カトリックとプロテスタント
川上純平
2009年5月
カトリックとは
新約聖書においてキリスト教会についての記述があるように、それがどこまで歴史的事実なのかということもあるが、原始キリスト教時代においてキリスト教会は誕生した。
その後、カトリック教会が生まれるわけであるが、この「カトリック(Catholic)」という言葉にはいくつかの意味がある。そもそも、この言葉は「全てに即している」という意味を持つギリシア語の「カトールー“καθόλου”」という言葉に起源を持つ。(1)教会においてはじめてこの言葉を使用したのは、1世紀に活躍したアンティオキアの主教であり、神学者であったイグナティオスであり、彼は「教会」についてこの言葉を使用した。この言葉は「一般的」「普遍的」という意味を持つが、特に教会においては「公同的」という意味で用いられるようになった。それはキリストの教会がどこにおいても聖書が証する同じ一人の神を信じる同じ信仰を持つ共同体であるという意味である。この言葉が特別な意味を持ち、「使徒信条」を始めとする信条の中に組み入れられていったのは、異端や分派に対抗することやローマ帝国による迫害の中で教会全体の結束を強めることが必要であったことによるとされる。(2)
他にも、この言葉は「全体としての教会」、「異端」に対する「正統」、「東方教会」に対する「西方教会」、「プロテスタント教会に対するローマ教会」等の意味で用いられている。しかし、ここでは特に「プロテスタント教会に対するローマ教会」の歴史とその意味について述べたい。
「プロテスタント教会に対するローマ教会」、つまり、「ローマ・カトリック教会」は16世紀のドイツ・スイス等を中心にして起こった宗教改革後のローマ教会を意味する。
そもそも、「ローマ・カトリック教会」の土台となった原始キリスト教会以後の教会は、職制との関連で発展した。4世紀にローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を国教とし、それ以後、キリスト教はヨーロッパにおける最大の宗教として政治・経済・文化も含めて、様々な面で力を持つに至ったが、1054年にはコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)を総本山とする「東方正教会」とローマを中心とする「西方教会」とに分裂するに至った。
「西方教会」は、さらに16世紀に大聖堂建築のための贖宥状(免罪符)の販売のような信仰的な堕落を始めとして、宗教改革の要因を作り出すに至り、さらにプロテスタント諸教会及び英国国教会の誕生によって、信徒数が減少するに至る。
しかし、それ以後、「西方教会」、つまり、ローマ教会の衰退が嘆かれる中、修道院運動と海外伝道の発展、聖書だけでなく使徒的伝承の権威性重視(初期教会において伝えられ聖書と同等に規範とされた使徒たちの教えと教会の権威を使徒たちから継承したものであるとすること)、7つのサクラメント制定、総会議の権威に対するローマ教皇の優位性、個人的敬虔さと社会福祉の重視、カトリック教会独自の教理(教皇〈座〉不可謬説〈無謬説、誤謬説〉、マリア無原罪被昇天等)の制定が行われ、それによってカトリック教会が特徴付けられるに至った。
現代のローマ・カトリック教会においては、この世と対立するものとされる「教会法」によって規定され、礼拝生活の中心である日曜日の主日ミサは信徒の義務であり、また聖母マリア信仰や聖人崇拝、聖地巡礼等も行われている。一方、第2バチカン公会議やエキュメニカル運動によるリタージカル・ムーヴメント(典礼刷新運動)、この世の働きに従事しつつ修道院生活を行うこと、過去のローマ・カトリック教会の罪に対する謝罪(例:ガリレオ・ガリレイを異端としたことに対する名誉回復)、世界の諸民族の文化と宗教を認めること、教会が世界の正義と平和のために尽くすこと、人権擁護運動、性倫理や生命倫理の問題等にも力を注いでいる。
ローマ・カトリック教会における「カトリックであること(カトリシズム)」は、キリスト教信仰を教会なしにはあり得ないもの、教会において存在するものとしている。それは使徒たちから代々伝えられた信仰内容であり、間違いのないものとされる。制度としては、総本山であるバチカンのローマ教皇(ローマ法王)がペトロの後継者として、その頂点に立ち、それによる指導が全世界のカトリック教会に広く行き渡り、結びつけられていることによる一致を本質としている。カトリックにおける信仰はプロテスタントにおける「義認論」とは異なり、人間には神の恵みを受け入れる力があり、人間の知性によって神を認め、善行に努めることができるとされる。それゆえに、様々な文化の発展に寄与する態度が見られ、愛の奉仕と犠牲の業が尊ばれている。(3)
プロテスタントとは
言うまでもなく、プロテスタント教会の起源は、宗教改革以前の歴史に関してはローマ教会と同じである。そもそも16世紀に始まる宗教改革以前の宗教改革者としては、14世紀から15世紀にかけて活躍したジョン・ウィクリフ、ヤン・フス、プラハのヒエロニムス等がいる。彼らはカトリック教会の教理を否定とすることによって、異端として処刑された。
