雑記帳(]X)

 

川上純平         2020・6・9〜

 

 

2020年6月9日(火)

 

終息に向かいつつも、未だに世界中で「新型コロナウイルス」が感染者を出し、そのために多くの方々が苦しみの中にあることを覚え、主なる神の癒しと守りがありますようお祈りします。また医療関係者を始めとして、これに取り組む方々にも主なる神の守りがありますようお祈りします。

3月13日に国会で制定された「新型インフルエンザ等対策特別措置法」改正に先だって、「『信教の自由』を侵害する新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する宗教者緊急声明」(リンク先:「宗教者九条の和」のサイトページ)が日本キリスト教協議会(NCC)から送られてきました。これは「NCC東アジアの和解と平和委員会」と「平和を実現する宗教者ネット」が中心となって作成したもので、今回の特措法改正のように確かにコロナウイルスに対する政策が必要なのですが、しかし、「緊急」という言葉で、日本政府の態度が人権侵害や学校生活を含む日常生活・社会の混乱をもたらし、さらに憲法9条改正の恐れや信教の自由の侵害につながっていくのではないかとの危惧を持つ諸宗教者がおられ、その方々がこの声明に賛同されました。そこには日本基督教団を含むキリスト教の方々だけでなく、他の幾つかの諸宗教者も含まれています。立憲主義、民主主義がないがしろにされてはならないでしょう。

他にも先日、明らかとなりました沖縄辺野古護岸工事が完成前に打切りになっていた問題、六ヶ所村核燃再処理工場が審査に合格したとされていますが、懸念事項がある問題、イージス・アショア秋田県候補地の問題があり、そして、一方で人種差別に反対するアメリカでの大規模デモは、今後、アメリカ社会と国際社会にどのような影響を与えるのか考えさせられます。

今年の2月に、私は「キリスト教神学のウェブサイトの「キリスト教信仰と精神分析」を更新しました。これを最初に記したのは2006年のことでしたが、これは宗教を「妄想である」とか、「心理学の一部、脳の機能の一部の働きに過ぎないものである」とした見解や誤解に対して、「それは違うのではないか」とする一人のキリスト者の証しとして記したものを、さらに改訂したものです。

さらに、また先日、同サイトの「キリスト教とキリスト教神学」を更新しました。キリスト者(クリスチャン)がキリスト教信仰を深めるためには勉強も必要かもしれませんが、それは、いわゆる総合大学の神学部や神学大学や神学校等で教えられ、研究されている「キリスト教神学」ではなく、キリスト教会で説かれている、いわゆる、礼拝の守り方、聖書の読み方、聖書研究会で話される内容等、教会生活や信仰生活のための知識や技術的なものに過ぎません。一方、牧師等を含めてキリスト教会の「教師」と呼ばれる務めに就くためであるとか、キリスト教会が正しく機能しているかを問うたり、自己検証したりするための、あるいは、学問としての神学研究のための「キリスト教神学」があります。キリスト教では教会を造り出したのは「聖霊」(主なる神の力で、キリスト教信仰の土台とされている)であるとされていますが、これらは全て「聖霊」の働きだけで出来るものではありません。「キリスト教神学」について学んだり、考えたりするには「理性」が必要です。「理性」とは何かについて、またこの言葉の意味については、このサイトよりも辞典や哲学関係等の他のサイトを読んで学ぶ方が良いかと思います。もちろん、このサイトにおけるキリスト教信仰もキリスト教神学も、いわゆる「グノーシス主義」ではありません。

コロナウイルスについて、前回、少し記させていただきました。国や地域によっては第2波が早くも到来しているとされています。コロナウイルスは私たちが考えていた以上に、様々な悲惨な影響を与えています。徐々に元に戻りつつありますが、元の生活にもう完全な形では戻ることが出来ないとする意見もあります。

自然環境や生物とコロナウイルスと人との関係、それに関する諸問題については、インターネット上でも幾つか文献や資料を読むことが出来るようになってきました。しかし、あり得ない事ですが、もし、人が自然を含めて全ての事に関して便利さと欲望だけを追求し、さらに自らの忍耐力を無くしてしまったら、どのような社会が出来上がるのでしょうか。キリスト教では人間が根本的に深い存在であるとされていますが、その内実は、規則や法律に照らして、と言うよりも、主なる神との関係で、宗教的な意味で罪深いということです。それは人間が限界のある存在であるとか、主なる神に背を向ける存在であるとか、主なる神をも隣人をもキリスト教的な意味で愛さないというような意味ですが、今後、人がどのように生きていくかを考える時、ウイルスや病気等、人間の脅威となるものと対決したり、克服したりする事が必要ですが、それに対して根本的に取組むとはどういうことなのか考える事も必要です。当たり前のことかもしれませんが、人が自然から物を獲得したり、自然を利用したりする際は、自然や環境の構造やサイクルについて、人がそれを扱う時に、自然と人間にどのような影響を与えるか、科学及びそれ以外の学問の視点で考えなければならないと同時に、それらを土台として新しくされたものが必要となります。それは経験や学習、物事の区別(例:危険か、危険でないか)、取決めや法律の作成等ですが、それらを提示し、伝え、人々を啓蒙する事等も必要とされます。今後、その分野の優れた方々の活躍が期待されます。

