雑記帳(V)                       

 

川上純平         2008・4・24〜

 

 

 

2008年4月24日(木)

 

私が同志社大学神学部の学生時代に受けていた授業に組織神学の講義で『シュライエルマッハーとその時代』という現在は同志社大学神学部教授の水谷 誠先生が担当しておられた授業がありました。シュライエルマッハーは後の現代神学にも多大な影響を与えた19世紀ドイツの神学者であり、哲学者、教育学者でもありました。シュライエルマッハーを理解するためには、彼が生きた時代状況やその時代の思想を理解することが必要なようです。キリスト教を理解することと頭を使うということは関連があるということを考えさせられました。

 しばしば「キリスト教を理解する」ということに関して、それが「キリスト教を信じる」ということと同じ意味のものであると誤解されることがあります。「キリスト教という宗教を一つの現象として理解する」ということと、「キリスト教を信じる」ということとは異なりますが、キリスト教を本当に理解するためにはキリスト教信仰がなければ理解できません。ですから、たとえば、精神分析学的観点からキリスト教を神経症の一つとして位置づけたとしても、それはキリスト教の本当の理解にはならないのです。

一方で、キリスト教を信じるということは頭を使います。「聖書」を読んだり、「主の祈り」を祈ったり、「信仰告白」を唱えたり、「説教」を聴いたりするということは、キリスト教信仰を持っている人の場合は、その行為の意味もよく分からず、行なっている等ということは、あまりないようです。もちろん人が完全に100%正しくそれらを理解するということはないでしょう。なぜならキリスト教信仰においては神様だけが完全に正しい方とされているからです。しかし、そういった大切な言葉や行為にどれだけ深い意味があるのか、その人なりに理解していたり、解釈していたりするからこそ、そういったことがその人にとって「救い」につながるのではないでしょうか(ある神学者は、それを神の力のゆえであると理解しています)。そこには、その人がそれまで生きてきた中での知識や価値観などが影響を与えている場合もあります。

それでは、一方で頭を使うだけで経験や体験が必要ないのかというと、そうでもありません。先ほど述べたような様々な礼拝的な行為の時に、その人はそれまでの自らの経験や体験を踏まえて「救い」を経験し、体験しているのです。それはキリスト教がそのような宗教だからであることは言うまでもありません。

こういったことにキリスト教神学が深く関わるわけですから、キリスト教信仰を見失ったキリスト教理解は、キリスト教神学にはならないということになります。かつて、神なしに宗教は存在しないとし、人間の宗教的内面を重視したシュライエルマッハーと、神が人に対して言葉によって恵みを語り、イエス・キリストによって人を救うことと、それに対する人間の応答を重視したカール・バルトを始めとするそれ以後の神学者たちが与えた影響は良くも悪くも多大なものがあるのではないかと思います。

ところで、私は以前、日本基督教団関東教区群馬地区にいましたが、そこでの教師研修会で関田寛雄先生(日本基督教団神奈川教区巡回教師、青山学院大学名誉教授)を講師として招いてお話を聞いたことがありますが、その先生が取り組んでこられた、「水野国賠訴訟支援」に関して法務省が人権救済の申し立てに関する措置を行なったというニュースが先日、入ってきました。これは、2002年に東京拘置所に入っていた故水野憲一さんが心の病から自殺をする恐れがあったにもかかわらず、薬を投与されず自殺したことで、拘置所の責任を問い、再発防止のために改善の取り組みを行なうように法務省が指示するようになったというニュースです。この訴訟には、私も含めて多くの方が署名運動、その他で関わってきたと思います。それらの多くの人々に感謝し、また他にも様々な人権問題があるゆえ、それに取り組んでいきたいと思います。

先月の3月31日に同志社大学名誉教授で、日本プロテスタント・キリスト教史がご専門の土肥昭夫先生が81歳で天に召されました。私も学生時代に先生の講義で学ばせていただいたことがありますが、先生の下で学ばれた数多くの方々がご活躍されていることを思い、先生の天国での祝福と、地上に残されたご遺族の方々に神からの深い憐れみと慰めが豊かにあることを祈ります。

五所川原教会は新年度の歩みを始めました。「フキノトウ」は花を咲かせ、「ツクシ」は道路わきののコンクリートの下から芽を出しているものもあります。また、今年は「サクラ」の開花時期が早いようです。昨年同様、神に感謝し、神の守りがあることを祈ります

私は今年から弘前方面にあります日本基督教団藤崎教会でも聖書研究を担当させていただくことになりました。5月は日本国憲法第9条の意義を考える「9条世界会議」に参加してみようと思っています。今年度もよろしくお願いいたします。

 

 

2008年5月18日(日)

 

