書評「『洗礼』をめぐって 今日聖書はなにを語っているか」(早坂文彦著、株式会社ヨベル、2022年初版)
川上純平
(2023/2/20)
・この本は著者が牧会しておられる日本基督教団西仙台教会での主日礼拝説教をこの本のために書き直した文を集めたものであり、元となった礼拝説教はどれも「『洗礼』について改めて聖書から学びたいと思った」(「あとがき」本書211頁)著者によって述べられたものである。
・そもそも、この本の執筆にあたっては著者がある若い牧師から「未受洗者陪餐」をめぐって問われたことや東北教区での「未受洗者陪餐」について議論を試みた際の著者の経験が影響しているようで、「未受洗者陪餐」について改めて考え、議論する必要があることを著者は望んでおられるようである(211、212頁参照)。これについて私もこのような神学的議論に意味はあると考えている点で同じである。
・そして、この本の内容は教会の主日礼拝での「説教」であるゆえにこれを聞く会衆に馴染みやすく、分かりやすいものとして述べられていると考えたい。と同時に最近の聖書研究、新しい神学的な試み等を反映した箇所が述べられている。もちろん聖書箇所を土台として「洗礼」について述べられているのであるが、著者独自の発想と展開も多い。著者が「あとがき」に記しているように本書全編にわたり、「洗礼」についての一貫した態度が新約聖書に記されているということが述べられているわけでもない。この本は「洗礼」について、聖書の読み方、説教とは何かを考え、また宣教について考える際に良い刺激となるのかもしれない。持ちやすい新書判サイズで、全部で215頁という、読みやすい薄さも魅力であろう。
・そして、新免貢氏(宮城学院女子大学名誉教授)による最初の「序」に記された言葉、それは本のタスキにも記されているが、「神に身をゆだねて具体的に生かされることへの招きとして深く考察している」(新免貢著「序 ―借り物ではない独自の洗礼論の登場を歓迎する―」本書3頁より)は教会の信仰生活において、現在、そのような事が促されなければならないような状況にあるということであろうか。以下、この本の中で幾つか重要であると思われた箇所や関心を持った箇所、また気になった箇所があったので、それについて述べてみたい。
・最初の「1 火の洗礼」はマタイによる福音書3章11−12節に基づくもので、主イエスの受難を「火の洗礼」、裁きであるとし、主イエスが苦しみをご自分のこととされたゆえに、私たちは徹底して罪の告白をする者とされたと述べられている。この章で興味深いことは著者自身の主イエスの「受難」と「洗礼」との結びつけ方である。通常は水を連想させる「洗礼」を「火の洗礼」と結びつけている箇所の内容は著者自身の独自の解釈なのだろうか?これは信仰理解が人によって異なる部分があり、信仰についてどう理解するかは自由であるとも言えるのだが、同時に神学等との関係や教会生活の中での学びや宣教姿勢としてどうなのかということが不明瞭である。果たしてこれは信仰を持つ者にどのような影響となり得るのか?
・「2 まことの洗礼」はマタイによる福音書3章13−17節に基づくもので、この本の28頁後半部分、30頁前半部分に記された解釈(主イエスが水の中に沈められる行為は人間が負うはずであった溺死の苦しみをイエスのものとすること)も著者独自の聖書解釈であろうか、理解し難い。ちなみに、この章では最後に「補足の聖書研究」及び参考資料(30頁〜35頁)が載せられているが、そこでは「宣教命令」の対象としての異邦人は聖書に登場しないことが述べられている。この参考資料に挙げられた聖書箇所に基づいて述べられている内容に対しては賛成し難い。
・「3 洗礼を授けよ」はマタイによる福音書28章16−20節に基づくもので、著者は洗礼なしに人々を教会の仲間に受け入れるのは「神の気前の良さ」であり、その気前の良さのために主イエスが十字架の死を味わわれたと解釈し、そこから隣人に代わって厳しい火の裁きの代理を引き受ける人を「クリスチャン」と呼んでかまわないとしている。しかし、果たして主なる神のそのようなお働きは「神の気前の良さ」ゆえのものであろうか。これを主なる神の恵みについて述べられていると解釈して良いのかどうか、この聖書箇所の解釈だけでなく、この信仰理解がどのようなものなのかは不透明であると言って良い。このような説教であるゆえ、実際に著者が教会でそのような「クリスチャン」として、また「牧師」として生活され、教会に来る人にそのように勧めておられると解釈して良いと考える。この章の中の「厳しい火の裁きの代理を隣人に代わって引き受ける」(48頁)という考え方はおそらく牧師であり、カウンセラーである著者の経験及び知識に基づくものであろうか。説教と牧会との関係が重要であることを思わせる。
・「4 神の方向転換」は、マルコによる福音書1章1−11節に基づくもので、神は人の罪とその結果をご自分のこととされた、三位一体の神ご自身が引き受けられるという方向転換の「洗礼」、それは「世界の新しい秩序」、バプテスマのヨハネはこの預言を宣べ伝えたとされている。しかし、果たして、マルコによる福音書において「三位一体論」が土台となって記されていたのかどうかという問題は残されている。
