雑記帳(]Y)

 

川上純平         2021・5・8〜

 

 

2021年5月8日(土)

 

新年度が始まり、一ヶ月が経ちました。皆様、コロナウイルスとの苦闘の日々をお過ごしのことと思います。また既にコロナウイルスによって悲しみ、苦しみの中にある方々にお見舞い申し上げ、またお悔やみ申し上げます。コロナウイルス感染の完全終息を祈ります。

2021年2月17日に最高裁判所で「君が代」判決がなされ、2009年当時、東京都立特別支援学校教員で停職処分を受けていた根津公子さんと河原井純子さんの停職取消が確定しました。これは卒業式の「君が代」斉唱の際に、教員でありながら、起立しなかったことは職務命令違反とされ停職処分を受けていましたが、それが最高裁判所で停職の取消が確定したものです。このウェブサイトのリンクのページにも載せています。かつて戦争遂行のため全体統制された時代、信教・思想・集会・表現等の自由が奪われたことを想い起し、およそ八十年前のかつての戦争のような悲惨な出来事を繰り返してはならない事と今回の十二年の闘いを経ての勝利であることを覚えます。

2011年3月11日に発生した「東日本大震災」から10年の年となりました。日本基督教団藤崎教会でもこの十年を覚え、祈りの時を過ごしました。未だに悲しみ、苦しみの中にある方々に主なる神の慰めと癒しを祈ります。

その震災は様々な課題を残しました。その中で福島第一原子力発電所放射能事故の汚染水の問題で、それによって生じた放射能物質トリチウムを海に流して良いのかどうかが問題となっています。風評被害だけでなく、中国や韓国が海洋放出に反対であるからではなく、そもそもトリチウムは自然環境、人に対して有害ではないのかということです。インターネット上でもその理由や根拠を挙げながら、海洋放出に反対する記述が幾つか載せられています。他の方法を選択する余地や環境汚染につながらないようにする対策等が必要である事を思わされます。青森県にある六ヶ所村核燃再処理工場の問題を想い起させます。

今年3月17日に「同性愛裁判」が札幌地方裁判所で行われ、同性婚を認めないのは憲法違反であるとする判決が下されました。この事が「性的少数者差別」を無くしていくきっかけの一つとなっていく事を望みます。

今年2月頃に放映されていた株式会社ニトリのコマーシャルに「讃美歌21」(日本基督教団出版局)に収められています「493番(いつくしみ深い)」の曲が使用されていました。テレビを見ていて、どこかで聞いたことのあるメロディだと思ったら、讃美歌だったのです。もっともこの讃美歌のメロディは後に文部省唱歌としても使われています。この讃美歌はキリスト教では通常の礼拝だけでなく、キリスト教式の結婚式や葬儀式等で用いられることも多い讃美歌です。

コロナウイルスに対するワクチン接種が徐々に行われています。また4月25日に東京都と一部の府県にて三度目の「緊急事態宣言」が出され、その期間が延長されます。同時に人と人とがお互いに顔と顔とを向かい合わせること事や仕事や生活が困難になるということは大変苦しいことです。この事もお察しします。

「ウイルス感染」のような形の「パンデミック」は今に始まったものではありませんし、はるか昔から発生し、その都度、人類は対処してきたわけですが、私の場合、今回のことで「人間とは何か」という問いが絶えず頭に浮かびました。これは決して「強迫観念」ではありません。キリスト者(クリスチャン、キリスト教を信じる人)の場合、このような問題について聖書信仰にその解決の糸口を見出そうとする者ですが、同時にキリスト者は医学等の自然科学的な観点や社会学のような社会科学的な観点との関係でも問題解決しようとするものなのです。そして、この関係の違いによってプロテスタント・キリスト者の間でもその対応の仕方が福音派と社会派の見解や対応の違いとして表されているようです。