 先月は私の学生時代の組織神学の授業の話をしましたが、今月は実践神学のある授業と先生の話をしたいと思います。私が神学生だった時に「宗教と人権」という授業がありました。それはゼミではなく講義であるにもかかわらず、学生たちが自分の関心のあるテーマを選び、発表するというもので、私は在日外国人について発表しました。人権問題に関しては未解決の問題があり、重要なものがあります。この講義は、現在は同志社大学名誉教授の深田未来夫(Robert Fukada Mikio)先生がご担当なさっていたもので、先生は実践神学、特に礼拝と説教についての研究がご専門でした。先生はアメリカで生まれ、東京で幼少時代をお過ごしになり、アメリカの大学の神学部で学び、アメリカ・メソジスト教会の宣教師として日本に来られましたが、神学教授として国内はもとより海外でもご活躍なさいました。偶然にも先生ご自身が在日アメリカ人であったこともあって、レジュメ発表後に、先生による大変熱心なスピーチがあったことを今でも覚えています。

 ところで、テレビやニュースが報道していますように、ミャンマーのサイクロン、中国四川省の大地震など自然災害が立て続けに起こっていますが、自然の脅威性(環境破壊が関係しているものがある場合、それは人災でもあります)、被害の甚大さと悲惨さを通して私たちは、人間の限界と、このような状況にあって、国家間というよりも、むしろ人間としてできることをまず先に考えさせられました。これからも救助活動と物心両面での支援が必要とされているようです。

 ゴールデンウィークには千葉幕張で行なわれた「9条世界会議」に参加してきましたが、メイン会場には7000人しか入れないにもかかわらず、10000人分の入場チケットが販売されたため、残りの3000人は入場することができませんでした。後に発表された報告によると、3日間で2万人以上が参加し、海外31カ国・地域から150名以上の人々が参加したということです。これは、それだけ多くの人が憲法9条に関心があったということでもあります。そこでは「戦争を廃絶するための9条世界宣言」も採択されたということですが、それには既に軍隊や自衛隊を持たなくても国家は平和的に存在することができるという例が世界に示されており、日本国憲法第9条は人類の共通財産として他の国々も取り入れることができるものとされています。

 教会はペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。この「聖霊 」という言葉は、もしかすると「精霊」や「幽霊」のようなものという誤解があるのかもしれませんが、もともとは「神の息」や「風」を意味する言葉に起源があります。「聖霊」はキリスト者が生きる原動力であり、聖書が証する神の力のことを言います。それによってキリスト者はイエスを救い主(メシア)であるとする信仰を告白するようになったのです。

 今、私は、昨年同様、プランタ野菜を育てています。庭で、パセリ、葱、青梗菜、ナスを種から栽培し、既に芽が出ています。水遣りや肥料の他に、これから日除け作り等も必要なようです。朝、近くの林からカッコウの鳴き声が聞こえてきます。神の創造に感動し、感謝しています。

 

 

2008年6月7日(土)

 

 昨日、私は『キリスト教神学のページ(T)』に論文「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 (1)イギリスの宗教改革からアメリカン・ボード来日まで」という拙い論文を載せました。これは日本基督教団安中教会創立130周年を記念して執筆したものです。日本キリスト教団は、戦時中に、会衆派、長老派、メソジスト、ホーリネス、その他の教派によって出来た合同教会です。既に合同したのだから、現在では、かつての合同前の旧教派的な伝統やこだわりがなくなっているのかと言えば、そうでもありません。旧教派的な伝統の中に重要なものがあり、それを後の世代まで伝えていくことが大切です。ですから、これは単に郷愁にひたるのではなく、プロテスタントの一教派にすぎない会衆派教会の歴史をたどり、かつ今日、日本キリスト教団における組合教会(会衆派教会)の位置づけについて考えることを目的としています。会衆派教会は近代のイギリスに、またアメリカ建国に際して、そして、近代から現代にいたる日本に多くの影響を与えてきましたゆえに、学ぶべき点も数多くあると思います。次回は、日本人の会衆派の人々による日本での展開について述べたいと思います。

