雑記帳(\)                       

 

川上純平         2014・4・30〜

 

 

2014年4月30日(水)

 

最近、「神学」について書かれた二冊の本が出版されました。『学問論と神学 (ヴォルフハルト・パネンベルク著:青山学院大学総合研究所叢書)』(教文館)と『大学のあり方−諸学の知と神の知(スタンリー・ハワーワス著:青山学院大学総合研究所叢書)』(ヨベル)の2冊です。「そもそも神学とは何か」ということについては聖書に起源を置くことができましょうし、シュライエルマッハーの『神学通論』やパネンベルクの“Systematische Theologie”(『組織神学』)を始めとして、モルトマン、エーベリンク、ユンゲル等、様々な神学者が本や論文等を執筆しています。今回、出版された、この二冊の本は他の諸学問との関係で「神学」はどのように位置付けられるのか、キリスト教主義大学の中でどのような意味があるのかを中心とし、「神学とは何か」を考えるにあたって重要な本なのではないかと思います。もしかすると、将来、自分はこれについて研究することになるかもしれません。

この場合の「神学」は「キリスト教神学」に限定されますし、「宗教学」や「宗教哲学」ではありません。カール・バルトが語る彼のアンセルムス研究に由来する「信仰における理解」や「知解を求める信仰」に限定されるわけでもないのです。これについては「教会」の権威、実存等をどのように位置付けるかという事が関わってきます。新約聖書ではパウロが語る「真理(アレテイア)」は福音書にも登場するナザレのイエスが救い主(キリスト)であり、神は人がキリストに対して信仰を持つことによって救おうとされたという「福音(エウアンゲリオン:良き音づれ)」のことです。パウロが語る意味での「真理」と言われるものが、例えば「ムスリム」(イスラム教徒)の人々にとってどうか、ということになると、どうでしょうか。それは一般的な意味での「真理」ではないゆえに、全ての「ムスリム」の人々がキリスト教に回心する(キリスト教に転向する)可能性は、ほとんどないということを考えると、この場合の「真理」という言葉の使い方が全く異なるものであるということが言えると思います。

それではキリスト教会の礼拝で語られる「説教」は「神学」でしょうか。説教の土台は「聖書」であり、「説教」は会堂に集まる会衆に対して語られる「神の言葉」であり、今日の現実に即して語られるものとされます。それは現実社会の様々な事柄を「聖書」として扱うわけではありませんし、説教作成にあたって「神学書」を読むこともありますが、「説教」そのものは「神学」ではありません。

今日、「キリスト教神学」は教会とこの世における「キリスト教信仰」に関わる学問でありますが、それは聖書を土台にしたものです。特にそこでは「キリスト教」ということですから、キリスト教が語る神と人との関係が中心となります。カール・バルトの場合は「教義学」が中心になっていて、特に教会が中心となりますが、彼が語る教会は聖霊の働きがあるところに存在するゆえに、教会がどこにあるのかを語っていないということがあります。キリスト教において「神の御心」や「神の計画」が人間の頭の中で考え尽すことの出来るものではないことは言うまでもありませんが、同時に「神学」は人間の行う学問としてのみ成立するのです。

20日(日)に他のキリスト教会同様、藤崎教会でも「イースター(復活日)礼拝」(「イースター(復活日)」については雑記帳の「2012年4月30日(月)」の項目を参照)を行ないました。ちょうど、この礼拝は「東奥義塾高等学校」、「聖愛中学校」、「聖愛高等学校」の入学記念礼拝でもあり、多くの生徒の方々が礼拝に来ました。教会学校ではイースター恒例の「卵隠しゲーム」をし、礼拝後には「教会総会」を行って、新年度の計画等を決めました。昨年度、神の与えた試練に癒しを求めつつ、神の恵みに感謝する一年であったことを皆で覚えました(心に留めました)。その一週間後には「地区総会」に出席しました。この総会で昨年度の地区の活動について振り返り、また今年度の地区の活動について話し合いました。この時に私はこの4年間、「地区伝道委員」を務めさせて頂きましたが、今年度からは「地区社会委員」を務めることが決まりました。また今年度から教会に隣接する藤崎幼稚園の理事長も務めさせて頂くことになりました。教会の牧師を務めると同時に行なうので、忙しくなりますが、これも神の御心と思いつつ、行なっていきたいと思います。

これからの季節、津軽のリンゴの木に花が咲き始めます。一度、藤崎の町で「世界リンゴ会議」なるものを行ってみたらどうかと思います。庭のプランタで、私は今年も野菜を育て始めます。巷では「科学とは何か」を考えさせる「論文騒ぎ」がありました。「科学」の世界では特に「客観的データ」が必要とされます。また韓国で大型客船が沈没し、新興宗教が関わっているのかという事も含めて様々に騒がれていますが、悲しみの中にある遺族の方々が癒されよう祈ります。人間の限界を認めて、様々な備えをなし、また可能性を求めて生きていくことが求められているようです。

 

 

2014年8月4日(月)

 

先月、キリスト教神学のページ(T)」に書評「『信仰生活の手引き 礼拝』(越川弘英著 日本キリスト教団出版局)」を載せました。読んでみて、キリスト教の「礼拝とは何か」ということについて入門書として適切だと思ったという感想等を含めて、同じ地区の牧師の集まりで発表したものを載せたのです。また今日、同じページの「実践神学 礼拝説教」の欄に資料「主日礼拝説教『全ての罪から救われて』(旧約聖書エゼキエル書37章15‐23節)」を載せました。「キリストにある平和」について、また「イスラエル問題」について触れた礼拝説教を資料として載せたものです。

ところで、この「雑記帳」は、このウェブサイトの「雑記帳」ということなので、これからはウェブサイト内の更新内容に付随することと「キリスト教神学」に関連することを中心に書かせていただくことにします。「キリスト教神学」について最近思ったことを、今までこのウェブサイト内で発表した内容と部分的に重複しますが、ざっくばらんに以下に書かせていただきます。

「キリスト教神学」は人間の理性を用いるのですが、この人間の理性自体の限界やどのような理性をどれだけ用いるのかについて理解の違いがあります。「キリスト教」という宗教について、キリスト教の場合、キリスト教が宗教であるゆえに、キリスト教を信じる人間に聖書の神の力が働いているとされます。そして、ここで私が「そのように信じている」とキリスト教信仰を主張する時に、それは主体的に聖書の神を信じているというわけですが、客観的には、例えば、私という一人の人間が毎週、日曜日にキリスト教会の礼拝に出席していることで証明され得るのです。この場合、キリスト教会の礼拝に出席しても、その礼拝の内容から考えて、自らの名誉にも利益追求にも欲望充足にもならないことから、また「信仰告白」を行なったりしていることからも、キリスト教信仰を持っていることは明らかでしょう。またキリスト教について説明したり、表現したりすることには限界がありますが、それを行う人間に働くものとしての聖霊の働きがあれば、それは「証し」となります。そして、それを行なうためには、例えば、「聖霊の働きとは何か」を理解しておくことが必要であるのです。そして、「聖霊の働きとは何か」ということもキリスト教神学によって出来上がったものなのです。

「教会と神学」の関係については、当然のことながら、「教会」と「神学」という、この二つはお互いに影響下にあり、それぞれ別のものであって全く同じものではありません。「神学があって、教会が存在する」と言う時に、教会については全てのことがそのように言いきれるわけではありません。しかし、なぜそう言わなければならなかったのか?つまり、「神学があって、教会がある」という言葉を語る理由があるのです。そこにはその人の置かれた国の宗教的状況、伝統、教育等に依存するということがあります。また、これらのことを語らないキリスト者がいることも覚えられるべきでしょう。「教会があって、神学がある」という事についても然りです。

信仰と学問の違いについて、キリスト教では「信仰」が大切とされるわけですが、この「信仰」はキリスト教信仰のことであって、キリスト者としての生活の基本となるものです。学問は大切な素晴らしいものであると、同時に、どのように活用されるのかということがあり、またそもそもそれを行なう人間の手にゆだねられているゆえに、限界があることを考慮しなければなりません。初期のキリスト教において、ある一定の時代、ある一定の地域がそうでありましたが、学者や学問の世界に伝え、説得し、論争するため、初期キリスト神学が形成され必要とされたという歴史があります。こうったものはキリスト教の伝道の一つの形でもあったのです。現在において全てのキリスト教がそのような状況にあるのでしょうか。キリスト教神学というよりも、キリスト教についての説明と言った方が良いものも存在します。