5月の末、私が所属する日本基督教団の公式サイトに新型コロナウイルス感染拡大に伴う『緊急事態宣言』の解除にあたって(第四信)」が載せられました。これを読むと、特に会堂での礼拝が出来る状態に戻りつつあることが分かります。本質的に礼拝は場所よりも自らが本当に主なる神と向かい合って礼拝しているか(お祈りを行うだけでも礼拝です)という事が重要ですが、しかし、未だに会堂で礼拝を守ることの出来ない教会・伝道所があることを覚え、お祈りします。ちなみに同サイトには「『外国人ヘイト』による人権侵害に抗議する声明」も載せられました。これは「日本基督教団」という名称が使われたからではなく、キリスト教信仰に基づく声明です。外国人の方々が人間であるゆえにコロナウイルスで被害を受けているにもかかわらず、なぜ、そのような人々に対して人権侵害を行なうのかという疑問が生まれます。

コロナウイルスの影響で日本基督教団奥羽教区及び教区内にある北西地区(青森県津軽地域の教会・伝道所・関係学校・関係施設・関係団体等の集まり)の諸集会が延期・中止になっています。北西地区に属する藤崎教会では毎週、日曜日の礼拝や月一回の教会学校、毎週、木曜日の祈祷会(お祈りする会)等は続けて行っています。4月には「イースター(復活日)礼拝」(「イースター(復活日)」については雑記帳の「2012年4月30日(月)」の項目を参照)、5月には「聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝」(一般的なキリスト教理解での「聖霊降臨日(ペンテコステ)」については雑記帳の2012年5月30日(水)の項目を参照)を会堂で行なうことが出来ました。しかし、藤崎教会で予定していた諸行事の中には中止になったものもあります。教会に隣接する藤崎幼稚園も今年度の歩みが始まりました。毎朝、子供たちの楽しそうな声が幼稚園から聞こえてきます。同時に、やはり行事で中止になったものもあります。ちなみに、この度、学校法人藤崎キリスト教学園藤崎幼稚園の公式ホームページが出来ました。

また今回、北西地区ではインターネットで地区内の諸教会・伝道所の礼拝説教を一回だけですが、配信することになりました。それぞれの教会・伝道所が「コロナウイルス感染防止策」のために礼拝や集会等を行い難くなっていることと、そのこともあって地域の人々にそれぞれの教会・伝道所をアピールするためのものです。下にその総合サイトをリンクしておきます。(https://www.youtube.com/channel/UCDU7P6uAgFRCrZk_I8iu1aw/videos?view=0&sort=dd&shelf_id=0

6月9日に藤崎教会でも撮影が行われました。私が礼拝説教を担当させていただき、北西地区書記の伊丹秀子牧師(日本基督教団黒石教会)がそれをスマホで撮影して下さって、YouTubeに載せて下さったのですが、会堂には教会役員の方も来て下さいました。この場を借りて感謝します。今日、さっそくその動画が二つYoutubeに載せられました。ここにリンクしておきます。(説教1説教2)。

さらに国の内外のキリスト教会・伝道所で、「コロナウイルス」による様々な苦しみ、困難の中で、工夫しながら、取組みがなされていることを覚えます。他の諸宗教でもそのようです。

 5月上旬に牧師館前の庭に可愛らしい「たんぽぽ」が咲きました。その後、同じ場所に今度は「シロツメクサ」の花が咲き始めました。これは「シロクローバー」とも言い、たいていは三つの葉を付けます。「クローバー」の葉には他にも様々な意味合いがありますが、かつて、キリスト教会はこれを用いて「三位一体」を説明しました。また四つの葉が付いたものは、キリスト教の象徴である「十字架」を表すとされたそうです。

ちなみに、先日6月7日(日)に行われた主日礼拝はキリスト教会の暦で「三位一体主日礼拝」と言います。この礼拝は日本基督教団の諸教会・伝道所だけでなく、世界中の教会・伝道所で祝われている礼拝です。この日は旧約聖書の中で主なる神がイスラエルの人々に自らのお働き、救いのお働きを示された出来事を始められ、それが新約聖書に記された「ペンテコステ(聖霊降臨日)」の出来事で完成し終えられたということが関係しています。ですから、「三位一体主日礼拝」は、主なる神のお働き、つまり、救いのお働きの完成をお祝いする主日であるのです。

それで、この「三位一体」は、英語で“Trinity(トリニティ)”と言います。最近では「マトリックス(生み出すもの)」というタイトルの映画がありました。それは、人の頭の脳の中に構築された世界を扱った、随分と話題となった映画でしたが、この映画で、この言葉が使われたりしました。この「三位一体」は三つで一つであるということですが、これが、しばしば誤解されて、三つのものを一つにまとめて、一つのセットにして、力強いものとなった、という意味で使われることがありますが、そもそも、この「三位一体」という言葉に、そのような意味はありません。

この「三位一体」という言葉は、「キリスト教」の教え、キリスト教信仰の言葉で、聖書が語る主なる神のあり方を表したものです。もちろん、聖書それ自体に、はっきりと「三位一体」について説明した箇所等は記されていません。キリスト教会が聖書全体を読んで成立させた信仰告白や信条の文言の一つです。一人の神が三つの在り方で表されているということですが、キリスト教の礼拝で最初と最後に歌う「讃詠」や「頌栄」の歌詞の中にも、この「三位一体」を表す言葉が記されています。主なる神がそのお働きを完成されたこと、主なる神が「父・子・聖霊」の三つで一つの存在であることを覚え、お祝いするのが、この「三位一体主日」であるわけです。

ところで、礼拝等で讃美歌を歌っていますが、日本基督教団出版局発行の「讃美歌21」の577番はシリアの讃美歌がメロディーに使われているそうですが、原曲が具体的にどのような曲なのか定かではありません。これについてどなたかご存じの方はおられるでしょうか。 