 ところで、私が学んだ同志社大学神学部は、創立者の新島襄がアメリカン・ボードの準宣教師であり、かつ同志社にはアメリカン・ボードの援助があったこともあって、この会衆派教会(組合教会)との結びつきが大変深いものとなっています。それゆえ、同志社で学んだ神学生が卒業して、赴任する教会の多くは組合教会の伝統の中にある教会です。しかしながら、すべてがそうではありません。他の教派の伝統の中にある教会に赴任する場合もありますし、あるいは、神学生も必ずしも、組合教会の伝統の中にある教会に育ったわけではなく、他の教派の伝統の中にある教会で育った人や他の諸宗教者でキリスト教に関心があって学びに来ている人もいます。同志社大学神学部は、昔から自由主義神学を学ぶ所であると言われてきましたが、すべての人が、自由主義神学を学んでいるわけでもありません(そもそも、同志社大学神学部で講ぜられているものを「自由主義神学」という言葉で把握しようとすること自体が不適切であると言う人もいます。もちろん、これは自由主義史観とは何の関係もありません)。しかも、総合大学であるということは、学際的に多くの利点を持っています。就職先が教会だけでなく、キリスト教主義の学校、社会福祉施設、行政や一般企業、あるいは専門的な研究者の道など様々であることも特徴の一つでしょう。その点では、私が同志社に行く前に学んでいた東北学院大学も同じで、ここはアメリカのドイツ改革派教会が土台となって横浜バンドの押川方義によって設立されたキリスト教主義の総合大学です。日本キリスト教団の旧教派で言うと、長老派教会が教理的には近いのですが、この大学の文学部キリスト教学科は日本キリスト教団の旧教派以外の他の教派の伝統で育った人も学んでいます。それゆえ、卒業後の赴任先の教会も日本キリスト教団の教会であるとは限りません。就職先はやはり様々です。 

 先日、五所川原地域の「九条の会」でとある講師の先生からお話をお聞きしました。その中で、先生は憲法九条が改悪され、治安維持法の入っている「自民党新憲法草案」がどれほど危険なものであるかということをお話され、興味深いのが、自衛隊リクルーターの話でした。それは就職先のない、あるいは、経済的困窮の家庭にある高校生に自衛隊入隊への勧誘を行なっていくというものでした。自衛隊が緊急事態という名目で海外の戦場に派遣されないで、たとえば、自然災害被災者支援を中心として活動するようなものになることを望むという話は共感できるものでした。

 また、国会では先頃「政府はアイヌの人々を先住民族として認めること」を求める国会決議を採択したそうです。北海道において先住民族であったにもかかわらず、江戸時代頃から迫害と差別がなされ始め、それが現在にまで至っていたということです。アイヌの人々の尊厳が回復されることを願ってやみません。

 

 

2008年7月31日(金)

 

 昨日、キリスト教神学のページ(T)』に聖書研究「聖書における食事と感謝‐旧約聖書を中心にして‐」を載せました。これは私が以前、日本基督教団安中教会で語ったものです。聖書からキリスト者の信仰生活の基本的な事柄に関するものを扱ってみましたが、その時の信徒の方々の反応は好意的で、何人かの方が話を聞いて自分の思うところを語っていたことを思い出します。しかし、よく考えてみると、自分は「なぜ食事の前に感謝の祈りをするのか」、聖書的な起源として、それまで詳細には知らずに感謝の祈りを行っていたのではないかと思います。他の諸宗教の場合はどうなのでしょう。興味深いテーマです。

 また先日、リンクのページを改訂し、新しくいくつかのウェブサイトをリンクさせていただき、さらにGoogleの検索エンジンにリンクすることにより、インターネットの世界全体とこのサイト内両方での検索をすることができるようにしました。まずウェブサイト全体かこのサイト内かどちらかを選び、空欄に検索する言葉を入力し、「Google検索」のボタンを押せば、その言葉があてはまる検索されたサイトの一覧を見ることができます。

 ところで、最近は若者による理由のない殺人事件が多いようです。日本の現代社会を反映しているのでしょうか。政府の予算の中の防衛費を削って、教育、文化、医療、社会福祉等に力を注ぐことが必要なのでしょうか。また東北地方では地震が2回続けてありました。五所川原ではたいしたことはありませんでしたが、被災された方々が癒され、立ち直れますようお祈りしています。

 教会では、今年、近くの山のキャンプ場で教会学校の夏のキャンプを行いました。子供たちが元気に過ごした感謝に満ちたキャンプでした。ちなみにここの気候は、夏は大変涼しく、夜になると、クーラーはもちろん、扇風機でさえも寒く感じることがあるほど、過しやすいです。しかし、それでも地球温暖化の影響は、あるようです。庭では、紫蘇が見事な葉を付けました。昨年、頂いた紫蘇の葉を植えておいたものが種をつけて、その種が土の上に落ち、それが成長したものです。見事なものです。今年は人参にも挑戦しています。

 私は今年の夏、同じ地区の教会・伝道所で礼拝説教を受け持たせていただきます。久しぶりに「主日礼拝」の「み言葉の奉仕」に関わらせていただきますことを感謝し、喜びを感じています。また8月に同志社神学部出身の方々が集まる神学協議会に出席することになっています。

皆様はどのような夏をお過ごしになるのでしょうか。良い夏をお過ごしください。

 

 

2008年8月27日(水)

 

