関わっておられるという、そのような歴史に対する物の見方です。「イスラエル」という言葉を聞くと、私たち多くの日本人は「ガザ」、「暫定自治区」、「中東地域」という言葉やアメリカの軍隊を連想しがちなのではないかと思います。しかし、そもそも「イスラエル」という言葉は、旧約聖書が記された言語であるヘブライ語で「神様が支配する」という意味の言葉でした。これは旧約聖書に登場するアブラハムの子孫であるヤコブが神ヤハウェから与えられた名前でした。そのことについては旧約聖書創世記32章28節(56頁)に記されています。その箇所には夜中にヤコブが天使と戦ったとされる物語が記されています。ヤコブは部族の長であり、彼の子供は十二人いましたが、その子供たちが大人になり、彼らによって作られた民族がイスラエル民族とされたのです。

旧約聖書の中で、そのヤコブの子孫とされるイスラエル民族が造り上げたイスラエルの国は最初、一つの国でした。それが南北に分裂したわけですが、今の韓国と北朝鮮の関係のようになったのかと言うと、決してそうではありません。もっとも韓国と北朝鮮は1950年代の「朝鮮戦争」によって南北に分かれてしまったわけですが、その戦争には日本が関わっていたということも忘れてはいけません。

イスラエルの国は、今から数千年前にパレスチナの地域にイスラエルの部族の王とされたダビデが統一国家、つまり、一つの国を築いたものです。しかし、その国は北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分かれ、南ユダ王国が紀元前6世紀にバビロン帝国によって滅ぼされ、都エルサレムと神殿も破壊され、多くの人々がバビロン帝国に連れ去られて行きました(聖書地図5参照)。もし、日本の国が本州の真ん中あたりで東と西に分断されて、今日から、この二つの国は別々の国です等ということになったら、とんでもない、悲しい話ではないでしょうか。

エゼキエル書のこの箇所は、イスラエルの人々がバビロンに連れ去られて行った後に、語られた預言であるとされています。その預言にはイスラエルが国として復興し、回復すること、特にダビデ時代の統一王国が再現されるという預言、イスラエルが神の民となることが述べられています。そこには預言者自身が救いを望んでいたことやエゼキエルの弟子が書き加えた部分もあるかもしれません。

15節以下で神ヤハウェは預言者であったエゼキエルにバビロン帝国に連れ去られて行った人々に対してイスラエル王国の回復を少し変わった行動をとることで知らせるように言われています。変な話です。そして、その行動とは木を使ったもので、2本の木を結びつけるということでした。これは、もともとは木片を使ったものであったそうですが、後にそれを木の棒と解釈するようになり、二つの木を一つにすることが語られています。それはイスラエルを一つにするということの象徴でした。

16節に記されています「エフライム」とは北の全ての部族のこと、つまり、北イスラエル王国を意味します。同じ節にある「ヨセフ」とは旧約聖書で最も有名な人物の一人で、ヤコブの第十一番目の子です。彼の生涯はイスラエルの人々に多大な影響を与えました。23節に記された「救う」という言葉は、34章22節においては、群れの救いのための裁き、36章29節においては、主なる神ヤハウェの掟と裁きに従うことによって与えられる祝福を意味します。イスラエル王国とユダ王国を一つにするというのです。

なぜ神ヤハウェは預言者エゼキエルにそのようなことをさせたのでしょうか。そこにはイスラエルの国、つまり、ダビデの王国と神ヤハウェとの契約は永遠であり、神がイスラエルの人々を滅亡させることはないという神の御心が示されてもいます。それは分断された国が一つにされることを意味します。

イスラエルの人々の多くは「神ヤハウェ以外のものを神とした」偶像崇拝や政治的腐敗、貧しい者、弱い者いじめを行い、堕落した生活の中で生きていました。しかしながら、聖書のこの箇所では、神ヤハウェは清める、つまり、救うと語っています。それは神ヤハウェによる裁きがあって、救いがあるということでした。イスラエルがエルサレム神殿の破壊とバビロン捕囚という神の裁きを経て、救いに与るということです。これはバビロン捕囚から解放され、祖国の地に戻り、清められ、しかも、かつての一つとされていた王国を復活させるという意味での神による救いです。

イスラエルの人々は、イスラエル王国建設の時もバビロン捕囚の時も世界中に散らされた時も、絶えず自らを「イスラエル」と呼びました。それは自らが神ヤハウェによって選ばれた民であるという宗教的な自覚によるものです。イスラエルの人たちは自分たちが「選ばれた者たち」であるという想いを今も心に持っているのです。

戦後、1948年に国連によってパレスチナ地域に「イスラエル共和国」が建国されました。これが現在のイスラエルの国です。その時に周辺アラブ諸国からの反発がありました。なぜなら、これは無断で他人の家に土足で上がり込んできたのも同然だったからです。またそれまでにナチス・ドイツによる迫害によって600万人ものユダヤ人が強制収容所等で虐殺されました。イスラエル共和国は建国された後、現代に至るまで、御承知のようにアラブ諸国との衝突を繰り返し、未だにガザ暫定自治区と争いになっています。

