雑記帳(U)
川上純平 2007・5・10〜
2007年5月10日(木)
今日、『キリスト教神学のページ(T)』に『「ディートリッヒ・ボンヘッファー ‐その生涯」』という拙い論文を載せましたが、この論文は今年4月の中頃から書き始めておよそ1ヶ月で書き上げました。参考資料にエーバハルト・ベートゲ氏の『ボンヘッファー伝』全4巻を使用することができればよかったのですが、そのうちの第1巻しか入手することができなくて、結局、1992年に1冊本として新教出版社から出版されたエーバハルト・ベートゲ、レナーテ・ベートゲ氏による伝記(宮田光雄・山崎和明訳)をその生涯の記述にあたって主に使用させていただきました。ちなみに、訳者の宮田光雄先生は東北大学名誉教授 同志社大学神学部より神学博士の学位を授与されています。私は今までに二度ほど宮田先生の講演を拝聴させていただきました。山崎和明先生は2007年5月現在、四国学院大学社会学部教授をなさっています。ちなみに参考文献目録にもあるエルンスト・ファイル氏の『ボンヘッファーの神学 解釈学・キリスト論・この世理解』は、ファイル氏によれば、その翻訳が可能となったのは山崎和明氏との出会いがきっかけなのだ、そうです。
しかしながら、そもそも私とボンヘッファーの出会いは、私が東北学院大学文学部基督教学科に入学した時に、日本で最初にボンヘッファーの研究をお始めになった森野善右衛門先生(日本基督教団関東教区巡回教師)が東北学院大学文学部基督教学科教授をなさっておられて、偶然、私が洗礼を受けた日本基督教団緑野教会で先生も洗礼をお受けになったということもあって、挨拶に伺ったところ、先生がボンヘッファーについてお書きになった『希望に生きる キリスト入門』を下さったのがきっかけでした。
それ以来、先生がなさっておられた「ボンヘッファー読書会」に出席し、『ディートリッヒ・ボンヘッファー 人と思想92』(村上 伸著、清水書院、1991年)を何人かの方々と一緒に読んだことも覚えています(読書会に、村上 伸先生自身がお越しになったこともありました)。
その後、私は同志社大学神学部に編入学しましたが、学部の卒業論文は「初期バルト神学」を中心にして、ボンヘッファーやブルトマンとの関わりで「聖書における教会の位置づけ」をまとめたものでした。その論文指導は主に飯 峯明教授に受けましたが、飯教授はスイスに留学された時に、ディートリッヒ・ボンヘッファーから学んだゲルハルト・エーベリンク(ブルトマンの弟子でもあった)に学んだそうです。私は学部卒業後、大学院に入学しましたが、修士論文は「カール・バルトの教会論」を『教会教義学』を中心にしてまとめました。その論文で主に石井裕二教授に指導を受けましたが、石井教授がアメリカに留学された時に、ハーヴィ・ギャラガー・コックスという「世俗化」について研究した神学者に学んだそうですが、その方もボンヘッファーの神学に大いに影響を受けた神学者だそうです。
このように神学生時代から、私は、どういうわけかボンヘッファーと関わりがあるわけですが、今まで私が訪れた教会(組合教会の流れにある日本基督教団の教会?)では説教においてよくボンヘッファーが引用されたと思います。もしかすると、暗黙の了解となっているのかもしれません。
ボンヘッファーは神学者ですが、牧師でもあり、特にクリスチャンの信仰生活についても多くのことを語った人です。ボンヘッファーは私にとっては様々な意味で出会うことの多いキリスト者なのです。
2007年5月29日(火)
先日、5月27日(日)は、キリスト教会の暦では「聖霊降臨日(ペンテコステ)」でした。新約聖書の使徒言行録2章にもありますように、イエス・キリストが死んで復活した後、天に昇られ、地上に残された弟子たちが集まって祈っていると、天から聖霊が降り、それが一人一人に与えられ、キリスト教会が誕生したと伝統的に言われてきました。ですから、この日はキリスト教会の誕生日でもあります。
この日、私は日本キリスト教団奥羽教区五所川原教会へ転会し、正式に教会員となりました。また既に、この教会がある地区、教区の総会や教師会、集会等に参加することを許され、学びの時を持っています。
ちょうど、同じ日に、同じ地区の教会で、青森県保険医協会が主催で「六ヶ所村ラプソディー(鎌仲ひとみ監督 2006年上映)」という映画を見る機会がありました。この映画は国が日本各地にある原子力発電所で使った使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す再処理工場を青森県の下北半島に作ったのですが、その問題を扱った映画で、地元の人々の声(賛成派と反対派)を集め、イギリスにある再処理工場で事故が起こったことについても触れていました。