 

 

2014年9月6日(土)

 

先月、8月下旬に私は京都の同志社大学と関西セミナーハウス(日本クリスチャン・アカデミー)で行われた「同志社神学協議会」に参加しました。これは同志社大学神学部卒業生やそこで学んだ方々、同志社大学神学部と歴史的に関わりのある会衆派教会の信徒の方々が参加する大規模な同窓会を兼ねたような学習会・交わりの会で、およそ300名が集まりました。そこで行われた講演は藤崎教会の信徒でありました原鉄太郎の孫にあたる原誠教授による「日本基督教団信仰告白」の制定・歴史的成立についてのお話でした。

現在、藤崎教会でも礼拝の中で信仰告白として「使徒信条」、「日本基督教団信仰告白」を告白しています。これは自分たちの教会の、あるいは自分たちが属する教派の信仰がどのようなものであるのか、公に告白し、それによって教会全体をまとめるもので、教会生活のための信仰告白です。ただ原誠教授のお話では「日本基督教団信仰告白」の歴史的な成立過程は、順序良くきちんと手続きを踏んで行なったものではありませんでした。国家が宗教を戦争に利用するために宗教統制を行う中で国家の要請で作られたものが元になっているということがあったのです。天皇を神として、全ての宗教を国家神道にひざまずかせた時代の政策によるものです。また日本基督教団の旧教派の一つである組合教会(会衆派教会が基礎となっている)はそれぞれの教会で独自の信仰告白を行うことがありましたが、全体をまとめる信仰告白がない教派でした。ですから、「日本基督教団信仰告白」が正統的福音主義信仰を告白するものでありながらも、内容や歴史に関しては、本当は議論し精査しなければならないにもかかわらず、それがなされないまま現在に至っているという、そのような側面があることを学びました。また1967年に日本基督教団議長名で告白された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という戦責告白についての見解は様々にあります。講演会の後、「聖餐」、「信仰職制」、「招聘性」、「教憲教規」等との兼ね合いで、活発な質疑応答がなされ、また懐かしい出会いもありました。

この時、私は休暇をとっていたので、1877年に建てられた日本で最初の自給教会(海外の教会・宣教師の援助なしに自らの教会だけで活動する)である「日本基督教団浪花教会」の会堂を見学させていただきました。その教会の初代牧師の沢山保羅は日本で最初に按手礼を受けた牧師でした。会堂はアメリカ人建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズによる建築です。この教会が日本基督教団に所属する前は組合教会に属していました。これを旧教派と言います。そこを見学して、今、私のいる藤崎教会も津軽の厳しい生活環境にあって最初、自給教会であったことを想い起こしました。また以前も少しふれましたが(雑記帳の「2013年11月30日(土)」)、2013年にNHKで放映された大河ドラマ「八重の桜」の中に登場した伊勢時雄こと横井時雄のお墓を見るために京都南禅寺の天授庵にも訪れました。お寺の中の墓地に横井家のお墓があったのです。この人は1879年に設立された今治教会(現在の日本基督教団今治教会:愛媛県)の初代牧師となった人です。この今治教会も旧教派は組合教会です。私は自らが組合教会の伝統の下で育ったことを思わされました。また7月に日本基督教団大森めぐみ教会牧師、日本基督教団教育委員長、世界宣教協力委員長、日本キリスト教教育センター理事長等を歴任した岩村信二先生が召天され、8月にご葬儀が執り行われました。先生の天国での祝福と、地上に残されたご遺族・関係者の方々に神からの深い憐れみと慰めが豊かにあることを祈ります。

 

 

2014年11月12日(水)

 

11月に入り、秋もかなり深まりました。この数カ月、私は以下の幾つかの研修会に出席しました。9月上旬は「奥羽教区教師宣教セミナー」が行われ、主に日本基督教団奥羽教区の牧師たち(日本基督教団では牧師のことを「教師」と呼ぶ)たちが出席し学びの時を過ごしました。講師は平野克己先生(雑誌『Ministry』〈キリスト新聞社〉編集主幹・日本基督教団代田教会牧師)で、主に教会の礼拝での「説教」についてご講演をお聞きし、話し合い、交わりを深めました。講演の中でマルティン・ルーサー・キング牧師の説教分析等もあり、自らの説教について深みを与えるべく考える良い学びの時となりました。

10月中旬には「奥羽教区社会問題セミナー」が行われ、今回は主に奥羽教区の「性差別問題小委員会」が担当し、講師として山口里子先生(日本フェミニスト神学・宣教センター共同ディレクター)をお招きし、「新しい聖書の読み方」「フェミニズム神学」「イエスの生き方と癒しによる共同体形成」等について学び、特に講師の先生が現在の研究にまで至った自分史についてもお話して下さり、教会の信徒が聖書について新しい読み方を行っていくこと、特に女性が自らの人生について振返り、考え直す機会を与えられ、良き交わりの時になったと思います。このセミナーの中で「脱原発講演会」も同時に行われ、小森陽一教授(東京大学大学院・全国九条の会事務局長)から「脱原発と憲法」についての講演もお聞きしました。

10月下旬から11月上旬にかけて岡部一興先生(日本キリスト教史学会庶務理事・横浜プロテスタント史研究会世話人)が藤崎教会創立時の信徒であった長谷川誠三の研究調査のため藤崎を訪れました。長谷川誠三は弘前学院創立に尽力してもいます。岡部先生は二年後に研究調査に基づく本を出版されるということですが、かつて学生の頃、1968年にも、一度、藤崎教会を訪れておられることがわかり、藤崎教会の信徒、教会関係者とも良き交わりの時を与えられました。

11月中旬には「奥羽教区教師継続教育講座」が行われ、講師は野村信教授(東北学院大学文学部・アジア・カルヴァン学会日本支部代表)で、主に「カルヴァンの説教と神学」についてご講演をお聞きし、説教作成にあたってのカルヴァンの聖書の読み方について、カルヴァンの神学、教会の教義から21世紀という新しい時代の神学への展開について学びの時を深めました。特にカルヴァンの神学方法、特に創造論から神学を新しく再構築するお話は、質疑応答も活発になされ、興味深いものがありました。

これらの研修会を通して、キリスト者個人の自分史、その人の人生と実践的な学び、信仰と教会生活、「教会とは一体何なのか」、教会での教師としての奉仕等を神学との関わりで学びました。それぞれ準備して下さった方々、そして主なる神に感謝します。

 

 

2015年1月1日(木)

 

2015年を迎えました。今年も主なる神と共にあって宣教の働きの機会が与えられたことを感謝して取り組んでいきたいと思います。

 最近、読んだキリスト教関係雑誌『福音と世界(2014年11月号及び2015年1月号)』(新教出版社)に興味深い論稿や記事が載っていました。一つは『福音と世界(11月号)』に載せられているC.S.ソン氏による「この地上に永続する都をもっておらず‐私の神学遍歴」(50‐59頁)です。同氏は太平洋神学校等で教え、「物語の神学」を提唱した神学者です。明らかにそれまでの欧米の神学とは異なるキリスト教神学を提唱し、その主張は神学の方法論とも関わります。C.S.ソン氏は私が同志社神学部の学生であった時に客員教授として授業を受け持っておられ、その講義を聴いた覚えがあります。もう一つは『福音と世界(2015年1月号)』に載せられている深井智朗氏による「追悼 パネンベルク教授を送る」(44、45頁)です。キリスト教神学の世界では有名なドイツの神学者ヴォルフハルト・パネンベルクが2014年9月5日に86歳で天に召されました(キリスト教では亡くなることを「召天する」と表現する)。この「キリスト教神学のウェブサイト」の中でもその著作物を扱ったことのある神学者です。この中で深井氏はパネンベルクの神学の出発点には「非合理的な経験」があったと述べています(44頁)。神学者とは何なのか、信仰を土台とすることの意味を考えさせられました。ちなみに深井氏は今年、日本基督教団奥羽教区に属する教会・伝道所の「全体修養会」の講師として来られ、キリスト教の「終末論」との兼ね合いで「希望に生きる教会」と題して講演をなさっておられます。またこの『福音と世界(2015年1月号)』には吉田新氏による「未受洗陪餐とドイツの教会(上) ヘッセン・ナッサウ州福音主義教会 改訂版『教会生活規則』を読む」(64‐68頁)と題する論稿が載せられており、この中ではドイツのとあるプロテスタント教会が未受洗者の陪餐を認める決定を行ったことについて述べられており、現在、日本基督教団で未受洗者の陪餐について様々な意見があることも併せて考えると興味深いです。

