雑記帳(\)                       

 

川上純平         2014・4・30〜

 

 

2014年4月30日(水)

 

最近、「神学」について書かれた二冊の本が出版されました。『学問論と神学 (ヴォルフハルト・パネンベルク著:青山学院大学総合研究所叢書)』(教文館)と『大学のあり方−諸学の知と神の知(スタンリー・ハワーワス著:青山学院大学総合研究所叢書)』(ヨベル)の2冊です。「そもそも神学とは何か」ということについては聖書に起源を置くことができましょうし、シュライエルマッハーの『神学通論』やパネンベルクの“Systematische Theologie”(『組織神学』)を始めとして、モルトマン、エーベリンク、ユンゲル等、様々な神学者が本や論文等を執筆しています。今回、出版された、この二冊の本は他の諸学問との関係で「神学」はどのように位置付けられるのか、キリスト教主義大学の中でどのような意味があるのかを中心とし、「神学とは何か」を考えるにあたって重要な本なのではないかと思います。もしかすると、将来、自分はこれについて研究することになるかもしれません。

この場合の「神学」は「キリスト教神学」に限定されますし、「宗教学」や「宗教哲学」ではありません。カール・バルトが語る彼のアンセルムス研究に由来する「信仰における理解」や「知解を求める信仰」に限定されるわけでもないのです。これについては「教会」の権威、実存等をどのように位置付けるかという事が関わってきます。新約聖書ではパウロが語る「真理(アレテイア)」は福音書にも登場するナザレのイエスが救い主(キリスト)であり、神は人がキリストに対して信仰を持つことによって救おうとされたという「福音(エウアンゲリオン:良き音づれ)」のことです。パウロが語る意味での「真理」と言われるものが、例えば「ムスリム」(イスラム教徒)の人々にとってどうか、ということになると、どうでしょうか。それは一般的な意味での「真理」ではないゆえに、全ての「ムスリム」の人々がキリスト教に回心する(キリスト教に転向する)可能性は、ほとんどないということを考えると、この場合の「真理」という言葉の使い方が全く異なるものであるということが言えると思います。

それではキリスト教会の礼拝で語られる「説教」は「神学」でしょうか。説教の土台は「聖書」であり、「説教」は会堂に集まる会衆に対して語られる「神の言葉」であり、今日の現実に即して語られるものとされます。それは現実社会の様々な事柄を「聖書」として扱うわけではありませんし、説教作成にあたって「神学書」を読むこともありますが、「説教」そのものは「神学」ではありません。

今日、「キリスト教神学」は教会とこの世における「キリスト教信仰」に関わる学問でありますが、それは聖書を土台にしたものです。特にそこでは「キリスト教」ということですから、キリスト教が語る神と人との関係が中心となります。カール・バルトの場合は「教義学」が中心になっていて、特に教会が中心となりますが、彼が語る教会は聖霊の働きがあるところに存在するゆえに、教会がどこにあるのかを語っていないということがあります。キリスト教において「神の御心」や「神の計画」が人間の頭の中で考え尽すことの出来るものではないことは言うまでもありませんが、同時に「神学」は人間の行う学問としてのみ成立するのです。

20日(日)に他のキリスト教会同様、藤崎教会でも「イースター(復活日)礼拝」(「イースター(復活日)」については雑記帳の「2012年4月30日(月)」の項目を参照)を行ないました。ちょうど、この礼拝は「東奥義塾高等学校」、「聖愛中学校」、「聖愛高等学校」の入学記念礼拝でもあり、多くの生徒の方々が礼拝に来ました。教会学校ではイースター恒例の「卵隠しゲーム」をし、礼拝後には「教会総会」を行って、新年度の計画等を決めました。昨年度、神の与えた試練に癒しを求めつつ、神の恵みに感謝する一年であったことを皆で覚えました(心に留めました)。その一週間後には「地区総会」に出席しました。この総会で昨年度の地区の活動について振り返り、また今年度の地区の活動について話し合いました。この時に私はこの4年間、「地区伝道委員」を務めさせて頂きましたが、今年度からは「地区社会委員」を務めることが決まりました。また今年度から教会に隣接する藤崎幼稚園の理事長も務めさせて頂くことになりました。教会の牧師を務めると同時に行なうので、忙しくなりますが、これも神の御心と思いつつ、行なっていきたいと思います。