・「5 弟子の受洗」は、マルコによる福音書10章35−45節に基づくもので、著者はマルコによる福音書10章37節を用い、主イエスの洗礼に15章27節で十字架に架けられ主イエスと共に殺された二人の強盗が最初に「与かる/あやかる」ことになったと記している。主イエスが「自分の苦しみをご自分のこととしてくださった。これがイエスのバプテスマです。」と述べられている。しかし、この強盗たちの信仰告白や「悔い改め」について同福音書は何も述べていない。また同福音書15章32節では「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」と記されていることをどう解釈すべきであろうか。
・「6 悔い改めの洗礼」は、ルカによる福音書3章1−3節に基づくもので、著者は「イエスの十字架・復活・昇天という神の業、人間の悔い改め、罪の赦し、そして聖霊降臨、この四つの四角(クアドラント)」が人の洗礼によって代行されていくという救いの「仕組み」がルカの時代に教会で理解されていたことであったとしている(75頁)。しかしながら、このような理解は果たして正しい理解なのか疑問に思う。問題は、例えば、「神の業」、「聖霊降臨」が「代行される」という表現であろう。これでは人間の側に神の権威があり、聖霊の働きについて人間が神や聖霊として行っていくことになると考えていることになり、さらにもはや「代行」ではなく、人間が神や聖霊そのものであるということになる。当時、著者ルカのいた教会で「洗礼」が行われていたとしても、「洗礼」の業にそのような機能はない。76頁では、洗礼が有効であるものと何の意味もないもの、絶対と相対という緊張関係に位置付け、それを宿命としているが、これも「洗礼」について述べた言葉としては適切とは言い難いのではないだろうか。
・「7 神の世界戦略」は、ルカによる福音書3章7−20節に基づくもので、オバマ大統領の「世界戦略」や、いわゆるアジア・アフリカ等の「第三世界」の国々をキリスト教化する意味での「世界戦略」について述べられ、「世界戦略」という言葉を記号化して「ルカによる福音書」をそのように位置付ける(81頁)のは問題がないだろうか。著者はマタイによる福音書28章19節、20節の「宣教命令」を土台として「第三世界」のキリスト教化が進められたと述べている。そして、そもそもマタイによる福音書の「宣教命令」はキリスト教の世界戦略ではないとしている。しかし、少なくとも私たちは「マタイによる福音書」や「ルカによる福音書」を81頁に記された「世界戦略」としては用いていないことは言うまでもない。この箇所では「キリスト教」という言葉も記号化されているのではないだろうか。
・また著者はルカによる福音書に登場する洗礼者ヨハネが新しい時代(貧困の克服、差別の撤廃、暴力ではなく正義の支配)の到来を預言し、それは聖霊による個人の変革から始まる時代であるとしている(83頁)。この箇所は洗礼者ヨハネの発言を現代的に解釈した内容や既存のキリスト教理解とは異なる独自の発想と展開が興味深いし、重要であろうと思われる。この箇所も著者の宣教姿勢が窺える章である。
・「8 民衆の物語」は、ルカによる福音書3章21−22節に基づくもので、聖書に登場する「民衆」をキーワードとしている。使徒言行録に記された一般市民の人々についての著者の描写は、動機や目的等は異なるものであるが、現代世界における各地での暴動等を連想させ、著者の力量が説教に生かされている。98頁に記された「聖霊」についてのイメージについては信仰的に、神学的に確定したものではないが、そのようなものであろうという感覚を多くのキリスト者が持っている点と聖霊について「三位一体論」や「信仰告白」だけでは表し切れていないものや、いわゆる正統的なキリスト教信仰の表現とは異なるものが聖書に記されていることを指摘している点は興味深い。その後、著者は使徒言行録に描写された未消化感、「不快感を担うことの出来る身体性こそが聖霊」であるとし(100頁)、聖霊を受けた主イエスの受けた洗礼だけが「唯一の正しい洗礼」であると指摘するが(101頁)、これには同意し難い。これは、そもそも「洗礼」とは何かということと「洗礼」について考え直すことの重要性との関係が不十分なもので終わっているのではないだろうか。著者はご自分を罵り怒りを向ける民衆のために十字架にお架かりになり、「『苦しむことのできる身体』こそが、わたしたちにとってのまことの希望なのです。」(101頁)と述べる。私たちの様々な意味での弱さ、有様と結びついた形での聖霊が今も信仰を持って生きる私たちに働いていることが述べられている(103頁)。これも著者独自の聖書理解、信仰理解なのであろう。この章で述べられた「アウシュビッツ」の描写は現代に生きる私たちにとって希望の重要さを語っている。
・「9 神の決意の目線で見る」は、ルカによる福音書7章29−30節に基づくもので、聖書箇所は「洗礼」について語っているが、この章では内容的にはむしろどのような視点で主なる神と自分を捉えているか、主なる神の御心(決意)の視点において自らのあり方や生き方が変化すること、信仰生活への促しについて述べられていて、分かりやすい内容となっている。