 ところで今年は様々な意味で記念する年です。かつてドイツの神学者エルンスト・トレルチが生まれ、イギリスでメソジスト教会牧師ウィリアム・ブースが救世軍を創立し、アメリカでリンカーン大統領が暗殺され、長崎で大浦天主堂(日本26聖殉教者聖堂)が建立され、矢野元隆がバラから洗礼を受け、日本最初のプロテスタント信者が生まれて150年、新島襄同志社英学校を開校し、アメリカン・ボードの婦人宣教師たちによって私塾神戸ホーム(神戸女学院の前身)が設立され、アメリカ聖公会の婦人教師たちによって「エディの学校」(平安女学院の前身)が開校し、アメリカ聖公会のウィリアムズたちによって立教女学校(立教女学院の前身)が創立され、東北最初のプロテスタント教会である弘前公会(後の日本基督教団弘前教会)が設立され、スイスの深層心理学者カール・グスタフ・ユング生まれて140年、アメリカ・メソジスト監督教会によって福岡英和女学校(福岡女学院の前身)が創立され、アメリカ長老教会によって金沢女学校(北陸学院の前身)が創立されて130年、スウェーデンで「世界学生キリスト教連盟(WSCF)」結成され、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりしか』が執筆されて120年、韓国で延世大学の前身がアメリカの長老派教会宣教師ホリス・グラント・アンダーウッドによって創立されて100年、カナダ合同教会が成立し、植村正久が没し、「治安維持法」が公布されて90年、波多野精一の『宗教哲学』が発表され、同志社神棚事件起こって80年、ボンヘッファーがナチスにより処刑され、第二次世界大戦が終結し、「国際連合」が成立して70年、アラバマ州モントゴメリー市において黒人によるバス乗車ボイコット運動が起こり、日本聖書協会による「口語訳聖書」出版され、イタイイタイ病について初めて学会で報告がなされて60年、神学者パウル・ティリッヒが没し、マルティン・ブーバーが没し、アメリカが北ベトナム爆撃を開始し、家永三郎氏が教科書検定の民事訴訟を起こし、新潟水俣病(阿賀野川有機水銀中毒事件)が発生して50年、ベトナム戦争が終結し、「種谷裁判」が行なわれて日本基督教団種谷俊一牧師に無罪判決がなされ、日本基督教団が部落差別問題特別委員会を設置して40年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が敗戦40周年の演説を行なって、日本基督教団が「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同に関する委員会」(「合同」特設委員会)を設置し、中曽根首相が戦後初めての首相による靖国神社公式参拝を行なって30年、阪神淡路大震災が起こって、オウム真理教による地下鉄サリン事件起こり、沖縄でアメリカ兵による女子小学生暴行事件が起こって20年、キリスト教超教派団体創設者「テゼ共同体」のブラザー・ロジェが殺され、地球温暖化に対する国際的な取り決めを行った「京都議定書」が発効され、異なる宗教者同士による憲法9条を尊ぶ「宗教者九条の和」が発足して10年等です。中には喜ぶべきでない、忘れてはならない心に刻むべき記念も含まれています。例えば、アメリカのリンカーン大統領暗殺、「治安維持法」の公布、ナチスによるボンヘッファー処刑、北ベトナム爆撃開始、イタイイタイ病や新潟水俣病発生、靖国神社公式参拝、阪神淡路大震災発生、オウム真理教による地下鉄サリン事件、沖縄での米兵による暴行事件、ブラザー・ロジェ暗殺等です。今年一年も主なる神の恵みがあることを覚えたいと思います。

 

 

2015年6月24日(水)

 

先日、「東日本同信伝道会」の研修会がありました。「同信伝道会」とは同志社大学神学部卒業生や同志社神学部で学んだ方々、他の神学校を学んだ方で同信伝道会を通して教会で牧師をしている方々、組合教会の信徒の方々の会ですが、その東日本支部の研修会が行われました。今回は戒能信生牧師(日本基督教団代々木教会)をお招きして「日本組合基督教会の特質 ‐新島襄と海老名弾正のキリスト教受容に遡って‐」と題して講演をしていただきました。講演で新島襄はキリスト教について全面的な受容を行なったとの戒能氏による仮説が唱えられ、それに対して海老名弾正は選択的部分的受容を行い、植村正久との論争、朝鮮伝道や日本的キリスト教の源流であることで批判されたが、戦後、神学者熊野義孝に評価されるに至ったこと等が語られました。この講演は後に付加訂正され論文として発表されるとのことで、楽しみです。またこの研修会では東日本大震災による被災やそれに伴う放射能による健康被害の問題等を含む、それぞれの教会が置かれた場での課題や自らの取組みについての報告等がなされ、また既に第2部まで出版されている『会衆主義教会パンフレット』の「第3部」の出版予告もなされました。今後の活躍が期待されることを思わせる会でした。私もまた新たに元気をいただいたような気がします。

5月28日には東京高裁で2007年の「君が代」不起立停職処分の取り消し控訴審で争っていた根津公子氏と河原井純子氏勝訴の判決がなされました。また一般の方々だけでなく、私も含めて様々な教派・宗派の宗教者の方々が沖縄辺野古米軍基地建設への反対運動、安全保障関連法案が廃案になるようにとの取組みを勧めています。私が今、住んでいる牧師館の園庭では人参が花を咲かせました。今年もプランタで野菜を育てています。

 

 

2015年9月2日(水)

 

先日、8月下旬に日本基督教団で青森県津軽地域の教会・伝道所・関係学校・関係施設の教師たち(牧師たち)が集う研修会が開かれ、講師として沖縄辺野古で米軍基地建設反対運動に取り組んでおられる金井創牧師(日本基督教団佐敷教会)をお招きして、特に辺野古の現状をお聞きしました。それは今までアメリカからも日本の“内地(ないち)”からも差別されてきた沖縄で楽しく住民運動を行って生きることについてのお話でした。きれいな沖縄の海を汚し、類まれなサンゴを破壊し、絶滅危惧種のジュゴンを棲めなくし、そして、沖縄の人々が住みにくくなるにもかかわらず、新たに危険な米軍基地がそこに建設されようとしています。ゴムボートを使用して、そのことに抗う運動を行っておられる牧師が、その報告をして下さいました。あまりにも酷い米軍と海上保安庁による圧力と暴力にも負けることのない「主イエス・キリストの福音の喜び」に生きる方の姿がそこにあります。教会とは何かを考えさせられました。私もいつかまた沖縄を訪れようと思っています。

また、その後、奥羽教区(日本基督教団に属する青森・秋田・岩手三県の教会・伝道所・関係学校・関係施設)の教師たちのための一泊の研修会が開かれ、講師として礼拝や牧師について、多くの本を執筆し、訳しておられる越川弘英教授(同志社大学キリスト教文化センター)をお招きし、特に「牧師とは何か」についてお話をお聞きしました。その中で、特に牧師の働きである教会教育を含む宣教や伝道は直ぐには結果が出ないこと、牧師と教会が自己点検を行う必要のある事、牧師が自らを主イエス・キリストに委ねる姿勢を養うこと等を学びました。また神学については、まず現場で起こっていることについて、考え理論化し、それを教会に返していくことであるという意見もお聞きすることが出来ました。越川先生は、本等でお名前を知ってはいたのですが、今までお会いしたことがなく、いつか講演をお聞きしたいと思っていただけに良い機会となりました。研修会2日目には、私も発題者の一人として「牧師と礼拝」について稚拙ながら発題をさせていただきました。