ところで、人類とコロナウイルスとの「共生」などというものはあり得るのでしょうか。これは基本的には受け入れられないものであり、人類にとって将来的な理想像ではないでしょう。それには人間が弱く限界のあるもの(例:人は食べ物を全く摂取しないで生きることは出来ない)であるゆえに、自分たちにとって都合の良いように自然を理解し、用いてきたという現実を認識することが大切です。これは生物のサイクルとの関りもあります。人が生きていく上で大切な空気が公害によってではなく、自然に存在するウイルスによって汚されてしまっているので、どうすれば良いのかよく分からず誤解されているということはないのではないでしょうか。自然との関りについてその事と自分たちをコロナウイルス感染から守ることは別なのではないかということがあるのです。自然との「共生」とは人が動物のペットを飼育することとは話が別です。

それは、この場合の「自然」とは人の手が入っていない、人が加工していないという意味での「自然」であるからです。その自然は、時には人に対して猛威を振るうことがありますが、最終的には、キリスト教信仰や神学との関連で言えば、「被造物(主なる神によって造られた物〈これには人も含まれる〉の保全」が理想であるということではないでしょうか。そもそも人間には宇宙を含めて自然世界全てを認識する力はないのではないでしょうか。キリスト教の信仰を持つ者は信仰(例:畏れと感謝)や理性をその理想のために用いる存在でもあるのです。

「たとえ 明日世の終わりが来ようとも 今日リンゴの木を植える」という言葉は宗教改革者マルティン・ルターの言葉とされています。今年3月21日にNHK−Eテレビで放映された「こころの時代〜宗教・人生〜 それでも生きる〜旧約聖書・コヘレトの言葉(第6回 それでも種をまく)」で小友聡先生(東京神学大学教授、日本基督教団中村町教会牧師)がこの言葉を引用しておられました。この言葉をマルティン・ルターが語ったという確実な根拠や資料はありませんが、キリスト者(クリスチャン、キリスト教を信じる人)はこの言葉をルターの言葉としているようです。『改訂新版 キリスト教とは何か キリスト教入門』(大宮溥著、日本キリスト教団出版局、2010年7版)の98頁でも「希望に生きる堅実な人の姿」を表したルターの言葉としてこの言葉が引用されています。様々な書籍等を見比べてみますと、この言葉自体の詳細な違いがありますが、これは基本的には同じ文言のようです。

偶然にもNHKテレビが今年2月7日に放映し、5月8日にも再放映した「NHKスペシャル『2030 未来への分岐点』飽食の悪夢〜水・料クライシス〜」でもこの言葉が登場しました。但し、やはりこの番組ではルターが語った言葉であるとはされていません。この番組では2030年にもたらされる世界規模での食料と水の危機問題が取扱われ、人間による自然環境破壊や人間の欲望を中心とした社会を促進した結果、10年後にそのような事態となる事が警告されています。そのような意味ではこの問題はコロナウイルス感染とも全く無関係ではないようです。この番組の中で環境破壊に留意した農業や食べ物が行き渡らないで困っている人々に余った食べ物を回す等の取り組みが紹介されていました。政治と経済の知識と自然科学的な知識をどのように用いるのかということでしょうが、私たち人間が倫理的な視点の物事を見ることも必要なようです。

この時期、お店では雪貯蔵りんごがお店に出回っていますが、これは例えば青森県等で秋に収穫されたりんごを雪の中に貯蔵し、春になってから出荷したもので、それにより甘さが増したりんごとなります。

私は今年3月で多くの方々にお世話になった日本基督教団藤崎教会の牧師(主任担任教師)を辞任し、4月より無任所教師として奥羽教区から関東教区に移りました。感謝しつつ、藤崎教会の今後の働きに主なる神の祝福があるようお祈りします。自らの置かれた場で神学と教会、伝道・宣教等、様々な事について考え生きていきたいと思います。

今年4月に関東に引っ越して、青森県津軽にいた時に普通に水道から飲むことの出来た水のおいしさ、そこに普通に存在した自然の素晴らしさを今更ながら、実感しています。また14年間、青森県津軽にいた為に多少、未だに関東との気候(気温等)の違いに不慣れになっていますが、徐々に感覚を取り戻し、慣れてきているようです。

今後、徐々に暑くなりますが、皆様もご健康にご留意下さい。

 

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