この映画を見て思ったことは、再処理工場で2007年11月からの本格稼動に向けての試験が既に行なわれているわけですが、その工場から人間を含んだ生物全般に深刻な影響を与える放射能が大量に排出されている事実にどう向き合えばよいのかということでした。放射能を吸収した生物を、さらに人間が摂取することにより放射能が人間の体内に蓄積され、それが「がん」を始めとする治療困難な病気を発症させます。この放射能は、気流や海流にのって、青森県だけでなく、いずれは他の都道府県、全国、そして、海外にも広がり、汚染していくものです。そこには「人間」を含んだ「自然」に対する考え方が欠落しているのではないかと思わされました(ちなみにキリスト教では自然界にあるものは神が創ったという信仰になっている)。教会が誕生した、この日に「キリストの体」である教会に連なる者としてできることを考えさせられました。
2007年6月27日(水)
一昨日から昨日まで、会衆派教会(組合教会)に連なる牧師(日本キリスト教団では「教師」と言います)たちの研修会(同信伝道会)の東日本での集まりがあったので、それに参加してきました。会場は、会衆派教会とまことに関係の深い安中教会も近くにある、とある宿泊施設で講師として同志社大学神学部から先生をお迎えしてお話しを聞き、また全国同信伝道会から来られた先生に現状の報告をしていただきました。
講師の先生は、教会の抱える、特に牧師が抱え込みやすい様々な問題についてお話をされ、中には牧師と信徒が共に考え取り組んでいかなければならない問題についても触れてお話をされました。最も興味深かったのは、教会の牧師は、信徒の方々、特に、心を病んだ人、思い悩みのある人、高齢者に対しては大変気を使い、適切な配慮を行なおうとする。また、附帯事業に対しても大変力を入れる。それにもかかわらず、自らの身体に対しては、あまり気を使わない(それだけ大変な仕事)のだそうです。
また全国同信伝道会から来られた先生は、同信伝道会の現状について、特に「会衆派教会」と日本キリスト教団との関係性、その将来を考える「会衆主義教会研究会」の発足についてお話をされました。それとの関わりで様々な話し合いもなされ、会衆主義の特色である各個教会の「自治」「主体性」及び「権威的に教え込まれることに対する拒絶」を表わしながらも、会衆主義の伝統以外の教会とも共に生きることも考えなければならないと思いました。また、この研修会は信徒の方も参加する会ですので、信徒が参加しやすいような会にしていただきたいとの要望もありました。久し振りに会う方だけでなく、初めて会う方もあり、感謝に満ちた有意義な会でした。
2007年7月26日(木)
先週、「論文「教会とこの世 ‐特にボンヘッファーの神学との関連で見えてきたもの」」という拙い論文を『キリスト教神学のページ(T)』に載せました。これは私が今年の春まで出席し、協力牧師をしていた日本基督教団安中教会での聖書研究・祈祷会で話したこととボンヘッファーについて考えたものをまとめたものです。現在、新潟県中越沖地震での被災者支援ボランティア活動が活発になされ、また柏崎原発に関連する様々な問題、参議院選挙など、教会との関連で考えさせられること、また行動すべきことは様々にあります。皆様はこれらに関して、いかがお考えでしょうか。
また、私は今年の8月にミクロネシアのポナペに最後の「公式訪問」に行ってきますが、既に今までに2回ほどミクロネシアのポナペ・ワークキャンプに行ってきました。これは、かつてアメリカン・ボードが宣教を行なった太平洋のある島で日本人宣教師をされた方の関係で出来たものですが、私が行った時はキリスト教主義学校の建物の建設を手伝うという内容でした。今回の訪問で懐かしい、また新しい人々との出会いがあると思います。すべて神の御心のままになされることを祈ります(新興宗教団体、イスラム原理主義、右翼、左翼過激派、自衛隊や米軍とは一切関係ありません。あしからず。)。
ところで、私は日本キリスト教団の教会の「牧師」の資格を持っていますが、「牧師」は、ある先生によると「職業」ではないそうです。そもそもキリスト教のプロテスタントの教会は牧師と信徒によって成り立つものですが、特に会衆派の場合、牧師は信徒の代表者です。神からの召命観(神の招き)によって、神学を学び、教団の試験を受けて牧師の資格を得るものですが、基本的にはそれまでの教会生活が重要なものとなります。
牧師は主に礼拝という儀式を司る者ですが、それだけが牧師の務めではありません。牧師の主な務めは教会をまとめること、牧会を行なうことです。そこにおいては、神がすべての人を平等に見るということから、牧師自身に偏った価値観や人間関係がないようにします。牧会の方法や形式は様々ですが、基本的には相手の「魂への配慮」が基盤となります。たとえば自分の属する教会のすべての信徒の方々の意見を聞きます。そこには、期待や希望、願い、悩み、苦しみなど様々なものがあります。牧師はそれをまとめたり、様々に対応したりする者です。牧師自らの土台も聖書の語る神への信仰にあり、牧師には神と人との間を執りなす祭司としての役割もあります。