また、私は今回参加しませんでしたが、今年の7月末から8月中旬にかけて「ポナペ・ワークキャンプ」(第40次隊)が行われました。台風等のため破損したキリスト教主義学校の建物の屋根を直す目的で行なわれました。これからもポナペの教会や学校の要請があれば、行う予定だそうです。宣教にも様々なものがあることを想わされます。私もまたいつか参加してみたいと思います。

先日、『基督教世界』(同志社神学部卒業の牧師たちあるいは組合教会に連なる牧師たちの月刊冊子〈?〉)のために「信仰告白」についての拙く短い文章を執筆させていただきました。これは今年の秋か冬に発刊される予定だそうです。

藤崎教会は8月に会堂と牧師館の屋根修理工事を無事終えました。日本基督教団に属する教会・伝道所からもそのための献金をいただきました。感謝です。これからも会堂の赤い屋根が藤崎町にあって宣教の働きを担うことを祈ります。牧師館前のプランタのミニトマトも真っ赤に熟しました。猛暑は過ぎ、涼しい日が続いています。教会では来年の創立130周年記念のための準備を進めています。

 

 

2015年9月7日(月)

 

 今、私は夏期休暇中なので、論文「教会とこの世 ‐特にボンヘッファーの神学との関連で見えてきたもの」を改訂して載せました。これは、以前、ボンヘッファーの神学と照らし合わせて書いてみたものですが、今回、小原克博教授(同志社大学神学部)の著書『宗教のポリティクス 日本社会と一神教世界の邂逅』(晃洋書房、2010年初版)を読んだこともあり、何ヵ所か付加訂正を行ないました。これは、なかなか難しい問題であることを想わされました。

また、今回、昨年の「日本基督教団浪花教会」に続いて大阪に向かい、「日本基督教団大阪教会」の会堂(登録有形文化財)を見学させていただきました。この教会は1873年にアメリカン・ボード宣教師のオラメル・ヒンクリー・ギューリックとアメリカン・ボード宣教医のマーキス・ラファイエット・ゴードンが伝道を開始し、1874年に「梅本町公会」として設立された教会です。現在の会堂は同志社大学の「アーモスト館」等を設計した建築士ヴォーリズの設計によって1922年に建築されたものです。外壁はレンガ造り、ロマネスク様式の独特の良い雰囲気の会堂でした。

京都では「新島襄旧邸」を見学しました。NHKの大河ドラマ『八重の桜』等にも新島襄の住居が再現されていましたが、実際に新島襄が住んだ住居を見てきました。この旧邸で同志社英学校(同志社大学の前身)が創立されたと言われています。さらに同志社大学に向かい、烏丸今出川から銀閣寺(東山慈照寺)まで歩いてみました。その途中、学生時代に出町柳の近くに下宿し、そこから同志社大学とキリスト教会(日本基督教団京都葵教会)に通っていたのですが、その下宿していた建物を通り過ぎて、さらに「哲学の道」を一部分通り、銀閣寺に辿り着き、庭園等を見てきました。京都は様々な観光スポットがあると同時に、仏教・神道が根強いところです。そのような所にわざわざキリスト教主義学校を建てた新島襄の心境を思います。

また鹿児島県の川内原発が再稼働されてしまいましたが、梅小路公園芝生広場で行なわれた「高浜・川内・伊方原発の再稼働を許さない!さよなら原発全国集会in京都」にも参加してきました。小雨の降る一日でしたが、脱原発を目指す熱気溢れる集会でした。

『福音と世界(2015年8月号)』(新教出版社)収載の中道基夫教授(関西学院大学神学部)による「戦後日本の実践神学の展開」を読んで「実践神学」に関する課題について改めて考えさせられました。それは「実践神学」は実践のための「学問」であるということです。「理論と実践」の関係の難しさがあるにもかかわらずです。しかし、「実践神学」が実践のための「学問」であるとはどういうことでしょうか。「実践神学」の「実践」という言葉が頭の中で理解されるだけのものという意味で使われることがあります。理論を持って行う「学問」であるゆえに、実際には出来ない、またあり得ないということもあるでしょうし、キリスト者の信仰生活は聖書の神に対する信仰の行為でもあるゆえに、現場で行われていることや現象が有限な存在である人間によって何もかも理論化された学問として整備されるとは限らないということがあります。しかし、なぜ「実践神学」は、実際には出来ない、あり得ないことを含まざるを得ないのでしょうか。これはキリスト教信仰が理解できないと理解出来ないかもしれません。それは「実践神学」が有限な存在である人間の行う「学問」であるゆえに持つ不可抗力ということです。あるいは、それゆえに、必ずしもその理論がその実践の場に合うとは限らないということがあります。その実践の場についての様々な意味での理解も必要でしょう。「実践神学」を行なうということは何らかの理論を持って行うということでもあります。「実践神学」という学問として取扱われるべき内容であるはずのものが、実際に行っていること、現場での実践や現象だけで終わるという、理論化されない、学問として成り立たないものになっても困ります。しかし、だからと言って、「実践神学」はその言葉通り、キリスト教会やキリスト教主義学校等の現場で用いるために存在する神学であることは何も変わらないのです。

夏から秋にかけて台風の季節です。大雨突風等の自然災害に遭われた方々に主なる神の慰めと癒しがありますように。

 

 

2015年11月11日(水)

 

 先日、「リンクのページ」に「キリスト新聞社」のウェブサイトをリンクさせていただきました。奥羽教区の研修会に来られた講師の方々がこの出版社の雑誌に関わっていたり、キリスト教についての様々な情報を新聞という形で読者に提供したり、様々な試みを行っている出版社ですが、超教派的な視点で、平和、宗教間対話、相互理解等を課題としている特色のあるキリスト教関係の出版社です。

私は、先月の10月に盛岡市の奥羽キリスト教センターで行われた「奥羽教区社会問題セミナー」に出席しました。今回、「脱原発講演会」も含めて行われ、宮城県の女川原発建設問題に関わり、また福島第一原発放射能事故によって「甲状腺腫瘍」を患っている子供たちへの取組みを行っている日本基督教団東北教区放射能問題支援対策室いずみ顧問の篠原弘典氏の講演をお聞きしました。そもそも、篠原氏のお父様は神社の神主だったのだそうですが、宮城県で漁業に携わっている方々と共に女川原発建設前からその反対運動に関わり始め、あの「3・11大震災」以後、福島第一原発放射能事故について行政が放射能汚染と被曝に対する取組みを非常に怠っていると嘆いておられました。また、このセミナーの参加者の中には自分の子供の健康を案じている方もおられ、篠原氏によると、日本海の魚も放射能の計測をしてデータを取らないことには安全かどうか何とも言えないのだそうです。

奥羽教区は六ケ所村核燃再処理工場建設が始まる以前からその建設反対運動を行い、取組んできたわけですが、青森県には東通原発とこの六ケ所村核燃再処理工場があって、これは時々、報道されていますが、小規模とはいえ、事故やトラブルが発生し、問題だらけの代物です。この講演会でも知らされたことですが、この核燃再処理工場からは危険なトリチウムが放出されていますが、本格稼働になると、1リットルあたりのトリチウムの量が福島原発の約11万倍を海に流すことになります。これらについて日本原燃株式会社は健康に支障がないとするのみです。しかし、日本原燃も(キリスト教の)神様ではありませんので、完全ではありません。再処理工場で大事故が起こって放射能が漏れれば、関東地域にまで「急性障害」が発生するとの「シュミレーション」も既になされています。

七十年前、日本も核の悲惨さと恐ろしさを知りました。私たちはこれを決して忘れてしまったわけではありません。今年の4月に広島・長崎の原爆によって被曝した人たちがアメリカのニューヨークで現地の人々に原爆の悲惨さと恐ろしさを訴えたということがありました。ちょうど、その頃、「核不拡散条約再検討会議」がニューヨークで行われていました。国際社会でも核と放射能の危険性を理解することが、これからも必要です。