気象庁によると、青森県津軽地域の今年の1、2月の気候は暖冬で、異常気象でした。今年の夏も暑くなると言われています。農作物が無事、収穫出来るようになる事をお祈りします。皆様、熱中症になったり、冷房によって体の調子を崩されたりすることのないようご自愛下さい。ご健康が守られますようお祈りします。

 

 

2020年8月31日(月)

 

残暑、しかも猛暑が厳しく続く中、「コロナウイルス」感染が未だに各地で見られ、また「熱中症」が発生しています。これにより苦しみの中にある方々にお見舞い申し上げ、悲しみの中にある方々にお悔やみ申し上げます。「コロナウイルス」による感染が完全終息に向かい、医療を含め、この問題に取り組む方々に主なる神の守りと力がありますよう祈ります。また一昨日、安倍首相が辞任の意向を示すというニュースが大きく報道されました。一人のキリスト教徒(クリスチャン)として、今後、日本の政治がどうなるのかを考える時に聖書が証しする主なる神の御心に沿ったものとなるよう祈ります。

今年6月15日に「イージス・アショア」の計画が停止となりました。この「イージス・アショア」は地上配備型のミサイル防衛システムのことで、2017年に日本政府がその導入を決定しました。これは北朝鮮が軍備強化していることに伴うものですが、それが日本の軍備強化につながることは言うまでもありません。秋田県と山口県に配備が決定されていましたが、技術的な問題で、今回、その計画が撤回されるに至りました。6月18日に米軍横田基地に配備されている軍事用輸送機オスプレイの部品が落下した可能性があるという報道がなされ、落下したものは戦争の材料の一部分であるわけですから、いざ戦闘になったら、オスプレイが危ないものであることは言うまでもなく、訓練中でさえも、そのようなものが、ましてや子供の頭の上に落下してきたら、どうするつもりだったのでしょうかと問いたい事故でした。平和問題に理性や法、それに基づく話し合いが無くなると、危険かつ大変なものとなってしまいます。今年5月にとある黒人男性が白人の警察官に殺された事件は黒人差別がその根にあり、これに端を発する問題が今も解決することなく、黒人差別に反対する集会やデモが行われ、さらには暴動になっています。解決へと向かうことを願いますが、これまでのアメリカの歴史との関連が重要であることを思います。果たして聖書に基づいた場合、どのような態度を取ることが適切か、自らのフィルターで相手を正しく見ているつもりになっているという偏見があるのではないかと思います。

かつて1948年に日本で制定・施行された「旧優生保護法」の下で遺伝性とされた病気を持つ人や知的障害のある人は不妊手術を強制されましたが、その不妊手術を強制されたある男性が国家賠償を求めた訴訟で、6月30日に東京地方裁判所が、これは憲法13条違反であるという判決を行いました。人間が行う限り、科学や医学が絶対ではなく、国家も絶対ではないのは当然なのですが、そのために不適切な手術を受けた人の人権や普通の人生を生きることが許されなかったことに対して誰が、どのように償いをしていくのかということは今後の課題であると思います。

7月5日には「令和2年7月豪雨」(熊本県を中心として日本各地を襲った豪雨)が発生し、被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。毎年のように各地で台風、豪雨が発生しています。日本に上陸する台風の多くが太平洋上で発生していますが、深刻となっている地球温暖化の影響もあります。聖書に記された主なる神がこの世界を造られ、良いものとして祝福されたことの意味を思いますが、果たして、人間によって自然界の秩序やサイクルが変えられてしまった場合に、もう一度それを変えたり、元に戻したりすることが出来るのでしょうか。これも科学に期待されていることです。

7月29日に「六ヶ所村核燃再処理工場」が審査に正式合格しましたが、今も六ヶ所村住民を中心として様々な人々による再稼働反対運動、反対意見があり、工場で事故が発生しないとは言えず、もし事故が発生した場合の問題、再稼働した際に財政面を国民が負担しなければならない等、工場という存在それ自体の問題も含めて、課題が残されています。再処理工場が最終的にエネルギー問題への解決にならないばかりか、工場再稼働自体が危険であることには変わりないようです。

 藤崎教会では5月24日(日)〜30日(土)に「アジア・エキュメニカル週間」を過ごしました。5月31日に「ペンテコステ礼拝」が世界中のキリスト教会で行われたわけですが、その前に日本基督教団の暦では今年は5月24日(日)から30日(土)までは「アジア・エキュメニカル週間」でした。これはアジア諸国のキリスト教会を覚えて祈り、その地域が抱える様々な重荷について考え、担い合う時とされています。

そもそも、これは「アジア祈祷日」とされた日に基づきます。「アジア祈祷日」は毎年、「アジア・キリスト教協議会」(CCA)の呼びかけに応じて、アジア各国・地域の諸教会で実施されています。この祈祷日は「ペンテコステ」の一週間前の日曜日に定められていますが、現在の「アジア・キリスト教協議会」が、かつて1959年5月24日の「ペンテコステ」の一週間前の日曜日に創立されたことに由来するものです。

 7月には、都合により一週間ずらしましたが、7月19日(日)の主日礼拝の中で「部落解放祈りの日」を覚え祈りました。「部落解放」を覚えての説教のみ言葉に耳を傾け、これを覚えて祈ったわけですが、現在、日本基督教団が運営する「教団部落解放センター」は「部落差別」を始めとする様々な差別を無くすことを求めて活動しています。このセンターは教団としての部落解放の働きを正式に開始した歴史を覚え、7月第二主日(7月の第二週目の日曜日)を「部落解放祈りの日」としました。それは同教団が1975年7月に「部落差別問題特別委員会」の設置を決議したことにちなみます。今も「部落差別」は日本各地に存在し、それが人を死に追い込むほどの酷い差別であることを覚え、これからも部落差別から解放されることを祈ります。