教会の持つそれぞれの伝統を大切にしつつ、変えてはいけないものを守りながら、現代に対応していくことが望まれているようです。
2007年8月15日(水)
今日、8月15日は本当に暑い一日で埼玉県熊谷では40度を超えたそうですが、私は学生時代に、8月15日は日本の「終戦記念日」ではなく「敗戦記念日」だと神学校と教会で教わりました。しかし、なぜ「敗戦記念日」と呼ぶのでしょうか、それは日本が始めた戦争に日本が負けることによって戦争が終わったからです。日本が戦争を起こしたからこそ、戦争が始まり、その戦争に負けたからこそ、終わったということがあります。
もちろん、広島・長崎に原子爆弾を落としたアメリカからは正式な意味での謝罪の言葉が必要ですが、従軍慰安婦にさせられた方々や朝鮮から強制連行された方々に対して日本の国家が正式な形で謝罪と補償を行わなければならないことをこれからも進めていくこと、「自由主義史観」に基づく歴史教科書導入に反対しなければならないことなど、62年たった現在でも取り組まなければならない数多くの問題が残されています。引き続き、日本国憲法9条改悪や沖縄県辺野古に米軍基地を建設することに反対することも重要でしょう(だからと言ってグアムの米軍基地を補強すれば良いということでもないでしょう)。旧約聖書のミカ書4章3節では「彼らは剣を打ち直し鋤とし槍を打ち直して鎌とする」と語られ、新約聖書のローマの信徒への手紙12章18節では「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と語られています。
ところで、以前、『キリスト教神学のページ(T)』にディートリッヒ・ボンヘッファーについての拙い論文を載せましたが、今日付けで、新たにそれを付加・訂正したものを載せました。以前、参考資料として必要なエーバハルト・ベートゲ氏の『ボンヘッファー伝』全4巻が入手できず困っていたのですが、この度、ようやく入手することができました。ボンヘッファー関連の書物を読んでいて思ったことは、「あなたがボンヘッファーと同じ状況に立たされたらどうしますか?」と問われているような気がしたということです。皆様はボンヘッファーをどう読まれますか。
2007年9月1日(土)
今日、9月1日は、関東大震災が起こった日です。新潟県中越地震の復興活動が、行なわれている矢先に起こった新潟県中越沖地震ですが、それも災害救援活動が終わった後の復興活動がなかなか難しいものだと言われています。多くの方々の支援が必要です。
同時に、この日は多くの在日朝鮮人が虐殺された日でもあります。1923年の関東大震災はマグニチュード7.9の激震で死者・行方不明の合計はおよそ15万人と言われ、多くの教会やキリスト教主義学校も倒壊焼失し、救援活動も行なわれましたが、「朝鮮人が放火・投毒・来襲する」という流言によって数千人にのぼる朝鮮人が虐殺され、200人以上の中国人と数十人の日本人も殺されました。翌年、賀川豊彦、小崎弘道らが発起人となって「朝鮮人及び中国人虐殺懺悔祈祷会」が開催されました。私たちはこのことを忘れてはならないでしょう。
ところで、8月16日から27日まで、私はミクロネシア、ポナペへの最後の「公式訪問」である「交流の旅」に総勢30数名で行ってきました。しかし、そもそも今回の旅は、「ワークキャンプ」ではなく、ポナペ・ワークキャンプにおいて重要な役割を果たしてきた故白神章道先生(前日本キリスト教団水戸教会牧師)の「納骨式(骨をポナぺの地に納める式)」を行なうこと、今年はポナペ・ワークキャンプに尽力された荒川義治先生(牧師)と荒川和子さんが1977年にワークキャンプを始めて30周年であること、オア・クリスチャン・ハイスクール創立20周年、ポナペの諸教会への最後の公式訪問であること、井殿園先生(元日本キリスト教団安中教会牧師)の誕生パーティーを祝うこと等が目的でした。
8月16日(木)成田を出発し、ポナペには17日(金)午後に到着しましたが、日本と違い赤道の近くということもあって目が潰れるのではないかと思うほど、灼熱の太陽の光が眩しかったことを覚えています。この太陽光には気をつけないと火傷に近いほど酷い日焼けにもなってしまうほどのものでした。
18日(土)にオア・クリスチャン・ハイスクールで行なわれた故白神先生の「納骨式」は井殿先生の司式でなされましたが、「いつも思い起こしなさい」という題で、かつて白神先生が「骨のある人間」としてポナペに「身を投じたこと」から、その信仰、神に従うことの重要性についてもお語りになりました。ポナペの方々がこの式に多く参加されたことで白神先生がポナペの人々にどのように思われていたかがよく解りました。