 先日、キリスト教神学のページ(T)』に日本基督教団補教師試験・聖書釈義「コリントの信徒への手紙U 4章7‐11節」を載せました。「補教師」とは学校の教師ではなく、日本基督教団に属する教会で伝道者として仕える者や日本基督教団と関連するキリスト教主義学校で宗教や聖書を教える者の役割としての職務を行う者のことです。その時の試験を受ける際に提出が義務付けられていた新約聖書釈義です。聖書釈義は説教作成にあたって必要とされているものでもあります。自分は聖書学専攻ではなく、組織神学専攻であったので、あまり自信はありませんでしたが、無事合格しました。自分が聖書学をもう少し研究するなら、本文批評や本文研究が必要なのではないかと思っています。

 8月25日(月)から昨日まで「会衆主義教会の伝統と合同教会の課題」と題して同志社神学部を卒業して、全国の日本基督教団を始めとするキリスト教会やキリスト教主義学校、関連施設等で神と人とに仕えている方々の同窓会的な集まり、「同志社神学協議会2008」が京都であり、教師250名、教会の信徒150名の出席があり、私も参加し、久しぶりに会うことのできた方々も多くいました。

そこでは日本における会衆主義の源流である新島襄について同志社大学神学部教授で新島襄研究の第一人者である本井康博先生による講演がなされ、会衆主義は民主的な自由自治が本質である各個教会主義であること、新島には会衆主義に賭ける思いがあったことが語られました。続いて日本基督教団紅葉坂教会牧師の北村滋郎先生と同教会の信徒の方々から発題がなされ、参加者全員による声明も出されました。それは日本基督教団常議員会が北村滋郎先生に対して「教師退任勧告」及び「戒規申立」を決議したことに対する声明でした。

 会衆主義教会には神学も教会論もあり、聖書主義や実践的な立場に立つことや、また違った考え方を持つ人に対する寛容さを重要なものとしています。またその本質である自由は、歴史的に英国及び英国国教会からの圧迫に対して現実的な教会を形成するために必要な自由でありました。自治は各教会の信徒による自覚的な信仰による共同体であるゆえのものです。これからも日本基督教団の中で会衆主義教会の共通認識として譲れないものを探求していくことが必要なのでしょう。

 ところで、同志社大学のシンボル的存在であり、1893年に建てられ、神学教育に用いられた国重要文化財である「クラーク記念館」が修復されました。私は学生の時にその建物での神学部の授業に出席したことがあり、その時は趣のある建物だと思っていましたが、今では夜にライトアップされて素晴らしい景観を見ることができるものになっているそうです。 

同志社と言えば、本州最北端である青森県の下北半島には風間浦村下風呂という場所があります。そこは函館から脱国してアメリカに渡る前の新島襄が寄港した所であるとされ、今では記念碑が建てられ、同志社との交流が続けられています。私は、まだそこを訪れていませんが、いつか訪れたいと思います。

また今月10日に私は同じ地区のとある伝道所で「主日礼拝」における「み言葉の奉仕」をさせていただきました。その日は「戦争と平和」について考える「平和聖日」でした。感謝しています。教会員の方々にも喜ばれたようです。

ちなみに関西と青森県とでは、10度近く気温が違いますが、庭では肥料のやり過ぎか、ナスの葉が20センチほどの大きさに成長し、15センチほどの実が実りました。また異常気象のためでしょうか、このところ、気温が最高でも23度ほどにしかならない極端に寒い日が続きました。少しずつ秋の気配も感じます。ススキが目立ちはじめました。

 

 

2008年9月25日(木)

 

 今日、映画『靖国 YASUKUNI(監督:李纓〈リ・イン〉 2007年)』を観てきました。靖国神社に奉納する刀を作り続ける90歳の方へのインタビューから始まり、8月15日、靖国神社に参拝する人々と、それに抗議する人々が映し出され、その合間に第二次世界大戦中に靖国神社が戦争に利用されていく様子が映し出されるという内容の映画で、神社についてほとんど説明のない映画でした。中には凄惨なシーンや台湾の宗教や文化を無視して、自分たちの祖先を勝手に祀らないでほしいと主張するために台湾から来日する人々の場面が映し出されているにもかかわらず、最後に夜の空から靖国神社を映している場面は、神社を美化しているかのようでもありました。おそらく客観的な立場で描き、靖国神社についての判断を観るものにまかせた作品にしようとしたのだと思われますが、最も重要な「宗教と国家」の関係について多少なりとも有識者の意見や最小限の説明があってもいいのではないかと思わされました。ちなみに本作品は日本では一部で上映が中止させられた映画でもありますが、アジア各国及びベルリンの国際映画祭に正式に招待されたり、あるいは賞を受賞したりしている作品でもあります。監督が第二次世界大戦の悲惨さとそれを繰り返してはならないという思いを映画に込めていることは言うまでもありません。併せて公立学校教師が入学式や卒業式で「君が代斉唱」の際に信教・思想の自由から不起立を行なったことで休職に追い込まれた問題第二次世界大戦中の沖縄で日本軍の強制による集団自決はなかったとする教科書の問題等に、これからも取り組んでいかなければならないと思いました。