 また7月末には「教会学校 夏の集い」(「教会学校」は「子供たちの教会」あるいは「子供の礼拝」を意味する)では旧約聖書出エジプト記に記されたエジプト脱出後に「約束の地」を目指したイスラエルの人々の旅をテーマに集会を行いました。夏の一日、子供たちと共に聖書の世界に親しみ、主なる神の恵みを想うひと時を過ごしました。

 8月2日(日)には「平和聖日礼拝」(「聖日」とはキリスト教会で「日曜日」を意味する)を行いました。そもそも「平和聖日」は1961年に広島への原爆投下によって被爆した日本基督教団の牧師・信徒たちが広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」を守るようにと同教団に要請し、翌1962年に教団が8月の第一主日(日曜日)を「平和聖日」と定めて始まったものです。特に奥羽教区内の各教会・伝道所では8月の第一主日を「平和聖日」として祈りの課題を掲げて、これを覚え祈る礼拝を行なっています。

8月9日(日)には「召天者記念礼拝」と「墓前礼拝」を行いました。会堂の講壇前に藤崎教会と繋がりのある方で既に「天に召された方々」(教会では「亡くなられた方々」をこのように、あるいは「主のみもとに召された方々」等と表現する)のお写真を並べ礼拝を守りました。ちょうど、この時期は仏教の行事である「お盆」の時期で、ご家族、つまり、ご遺族が集まりやすい時期であるということで、藤崎教会では、毎年、このように行っていますが、今年は「コロナウイルス」感染防止策等のために礼拝出席者は少なったのですが、礼拝の意味や出席者の想いは変わらないものとして行われました。

8月16日(日)には、前回1月に行った「沖縄についての学習会」の第1回目に引き続き、「同学習会」の第2回目を行い、私が「沖縄のプロテスタント教会について(特に日本基督教団との関係を中心にして)」について分かりやすくお話をさせていただきました。特に「沖縄キリスト教団」と「日本基督教団」との合同について「沖縄キリスト教団」から「日本基督教団沖縄教区」になった後に、沖縄戦や戦後の米軍基地に伴う様々な問題等を日本基督教団が見過ごしにしてきたとされていることが重要で、このため、それ以後に幾つかの教区等で様々な取組みもなされました。2019年には「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同50周年にあたっての議長声明」が出され、この声明は、主なる神の御前に懺悔して沖縄県民と沖縄の教会に赦しを願うという内容が含まれています。今後もこの課題が重要であることは言うまでもありません。学習会前には私が「冷やしうどん」を作り、出席者に提供させていただき、好評であったようです。

 8月23日(日)には礼拝後に「讃美歌を歌う会」を行い、讃美と交わりのひと時を過ごすことが出来ました。主なる神への感謝の想いを持って行われました。今後も藤崎教会、また北西地区を含む諸地区、奥羽教区を含む諸教区、日本基督教団、そして、各教派、世界の諸教会の様々な宣教の取組みに主なる神の祝福を祈ります。

今、この時期、藤崎町のリンゴ畑のリンゴの実に袋掛けがなされています。藤崎町でのリンゴ栽培は藤崎教会の創立時の信徒が先駆的存在で、リンゴの品種ふじの開発にも同教会の信徒が関わってきましたが、今年は、偶然にも藤崎町でリンゴの品種ふじが誕生して80年の年とされています。藤崎町にはリンゴ以外にも名産品があり、「ときわ卵」(教会で「イースター」の卵として使用しています)も名産品で、その卵で作られる「プリン(プディング)」も名産品スイーツとして町では定着しているようです。

「コロナウイルス」の影響でインターネットを使っての学習法が各地で活用されています。このウェブサイトの「リンクのページ」でもリンクさせていただいています「小原克博 On-Line」(同志社大学神学部長の小原克博教授のウェブサイト)では「キリスト教倫理 現代におけるキリスト教倫理の諸問題」についての小原克博教授による講義が動画配信されていて、拝見させていただきました。これからも、そのような動画が良き学びのために用いられることを祈ります。

8月15日は、一般には「終戦記念日」とされていますが、キリスト教会によっては、この日を「敗戦記念日」と呼んでいます。この日、 Jesus Reigns Japan”という日本各地で行われている超教派の祈りの集会の青森県での集会が伊丹秀子牧師(日本基督教団黒石教会)らを中心として企画され、東奥義塾高等学校礼拝堂で行われ、私は藤崎町にあるキリスト教会の牧師として青森県にある各教派の教会と共にこれに参加し、藤崎町のために祈りました。少人数でしたが、参加したそれぞれの方々の篤い祈りが伝わる集会でした。

将棋の棋士として有名な加藤一二三(ひふみ)氏はカトリックの信徒ですが、今年のクリスマスにキリスト教の洗礼を受けてから50年を迎えることを記念し、9月に『だから私は、神を信じる』(日本基督教団出版局)という題で本を出版されるということです。日本のキリスト教徒は少数ですが、有名人の中に意外にキリスト教徒の方がおられます。

今、牧師館前のプランタで育てている野菜は、昨年ほどではありませんが、やはり暑さと大雨の影響を受けて、ダメージを受けましたが、何とか収穫出来るようで、主なる神の恵みとしていただきます。今年のお米は良い出来であるという話も聞いています。