これからの季節、津軽のリンゴの木に花が咲き始めます。一度、藤崎の町で「世界リンゴ会議」なるものを行ってみたらどうかと思います。庭のプランタで、私は今年も野菜を育て始めます。巷では「科学とは何か」を考えさせる「論文騒ぎ」がありました。「科学」の世界では特に「客観的データ」が必要とされます。また韓国で大型客船が沈没し、新興宗教が関わっているのかという事も含めて様々に騒がれていますが、悲しみの中にある遺族の方々が癒されよう祈ります。人間の限界を認めて、様々な備えをなし、また可能性を求めて生きていくことが求められているようです。

 

 

2014年8月4日(月)

 

先月、キリスト教神学のページ(T)」に書評「『信仰生活の手引き 礼拝』(越川弘英著 日本キリスト教団出版局)」を載せました。読んでみて、キリスト教の「礼拝とは何か」ということについて入門書として適切だと思ったという感想等を含めて、同じ地区の牧師の集まりで発表したものを載せたのです。また今日、同じページの「実践神学 礼拝説教」の欄に資料「主日礼拝説教『全ての罪から救われて』(旧約聖書エゼキエル書37章15‐23節)」を載せました。「キリストにある平和」について、また「イスラエル問題」について触れた礼拝説教を資料として載せたものです。

ところで、この「雑記帳」は、このウェブサイトの「雑記帳」ということなので、これからはウェブサイト内の更新内容に付随することと「キリスト教神学」に関連することを中心に書かせていただくことにします。「キリスト教神学」について最近思ったことを、今までこのウェブサイト内で発表した内容と部分的に重複しますが、ざっくばらんに以下に書かせていただきます。

「キリスト教神学」は人間の理性(理性:世界や物事を理解するために用いる人間の力で、主に計算したり、理論的に考えたりする時に用いる)を用いるのですが、この人間の理性自体の限界やどのような理性をどれだけ用いるのかについて理解の違いがあります。「キリスト教」という宗教について、キリスト教の場合、キリスト教が宗教であるゆえに、キリスト教を信じる人間に聖書の神の力が働いているとされます。そして、ここで私が「そのように信じている」とキリスト教信仰を主張する時に、それは主体的に聖書の神を信じているというわけですが、客観的には、例えば、私という一人の人間が毎週、日曜日にキリスト教会の礼拝に出席していることで証明され得るのです。この場合、キリスト教会の礼拝に出席しても、その礼拝の内容から考えて、自らの名誉にも利益追求にも欲望充足にもならないことから、また「信仰告白」を行なったりしていることからも、キリスト教信仰を持っていることは明らかでしょう。またキリスト教について説明したり、表現したりすることには限界がありますが、それを行う人間に働くものとしての聖霊の働きがあれば、それは「証し」となります。そして、それを行なうためには、例えば、「聖霊の働きとは何か」を理解しておくことが必要であるのです。そして、「聖霊の働きとは何か」ということもキリスト教神学によって出来上がったものなのです。

「教会と神学」の関係については、当然のことながら、「教会」と「神学」という、この二つはお互いに影響下にあり、それぞれ別のものであって全く同じものではありません。「神学があって、教会が存在する」と言う時に、教会については全てのことがそのように言いきれるわけではありません。しかし、なぜそう言わなければならなかったのか?つまり、「神学があって、教会がある」という言葉を語る理由があるのです。そこにはその人の置かれた国の宗教的状況、伝統、教育等に依存するということがあります。また、これらのことを語らないキリスト者がいることも覚えられるべきでしょう。「教会があって、神学がある」という事についても然りです。

信仰と学問の違いについて、キリスト教では「信仰」が大切とされるわけですが、この「信仰」はキリスト教信仰のことであって、キリスト者としての生活の基本となるものです。学問は大切な素晴らしいものであると、同時に、どのように活用されるのかということがあり、またそもそもそれを行なう人間の手にゆだねられているゆえに、限界があることを考慮しなければなりません。初期のキリスト教において、ある一定の時代、ある一定の地域がそうでありましたが、学者や学問の世界に伝え、説得し、論争するため、初期キリスト神学が形成され必要とされたという歴史があります。こうったものはキリスト教の伝道の一つの形でもあったのです。現在において全てのキリスト教がそのような状況にあるのでしょうか。キリスト教神学というよりも、キリスト教についての説明と言った方が良いものも存在します。