日曜日にはワークキャンプの方々と交流を保ってきたポナペのプロテスタント教会の主日礼拝に出席し共に礼拝の時を守りました。礼拝ではポナペ支援会をなさっておられた三浦修先生(日本キリスト教団和光教会牧師)によって今までのワークキャンプと教会との歴史的経過、つながりについて説明がなされ、ポナペ語と日本語とでお祈りがなされました。また礼拝の中で今回の旅行参加者による讃美歌がポナペ語と日本語とで歌われることによって、共に神に対する讃美を行いました。
荒川先生からは、様々な場所で何回かにわたり、今までのワークキャンプ、ポナペの教会についてお話をしていただき、その理解を深めることができました。
しかし、今回のポナペへの旅では、ポナペの方々の厚いもてなしによって故白神先生と荒川先生を始めとして、それだけでなく、かつて「ワークキャンプ」に参加された方もどれほど尽力されたのかということと、ポナペの人々の人をもてなす心や情の厚さというものがよくわかりました(言うまでもない話ですが、すべての歓迎の食事会においてアルコールは一切出されませんでした。その食事会はポナペの教会の人々と参加された方々とを結びつける神に感謝してなされたものでした)。
ポナペの人々の人柄の良さ、これを日本に持って帰ることができれば、何よりのおみやげなのかもしれません。日本の国が、子供たちが防犯ブザーを持つ必要のない国になれば、どんなに素晴らしいでしょうか。
今回の旅に参加された方々の中には「ワークキャンプ」ではないから参加出来たという人もいましたし、またポナペの人々に失礼のないように接したわけでありますが、これでポナペとの関係を終わらせてしまうわけにはいかないのではないかというのが私の意見です。26日(日)の送別会でポナペの教会の牧師が、白神先生の納骨を行ったお墓はポナペの教会が管理・維持する、皆さんがまたポナペに来られることを心待ちにしている、と挨拶されました。
そもそも、ポナぺ・ワークキャンプを始めた荒川先生はポナペの人々に農業指導などを行うことも含めて日本キリスト教団の海外宣教師として赴かれたわけでありますが、ポナペに建物を建てる、あるいは借りて、年単位でそこに居住し、ポナペの人々の様々な面でのお手伝い、あるいは、共に働く(たとえば、環境問題、ゴミ処理、交通問題、漁業、農作業、医療)というセンター的な施設を作るのはどうかということも宣教との関わりで考えました。従事する人にはそれなりの条件が必要でしょう。
今回の旅を、神に感謝し、ポナペの教会の方々、交流の旅を企画した荒川先生を始めとする方々、同行されたメンバーの方々に厚くお礼申し上げます。
2007年9月27日(木)
先日、とある研修会にて、二人の講師の先生からお話を聞きましたが、一人は国際キリスト教大学で教えておられる先生で、「信仰の自由と憲法」についてのお話を聞くことができました。先生のお話によれば、「人権」思想の近代的な出発点は、18世紀末のアメリカ合衆国憲法「権利章典」やヴァージニア「信教自由法」にあるのですが、それは、そもそもはイギリスの宗教改革期の「ピューリタン(清教徒)」たちの思想である「良心の自由」、「言論・出版・集会・結社の自由」から来ているのだそうです。ここで言う「言論・出版・集会・結社の自由」は、それぞれ、英国国教会に対して宗教上の意見を言うこと、宗教的パンフレット、宗教的集会・礼拝、教会を造ることに起源を持ちます。よく言われる「寛容」と「信教の自由」とは異なるもので、「寛容」は、王様のような力ある者が上から行なう、多数者が少数者に対して行うもの、一時的である場合(たとえば、プロテスタント教会を一時的に認めた「ナントの勅令」)が多いのに対して、「信教の自由」というのは、人間の権利、王様によってでさえも、変えることの出来ない不可侵としての自由なのだそうです。「信教の自由」についても記されている「日本国憲法」は日本人によって関心を持たれ、60年間守られてきた権威のあるものだということもお話されました。
日本において、しばしば「信教の自由」、地鎮祭や靖国神社に関わる裁判で言われる「神道は日本の習俗・習慣であって、宗教ではない」ゆえに違法ではないという判決も、パウル・ティリッヒが「文化の土台は宗教である」と言うように、習俗・習慣と結びつかない宗教はありえないということがあります。また「信教の自由」には「何も信じない自由」や無神論者にも「人権」があるということも含まれています