まだまだ暑い日が続きますが、皆様、お体ご自愛下さい。今後の豪雨、台風等の自然災害等の備えがなされますように。

 

 

2020年10月26日(月)

 

この雑記帳でも、かなり以前から何度かお伝えした東京電力(東電)福島第一原子力発電所事故(福島原発事故)をめぐっての裁判ですが、9月30日にこの福島原発事故をめぐり、その当時、福島県に住んでいた人々が中心となって国と東電に損害賠償を求めた訴訟の控訴審で仙台高等裁判所が国と東電に責任があることを認めた判決を行いました。高等裁判所での判決は今回が初めてです。10月13日には国と東電が最高裁判所に上告し、最高裁での判決もなされる予定となっています。あの事故からもう既に十年経ったと同時に、まだ十年しか経っていないことの意味を想わされます。

「日本学術会議」の任命権について菅義偉首相が推薦された6人の任命を拒否したことが問題となっていますが、その6人の中に芦名定道氏(神学者、京都大学大学院文学研究科教授)がおられ、芦名氏については、このウェブサイトの中でも参考文献の中にお名前が登場する程度で、面識も全くありませんが、あたかも学者としての権威を失ってしまったかのような錯覚に捕らわれてしまいましたが、実際はそうではないので、内心少し安心しています。日本国憲法は学問や思想や宗教が国家の政策に左右されない自由を保障するものであることは言うまでもありません。

 10月中旬頃には、夏期休暇を取って名古屋、静岡、関西(京都)等、幾つかの場所を訪れました。静岡では1874年に日本で最初に創立されたメソジスト教会である日本基督教団静岡教会を訪問させていただき、会堂を見学させていただきました。やはりコロナ禍と苦戦しつつ礼拝を守っている状況等をお聞きすることが出来ました。私が今、牧会をしている日本基督教団藤崎教会も、かつて本多庸一によって伝道がなされ、日本基督教団弘前教会の影響の下にあったがゆえに、一時「藤崎美以教会」となり、メソジスト教会の時代があったので訪問させていただきました。

 名古屋では「名古屋市東谷山フルーツパーク」を訪れました。ここには果樹園や世界の熱帯果樹温室がありますが、時間の都合で果樹園は省略して、世界の熱帯果樹温室だけを見学し、非常に多くの熱帯及び亜熱帯地方の果物の樹木が植えられているのを見て来ました。「名古屋港水族館」では絶滅危惧種の「シロイルカ(ベルーガ)」やサンゴ類等を見ることが出来ました。この二つの施設は自然界の生き物の観察を行うのに非常に適した施設である事を思いましたが、同時に、自分が、かつて赤道近くにあるミクロネシアのポナペ島や沖縄に行った時の様々な事を改めて思い出し、聖書が証しする主なる神がお造りになられたこの世界を思う時に環境破壊等について考えさせられました。

 関西では京都の若王子山にある「同志社共葬墓地」を訪れました。今年は新島襄召天130年、原田助召天80年、茂木平三郎生誕170年であることを想い起してのことです。この時に海老名弾正、小崎弘道と共に「組合教会(日本の会衆主義教会)」の三元老の一人である宮川経輝(つねてる)や芦田慶治氏(神学者、同志社大学神学部長等を歴任)のお墓が「同志社共葬墓地」の隣にあることにも気づきました。しかし、この墓地の行き帰りの坂道を歩くことはコロナ禍でマスクを付けていたために少し呼吸しづらいものがありました。また普段、私は近所を30分程、ウォーキングしていますが、それでも帰ったら、足をマッサージしておくことが必要なようです。

同時に京都にある日本基督教団室町教会を訪問させていただきました。私が同志社大学神学部大学院生の頃に二年間ほど通っていた教会です。自分が関東教区にいた頃にお会いした石黒寅亀牧師がかつて牧会をしておられた教会でもあります。(石黒寅亀牧師については雑記帳の「2006年12月23日(土)」の項目を参照)    

現在の主任牧師とそのお連れ合いは、その頃の同教会の青年会のメンバーだった方々で、懐かしい再会を果たしました。この教会ではコロナ禍の影響もあって礼拝に集えない方々のために日曜日の主日礼拝をライブ中継したり、礼拝での説教YouTubeに載せたりしています。他の教会でもコロナ禍のための取組みとしてこれらの事が行われている教会があります。会堂の中を見せていただいて、パソコンやビデオ・カメラ等を使っての主日礼拝のインターネット配信やアップロードについての説明をお聞きすることも出来ました。

キリスト教における礼拝は信仰生活の土台であり、聖霊の働きによってなされるものであり、主なる神と人との出会いの喜びの時であり、聖書が語る主なる神の言葉に聞きつつ、礼拝について考え、これに共に参与するものです。それゆえにコロナウイルス感染予防策を念頭に置いた時にそれぞれの教会・伝道所等での主日礼拝についての捉え方、その持ち方は様々であることを思います。特に基礎疾患を持つ方や高齢者の方等に対する配慮も必要なのでしょう。私はかつて自分が様々な方々の意見を参考にしつつ、「礼拝論」を記してこのウェブサイトに載せたことを想い起します。そこにも記したことですが、「礼拝は、人間のなす業であるゆえに、ある特定の礼拝形式だけを絶対化し、正しいとするということ」も誘惑なのでしょう。「礼拝論  結論」