 

 

2014年9月6日(土)

 

先月、8月下旬に私は京都の同志社大学と関西セミナーハウス(日本クリスチャン・アカデミー)で行われた「同志社神学協議会」に参加しました。これは同志社大学神学部卒業生やそこで学んだ方々、同志社大学神学部と歴史的に関わりのある会衆派教会の信徒の方々が参加する大規模な同窓会を兼ねたような学習会・交わりの会で、およそ300名が集まりました。そこで行われた講演は原誠教授による「日本基督教団信仰告白」の制定・歴史的成立についてのお話でした。原誠教授は藤崎教会の信徒でありました原鉄太郎の孫にあたる方でもあります。

現在、藤崎教会でも礼拝の中で信仰告白として「使徒信条」、「日本基督教団信仰告白」を告白しています。「信仰告白」は自分たちの教会の、あるいは自分たちが属する教派の信仰がどのようなものであるのか、公に告白し、それによって教会全体をまとめるもので、教会生活のための「信仰告白」です。ただ原誠教授のお話では「日本基督教団信仰告白」の歴史的な成立過程は、順序良くきちんと手続きを踏んで行なったものではなく、国家が宗教を戦争に利用するために宗教統制を行う中で国家の要請で作られたものが元になっているということがあったということでした。天皇を神として、全ての宗教を国家神道にひざまずかせた時代の政策によるものです。また日本基督教団の旧教派の一つである組合教会(会衆派教会が基礎となっている)はそれぞれの教会で独自の信仰告白を行うことがありましたが、全体をまとめる信仰告白がない教派でした。ですから、「日本基督教団信仰告白」が正統的福音主義信仰を告白するものでありながらも、内容や歴史に関しては、本当は議論し精査しなければならないにもかかわらず、それがなされないまま現在に至っているという、そのような側面があることもお聞きしました。また1967年に日本基督教団議長名で告白された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という「戦責告白」についての見解は様々にあります。講演会の後、「聖餐」、「信仰職制」、「招聘性」、「教憲教規」等との兼ね合いで、活発な質疑応答がなされ、また懐かしい出会いもありました。

この時、私は休暇をとっていたので、1877年に建てられた日本で最初の自給教会(海外の教会・宣教師の援助なしに自らの教会だけで活動する)である「日本基督教団浪花教会」の会堂を見学させていただきました。その教会の初代牧師の沢山保羅は日本で最初に按手礼を受けた牧師でした。会堂はアメリカ人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズによる建築です。この教会が日本基督教団に所属する前は組合教会に属していました。これを旧教派と言います。そこを見学して、今、私のいる藤崎教会も津軽の厳しい生活環境にあって最初、自給教会であったことを想い起こしました。また以前も少しふれましたが(雑記帳の「2013年11月30日(土)」)、2013年にNHKで放映された大河ドラマ「八重の桜」の中に登場した伊勢時雄こと横井時雄のお墓を見るために京都南禅寺の天授庵にも訪れました。お寺の中の墓地に横井家のお墓があったのです。この人は1879年に設立された今治教会(現在の日本基督教団今治教会:愛媛県)の初代牧師となった人です。この今治教会も旧教派は組合教会です。私は自らが組合教会の伝統の下で育ったことを思わされました。また7月に日本基督教団大森めぐみ教会牧師、日本基督教団教育委員長、世界宣教協力委員長、日本キリスト教教育センター理事長等を歴任した岩村信二先生が召天され、8月にご葬儀が執り行われました。先生の天国での祝福と、地上に残されたご遺族・関係者の方々に神からの深い憐れみと慰めが豊かにあることを祈ります。

 

 

2014年11月12日(水)

 