福島第一原発放射能事故は戦後、発生したアメリカのスリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故に続いての大規模な原発放射能事故です。福島第一原発については2011年3月の事故前から経年劣化が既に問題となってもいました。事故は大震災と津波も原因ですが、原発を運転し続けたことも原因の一つでした。今、日本各地で原発再稼働が少しずつなされていますが、危険極まりない問題点が未だに無視され続けています。これからも環境破壊がなされる可能性があり、キリスト教信仰という視点から聖書に記された神による創造が蔑ろにされていることを懸念し、またイエスを救い主として信仰告白を行う者であるゆえに、原発・核燃再処理工場再稼働反対、再稼働中止を求めていきたいと思います。ちなみに原発・核燃再処理工場再稼働反対、再稼働中止を求めていくことについては2015年度日本基督教団奥羽教区宣教計画の中で重点目標等でも述べられていることです。

 また、このセミナーで、私は「教区性差別問題小委員会」の一員としてスタンツに参加し、出席者の方々へ「セクシャル・ハラスメント」、「パワー・ハラスメント」、「モラル・ハラスメント」について考え理解する良いきっかけになることを望みました。

 昨日、11月10日は盛岡市の奥羽キリスト教センターで行われた「教区教師継続教育講座」に参加しました。吉田 新先生(東北学院大学文学部講師)による講演をお聞きしました。特に聖書翻訳の歴史と新協会訳聖書について、聖書の訳は理論や翻訳の基本方針によって異なるものとなる事や2018年以降に日本聖書協会訳の新しい聖書が出版されること、また新約聖書ペトロの手紙Tについて、この手紙が受難(十字架の苦しみを受けること)のキリストを模範とし、苦しみの中にあってもキリスト者としての振舞いを勧めることを目的として回状の形で書かれたこと等のお話をお聞きしました。これからも礼拝説教のために、また信仰生活の糧(信仰生活の支え:聖書はキリスト者が生きていく上で必要な神の言葉であるということ)としての聖書を読むことが大切であることを想わされました。

 またその前日9日には同じ地区にある日本基督教団木造教会によって、藤崎教会会堂で、主に藤崎幼稚園保護者らを対象として進藤龍也牧師(「罪人の友」主イエス・キリスト教会)の子育て講座が行われました。進藤牧師はヤクザが悔い改め、回心して、つまり、聖書の福音に出会って救われて、牧師となった方です。これは聖書の語る言葉がその人に宗教体験を起こさせ、その人の社会での生き方に影響を与えたという事です。進藤牧師の今後の活躍が期待されています。

 「クリスマス」へ向けての「アドベント」が近づいてきました(「アドベント」については雑記帳の「2009年11月29日(日)」の項目、「クリスマス」の起源については雑記帳の「2004年12月18日(土)」の項目をそれぞれ参照)。11月22日には「収穫感謝日礼拝」を行います。「ふじりんご」発祥の地、藤崎を含めて、津軽は「ふじりんご」の収穫真っ盛りです。りんご畑では真っ赤な見事な実が実っています。収穫の最後まで主なる神が農家の方々をお守り下さいますように。

 

 

2016年1月5日(火)

 

本日、「キリスト教史年表(Y)」のページを更新し、「2015年」分を追加しました。昨年はフランス・パリでのテロ襲撃と、それに対する報復としての爆撃、難民問題や安保関連法案可決等、平和が蔑ろにされる出来事が続き、同時に「戦後70年」について考え、取組む一年でもありました。そして、これはキリスト教やイスラム教等、一神教の驕り高ぶりではなく、「国家とは何か」ということもありますが、人間本来が持つ罪深さ、異なる者同士が共存するということの可能性と問題点、暴力の問題であることを想わされました。

そして、今年2016年は、お祝いすべき記念すべき年であると同時に、人間の罪深さを忘れてはいけない出来事の記念の年でもあります。オランダの人文主義者エラスムスがギリシア語新約聖書を印刷出版して500年、ガリレオ・ガイレイに対する裁判が行われて400年、オランダ改革派教会によってアメリカにラトガース大学が創立されて350年、哲学者ライプニッツが没して300年、アメリカの長老派教会によってユニオン神学校が創立されて180年、ドイツの神学者ヨーハン・ヴィルヘルム・ヘルマンが生まれ、イギリスの宣教師ベッテルハイムが那覇に上陸し、琉球伝道を開始して(日本での最初のプロテスタント伝道とも言われる)、メンデルスゾーンがオラトリオ『エリヤ』、カンタータ『ラウダ・シオン』を作曲して170年、エルランゲン学派が現われ、オーストリアの精神分析学の創始者ジグムント・フロイトが生まれて160年、ロシアの作家ドストエフスキーが『罪と罰』を執筆して150年、ニーチェが『人間的な、余りに人間的な』を発表し、熊本洋学校で学んだ卒業生たちが「奉教趣意書」に署名し、アメリカの農学者ウィリアム・スミス・クラークが来日し、日本基督教団兵庫公会(後の日本基督教団兵庫教会)、京都第一公会及び京都第三公会(西京第一公会及び西京第三公会:後の日本基督教団平安教会)、京都第二公会(西京第二公会:後の日本基督教団同志社教会)が創立されて140年、神学者カール・バルト及びパウル・ティリッヒが生まれ、日本組合基督教会が成立して、宮城英学校(東華学校)が開校、仙台神学校(東北学院の前身)、宮城女学校(宮城学院の前身)、来徳女学校(弘前学院の前身)、広島女子塾(広島女学院の前身)、松山女学校(松山東雲学園の前身)、山陽英和女学校(後の山陽学園)が創立され、「東京婦人矯風会」(後の「日本キリスト教婦人矯風会)が設立され、番町教会(後の日本基督教団番町教会)、新潟第一基督教会(後の日本基督教団新潟教会)、前橋基督教会(後の日本基督教団前橋教会)、元浦河公会(後の日本基督教団元浦河教会)、本郷教会(後の日本基督教団弓町本郷教会)、藤崎教会(後の日本基督教団藤崎教会)が創立されて130年、ドイツでヨーゼフ・フリードリッヒ・ナウマン指導の民族主義的社会運動が起こり、セブンスデー・アドベンチストが渡来、日本的キリスト教が起こり、日本基督教会が台湾伝道を開始して120年、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』が出版され、西南学院が創立されて100年、神学者ルドルフ・ブルトマンが『イエス』を出版し、神学者ユルゲン・モルトマンが生まれ、九州女学院が創立されて90年、日本で「2・26事件」が起こって80年、神学者エミール・ブルンナーが『教義学』(〜1960年)第1巻を出版し、フィリピンが独立し、救世軍が再建され、北森嘉蔵が『神の痛みの神学』を執筆し、日本でキリスト教ブームが起こり(〜1951年頃まで)、日本聖書神学校が創立され、東京聖書学校の前身であるホーリネス聖書学校が創立され、桜美林学園が創立され、「部落解放全国委員会」が結成され、「日本国憲法」が発布されて70年、ドイツの新約聖書学者ギュンター・ボルンカムが『ナザレのイエス』を出版し、ハンガリーで反ソ連暴動(ハンガリー動乱)が起こり、アメリカが最初の水爆投下実験を行ない、「日本基督教協議会」が原水爆実験中止を要望する決議を発表し、関西労働者伝道委員会が発足し、水俣病が発生し、日本が「国際連合」に加入して60年、エミール・ブルンナーが没し、神学者ハーヴィー・ギャラガー・コックスが『世俗都市』を執筆し、ビートルズのメンバーであるジョン・レノンが「キリスト発言」を行い50年、ルドルフ・ブルトマンが没し、神学者ジョン・ボズウェル・カブ(コッブ)・ジュニアとディビッド・R・グリフィンが『プロセス神学』を出版して40年、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で放射能事故が起こり、ミクロネシア連邦が独立し、日本で「キリスト教婦人矯風会」が「女性の家HELP」を開設して30年、日本で「らい予防法廃止法」が成立、施行され、遠藤周作が没し、日本基督教団北海教区が「アイヌ民族情報センター」を設置して20年、「イラク戦争」が終結して10年となります。

ちなみに私は昨年、『基督教世界(2015年10、11、12号:第3749号)』に「信仰告白」についての拙い文章を書かせていただきました。発行、編集の方々、ありがとうございました。この『基督教世界』は1883年に組合教会の信徒である湯浅治郎により設立された警醒社から刊行された新聞に由来するもので、最初は教派と関係なく、キリスト教関係、社会問題の記事や論説を載せたものであったそうです。今では「組合教会」に連なる牧師たちの機関紙のようなものになっています。