もう一人の先生は、日本キリスト教団で性差別問題に取り組んでおられた方です。その方は在日韓国・朝鮮人の両親のもとに生まれ、韓国人としての本名をあえて名乗っている先生でもありますが、「セクシュアリティーとわたしたち」という題でお話をされました。その中で、まず先生は子供と関わってきた経験から、幼い子供は、国籍や民族の壁を越えて大人のような偏見を持たないで接しますが、徐々に大人の考え方によって様々なこと(差別も含んで)に気付くことをお話されました。そして、特に、人間の無意識の中に他者を判断する基準があることについて、それは人に対して、しばしば不適切な判断を行う(民族・性別・年齢)という分類によって、たとえば、「女性というものは、こういうもので、この人も女性なのだから、こう考えているに違いない、そうに決まっている」というように自らの頭の中でイメージし(これをステレオタイプという)、見下して、否定的に見、不適切な発言・行動に出ることが人間にはあるということです。それは、「まさかこのような職業の人が」という場合にもあるということで、皆さんはどう考えて生きるのか ということをお話されました。
また一方で、旧約聖書ダニエル書9章4‐9節に基づいて戦争の「罪責」と「赦し」の信仰を考えること、「世界でも有数の漁場が壊滅し」「21世紀最大の海洋汚染」になる恐れがあると学者が指摘する「六ヶ所村再処理工場施設」の問題についての報告、教会における「性差別」について考える為の寸劇発表、「お金によって救われる」「脅迫によって入会を強制し、脱会を認めない」統一教会問題についての報告等があり、このようなことを含めて話し合いがなされました。いずれも重要な内容で、良き学びの時となりました。
2007年10月19日(金)
先日、『キリスト教神学のページ(T)』に「キリスト教の礼拝」についての拙い論文を載せました。準備期間がおよそ2ヶ月半程度であったので、充分、納得の行く形での内容にはなりませんでしたが、しかし、単に「礼拝」についての基本的な紹介に終わるのではなく、部分的にではありますが、特に「新約聖書における聖餐」について詳しく調べることが出来たのは今回の収穫であったように思います。しかし、なぜ、そのような内容になったのかと言うと、「聖餐」が現代においても重要な問題の一つであるからということもありますが、以前、東北学院大学文学部キリスト教学科で宗教哲学を教えておられた川端純四郎先生が、『福音と世界 2000年10月号(新教出版社)』に収められている「問いとしてのブルトマン シリーズ20世紀神学の総決算8」の中で、ブルトマン(聖書学者)は教義学との対論を求め続けたと書いておられて、そのことが念頭にあったからということもあります。
川端先生はドイツで実際にブルトマンのもとで学んだ先生で、私が同学科に通っていた時に、「外国書購読(T)ドイツ語」(「神学を学ぶためのドイツ語の授業」)で教わった先生でした。同時に、先生は、その頃、私が出席していた日本キリスト教団仙台北教会でオルガニストもなさっていました。しかし、その頃、先生本人は教会学校〈これは言い換えれば、子供の教会あるいは子供の礼拝?〉の校長が自らの本職だということをおっしゃっていましたし、社会問題にも熱心に取り組んでいる方です。そして、その教会の主任牧師であったのが、現在は日本キリスト教団安中教会で牧師をなさっておられる五味一牧師でした。
今回の論文は「礼拝」についてのものですが、最初に、学問的な意味で礼拝に関心を持ったのは、同じ学科の「キリスト教史(T)」という歴史神学の授業の時であったのではないかと思います。この授業は神学者アウグスティヌスの研究をなさっていた茂泉昭男先生の授業でした。その頃から、まだまだ未熟者であるにもかかわらず、自分の中で「礼拝」や「聖餐」への関心が芽生え始めていたようです。先生方の影響があったことは言うまでもありません。今では私が在学していた頃のほとんどの先生が定年で退官なさっています。月日の早さを感じさせます。
ところで、来る10月22日は、私が日本キリスト教団緑野教会で「洗礼」を受けてキリスト者になった日です(1989年10月22日)。私は幼い頃、既に同教団の松山教会で「幼児洗礼」を受けていましたので、通常の「洗礼」とは違い、「信仰告白」を行なうことで「洗礼」として認められたわけですが、同教団の教会では、たいていの場合、洗礼の方法としては「滴礼」が行われます。「信仰告白」を行なった後に、牧師が洗礼を受ける方の頭に水を数滴垂らすというものです(教会によっては体全体を水に浸す「浸礼」という方法もあります)。
キリスト者にとって信仰からの卒業はありませんが、しかし、キリスト者にも様々な方がいます。佐藤優という元外務省事務官だった方がいますが、先日、出版された『福音と世界 2007年11月号(新教出版社)』に「グローバリゼーションとキリスト教」と題して「イエス・キリストを信じて、従うことが大切である」という内容でキリスト者として文をお書きになっています。以前、マスメディアが報道していたイメージとはかなり異なる気がします。ちなみにこの方も同志社大学神学部・同大学院神学研究科で学んだのだそうです。