11月に入り、秋もかなり深まりました。この数カ月、私は以下の幾つかの研修会に出席しました。9月上旬は「奥羽教区教師宣教セミナー」が行われ、主に日本基督教団奥羽教区の牧師たち(日本基督教団では牧師のことを「教師」と呼ぶ)たちが出席し学びの時を過ごしました。講師は平野克己先生(雑誌『Ministry』〈キリスト新聞社〉編集主幹・日本基督教団代田教会牧師)で、主に教会の礼拝での「説教」についてご講演をお聞きし、話し合い、交わりを深めました。講演の中でマルティン・ルーサー・キング牧師の説教分析等もあり、自らの説教について深みを与えるべく考える良い学びの時となりました。

10月中旬には「奥羽教区社会問題セミナー」が行われ、今回は主に奥羽教区の「性差別問題小委員会」が担当し、講師として山口里子先生(日本フェミニスト神学・宣教センター共同ディレクター)をお招きし、「新しい聖書の読み方」「フェミニズム神学」「イエスの生き方と癒しによる共同体形成」等について学び、特に講師の先生が現在の研究にまで至った自分史についてもお話して下さり、教会の信徒が聖書について新しい読み方を行っていくこと、特に女性が自らの人生について振返り、考え直す機会を与えられ、良き交わりの時になったと思います。このセミナーの中で「脱原発講演会」も同時に行われ、小森陽一教授(東京大学大学院・全国九条の会事務局長)から「脱原発と憲法」についての講演もお聞きしました。

10月下旬から11月上旬にかけて岡部一興先生(日本キリスト教史学会庶務理事・横浜プロテスタント史研究会世話人)が藤崎教会創立時の信徒であった長谷川誠三の研究調査のため藤崎を訪れました。長谷川誠三は弘前学院創立に尽力してもいます。岡部先生は二年後に研究調査に基づく本を出版されるということですが、かつて学生の頃、1968年にも、一度、藤崎教会を訪れておられることがわかり、藤崎教会の信徒、教会関係者とも良き交わりの時を与えられました。

11月中旬には「奥羽教区教師継続教育講座」が行われ、講師は野村信教授(東北学院大学文学部・アジア・カルヴァン学会日本支部代表)で、主に「カルヴァンの説教と神学」についてご講演をお聞きし、説教作成にあたってのカルヴァンの聖書の読み方について、カルヴァンの神学、教会の教義から21世紀という新しい時代の神学への展開について学びの時を深めました。特にカルヴァンの神学方法、特に創造論から神学を新しく再構築するお話は、質疑応答も活発になされ、興味深いものがありました。

これらの研修会を通して、キリスト者個人の自分史、その人の人生と実践的な学び、信仰と教会生活、「教会とは一体何なのか」、教会での教師としての奉仕等を神学との関わりで学びました。それぞれ準備して下さった方々、そして主なる神に感謝します。

 

 

2015年1月1日(木)

 

2015年を迎えました。今年も主なる神と共にあって宣教の働きの機会が与えられたことを感謝して取り組んでいきたいと思います。

 最近、読んだキリスト教関係雑誌『福音と世界(2014年11月号及び2015年1月号)』(新教出版社)に興味深い論稿や記事が載っていました。一つは『福音と世界(11月号)』に載せられているC.S.ソン氏による「この地上に永続する都をもっておらず‐私の神学遍歴」(50‐59頁)です。同氏は太平洋神学校等で教え、「物語の神学」を提唱した神学者です。明らかにそれまでの欧米の神学とは異なるキリスト教神学を提唱し、その主張は神学の方法論とも関わります。C.S.ソン氏は私が同志社神学部の学生であった時に客員教授として授業を受け持っておられ、その講義を聴いた覚えがあります。もう一つは『福音と世界(2015年1月号)』に載せられている深井智朗氏による「追悼 パネンベルク教授を送る」(44、45頁)です。キリスト教神学の世界では有名なドイツの神学者ヴォルフハルト・パネンベルクが2014年9月5日に86歳で天に召されました(キリスト教では亡くなることを「召天する」と表現する)。この「キリスト教神学のウェブサイト」の中でもその著作物を扱ったことのある神学者です。この中で深井氏はパネンベルクの神学の出発点には「非合理的な経験」があったと述べています(44頁)。神学者とは何なのか、信仰を土台とすることの意味を考えさせられました。ちなみに深井氏は今年、日本基督教団奥羽教区に属する教会・伝道所の「全体修養会」の講師として来られ、キリスト教の「終末論」との兼ね合いで「希望に生きる教会」と題して講演をなさっておられます。またこの『福音と世界(2015年1月号)』には吉田新氏による「未受洗陪餐とドイツの教会(上) ヘッセン・ナッサウ州福音主義教会 改訂版『教会生活規則』を読む」(64‐68頁)と題する論稿が載せられており、この中ではドイツのとあるプロテスタント教会が未受洗者の陪餐を認める決定を行ったことについて述べられており、現在、日本基督教団で未受洗者の陪餐について様々な意見があることも併せて考えると興味深いです。