藤崎教会では「クリスマス礼拝」、「クリスマス・イヴ礼拝」等を終えました。特に「クリスマス礼拝」後の「愛餐会」では多くのクリスマス讃美歌を歌うことが出来ました。そして、新しい年を迎え、「降誕節」を歩んでいます。1月17日は津軽のとあるキリスト教主義学校を卒業する生徒たちと共に礼拝を行います。また2月10日は「四旬節・受難節(レント)」を迎える「灰の水曜日」となります。「受難節」はイエス・キリストの十字架を想う、復活の喜びを分かち合うことへの歩みです(「受難節」については「2010年2月28日(日)」をご参照下さい)。翌日2月11日は弘前市で信教と思想の自由を守る集会であります「2・11市民集会」が行われます。また3月には「3・11東日本大震災」から五年を覚えての礼拝を行う予定です。早いもので、あれから5年になりますが、未だに放射能の危険性を始めとして解決していない問題があります。震災とそれによる原発放射能事故による苦しみと悲しみと不安の中にある方々がおられることを覚えます。

ところで、12月は例年に比べて比較的、雪が少なく暖かな日が多かったので、1月から3月にかけて、どれぐらい雪が降るのか(もしかすると多いのかもしれない)を想いながら、過ごしています。昨年は津軽りんごの質が良かったそうです。気温がりんごの美味しさを左右します。

藤崎教会は今年で創立130年を迎え、それを記念しての「年表」の出版を考えています。既に百年史を出版し、その巻末に年表が付いていますが、そこには載せられていない1986年以降から現在までの年表を作成しています。今年もキリストの恵みと平和を祈り求める一年としたいと思います。

 

 

2016年5月12日(火)

 

来週15日の日曜日はキリスト教会の暦(教会暦)で「聖霊降臨日(ペンテコステ)」とされています(一般的なキリスト教理解での「聖霊降臨日(ペンテコステ)」については雑記帳の2012年5月30日(水)の項目を参照)。しかし、私たちはどのようにして「聖霊」の働きを目で確認出来るのでしょうか。「聖霊」そのものを直接、目で確認したという話は私も聞いたことありませんが、しかし、人がキリスト教信仰を持つに至るとか、聖書のみ言葉を感銘深く読むとか、結果として教会が建てられるとか、「キリスト者が集まったとある会が大変素晴らしい会であった」との発言がある時に「聖霊」の働きがあると認められるとされています。逆に以上、述べたような時に必ずしも「聖霊」の働きがあると認められるとは限らない時があります。キリスト教信仰を「アクセサリー」のようなものと考えたり、キリスト教会で聖書の神とも、キリストとも関係なく何か勘違いして感動するとか、キリスト教会で別の目的で集会等を行う時に「聖霊」の働きが蔑ろにされ、神の力も働かないという時もあります。さらに「聖霊」の働きが促される、あるいは促すために行われるということもあります。また教会によって、教派によって、それが拠って立つ神学や宣教方針の違いから様々な解釈や方向性があります。いずれにしても、それが聖書の神の力やキリストの力であるなら、私たちはそれを完全に知り、見聞きすることが出来ないということについても考えるべきです。それこそ神の奇跡を認めるということです。

実践神学」は、実際に歴史的に存在するキリスト教会に関する様々な事柄を学問的に扱うわけですが、学問的に扱うということゆえに、必ずしも、その理論がキリスト教会で認められるとは限らないということがあります。学問であるゆえの限界です。キリスト教会自身にそのような決まりがないからとか、学問であるゆえに誰でも理解出来るものとは限らないからだけではなく、人間の集りであるゆえに、それでは対処出来ない様々な事があるからです。キリスト教信仰を持ちつつ自分たちで考えて行う場合もあります。

 私が現在、牧会伝道を行っています藤崎教会は、最初は本多庸一、日本基督教団弘前教会の影響の中でキリスト教会として生まれ、後にメソジスト派、そして日本基督教団に加入しました。今年で創立130周年になりますが、戦後は、長く「農村伝道」を行って来た歴史のあるキリスト教会です。「農村伝道」と聞くと、田んぼや畑の真ん中で、あるいは農家の人々に向けて伝道を行うというイメージを持っている方がおられるかもしれませんが、これには様々な形があります。つまり、必ずしもそうではなく、農村の近くでの伝道とか、農家が多い町での伝道とか、近代化しつつある町での伝道等を含みます。特に日本基督教団では「農村伝道神学校」を卒業した牧師たちがそれらを率先して行なっています。これらは「教会と国家」という観点から考える時に、単に農家のためにということでは「政教分離」が守られていないのかという誤解を生み出しかねません。ですから、そうではなく、福音書のイエスがそうであったように貧しい人や差別されている人と連帯するということやその町の発展、歴史と共にキリスト教会が歩むということに重点が置かれる場合もあります。藤崎教会も「農村伝道神学校」を卒業した歴代牧師たちの「伝道」の歴史があります。キリスト教会として活動していくためにはその土台が大切であること、それが備えられることを信じて、そうなるように祈ることが大切であること、時折、来客があったり、様々な申し出があったりすることを神に感謝せざるを得ないものであると想わされています。

 それでは「宣教」は「伝道」とどう違うのでしょうか。しばしばこの二つの言葉は同じ意味で用いられる場合もあります。しかし、通常、「宣教」はキリスト教会の会堂での礼拝等に限定しない広い意味で「伝道」を行う意味で用いられます。特に明治時代、プロテスタントが日本に伝えられた当初、教育、医療、社会福祉、文書執筆出版、政治、経済活動等を通してアメリカ等からの宣教師が活躍した時代がありました。現在もキリスト教の会堂での礼拝等に限らない「宣教」が日本人キリスト者によって日本各地で行われています。

最近、組合教会に関する冊子として『会衆主義パンフレットB 会衆主義の使命 キリストに与えられた務めと希望(会衆主義研究会 監修:水谷誠)』がキリスト新聞社から出版されました。日本基督教団の旧教派の一派でもある「会衆主義」についての理解を深めるためのシリーズ本の三冊目です。中には大林浩名誉教授(ラトガース大学)、原 誠教授(同志社大学神学部)、一條英俊氏(信徒:日本基督教団札幌北光教会)らの小論、講演記録、提言が収録されています。ちなみに一條英俊氏はカール・バルトディートリッヒ・ボンヘッファーの神学と会衆主義について執筆しておられます。

またこのところ、神学者カール・バルトに関する本が日本語で立て続けに出版されています。カール・バルト生誕年である1886年との関わりが考えられるかもしれません。時間がなくてなかなか読むことが出来ませんが、目を通していきたいと思います。

4月に発生した「熊本地震」で甚大な被害に遭われた地域の方々に心よりお見舞い申し上げます。現在、被災地でボランティア等の救援・支援活動に励んでいる方々の疲れが癒されますように。私が属する日本基督教団でも、また同教団九州教区でも救援募金を集めています。

3月は「世界祈祷日礼拝」(弘前カトリック教会)、「東日本大震災5年を覚える礼拝」(日本基督教団五所川原教会)が行われ、月末、藤崎教会では「イースター礼拝」(「イースター(復活日)」については雑記帳の「2012年4月30日(月)」の項目を参照)を行い、新年度の歩みを始めました。また2016年度に入り、4月に教会の一年間の集会や活動を含んでの宣教を振り返り、今年度の歩みについて考え話し合う「教会定期総会」も行われ、北西地区の「定期総会」にも出席しました。5月には奥羽教区の「定期総会」に出席し、6月には藤崎教会で大人と教会学校、幼稚園、その卒園生ら、子供たちが一緒に行う合同の礼拝があります。

3月に行なわれた地区の牧師の集りで、ある牧師から「宗教法人」という法人格が一般的に誤解されているということ、政府が「宗教法人法」の中身を変えようとしており、その内容によってはキリスト教会に対する圧力になる。それゆえに、そのような動きに対して異なる宗教で協力して行動するのも一つの方法であるというお話をお聞きししました。キリスト教会にも、そのキリスト教会が属する宗教団体が作った規則を土台とした教会独自の規則とこの世の法的な届け出や手続き等のための宗教法人の施設としての規則との二つがあり、規則を変更するのには手続きが必要です。この世の中にあるキリスト教会について考えさせられました。