 庭では、人参が大きくなり始めています。秋は実りの季節です。農家ではりんごの収穫が既に始まっています。気温が最高でも20度までしか上がらない時もあります。秋は読書、芸術、スポーツ、食欲の季節でもありますが、教会、地区、教区関連の集会や行事が多い時であり、忙しい時でもありますが、感謝の時です。この時期、皆様も体調にはお気をつけ下さい。

 

 

2008年10月17日(金)

 

 今日、キリスト教神学のページ(T)に「説教(1998年2月)とその批評」及び「説教(2008年8月)とその批評」を載せました。いずれも日本キリスト教団の教会・伝道所における主日(日曜日のことを教会ではこのように言う)礼拝でのものです。今から読んでみれば、内容的に不十分ではないかと思われる部分もあるのですが、礼拝説教というものは、「その時、その場」において「神の言葉」を取り次ぐ、人間の言葉が神の言葉になるというものなので、それはそれでよいとされるものなのです。実際、その礼拝では信徒の方々は説教によっても神の言葉に恵まれたことだと思います。

ところで、私の属する現在の日本基督教団の「聖餐」と「退任勧告」の問題(しばしば、これらのことに関して「混乱」という言葉が使われているが、この言葉を使う人によって「混乱」の意味が異なるようです)に関して、次から次へとキリスト教関係の出版社から書籍が出版されています。キリスト教関係の書籍が多く出版され、広く読まれ、キリスト教が理解され、それが信仰につながることは素晴らしいことだと思います。ただ重要な問題について他の様々な意見を聞いたり、現場の状況を知ったりすること(そういった意味でも議論の必要性はある)なしに処理を行う、あるいは神学的に決着がつかないもの、人間には理解できない領域に関して、人間が独断的に判断することは問題があると思います。神学的に正しいとされる教義があっても、教会がそのとおりのものになるとは限らないということもあります。神の導きをお祈りします。

先日、教区の社会問題セミナーに参加してきました。テーマは「憲法9条」と「カルト(統一協会)の問題」に関するものでした。政治だけでなく、教育、信仰等に対しても国家権力が戦争賛美と戦争正当化の道へ引きずり込もうとしています。また、宗教カルトの問題に取り組んでいる方からお話をお聞きしましたが、宗教カルトがマインドコントロールによって個人の人格や家庭をも崩壊させていくことが問題であるのは今まで知っていたことですが、政治カルト、商業カルト、心理・教育カルトなども、「自ら、あるいは、自分たちの考えだけが絶対で、他は全て間違っている」とし、同じようなことをしていることを学びました。カルト的なものよりも、他の考え方もあるという自由の素晴らしさが大切です。現代に生きる私たちを蝕もうとしている、戦争への道やカルト問題に関しても取り組むことが重要です。セミナーの日程の中でその近くの諸教会、キリスト者が関わっている「母子生活支援施設」(様々な事情で普通の生活をすることができない母親と子供のための施設)を見学させていただきました。現代社会の苦しみ、悩みを共に共有しようとする教会の姿勢は重要です。

リンク」のページに「宗教者九条の和」のウェブサイトをリンクさせていただきました。「憲法9条」が大切なのはキリスト者だけでなく、他の宗教者も同じです。宗教だから悪い、あるいは良いということではないようです。  

また署名運動に参加することによって私も含めて多くの方が関わってきた、原発労働者で沖縄の方の初めての労災認定が厚生労働省によって10月3日になされました。この方は、全国各地の原子力発電所や再処理工場を転々とし、放射能漏れの検査をしていた方で、「悪性リンパ腫」と診断され、亡くなった方ですが、なかなか労災として認められなかったものです。このように原発・核燃は予想外の形での被害をもたらすのです。

 庭では人参が収穫できました。種から育てて数ヶ月かかりました。お味の方はどうでしょうか。五所川原とその周辺地域の農家では雹によるリンゴ、ブドウの被害で80億円の損失が報道されています。信徒の方のリンゴ農家で傷ついたリンゴを見せていただきました。実際のリンゴのお味の方はかなり良いにもかかわらす、このような事態になっています。傷ついたリンゴを特売で販売したり、他の使い道を考えたりしている所もあります。

 教会では付属施設の保育園と合同のバザーを予定しています。保育園と合同でバザーを行なうのは、初めてですが、今回は行なうことに意義があるようです。

 

 

2008年11月25日(火)

 