 ところで今年は様々な意味で記念する年です。かつてドイツの神学者エルンスト・トレルチが生まれ、イギリスでメソジスト教会牧師ウィリアム・ブースが救世軍を創立し、アメリカでリンカーン大統領が暗殺され、長崎で大浦天主堂(日本26聖殉教者聖堂)が建立され、矢野元隆がバラから洗礼を受け、日本最初のプロテスタント信者が生まれて150年、新島襄同志社英学校を開校し、アメリカン・ボードの婦人宣教師たちによって私塾神戸ホーム(神戸女学院の前身)が設立され、アメリカ聖公会の婦人教師たちによって「エディの学校」(平安女学院の前身)が開校し、アメリカ聖公会のウィリアムズたちによって立教女学校(立教女学院の前身)が創立され、東北最初のプロテスタント教会である弘前公会(後の日本基督教団弘前教会)が設立され、スイスの深層心理学者カール・グスタフ・ユング生まれて140年、アメリカ・メソジスト監督教会によって福岡英和女学校(福岡女学院の前身)が創立され、アメリカ長老教会によって金沢女学校(北陸学院の前身)が創立されて130年、スウェーデンで「世界学生キリスト教連盟(WSCF)」結成され、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりしか』が執筆されて120年、韓国で延世大学の前身がアメリカの長老派教会宣教師ホリス・グラント・アンダーウッドによって創立されて100年、カナダ合同教会が成立し、植村正久が没し、「治安維持法」が公布されて90年、波多野精一の『宗教哲学』が発表され、同志社神棚事件起こって80年、ボンヘッファーがナチスにより処刑され、第二次世界大戦が終結し、「国際連合」が成立して70年、アラバマ州モントゴメリー市において黒人によるバス乗車ボイコット運動が起こり、日本聖書協会による「口語訳聖書」出版され、イタイイタイ病について初めて学会で報告がなされて60年、神学者パウル・ティリッヒが没し、マルティン・ブーバーが没し、アメリカが北ベトナム爆撃を開始し、家永三郎氏が教科書検定の民事訴訟を起こし、新潟水俣病(阿賀野川有機水銀中毒事件)が発生して50年、ベトナム戦争が終結し、「種谷裁判」が行なわれて日本基督教団種谷俊一牧師に無罪判決がなされ、日本基督教団が部落差別問題特別委員会を設置して40年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が敗戦40周年の演説を行なって、日本基督教団が「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同に関する委員会」(「合同」特設委員会)を設置し、中曽根首相が戦後初めての首相による靖国神社公式参拝を行なって30年、阪神淡路大震災が起こって、オウム真理教による地下鉄サリン事件起こり、沖縄でアメリカ兵による女子小学生暴行事件が起こって20年、キリスト教超教派団体創設者「テゼ共同体」のブラザー・ロジェが殺され、地球温暖化に対する国際的な取り決めを行った「京都議定書」が発効され、異なる宗教者同士による憲法9条を尊ぶ「宗教者九条の和」が発足して10年等です。中には喜ぶべきでない、忘れてはならない心に刻むべき記念も含まれています。例えば、アメリカのリンカーン大統領暗殺、「治安維持法」の公布、ナチスによるボンヘッファー処刑、北ベトナム爆撃開始、イタイイタイ病や新潟水俣病発生、靖国神社公式参拝、阪神淡路大震災発生、オウム真理教による地下鉄サリン事件、沖縄での米兵による暴行事件、ブラザー・ロジェ暗殺等です。今年一年も主なる神の恵みがあることを覚えたいと思います。

 

もどる    次のページへ    前のページへ