牧師館の玄関横にあるプランタの「ホウレン草」が見事に育ちました。昨年の秋に土に種を植え、冬の間、外に出しておきました。雪の中で耐え忍んだ「寒じめ」の「ホウレン草」です。今年度、自分にとっての最初の収穫物でもあります。農家の方々の農作業の上に主なる神の祝福があり、秋には見事な収穫がもたらされますようお祈りします。

 

 

2016年9月15日(木)

 

 今年の夏は、世界が「リオ・オリンピック」で盛り上がった夏でしたが、同時に、国内では障害者福祉施設で入居者が殺される事件がありました。本当に悲しい事件で、日本の社会、また一人一人が障害者、人権・社会福祉について考えさせられたのではないかと思います。またこの度の台風で甚大な被害に遭われた方々に主の慰めと癒しがありますようお祈りします。

5月28日に当サイトの「リンク・ぺージ」にも、リンクされていますが、「君が代」斉唱の際に不起立の態度を取ったことで2007年に停職6ヶ月処分を受けた東京都公立学校の元教員の河原井さん・根津さんの停職処分を取消し、二人に損害賠償を行うよう東京高裁が東京都に判決を言い渡しました。5月31日にはそれを不服とした東京都側の上告を最高裁判所が退けました。およそ七十年以上前の戦時中を想い、「思想・良心の自由」が認められたことを嬉しく思います。戦時中、国家・政府による欺瞞に国民が騙され、宗教も含めて戦争に賛成させられていったことを考えさせられます。また忘れられてならないのが福島県の甲状腺ガン患者が確定されていない現状があるということです。五年半前のあの福島第一原発放射能事故によって健康を害された方々がおられるという事態の深刻さが日本各地で真剣に受けとめられているのかどうか疑問です。

 9月4日にはマザーテレサがローマ・カトリック教会から「聖人」とされました。「聖人」はキリスト者(クリスチャン)が礼拝するものではなく、崇敬するものであるとされていますが、プロテスタントの教派では、ルター派だけが「聖人」を認めています。もっともマザーテレサはキリスト者としての、また人間としての、その行いが多くの人々に良い影響を与えています。

8月に北西地区の牧師たちの集りである「地区教師研修会」が行われ、伊藤悟氏(青山学院大学宗教部長・同大学教育人間科学部教授)から「次世代への伝道」という題でお話をしていただき、キリスト教主義学校の現状と教会へと導く伝道について学びました。9月上旬には奥羽教区の牧師たちの研修会である「教区教師宣教セミナー」が行われ、中島基道氏(関西学院大学神学部教授)から奥羽教区の宣教方針「希望に生きる教会」を主題として、特に、死、悲しみ、罪の支配するこの世界でに根ざして希望を語る教会の宣教とは何かについて学びました。

 9月中旬には、夏期休暇を取り、大阪にある日本基督教団天満教会会堂の見学をさせていただきました。この教会は、以前、説明した浪花教会と同じく初代牧師は沢山保羅で、1879年に建てられ、日本基督教団が合同によって成立する前は組合教会に属していた教会です。特徴的な建築の会堂で、現在、登録有形文化財に登録されています。同時に京都にある日本基督教団京都葵教会で出身牧師として礼拝説教奉仕の機会を与えられました。私が同志社大学神学部の神学生時代に二年間ほど通っていた教会です。この教会は、そもそもは1907年に救世軍の教会として建てられた教会で、来年で創立110年になります。会堂内の洗礼盤や十字架が清水焼で出来ている教会です。懐かしい方々、初めてお目にかかる方々にお逢いし、礼拝後の交わりで、二十数年ぶりに教会名物の「きつねうどん」をいただきました。休暇を利用し、世界文化遺産に登録された京都の古寺への観光も行いました。宗教が社会や地域に根ざすということは、どういうことかについて、これは現代のキリスト教の幾つかある宣教姿勢の一部に過ぎないかもしれませんが、地域との適切な関わりとは何なのか考えると興味深いものがあります。しかし、それは宗教と国家の関係とは別のものです。欧米もそうですが、日本も時代によっては国家が宗教を決めていた時代がありました。現代においては『日本国憲法』によって「信教の自由」が認められています。

 その際に「教区教師宣教セミナー」での中道基道氏の講演を聞いて思い出しましたが、多くの方が発言しているように、宣教の立場の違いとして、カール・バルト的(カルヴァン的)な立場と現代のエキュメニカル運動的な立場があって、前者だと、円の中心にキリスト、その周りに同芯円上に教会、さらにその外側の円にこの世〈社会〉があって、キリストを中心に伝道や宣教が行われることになります。「神の国」がこの世に実現していくとする立場で表されるわけですが、現代のエキュメニカル的(世界教会的)な立場であると、まず大きな円があって、それが聖書の神様が、この世全体をお造りになって愛された、つまり、主イエス・キリストがおられるこの世(社会)を表わしていて、その円の中に、つまり、この世の中に教会や他の諸宗教、思想等があるという図の立場になります(図1を参照)。伝道や宣教における文化、社会、地域性と聖書の御言葉(みことば)の関係を考えさせられます。

 藤崎教会では、今年が教会創立130年であることを覚え、その記念事業の準備を進めています。また7月下旬に日本基督教団黒石教会の主催で難病の子供たちの願いをかなえる団体「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」の理事を務めておられる大野寿子氏の講演会を当教会の会堂で行いました。同時に藤崎教会の教会学校では日帰りキャンプの「夏の集い」を教会会堂と幼稚園園舎を会場にして行いました。子供たちと共に旧約聖書ヨナ書に登場する大きな魚を作って遊び、聖書の神様の恵みを想う一時でした。8月上旬の「平和聖日礼拝」の礼拝説教では『日本基督教団戦責告白』について語り、共に考える機会が与えられました。また奥羽教区からの教区内の教会及び伝道所へのお願いもあり、戦争の悲惨さと平和の大切さと共に危険な六ヶ所再処理工場を中心とした核燃サイクル問題及び原発再稼働問題、戦争に繋がりかねない集団的自衛権行使・安全保障法制廃止問題、建設中止になったはずの沖縄辺野古米軍基地問題を想いました。8月中旬には藤崎教会に連なる方々で既に召された(お亡くなりなった)方々を覚え、神に礼拝する「召天者記念礼拝」を遺族の方々と共に執り行いました。また8月下旬にはJR五能線沿線にある北西地区の三つの教会(藤崎・五所川原・木造)の合同礼拝が藤崎教会で行われ、共に歩むことを共に想いました。

 今、牧師館の庭のプランタで種から育てた枝豆と紫蘇がありますが、時には農業経験のある方々からのお知恵をお借りしています。農家の方々が作る野菜には遠く及びませんが、社会、自然や環境について考える良い機会です。秋の収穫の時が素晴らしい実りの時となりますようお祈りします。

 

 

2016年11月19日(土)

 

10月から11月にかけては国の内外で政治や選挙等にまつわる様々な出来事があり、アメリカのフォーク・ロック歌手ボブ・ディランにノーベル文学賞が決定したりしましたが、私は出張続きということもあって、大忙しでしたが、良い勉強の時、交わりの時となりました。

まず10月上旬には日本基督教団五所川原教会での「特別講演会」に出席し、福島県で会津放射能情報センターを立ち上げ、代表を務めておられる片岡輝美氏(若松栄町教会会員)による講演をお聞きしました。そこでは国策により住民の方々に対して人体に悪影響のある原子力発電所事故によって撒き散らされた放射能によって汚染された地域へ帰還が促がされている現状、真実を見抜き、声を上げ続けていくことが大切であること等が語られ、旧約聖書創世記の最初に記された主(「しゅ」と読む)なる神がこの世界と人間をお造りになられた出来事の意味を考える事も合わせて、このことを覚える事が大切であることを思わされました。10月中旬には同教団藤崎教会創立の年と同じ1886年に創立されたキリスト教主義学校である弘前学院の「創立130周年記念式典」に出席しました。藤崎教会との関連では、創立時に本多庸一や信徒であった長谷川誠三との繋がりがあります。それに合わせて長谷川誠三を研究し、現在、本を執筆しておられる岡部一興氏(日本キリスト教史学会庶務理事・横浜プロテスタント史研究会世話人)が藤崎に来られて、教会でも調査をされ、また弘前学院大学で記念講演もされました。同氏による長谷川誠三や藤崎教会関連の論文のコピーもいただき、大変、勉強になりました。