 昨日、日本キリスト教団奥羽教区の臨時総会に出席しました。それは主に按手礼があることと同教団の総会報告がなされるためです。按手礼というのは、日本キリスト教団の場合は、牧師(正教師)に任ぜられる人の頭に牧師たちが手を置いて祝福する行為で、人の頭の上に手を置いて聖書の働きや祝福を祈り、それを与える行為それ自体の起源は旧約聖書にさかのぼります。この按手礼は礼拝の中で行なわれます。私も按手礼に参加し、自分が按手を受けた時のことを思い出しました。教団総会報告では、同教団常議員会が北村滋郎先生に対して「戒規申立」決議を行なったことに対して、それを無効であると確認されたことが報告の中に含まれていました。それは良かったことだと思います。「合同のとらえ直し」「日本伝道150年記念行事を検討すること」「セクシャル・マイノリティ差別に取り組むこと」等の案件は否決もしくは廃案となりましたが、これらのことは「伝道所の洗礼執行について」伝道所の存在意義を明確にしていく必要があることと合わせて、これからも考え、話し合っていくべきではないかと思わされました。

 先日、『キリスト教神学のページ』「間違えやすい聖書用語・キリスト教用語集」を載せました。「聖書用語・キリスト教用語」が世間一般で流通している言葉とどのように違うのかを一覧表にしてみました。はじめて教会に来た人々が聖書・キリスト教を理解するためには、このような知識も必要なようです。

 先々月、日本では首相が変わりましたが、アメリカでは、今月、大統領選挙の結果、バラク・オバマ氏が勝利し、次期大統領となることが決まりました。アメリカ初の黒人大統領ということで、マルティン・ルーサー・キング牧師の夢が実現したと言っていいと思います。もちろん、人種・民族を始めとする差別問題や米軍をこれからどうしていくのかが期待されています。ブッシュ大統領の時代に比べれば、良くなるのではないかという人もいますが、果たしてどうなのでしょうか。

 また先日、テレビで海の哺乳類であるクジラとジュゴンの番組を放映していました。日本の小笠原諸島で子育てをするクジラはアラスカ地方にいるクジラと歌う歌が似ているのだそうで、それは小笠原諸島に来る前にアラスカで、どちらかのクジラが歌を聞いて覚えたからではないかという報告がなされていました。ジュゴンは、オーストラリアのジュゴンの話です。かなり数が減ってしまいましたが、昔は温暖な海域にはどこにでもいたそうです。ジュゴンは「人魚」と言われた生き物ですが、そのユニークで愛らしい生態が報告されていました。これからも、これらの生き物が滅びないように取り組むことは重要です。

 津軽地方は今月下旬に30cmもの積雪に見舞われました。昨年よりも大雪となりました。しかし、本格的に降るのは、まだこれからです。教会では今月上旬に保育園と合同のバザーを行ないました。多くの方々が教会にも保育園にも来られて、信徒で農業を営んでいらっしゃる方々が農作物を持って来られ、それをクリスマス用品と一緒に販売したり、手作りケーキの喫茶店を行なったり、教会学校の子供たちも手伝って、楽しい一時となりました。

この数ヶ月間、私は同じ地区にある諸教会・伝道所で礼拝説教の奉仕をさせていただいています。その際、何回か聖餐式も執り行わせていただきました。神のために用いられ感謝しています。教会の暦では、来週から、クリスマスに向けてのアドベント(待降節)に入ります。皆さんはどのようなクリスマスをお過ごしになるのでしょうか。

 

 

2008年12月30日(火)

 

今日、キリスト教神学のページ(T)』に私が今年の6月に日本基督教団藤崎教会の聖書研究・祈祷会で行なった「聖書研究」を載せました。今年の4月からマルコによる福音書を信徒の方々とご一緒に読んでいます。最近の聖書学の研究成果をどの程度取り入れていけば良いのかを考えながら読み進めています。

今月の26日に同志社大学名誉教授で、新約聖書学がご専門の橋本滋男先生が73歳で天に召されました。私は先生から新約聖書のギリシア語や新約聖書の本文批評等を学びました。退官した後も「あきらめない」姿勢で学問に取り組むことをおっしゃっていたのが印象的でした。先生の天国での祝福と、地上に残されたご遺族の方々に神からの深い憐れみと慰めが豊かにあることを祈ります。

ところで、今年は神学者カール・バルトの没後40周年となります。バルトは1968年12月9日に召天したそうですが、9日の朝、妻のネリー・バルトがいつものようにモーツアルトのレコードをかけてバルトを起そうすると(バルトはモーツアルトの音楽が好きだったため)、バルトの手が祈る形で胸の上で組まれたまま天に召されていたそうです。今、私はバルト神学にも言及する内容の文章を執筆中です。このウェブサイトに載せるのは来年になるかと思います。また論文「日本の会衆派教会(組合教会)の歴史 その源流と発展 (1)」の2作目も来年の春頃に載せたいと思います。

来年、2004年で終了したミクロネシア・ポナペワークキャンプが復活(再始動)します。以前「ポナペ支援会」会長であった故白神章道先生(元日本基督教団水戸教会牧師)が天に召されたので、新しく三浦 修先生(日本基督教団埼玉和光教会牧師)が会長となり、顧問として「ポナペ支援会」に尽力されてきた岩村信二先生(日本基督教団大森めぐみ教会名誉牧師)を迎え立ち上げました。