関西では他にキリシタンゆかりの南蛮寺跡地や天主教会堂跡等も訪れ、500年近く前の当時のキリスト教会に想いを馳せました。

 10月も下旬に入り、津軽の最高峰とされる岩木山という山では既に初雪が観測され、農家の方々は収穫の秋ということで、収穫作業に励んでおられます。津軽では「スチュ―ベン」という種のブドウが特産品で、聖書でも「ブドウ」はよく登場し、譬えに用いられるフルーツの一つです。(新約聖書ヨハネによる福音書15章1節以下等)教会では毎週、日曜日の主日礼拝で農家の方々の事も覚えてお祈りしています。

10月25日の日曜日から日本基督教団の「教会暦」で「クリスマス」に向けての「降誕前節」に入りました。これは旧約聖書時代から救い主イエスが来られることを待ち望んだことを踏まえた「クリスマス」に向けて教会生活を歩む期間です。これにより会堂の講壇にある聖書台掛けも「緑色」になりました。「緑色」は「希望、命、平和、再生、成長、自然」を意味する「典礼色」(礼拝で用いる色)です。(「アドベント」については雑記帳の「2009年11月29日(日)」の項目、「クリスマス」の起源については雑記帳の「2004年12月18日(土)」の項目をそれぞれ参照)

藤崎教会では歴代牧師である「藤田匡牧師召天80周年記念礼拝」を行い、礼拝後は藤田家のお墓(梨ノ木墓地)にて「墓前礼拝」を行います。

また11月には「障害者週間」を過ごし、「収穫感謝日礼拝」、「アドベント礼拝」を守ります。

 津軽の諸教会・伝道所等が集まる北西地区の集会や青森・秋田・岩手の地区が属する奥羽教区の集会はコロナ禍のために行われにくい状況にありますが、主なる神に祈り、道を示されつつ、歩んでいます。皆様に主なる神による癒しと慰めと励ましがあることを祈ります。

 

 

2021年1月13日(水)

 

昨年2020年は「百年に一度」と言われるほどの、とんでもなく壮絶な一年でありました。2021年という新しい年を迎えましたが、しかし、コロナ禍に関わる様々な問題はこの年に持ち越されてしまい、全世界で累計感染者数9000万人を超え、幾つかの都府県で「緊急事態宣言」が出される等、自分もそうでありますが、今もコロナに関わる様々な問題で、また豪雪による様々な苦しみと悲しみの中にある方々に、お見舞い申し上げ、またお悔やみ申し上げます。同時に、この新しい年も昨年、同様に聖書が証しする主なる神の恵みと守りと祝福の中にあって信仰生活が守られ宣教に励む感謝すべき一年となることを望みつつ祈ります。