11月には、青森県の六ヶ所村にある日本原熱の再処理工場と三沢米軍基地の見学に行ってきます。そこでも収穫(学ぶこと)ができればと思います。
2007年11月3日(土)
今日は「文化の日」ですが、人間が作り出した「文化」には素晴らしいものが数多くあります。もちろん、人間の作り出したものがすべて、良いものであるとは限らないようですが、しかし、だからと言って、私たちは、文化そのものをつまらないものとして排除し、文化否定者になる必要は、もちろんありません。
私は、昨日と今日とで、青森県三沢にある米軍基地と六ヶ所村にある日本原熱の再処理工場に行ってきました。三沢米軍基地は国内の航空と自衛隊と米軍とで滑走路を共有していて、事故がこれからも起こる可能性と戦争に協力させられているのではないかという錯覚を感じさせられ、このような基地が果たして日本に必要なのかと大いに考えさせられました。再処理工場の方は、様々な観点から見て危険度が高いということを素人でもわかるぐらいのレベルで感じさせられ驚いています。予想外のレベルの地震をはじめとする自然災害、あるいは、人為的なトラブルや、経年劣化などによる破損、漏れ、稼動後の排気・排水による汚染、放射性廃棄物が貯蔵量を超えた場合の対応など、あげればキリがありません。それこそ、戦闘機が爆弾を積んだまま、再処理工場に墜落したら、どうなるのでしょうか。日本だけでなく、世界の将来を見据えながら、考えさせられた一日でした。何よりも周りの地域の自然の美しさは、それらとはあまりにも対照的でした。神が創造された尊いものの保持を行なっていきたいと思います。かつての戦争に対する反省と、そこから学んだことを生かしていくこと、電気の節約、電力を別の方法で作り出すこと等が必要なようです。
2007年11月29日(木)
先日の11月25日は日本キリスト教団の教会の暦では『収穫感謝日』とされています。この『収穫感謝日』の起源は、旧約聖書にありますが、特に日本キリスト教団の場合は、その教派的起源であるイギリスで宗教改革を行なったピューリタンたちが「ピルグリム・ファーザース」として1620年にアメリカのプリマスにやって来た時に祝った「収穫祭」を想い起こすようにしています。ピューリタンたちは、その時、アメリカに既に先住民として生活していた“Native American”の人たち、昔、日本で「インディアン」と呼ばれていた人たちに伝道活動を始めたわけですが、同時に、彼らを迫害、搾取し始めました。しかし、極寒の時期に食べ物が不作で困り果てていたピューリタンの人たちを助けたのは、先住民の人たちでした。それ以来、ピューリタンたちは、「収穫祭」の時期になると、先住民の人たちと一緒に教会で「収穫感謝日」の礼拝を守るようになったと言われています。
私が所属する五所川原教会でも、日曜日には、礼拝堂内の前の方に、農家を営んでおられる信徒の方々が持ってきた津軽名産の「りんご」や「かき」などの収穫物を並べて神に収穫を感謝する礼拝の時を持つことができました。ちなみに、ここ津軽の地は11月下旬に雪が降りましたが、横風に雪が舞うような降り方をします。
また、昨日、私は『キリスト教神学のページ(T)』に「『ヘブライズム的キリスト教』と『ヘレニズム的キリスト教』について」という拙い論文を載せました。この論文は以前、私が所属していた日本キリスト教団安中教会の聖書研究・祈祷会で述べさせていただいたものを加筆・訂正したものですが、これは神学の部門で言うと、新約聖書学に該当するものです。しかし、その内容は他の神学の部門と関連するものでもあります。この論文を執筆していて感じたことは、前回の「礼拝学」についての論文の時もそうだったのですが、それまでは、聖書学の新しい研究成果が既存の教会の信仰内容に対して疑問を生じさせるということがある時に、しばしば教義学と聖書学との対話ということが言われてきたわけですが、私はそれだけではなく、むしろ教会の牧師や信徒の方々と聖書学者との対話が望ましいのではないかということです。難しい問題であるのかもしれませんが、重要なことでしょう。
ところで、去る11月14日に同志社大学神学部助教授の西村篤先生(実践神学)が天に召されました。大学や教会の方々だけでなく、それ以外にも、様々な多くの方々から期待されていた先生であったと聞いています。そのこととそのあまりにも早すぎる死を思いつつ、先生の天国での祝福と、地上に残されたご遺族の方々に神からの深い憐れみと慰めが豊かにあることを祈ります。
2007年12月26日(水)
先日、私は『キリスト教神学のページ(T)』に「資料「聖書研究:新約聖書ルカによる福音書2章1‐7節」」を載せました。これは私が数年前に伝道師・副牧師をしていた日本基督教団今治教会の若い方を対象にした集まりで、ちょうどクリスマスの頃にお話をさせていただいた時のものです。短い内容のものですが、これは単に聖書箇所について研究したものとは異なり、また主日礼拝での説教とも異なるものです。教会で行われる聖書研究・祈祷会を始めとする集会では、しばしば信仰と関わりのある「奨励・講話・お話」等がなされる時もあります。神学の部門で言うと、それらは聖書神学と実践神学に該当します。