・「10 欲と悪意を献げよ!」は、ルカによる福音書11章37−41節に基づくもので、人が自らの心の中にある汚れを主なる神に差し出すことで人を清めて下さる主イエスの奇跡について触れられており、それは主イエスの十字架であることが推測される。この章では付記において「洗礼」(身を清める)との関連が述べられ、牧師とは「ファリサイ人」のことではないかと自らに対して問いかけがなされ、この聖書箇所が現代のキリスト者にも問いかけている箇所であることが述べられていて、興味深い。
・「11 分裂をもたらす者、イエス」は、ルカによる福音書12章49−53節に基づくもので、著者は主イエスが天から下る火の「洗礼」を受ける方であると同時に、火を投ずる方であり(124頁)、聖霊を私たちの苦しみを引き受けて下さる主なる神、主イエスであるとしている。また著者はこの聖書箇所から「平和とは、引き裂かれる神イエスがここにおられるというリアリティなのです。」と結論付ける(129頁)。この章はむしろ主イエスがその人のもとに来られる前に既に現実において「分裂」の最中にあり、「分かち合い」に繋がらないこととどう対峙するのかを考えさせられる内容であることを思わされた。
・「12 神の主導、神の献身」は、使徒言行録1章3−5節に基づくもので、「神の国」を弟子たちが伝えるために復活された主イエスの身体は献げられ、その主イエスは苦しまれる主イエスであり、その期間が四十日間であったと述べられている。これについて、この章も他の章でもそうであるが、現代において聖書解釈や信仰理解が様々にあるが、福音派的な信仰理解とリベラルな信仰理解の組み合わせによってこの著者の神学や信仰理解は成り立っていることが窺える。この事は神学校によって異なるだけでなく、教師によってその組み合わせのバランスや内容が異なる事や私自身の神学形成や日本基督教団の教師とは何なのかという問いについて改めて考えさせるものとなった。その事と関係するのであろうか、133頁に記された著者の少年の頃の幽霊体験と弟子たちの復活体験とは明らかに別の異なるものであることが指摘出来るのではないだろうか。
・「13 聖霊降臨へのこだわり −神の約束」は、使徒言行録2章37−47節に基づくもので、この章では日本基督教団の宣教方針、「三〇年問題」に触れ、教会の存在を「神の約束の意志、神の贖いの意志」による奇跡とし、「わたしたちができること、すべきことは何か。奇跡を奇跡と受け止めること以外にありません。」と語り、教会を愛し抜くしかないとしている(148頁)。著者の教会に対する愛や情熱がひしひしと伝わってくる箇所であるが、ただ現在の日本基督教団の中での教勢の問題と聖霊の業との関係についてこの箇所では詳細が不明であり、この場合の奇跡である教会を愛し抜くとは具体的にはどのようなことなのかも曖昧に終わっている点が残念である。今後の著者の活躍が期待される章であるとも言える。
・「14 魔術師の洗礼」は、使徒言行録8章4−24節に基づくもので、この箇所では必ずしも同意出来るわけではない内容が記されている。それは「聖霊の授与は神の業であり、人の業ではない」(160頁)という著者の言葉にまとめられるであろうか。そして、これは確かに古典的な「教義学」ではそれ自体としては成り立つ理論で、そのように言われているものかもしれない。もちろん、礼拝説教でそのように言ってはならないという決まりはない。そして、他はそれに伴う問題なのであるが、人間の側の信仰についての捉え方、宣教論との兼ね合いで聖霊の働きをどのように相手にお伝えするかという問題がこの箇所に絡んで来るであろう。これは著者だけの問題ではなく、様々な見解があるものと思われる。著者の「未来は神が切り開いてくださいます。」(163頁)という言葉には充分うなずける。
・「15 エチオピアの宦官の洗礼」は、使徒言行録8章26−40節に基づくもので、その内容は三つに区分され、それぞれ「一 奇跡の生活−神への自由な服従が奇跡を見る」、「二 救済の歴史はわたしを目指していた」、「三 もう一つの教会のあり方」と題して述べられている。「二」について詳しく記されているのであるが、エチオピアの宦官についてのエピソードは果たしてどこまでが史実なのか分からない箇所があり、191、192頁における「伝道論」については「それを欠いた人為的な伝道」とは何か、疑問が残る。また194頁に記された、信仰という奇跡的な出来事が「誇大妄想にならないのは、そこに謙虚さがあるからです。」と記された言葉は不適切な表現ではないだろうか。「三」においては、救われた個の集まりが無視されがちな信仰理解となっている。通常、キリスト教会において一人一人に対する伝道がなされると考えるのであるが、この本の著者とは私とではその点で意見が異なるのであろうか。202、203頁に記された8章29節で霊が「一緒に行け」と語ったことについての説明は興味深い。この章ではこれを読む者が自らの置かれた教会での宣教等について考え直すことを求めておられるようである。
この書評は筆者が2023年2月20日に日本キリスト教団関東教区群馬地区教師会で発題したものを付加訂正したものです。