ところで、今年も様々な意味での記念の年です。そこには喜ぶべきものとそうでないものがありますが、覚えるべきものであることに変わりはないようです。

1471年にドイツの思想家トマス・ア・ケンピスが没して550年、1521年にメランヒトンがプロテスタント教会最初の教義学書『ロキ・コンムネス』を執筆して500年、1701年にプロシア王国(プロイセン公国)が成立し、コネチカットの会衆派教会によってイェール大学が創立され、320年、1791年にモーツァルト、ジョン・ウェスレー、ゼムラーが没して230年、1821年にシュライエルマッハー『キリスト教信仰論』が執筆され200年、1841年にドイツの哲学者フォイエルバッハが『キリスト教の本質』を執筆し、イギリスの宣教師デビッド・リヴィングストンがアフリカ伝道を始めて180年、1861年にイタリア王国が成立し、アメリカで南北戦争起こり、アメリカのオランダ改革派教会からジェームズ・ハミルトン・バラが来日、日本でヘボン博士が治療所を開設し、ロシア正教会の司祭カサートキン・ニコライが来日し、160年、1871年にジェローム・ディーン・デーヴィスが来日し、ゴーブルが最初の日本語聖書『摩太福音書』を刊行し、超教派の宣教師たちによって横浜共立学園が創立され、日本で廃藩置県がなされ、琉球王国が鹿児島県に編入され、日本で身分解放礼が布告され、「フィスク・ジュビリー・シンガーズ」がアメリカ各地を演奏旅行し、黒人霊歌(アフロ・アフリカン・スピリチュアル)が広まり、150年、1881年にドストエフスキーが没し、イギリスで新約聖書改訂版(RV)が刊行され、アメリカでものみの塔聖書冊子協会(後の「エホバの証人」)が組織され、偕成伝道女学校(後の共立基督教研究所)が創立され、元浦河公会(後の日本基督教団元浦河教会)伝道が開始され、140年、1891年に内村鑑三不敬事件が起こり、アメリカン・ボードによって松山学院(松山城南高等学校の前身)が創立され、群馬で廃娼令が発布され、田中正造が足尾鉱毒問題の質問書を議会に提出し、アメリカン・ボード宣教師のアリス・ピッティー・アダムスによって日本最古のセツルメント(社会事業施設)である岡山博愛会が創設され、130年、1901年にヴィルヘルム・ヘルマンが『倫理』を執筆し、クリスチャン・カレッジ女英学塾(津田塾大学の前身)が創設され、アメリカ人宣教師チャールズ・エルマー・カウマンと中田重治が中央福音伝道館(東洋宣教会)及び東京聖書学院(後のホーリネス東京聖書学校)を開設し、植村正久・海老名弾正の福音主義論争(〜1902年)が始まり、田中正造が足尾鉱毒事件で天皇に直訴し、120年、1921年にブルトマンの『共観福音書伝承史』が出版され、「国際宣教協議会」(IMC)が結成され、賀川豊彦が神戸造船所で労働争議を指導し、自由学園が開校され、大本教の幹部が不敬罪で逮捕されて100年、1931年にチューリッヒ聖書が刊行され、カール・バルト『知解を求める信仰』が発刊され、満州事変が起こり、柏木義円が日本の戦争政策を批判し、「基督教保育連盟」が成立し、中村遥が水上子供の家(後の大阪水上隣保館)を設立し、90年、1941年にブルトマンが「非神話化(非神話論化)」を提唱し、コルベ司祭がアウシュヴィッツ強制収容所で身代わりを引き受け、餓死牢で没し、エミール・ブルンナーの『出会いとしての真理』が出版され、ラインホールド・ニーバーの『キリスト教人間観』が発刊され、日本基督教団が成立され、80年、1951年にボンヘッファーの獄中書簡集『抵抗と信従』が出版され、ティリッヒが『組織神学』第1巻を出版し、ヘルムート・リチャード・ニーバーが『キリストと文化』を出版し、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』を執筆し、南アフリカ連邦でアフリカ改革派教会が設立され、中国で「中国基督教会宣言」が出され、(新)日本基督教会が創立され、聖ミカエル学園(現在の聖ミカエル国際学校)が創立され、清教学園が創立され、ノートルダム女学院が設立され、日本で「基督者平和の会」が発足し、宗教法人法が公布施行され、サンフランシコ講和条約(対日平和条約)が調印され、日米安全保障条約が調印され、70年、1961年にベルリンの壁が造られ、新約聖書学者ヘルベルト・ブラウンが論文『新約聖書神学の問題性』を執筆し、哲学者エマヌエル・レヴィナスが『全体性と無限』を出版し、全キリスト者平和会議(プラハ会議)がプラハで開かれ、エルサレムでカール・アドルフ・アイヒマンに対する裁判が行なわれ、ロシアの共産主義による弾圧でハンガリーの11名の司祭が投獄され、南アフリカ連邦が南アフリカ共和国となり、ソ連が世界初の有人人工衛星ヴォストーク1号の打ち上げに成功し、アメリカ合衆国第35代大統領にジョン・フィッツゲラルド・ケネディが当選し、「日中基督教交流協会」が発足し、日本基督教団において「宣教基本方策」が決定され、「日本クリスチャン・アカデミー」が発会、ノートルダム女子大学が設立され、四日市喘息患者が多発し始めて、60年、1971年にラインホールド・ニーバーが没し、新約聖書学者ヨアヒム・エレミアスが『新約聖書神学 第1巻 イエスの宣教』を執筆し、日本基督教団が被爆者のための広島原爆記念特別養護老人ホーム「清鈴園」を建設、東京に「いのちの電話」が開設され、三重県津市での神式地鎮祭が憲法違反とされ、日本で環境庁が設置されて50年、1981年に「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」が結成され、「部落解放センター」が開設され、鈴木善幸首相が首相として初めて沖縄を公式訪問して40年、1991年にソ連が崩壊し、バルト3国が独立、グルジアを除く11の共和国が独立国家共同体(CIS)を設立し。湾岸戦争が起こり、南アフリカで「アパルトヘイト」が撤廃され、南北朝鮮両国が国連に加盟し、「靖国・天皇制問題情報センター」が発足し、岩手靖国訴訟で、公式参拝違憲判決が確定し、日本で「PKO法案」が可決されて30年、2001年にアメリカで同時多発テロが起こり、日本賛美歌学会が設立し、日本でテロ対策特別措置法が成立し、日本でアメリカのアフガニスタン報復戦争支援のための自衛艦海外派遣が行われて、20年、2011年に日の丸・君が代強制処分を取り消す判決が下され、東日本大震災及び福島第一原子力発電所放射能爆発事故が発生し、かつて沖縄戦で軍隊による集団自決強制の行われた事が認められて10年の年でもあります。

 様々な出来事の中で、人が主なる神と共にある信仰を持ちつつ、その社会的・歴史的状況でどのように考え、想い、活動してきたのかを考えさ

せられますが、同時にそこに人の罪と主なる神の恵みとを想います。

昨年11月17日には日本とアメリカが共同開発した迎撃ミサイル(イージス艦搭載)がICBMの迎撃実験に成功、12月4日には大阪地方

裁判所により福井県にある関西電力大飯原子力発電所3,4号機が耐震性の問題で設置許可取消が命じられ、12月10日には防衛省による沖縄辺野古新基地建設のために沖縄での戦没者の遺骨が混じった土砂を使うという行為に反対する「宗教者共同声明」(「平和をつくり出す宗教者ネット」)が出されました。かつての戦争の悲惨さが風化されてはなりません。なぜ平和や命を蔑ろにする危険なものに力が注がれるのでしょうか。様々な問題が今も終わっていません。

 11月13日に日本基督教団奥羽教区の「教師継続教育講座」が行われ、これに出席しました。「エレミヤと現代」と題して、講師に田島卓先生(東北学院大学文学部総合人文学科講師)をお招きしてお話をお聞きし、コロナ感染防止策を行いながらの研修のひと時でした。旧約聖書エレミヤ書について「悔い改めゆえの救いの希望」、「神による無条件の罪の許しが基礎となる神との関わりの回復」等、旧約聖書が語る主の言葉と救い主である主イエスとの繋がりを改めて思わされ、また「コロナウイルス」を始め、人間の歴史の中に必ず存在する混乱や不安、嘆き、悲しみとの関連の中で、聖書が記され、読まれてきたことを思わされ、有意義な学びの時を過ごすことが出来ました。    