ところで、私が現在属している五所川原教会でのクリスマスの諸行事は12月24日のクリスマスイヴ・キャンドルサービス(燭火)礼拝をもって無事に全て終わりました。今年は「洗礼」をお受けになる方がいて、主日礼拝である23日のクリスマス礼拝の中で信仰告白をなさって、洗礼(滴礼)をお受けになり、正式な教会員になられました。礼拝後、洗礼をお受けになられた方に花束が贈呈され、皆でお祝いしました。
同時に、日本基督教団の教会暦で、その1年はクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)の第1主日である日曜日(11月下旬から12月上旬頃)から始まります。また「クリスマス」の期間それ自体は1月6日の「公現日」まで続きます。1月6日は異邦人への救い主イエス・キリストの顕現日で、この日は、マタイによる福音書2章に登場する東方の3人の博士たち(占星術の学者たちとも言われている)が星に導かれて馬小屋に生まれたイエス・キリストを礼拝しに来たこと、ユダヤ人だけでなく、異邦人(外国人)にも神の子イエス・キリストが現われたことを意味する日です。私たちには馴染みのないものですが、ヨーロッパやアメリカでは、その頃までクリスマスの飾り付けがなされていたりします。
今年は、「偽装問題」「安倍首相辞任」など様々に良くない出来事が多い年でしたが、来年も本当に大切なことを求めつつ、感謝しつつ祈る者でありたいと思います。
2008年1月29日(火)
パウル・ティリッヒはカール・バルトと並んで20世紀を代表する有名なプロテスタント神学者で、二人ともしばしば「新正統主義」という同じ立場に立つものとして見られがちですが、実際は神学的立場がかなり異なります。バルトは自らを「新正統主義」という言葉で表現することに対して適切でないとし、ティリッヒもバルトを「新正統主義者」と呼ぶことに対して正しくないとしています。またバルトは「教会的神学者」、ティリッヒは「哲学的神学者」とも言われています。確かに、二人の書いた神学書を読み比べると、バルトには「教会」という言葉が数多く登場しますし、ティリッヒには「哲学」を含む他の諸学問の言葉が多く登場します。実際、バルトはティリッヒをキリスト教神学ではなく、哲学的試みの領域にとどまっていると指摘し、ティリッヒはバルトをルターと共に聖書と伝統との範囲内に永遠の使信を再発見し、歪められた伝統と聖書の機械的な濫用とに反対した人物であるとしています(ジョン・D・ゴッドシー編、古屋安雄訳『バルトとの対話』、新教出版社、1965年〈初版〉、64、211頁。パウル・ティリッヒ著、谷口美智雄訳『組織神学 第1巻』、新教出版社、1990年〈第1版〉、5頁)。
しかしながら、興味深いことは、ティリッヒがバルトを深い哲学的素養の持ち主であるとする一方で、自らを神学者であるとし、神学者ラインホールド・ニーバーがその人間論を批判しながらも、ティリッヒを聖書的・伝統的キリスト教的であるとしているということです。二人とも自らを超越し、自らを変革する神の自由に基づくあり方を願ったという点では同じですし、激動の時代を生き抜いたという点でも共通しています(大島末男著「バルトにおける神学と哲学」『日本のキリスト教とバルト 新教コイノーニア3』、新教出版社、1986年。同著『カール=バルト』、清水書院、1990年〈第4刷〉、66頁。深井智明著「ティリッヒは実存主義的な神学者なのか? ティリッヒの思想の根本構造としての『本質と実存』の両義性」『パウル・ティリッヒ研究2』、聖学院大学出版会、2000年。249、265、269頁)。その生涯と神学全体を見る必要があるということでしょうか。
ティリッヒはバルトと比べ使用している単語や神学的方法論が異なります。しかし、バルトが使うようなキリスト教的な言葉をあまり使っていないからと言って、ティリッヒが信仰や教会について語っていないのではありません。聖書は神と人間の関係を語る時、人間存在の深みについても語っていますし、ティリッヒはそのことも力説しています。二人とも40年前に天に召されたにもかかわらず、今でも研究され続けている神学者です(ちなみに今年はカール・バルト没後40周年です)。