私は来年の2月、2週間程これに参加することにします。太平洋の赤道近くにあるポナペは一年中、日本で言えば、夏の気候です。ポナペにあるキリスト教主義の高校男子寮建設の手伝いをしますが、蒸し風呂のような環境で足袋を履いての作業になると思います。日曜日にはポナペの教会(ポナペ合同キリスト教会)の主日礼拝に出席します。

今年、私の属する日本基督教団五所川原教会では12月21日にクリスマス礼拝と祝会を24日にキャンドル・サービス(燭火礼拝)の時を持ちましたが、先日の28日には、同教会で礼拝説教奉仕もさせていただきました。牧師としてみ言葉を取り次ぐことの大切さを感じています。

23日に私は招かれた合唱団の一人として五所川原のカトリック教会のクリスマス・イヴ礼拝に参加することも許されました。聖餐式(聖体拝領)を含めてカトリック教会の礼拝への参加は初めてで、一人一人を祝福するなど興味深いものがありました。またインドネシアやフィリピン、中国、韓国から来ている方々のクリスマス会(25日)にも参加することができました。イスラム教徒や仏教徒の方々もいる中でキリスト教の讃美歌を一緒に歌って賑やかな集まりとなりました。クリスマスはイエスがお生まれになった日ではなく、イエスがお生まれになったことを感謝し、祝う時です。  

今年もあと2日となってしまいましたが、教会の暦ではアドベントから新しい一年が始まりました。今年は、国内の政治の低迷、食に対する不信や自然災害、不況とそこから生じたリストラや就職難、そして、悲惨な事件等がある一方で、平和や人々の人権にとって重要な出来事もありました。来年も神に感謝して、様々な辛さや苦しみの中にある方々のことを覚え、希望を持って生きたいと思います。皆さんは来年にどのような希望を持っていらっしゃるのでしょうか。

 

 

2009年1月27日(火)

 

 2009年も早いもので一か月が過ぎようとしています。1月に世界では「イスラエルのガザ侵攻」と「オバマ大統領の就任式」と二つもの重要な出来事がありました。

 先日まで続いたガザ侵攻は停戦状態となりましたが、多数の死傷者が出ており、また今後どうなるのか、武力によらない平和的解決が求められます。オバマ大統領就任式の模様をテレビで見ましたが、新大統領はリンカーン大統領が使った聖書に手を置いて宣誓をし、就任演説の中で、アメリカという国が様々な民族・宗教・人種によって成り立っている多様性のある国であることと同時に、アメリカが再び主導する役割を持つ国であることを主張しました。関西学院大学教授の栗林輝夫氏が論文「オバマの『国民統合』の神学と政治 ‐黒人神学の第一世代を超えて」(『福音と世界 2009年2月号〈新教出版社〉』所載)でも述べていますが、オバマ氏は、かつて家族で出席していたシカゴ・トリニティ合同教会のジェレマイア・ライト牧師の主張とは異なり、政治政策にも関わるのでしょうが、意外にも人種差別問題に取り組むというようなことを言ってはいません。むしろ、アメリカと世界全体で物事を考えようとしています。そこにはオバマ氏の信仰理解も関わっているのでしょうか。ちなみにバチカン(カトリック教会)は妊娠中絶を容認するオバマ氏に反対しているのだそうです。

12日には私が属する奥羽教区の宣教について考え話し合う会議もありました。奥羽教区のそれぞれの地域にあって、教区の教会と関連を持つ教育・福祉・医療をも含んでの様々な意味での神と人とに仕えるということ、「奉仕」について学びの時を持ちました。

 25日は、私の属しているアマチュアの合唱団が県のコンテストに出場し、16世紀イギリスの教会音楽家トーマス・タリスの「エレミヤの哀歌U」を合唱して「金賞」をいただきました。19位中6位(ちなみに上位9位までが金賞)でした。審査結果が発表されるまでは「銀賞」だと思っていたので、意外でした。団員の方々の努力の結果でしょう。

 今週の積雪は多いところで、2メートルもの雪の壁を作っている場所もあるほど、大雪となりました。雪かきにもいそしむ毎日となっています。2月1日からポナペ・ワークキャンプに参加しますが、五所川原との気温差は30度ほどにもなります。

 

 

2009年2月14日(土)

 

 昨日、ポナペ・ワークキャンプから帰ってきました。ポナペ島(ポンペイ州)があるミクロネシアには第2次世界大戦中の戦跡や傷跡が数多くありますが、私たちが赴いたポナペ島はアメリカによる爆撃に合わなかったことと日本軍が従軍慰安婦を要求したことに対して南洋伝道団から派遣されていた田中金造牧師(日本基督教団教師)が反対したことや、その後のキリスト者の活動もあって、今も日本人、特にキリスト者に対しては友好的関係を保っています。