また数年前に奥羽教区や北西地区の教師の研修会等で講演をされた小友聡先生(東京神学大学教授、日本基督教団中村町教会牧師)が出演しておられる番組が現在、テレビで放映されています。それは2020年4月よりNHK−Eテレビで放映され、コロナ禍のため一時、放送延期がされた「こころの時代〜宗教・人生〜 それでも生きる〜旧約聖書・コヘレトの言葉」で、11月から放送が再開されました。コロナ禍という状況にあって、聖書、そして「コヘレトの言葉」に対する関心が深まり、それを読む方々の人生に良いものとなることを願ってやみません。

 「コヘレトの言葉」の1章2節等に記された「空しさ」、「空しい」(『新共同訳聖書』)と訳された言葉については、番組の中で、そもそも旧約聖書が記された言語のヘブライ語の言葉を訳す時に、様々に訳される言葉であることが述べられ、小友先生ご自身は「束の間」と訳すのが適切ではないかと仰っておられました。ヘブライ語の辞書で調べると、確かに「虚像、一時的な生命(息吹)、無、滅びやすさ、喪失感」等の様々な意味が見られます。古代イスラエルの人々が自らの人生や人間の存在を主なる神との関係でどのように位置付けたのかということが関係しているのでしょうか。

最近、青森県中泊にある宮越家が注目を集めていますが、そこのステンドグラスが小川三知氏によるもので、ちょうど、以前、私が協力牧師を

していた事もある群馬県の日本基督教団安中教会の講壇奥に飾られているステンドグラス(十字架と復活のキリストを表す)も同氏によるもので、宮越家のステンドグラスをどこかで見たことのある作風だと思っていたら、やはり小川三知氏によるもので、懐かしく思いました。

藤崎教会では11月に歴代牧師である藤田匡牧師の「召天八十周年記念礼拝」を行い、「収穫感謝日礼拝」を教会学校と大人の礼拝で、それぞ

れ行ない、礼拝で持ち寄られ献げられた農作物を東京にある日本基督教団山谷兄弟の家伝道所が運営する「まりや食堂」にお送りしました。これは仕事や住む所がなく、経済的に困難な状況にある方々のための食堂です。12月に行われた「クリスマスイヴ礼拝」では、今年はオーボエとイングリッシュホルンの演奏が、パイプオルガンの伴奏によってなされ、素晴らしい一時を過ごすことが出来ました。礼拝で献げられました献金の一部も東京にある「まりや食堂」にお送りしました。また隣接する藤崎幼稚園の「クリスマス」では子供たちが可愛らしい「降誕劇(ページェント)」等を演じ、クリスマスの礼拝に出席出来ない方のためにはご自宅での「クリスマス訪問祈祷」という形での礼拝を行い、コロナ対策をしつつ、今年も共に主イエスのご降誕を共に喜びお祝いすることが出来たことは感謝すべきことです。

最近、読んだキリスト教関係雑誌では小原克博著「パンデミックとキリスト教 −神学的諸問題−」『福音と世界(2020年11月号)』(新教出版社、2020年、6−11頁)が興味深い論考でした。コロナウイルスによって私たち人類が様々な形でコロナに対しての思考や格闘を余儀なくされており、この論文では宗教との関係や「バーチャル空間」等、様々な神学的な問いが投げかけられています。その中で「バーチャル空間で人は飢えや渇きを満たすことは出来ない。」、「身体性・動物性・大地性を統合する世界観の再構築」、「『食』の神学を考える」(いずれも10頁)等々、興味深い考察がなされています。

これらについてはキリスト教会としてどうであるのか、その判断やそれを行なう実践の前提とは何かという問題があることは言うまでもありません。この半年、用いられ続けた「共生」という言葉は神学者ボンヘッファーが語ったような「共に生きる生活」等と異なることは言うまでもありません。本当は誰もがコロナとの「共生」等を望んではいないわけです。「インターネット」を用いての礼拝が「バーチャル・リアリティーな教会」(現実と全く同じように知覚される教会)ではない事は言うまでもなく、この事をはっきりと示すと問題があるので、言いにくいことなのですが、そのような形での礼拝は礼拝出席が困難な方のための礼拝であり、同時に、礼拝出席が可能な方にとっては「コロナ禍」という単なる不可抗力によって行われているに過ぎないものでもあるわけです。おそらくコロナ禍を克服した状態での会堂等での礼拝を待ち望む人もおられると思います。全ては主なる神の御心次第でもあります。ワクチンで全てが直ぐに解決するわけではありませんが、今年はようやく配布される見通しのようです。

また水谷誠著「シュライアマハー −その神学の構造」『基督教研究 82・1、2号』(同志社大学神学部基督教研究会、2020年、1−19頁)は同志社大学神学部でシュライアマハー(シュライエルマッハー)研究を始めとして、組織神学等を教えてこられた水谷誠教授が自らの講演に手を加えて載せておられるものです。この中では特に彼の神学が「宗教哲学」についての神学の理解に歴史的限界があるにもかかわらず、「宗教一般におけるキリスト教の位置を問い尋ねる」(15頁)等、教会においてだけでなく、それ以外において十分、有意義な内容が含まれているものであることが分かります。この神学者についての日本における研究は20世紀の現代神学者(特に弁証法神学)に対する研究の勢いやその強い影響もあり、日本語では数少なく貴重でもあります。ちなみに同教授は今年度末で退官されるそうです。最近、キリスト教古典叢書の一つとして『キリスト教信仰』(F・シュライアマハー著、安酸敏眞訳、教文館)も出版されました。今後もこの神学者及びこの神学者から様々な意味で影響を受けた神学者とその思想の研究はなされ続けることでしょう。

今後も、まだまだ寒い日が続きますが、皆様、お体ご自愛下さい。

 

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