ところで、この1‐2月の季節、五所川原の地は、大雪になるので、私は朝夕に雪かきをしています。数年前、「新潟県中越地震雪堀ボランティア」に参加した時は5‐6メートルにも積もった雪を掘って、地震で下敷きになった家屋を発掘したりしたわけですが、ここでは雪はどれほど積もっても1メートル前後です。雪が舞うほど風が強い時は最高で風速14(m/s)にもなり、傘もさせなくなります。さっそく春の訪れを感じさせるものを見かけたりもしています。今、「灰の水曜日」(教会の暦ではイエス・キリストの受難と復活を覚え、受難節〈レント〉に入るにあたり、その準備に際して悔改める日とされている)を前にして大自然の素晴らしさと驚異の中で人間の存在について考え、自らが神によって生かれていることを実感しています。
2008年2月12日(火)
昨日2月11日は「信教の自由を守る日」ということで、一見すると関係のないように思える「六ヶ所村の核燃問題」について憲法で保障されている「基本的人権」との関連で長年、現地の人々と共にこの問題に取り組んでおられる日本基督教団のとある牧師の講演を聞くためにある市民集会に参加しました。
それは人間の命を守る「生存権」、「人権」という観点がキリスト教信仰とは切り離すことのできないものであり、「神の正義・平和に反すること(アメリカの正義ではなく弱者・苦しめられている者の正義)」に対して神の代言者として語ることのゆえに取り組むというお話しでした。既にイギリスやフランスの核廃棄物再処理工場周辺で小児白血病が多発していることや六ヶ所村の核廃棄物再処理工場が温暖化防止にならないこと、計算では再処理工場から放出される放射能の量が、通常の原子力発電所の放出する放射能の一日分と思われていたのは、実はその一年分であることがわかったこと、核燃施設は国家が第一次産業を切り捨て、地域社会を破壊すること、そもそも再処理工場は原爆、核ミサイルのために作られたものであるゆえ、軍事転用とも言われること、その再処理工場について民主主義的にではなく勝手に決めていること等、参加者の方々からの質疑応答等も含めて熱っぽく語っていただきました。
その前日には、私が住む五所川原市とその周辺地域の人々によって構成される「(日本国憲法)9条の会」の月例会に参加し、これも日本基督教団の別の牧師による信仰者の立場からの憲法9条や靖国問題についての話と質疑応答の時間を持ちました。その中では「憲法9条」をあたかも変えてもかまわないかのような風潮が世の中では出始めているので、なぜ「憲法9条」を変えてはいけないかをはっきりと表明する必要があること等が語られました。
両方とも、信仰との関連で考えさせられる話でした。日本においてキリスト者は少数者ですが、一体そのキリスト者であればこそできることは何か、キリスト者でない人とでも一緒にできることは何かということや目に見えない国家に対してどのようにキリスト者として対峙すればよいのか等を考えさせられました。
教会では日本基督教団の暦で2月6日(水)より「受難節」に入りました。この節はイエス・キリストが荒野で悪魔の誘惑を受けた40日にちなんだものでもあり、イエス・キリストが復活したとされる3月23日の「イースター」の前日まで続きます。
2008年3月17日(月)
3月も中旬になると、五所川原は多く降り積もった雪もかなり解けて、雪の下から冬の間、耐え忍んでいた緑の草が所々顔をのぞかせ、春を感じさせていますが、朝晩はまだまだ寒い日が続いています。
今年の3月16日(日)から22日(土)までの期間は教会の暦で「受難週」となっています。「受難週」はイエス・キリストが十字架にお架かりになったことを中心として、平和をもたらす救い主であるイエス・キリストを、神の民が神を礼拝する町に迎える「エルサレム入城」、イエス・キリストが弟子の足をお洗いになったこと、イエス・キリストが「最後の晩餐」を行ったこと、イエス・キリストが死んで墓に葬られたこと等を覚える週で、3月23日(日)イースター(復活日)の前日まで続きます。イースターはイエス・キリストが復活したことを祝う時です。これはキリスト教会の行事の中で最も重要なものの一つです。弟子たちは復活したイエス・キリストに出会うことによってその生き方を決断していくことになりました。
ところで、昨日、教会の地区(青森県津軽地方)の集まりで、「子供と教会」について考える会が行われ、出席いたしました。現代の日本では少子化・高齢化ということが言われていますが、教会では、たいていの場合、大人の礼拝とは別に、子供の礼拝、子供の教会、教会学校というものがあります。一方、大人と子供が一緒に同じ礼拝に出席している教会もあります。
その会で話し合われたこととして、子供が礼拝での役割(例えば、司会)を担っている、あるいは、子供に教えられ、支えられている、その一方で、子供の礼拝のスタッフをどのように決めて、どのように育成するのか、大人との合同礼拝の困難さ等がありました。イエス・キリストが子供たちを祝福されたこと、信徒が教会に来る子供たちの面倒を見ること、その教会の状況と理解、地域との関係で伝道とは何なのか、等も考えさせられました。全ての人が神の祝福の中にあることを覚えていきたいと思います。