キリスト教会では「イスラエル」はどのように考えられているのでしょうか?キリスト教会は旧約聖書だけでなく、新約聖書との関係で自らを神の民「イスラエル」とし、聖書の神との契約を正しく継承する者たちの共同体であるという自覚を持って生きてきました。ただこの「イスラエル」は国家ではなく、また民族意識でもなく、キリスト教会において「神によって一人一人自らが選ばれているという信仰」でありました。パウロはキリスト者を神のイスラエルとしています(ガラテヤの信徒への手紙6章16節 351頁)。

またイスラエル民族の子孫たちが歴史の中で様々な迫害と苦難に遭い、自分たちの宗教的かつ精神的な意味での故郷である「カナン」の土地に自分たちの国家を樹立したということは、それはそれで素晴らしいことであるのかもしれませんが、そのために多大な犠牲者を出したということは旧約聖書本来の神ヤハウェが語る御言葉から逸脱していないかということがあります。

旧約聖書では、女性や、孤児、外国人は共に弱い立場にあり、保護を受ける権利を持った人々たちでした。エレミヤ書7章5‐7節(1188頁)には「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」エゼキエル書22章7節(1329頁)には「父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている。」と記されています。

今朝のこの礼拝は「平和聖日礼拝」です。教区からも今朝の礼拝で週報の「報告」の最初に記載されている事柄を覚えて祈って欲しいというお願いが来ています。

キリスト者は聖書の神を信じ、聖書の神は「全てを支配するお方であり」、この神による平和を求め祈る者です。ですから、たとえ「イスラエル」という聖書の舞台となった地域に建てられた国家であったとしても、武力による解決ではなく、話し合いや理解を深める方向へ進んでいくように出来ることなら祈り求めていくべきではないかと思います。

世界にはイスラエルとガザだけでなく、北朝鮮と日本を含むその周辺諸国やアメリカ、あるいはウクライナとロシア等、関係の良くない、戦争を思い起こさせる関係にある国々があります。また国内では原発再稼働を行なおうとしたり、原発輸出を行なっていたり、集団的自衛権行使容認閣議決定がなされ、憲法九条の解釈改憲が行われようとしています。これに反対すること、人間の罪、戦争の悲惨さと平和の大切さ等を覚え祈ることが大切です。これらの言葉には今まで民主主義が大切にされて来なかったのではないかということがあると言われています。私たちに出来ることは署名やカンパや投書等で手一杯かもしれませんが、それが大切なのです。また世界における国家間の、また部族間の対立には宗教がからんでいることもあります。ですから、他の諸宗教を理解したり、他の諸宗教と対話したりすることも大切です。

この聖書箇所は「キリストにある交わり」についても語っています。木々が一つとなるということ、それぞれが選ばれた木であり、それが聖書の神によって一つとされるということは、キリスト教会がキリストによって一つとされる教会であることを想い起こさせます。キリスト教会には様々な教派があり、同じ教派でも様々な信仰理解があるにもかかわらず、一人の王であるキリストがその全ての王であるということです。教会と国家は全く異なるものでありますが、聖書のこの箇所から、キリストにある交わりが想い起こされるのです。

先日、とある方のリンゴ畑を訪れましたら、地面に青くて小さいリンゴが沢山落ちていました。もしかすると、先日の大雨で落ちたのか思って、お聞きすると、リンゴの実の剪定と同じで、リンゴの実をもぎ取って下に落として、決められた数だけ実らせ、こうした方が、数が少なくてもおいしい実が出来るということでした。実を実らせるという事は簡単に出来ることではありません。何もかもキリストがして下さるわけではありません。キリストが私たちを一つにし、養い育んで下さいますが、その中で私たちの伝道の成果がいつ実るのか、神様はご存じでしょうが、私たちにはわかりません。終わりの時まで解決しない問題もありますが、しかし、実を実らせるためにいそしむことが大切です。

旧約聖書の神は人間に対して御自分に立ち帰るようにと語り、平和を与えてきた神です。「神が人を見捨てることはない」「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」これはノアやアブラハムといった旧約聖書の人々が、かつて神ヤハウェと結んだ永遠の契約によるものです。聖書の神は私たち主イエスを救い主として信じる者一人一人に住むお方です。主イエスはご自分を信じる者、全ての者の罪を贖いました。それゆえに私たちは全ての罪から救われ、清められています。人は病や悩みを持ったまま生きざるを得ない存在であるかもしれません。なぜなら「神の国」は終わりの時に完成するというのがキリスト教の信仰であるからです。しかし、これからも旧約聖書の人々の神ヤハウェに対する信仰を重んじつつ、同時に主イエスを礼拝し、主イエスに従う者として、主イエスの平和を望み求めて生きていきましょう。

 

 

この説教は2014年8月3日に日本基督教団藤崎教会の主日礼拝において筆者によってなされた説教です。