現在、ミクロネシア連邦は4つの州、ヤップ、チューク(トラック)、ポンペイ、コスラエに分かれ、大小合わせて数百もの島々が集まった出来た太平洋にある国の一つです。気候は熱帯性気候で、年間平均気温は27度、年間平均湿度は80%以上にも及びます。強烈に眩しい灼熱の太陽が照りつける一方で、突然の大雨のようなスコールによる湿気を伴った涼しい風が心地よく、熱帯性の植物と果物が生い茂り、そこに様々な鳴き声を持つ鳥たちが住み、島の周りを取り囲むエメラルド・グリーンの海には美しいサンゴ礁(これは形としては「環礁」ですが、年々リゾート地開発でサンゴ礁は失われています)と色とりどりの魚たちが見られます。ポナペの人々は親日的であることもあって、初対面の人に対しても笑顔で接して下さいました。ポナペという外国にいて緊張感を持っていた私たちはそれだけでも随分と癒された気がします。環境が人間に与える影響について考えさせられました。

 以前、「ポナペ交流の旅」について述べたことがありますが、今回はワークキャンプでそれとは異なるものです。今回のワークは一か月以上にわたり、合計3回にわけて行われ、私たちはその中の第2次隊として稲垣壬午牧師(日本基督教団軽井沢追分教会)を隊長としての2週間ほどのワーク作業でした。特に私たちが行ったのはポナペにあるオア・クリスチャン・ハイスクール(アメリカン・ボードによるミクロネシア宣教及び1976年から行われた日本基督教団教師の荒川義治牧師を始めとするポナペ・ワークキャンプの働きが土台となって出来たキリスト教主義学校)の生徒・職員の方々と共に、その敷地内での生徒男子寮(1階建て)建設でしたが、そのような気候の中で、汗水流して行ないました。鉄筋が打ち込まれコンクリート・ブロック積みがなされた土台に、材木を設置して屋根を取り付ける作業を行いました。参加者の多くは普段からハンマーやのこぎりを使い慣れているわけではなく、また3メートル以上もある高さの屋根部に上ったことがないため、大変、苦心しましたが、お互いが助け合って完遂させることができました。

 毎晩、ポナペ学習会と祈りの時を持ち、日曜日にはオア・キリスト教会(ポナペ合同キリスト教会:現在、ポナペ島には14、5のキリスト教会がある)の主日礼拝に出席し、教会学校の子供たちに日本の遊びや歌を教える等して交流の時を持ち、私たちがこのような働きを行うことが許されていることを神に感謝し、ポナペと世界の人々に神による平和があることを祈りました。これからもポナペの方々を支援することができればと思います。

 

 

2009年3月24日(火)

 

 ここ青森県津軽地方の五所川原は、3月下旬でも「地吹雪」と呼ばれる横に吹く突風に乗って雪が舞う時があります。今日がそうでした。地面に薄らと雪が積もり、土の中からは「ふきのとう」が顔を出しています。

3月21日(土)に特に私が属する地区のある教会でのヨハン・セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」を用いての音楽礼拝があり、それに出席して聖歌隊として合唱曲を歌わせていただきました。ちょうど、今の時期は「受難節」にあたり、イエス・キリストの生涯における死と復活を想い起す時です。皆さんはイエス・キリストの生涯における死と復活をどのように受けとめていらっしゃるのでしょうか。合唱は私を含めてほとんどがアマチュアだったのに対して、独唱やオルガン演奏はその方面ではプロや専門の方々によるものでした。それは張りつめた重厚な響きで、かつ輝きを放つような素晴らしいもので、「福音」を伝えるものでもありました。私たちはその方々に合唱指導も受けさせていただきました。

 その前日の3月20日(金)には同じ地区の集会でキリスト教主義の社会福祉施設理事をなさっている方の講演を聞き、「教会は地域社会に必要なものとして存在するものであること」や高齢者・障害者と共にある「共存型関係共同体」であるというお話を聞くことができました。それは、つきつめていくと、人間存在に対する配慮につながるものです。教会においてキリスト者として生きていくとはどういうことかを考えさせられました。分団に分かれての話し合いの中では、活発に話し合いがなされ、有意義な時を過ごすことができました。

 講師の先生がお帰りの際に、近くの喫茶店に立ち寄り五所川原名物の「果肉が赤いリンゴのジャム」を一緒にいただきました。良い思い出になったのではないかと思います。

 今月も同じ地区にある教会・伝道所でのみ言葉の奉仕を始めとして忙しい月でありましたが、今年度最後の月でした。この年度も感謝し、祈りをもって新しい年度に備えたいと思います。

 

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