しかしながら、本格的な宗教改革の発端は、1517年10月31日にドイツのマルティン・ルターがヴィッテンベルク城に「95カ条の堤題」を掲げたことに由来する。その頃、時の教皇ユリウス2世やレオ10世が大聖堂建築のための贖宥状の販売(免罪符の販売:信徒はこれを購入することによってあの世にいる信徒の家族が罪に定められなくなるとされた)による資金をローマの聖ペトロ大聖堂建設にあて、さらにドイツのマインツの大司教が贖宥状販売許可を得るため教皇に賄賂を贈っていた。これに対してルターは贖宥制度の否定を主張、それがローマ・カトリック教会制度の否定へとつながったのである。カトリック教会はルターを異端としたが、ルターは「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」を「キリストのみ」の立場から主張。ヴァルトブルク城に保護され、新約聖書のドイツ語訳を行ない、1526年には「ドイツ語のミサ」を著わすに至る。同時に、農民戦争によって農民運動と分かれ、ルター主義的な領邦教会が作られた。ちなみに1529年のシュパイエルの国会でルター派諸侯たちが改革を阻止しようとする皇帝の命に反し「抗議した宣言(プロテスタティオ)」を発表。この言葉はそもそもは「証言する」「抗議する」等を意味するラテン語の「プロテストー“protestor”」という言葉に由来し、ここから「プロテスタント(Protestant:新教徒)」という名称が生まれた。
そもそもルター自身は、カトリックの修道士であり、ヴィッテンベルク大学で聖書教授として旧約聖書の「詩編」を講義する際の研究の中で「塔の体験」と呼ばれる神学的発見を行なった。それは「神の義の発見」であり、これが「95カ条の堤題」へとつながっていったのである。(4)彼は1546年に没したが、1555年の「アウクスブルク和議」によってルター派にとって最初にして重要な信条であり、フィリップ・メランヒトン起草による「アウクスブルク信仰告白」が公認され、ルター派は法的な意味でカトリックと平等の権利を得ることとなった。彼の影響はスイスを始めとするヨーロッパ諸国に伝わり、宗教改革者としてのツヴィングリ、カルヴァンを生み出すに至る。
フリードリッヒ・ツヴイングリは、スイスのチューリッヒ大聖堂の牧師であったが、ルターを知り、福音によって国家を変えることを目指し、改革者として歩み始めた。彼はチューリッヒ市議会において宗教改革、キリストのみを主張、カトリックにおける様々な制度の廃止、「聖書のみ」とすることによって礼拝におけるカトリック的側面の廃止を行なう彼流の聖書解釈等について語り始め、市議会からの賛同を得、チューリッヒ市はプロテスタント都市となった。しかし、聖餐論においてはルターと一致せず、1531年10月11日、カトリック軍との戦いで没した。彼の死後は、ヨハン・ハインリッヒ・ブリンガーがその後継者として活躍することとなった。
ジャン・カルヴァンは、パリ大学で学び、フランス人文主義、ルターやツヴィングリの影響を受け、1535年に『キリスト教綱要』を記すに至る。スイスのジュネーヴで宗教改革を始めるが、当局と衝突、ストラスブールに赴く。この地での教会政治、聖礼典、礼拝様式、祈祷等は、後のカルヴァン派(改革派)教会の一つの模範となった。(5)1541年、再びジュネーブに赴き、「教会規則(規程)」によって制度を整え、現在の改革派諸教会の基礎を作った。ジュネーブ市も彼に協力するようになり、1559年には『キリスト教綱要』の最終版が出版された。ジュネーブ大学設立によりヨーロッパ各地での宗教改革の指導者を育て、ツヴィングリ派との間で「チューリッヒの一致」を結ぶことによってスイスのプロテスタントはカルヴァン派が指導するものとなった。1564年に彼は没したが、彼の弟子達や彼に直接的な影響を受けた者達らを通して、イギリス、スコットランド、オランダ、フランス、ドイツ等、ヨーロッパ全体に彼の信仰と神学が伝えられ、「長老派」、「会衆派」、「バプテスト派」等を生み出し、それらはアメリカ建国を促すものとなり、様々な立場が存在するに至っている。
プロテスタントの特色は、聖書のみを神の言葉として信仰生活の中心に据える聖書主義、聖書において絶対者であると同時に、恵み深い神とその現れであるイエス・キリストに対する信仰によって人間という罪深い無力な者が救われ義とされるという信仰義認、神の力である聖霊の働きによって教会を建て、その信徒は全て祭司であるゆえ平等であり、生活と社会における良き働きを行なう者となるとする。それゆえに民主主義の形成と発展への寄与を始めとする社会への関与、教育の重視等も行なう。(6)
しかし、ルター派とカルヴァン派とでは礼拝におけるカトリック的要素について、救いの教理(例:予定論等)について、聖餐論について、また教会と国家の関係について異なった主張を行なっている。思想面においてカルヴァンにおける職業の喜びについての主張は、現代の資本主義社会における過労を見過ごしにさせたり(もっとも資本主義の起源をカルヴァンにあるとするマックス・ウェーバーの考え方は正しいが、しかし、そこにはカルヴァンを誤解した人たちによって資本主義が作られたということがある)、ルターのユダヤ人に対する偏見等、全く問題がないものでもなかった。現在、ルター派、カルヴァン派ではないが、それらの影響を受けた「メソジスト派」、「ホーリネス派」、「救世軍」等を含めて数多くのプロテスタント教派が世界中に存在する。(7)またカトリック教会及びそれ以外の諸教派を含むエキュメニカル運動(世界教会運動)も行われている。
〈参考文献〉
・倉松功著『教会史 中』、日本キリスト教団出版局、1990年〈第7版新装版〉。
・石井裕二著『キリスト教会・教派 概説』、同志社大学神学部、1994年。
・『キリスト教大事典』、教文館、1991年〈改訂新版第10版〉。
・『岩波新キリスト教辞典』、岩波書店、2002年。
・The
Abridged Liddell-Scott Greek-English Lexicon. Oxford University Press.1994.
・『羅和辞典』、研究社、1994年〈増訂新版27刷〉。