同じ頃、「奥羽教区社会問題セミナー」が盛岡市の奥羽キリスト教センターで行われ、その中の「脱原発講演会」で政府が岩手県に核燃放射能廃棄物の最終処分地を作ることについて元岩手県知事を含めて率先して計画していたこと等への反対運動に関わる永田和夫氏(三陸の海を放射能から守る岩手の会世話人)からお話をお聞きしました。そこでは、その計画が放射能の危険性についての説明や県民との話し合いが全くなされないまま進められていたことがわかったということも話されました。これは日本国民の誰かが犠牲になれば良いとの考えによるものなのでしょうか。それに対して、同じ頃、ノーベル医学・生理学賞受賞者として大隅良典氏が選ばれました。日本の国が医学や健康面に力を入れる方向に向かっているのかどうかは、はっきりしているはずなのです。これはどういうことでしょうか。

この集会では宗教を装って、法律に違反し、他人の迷惑をまるで考えない犯罪者のような団体もあるという現状から、カルト問題に取り組む専門家の方々からお話を聞きました。最近はキリスト教でないにもかかわらず、キリスト教を語るタイプのカルトでも韓国の「新天地」等の新興宗教団体はキリスト教会を「乗っ取る形」のカルトで、それが横行していて、日本でも被害が出ているということでした。これは既成のキリスト教会を自分たちの物にしてしまおうとするグループです。これらの「社会悪」に対しては中高生あたりからの正しいキリスト教育が必要であることが話されました。

10月下旬には「同志社校友会・同窓会青森支部総会・懇親会」に同志社大学神学部で学び卒業した者として初めて参加し、その際に総長にもお逢いすることが出来ました。また様々な方々と交わりの時を持ちました。この会には同志社を創立した新島襄が寄港した風間浦村の方々も招かれ、同志社大学についてのデータブック、同大学通信“One Purpose”、同志社女子大学のガイドブック、同女子大学通信“Vine”等も配られました。その“Vine”73号の巻頭には今年の夏に私がかつて神学生時代に教会生活を送った日本基督教団京都葵教会でお逢いした中村信博氏(同志社女子大学教授)が紹介され、メディア文化史の視点から聖書を読むことについて一文を載せておられます。

11月中旬には「教区教師継続教育講座」に出席し、阿久戸義愛氏(東北学院大学講師)からカール・バルトの神学、キリスト教主義学校で何をどのように語るか等についてお話しをお聞きしました。ちなみに現在、欧米の宗教間対話においてカール・バルトが見直され、バルトの批判的継承がなされているのだそうです。同じ頃、「農村伝道推進協議会」が日本基督教団八甲田伝道所で行われ、出席しました。発題と話し合いがなされ、同教団における農村伝道の位置づけ、「小規模教会・伝道所(小さな教会・伝道所)」の将来を考えさせられました。

最近、今まで他人から借りていた書籍が何冊かあり、それらを全部、古書で購入しました。『キリスト教人名辞典』、『日本キリスト教歴史大事典』、E・ベートゲ著『ボンヘッファー伝 第1巻 神学の魅力』、塩野和夫著『日本組合基督教会史研究序説』、ロロ・メイ著『カウンセリングの技術』、土居健郎著『「甘え」の構造 新装版』、ポール・トゥル二エ著『人生の四季 発展と成熟』、日野原重明他著『夕映えの季節を生きる』、『世界文学全集〈第27〉キルケゴール,ニーチェ 死にいたる病・ツァラトゥストラはかく語った』(筑摩書房)、『同全集〈第31〉ドストエフスキー』(同書房)、『同全集〈第52〉ヘッセ』 (同書房)等です。この「キリスト教神学のウェブサイト」の中に参考文献や資料として登場する書籍もありますが、はるか昔に読んで、今は読まなくなっている書籍もあります。借りていた書籍は感謝の想いを持って藤崎特産のリンゴのお菓子を添えて持ち主に返しました。

10月には「奥羽教区性差別問題小委員会」に委員として出席しました。12月にも行なわれます。そこでは主に性差別問題、「セクシャル・ハラスメント」を始めとする「ハラスメント」の問題、LGBT(レズビアン〈女性同性愛者〉、ゲイ〈男性同性愛者〉、バイセクシュアル〈両性愛者〉、トランスジェンダー〈体の性と心の性が一致しない人〉の頭文字をとった総称)等の性的少数者に対する差別の問題等に様々なアプローチで取組んでいます。

また11月下旬には「奥羽教区臨時総会・宣教会議」が行われ出席します。そこでは、ある一人の方が教会で三年間以上、研鑽を積み、日本基督教団教師補教師検定試験に合格し、准允式(同教団の教師となる式:正式には「補教師」となる式で、教会では「伝道師」の位置付けとなる)をお受けになり、牧会伝道の道を歩まれます。主なる神の祝福を祈ります。

11月に藤崎教会では大人と子供が一緒に礼拝を行う「子供祝福式合同礼拝」や農家で穫れた農作物を持ち寄っての「収穫感謝日礼拝」を行いますが、今年は特に教会創立130周年の年で、記念事業として1986年から今までの出来事を年表にした「三十年史年表」の出版や11月下旬に藤崎教会歴代牧師の渡辺兵衛牧師(同教団八雲教会)を礼拝説教者として招いての「記念礼拝」を行います。教会の130年の歴史に信仰とそれによる人々の働き、その人々を導く主なる神の働きを思います。先日は、それによって出来た隣接する藤崎幼稚園の園児たちが園庭にある畑の芋掘り、落ち葉を集めての焼き芋をしていました。最近は落ち葉も少なくて集めるのもなかなか難しくなっています。これも環境破壊の影響でしょうか。幼稚園の園児たちは藤崎町の秋祭りにも参加します。

今、牧師館の庭のプランタでは春菊を育てています。11月中はリンゴ「ふじ」収穫の最盛期です。農家の収穫作業が最後まで守られること、日本と世界の政治の世界に平安があるようにとお祈りし、「クリスマス」を待ち望む「アドベント」(「アドベント」については雑記帳の「2009年11月29日(日)」の項目、「クリスマス」の起源については雑記帳の「2004年12月18日(土)」の項目をそれぞれ参照)に備えて過ごしています。

 

 

2017年1月11日(水)

 

本日、「キリスト教史年表(Y)」のページを更新し、「2016年」分を追加しました。昨年はアメリカの大統領選挙、イギリスの国民投票によるEU離脱問題、韓国の大統領の友人による国政介入事件、史上初の女性の東京都知事誕生を始めとする国内及び海外の政治に関する出来事があり、終わることのない自然災害と凶悪事件、戦争と平和についての過去及び将来への眼差しを考えさせられる一年であったように思います。今後の動きが懸念されることも多いと思われます。

 今年は何の記念の年なのでしょうか。また忘れてはいけない出来事から何年の年になるのでしょうか。ドイツのマルティン・ルターが宗教改革を始めて500年、ピューリタンであったジョン・ミルトンの『失楽園』が出版されて450年、カール・マルクスが『資本論』を執筆して150年、日本基督一致教会(後の日本基督教会)が創立され、東京一致神学校(明治学院の前身)が創立され、日本最初の自給教会である浪花公会(後の日本基督教団浪花教会)、多聞基督教会(後の日本基督教団神戸多聞教会)が創立され、また日本の会衆派に連なる教会の信徒たちにより「日本基督伝道会社」が設立されて140年、「日本基督教青年会」(YMCA)、岡山孤児院が設立され、日本聖公会が成立し、北星学園、同志社看病婦学校、石巻クリスチャン教会(後の日本基督教団石巻栄光教会)が創立されて130年、日本基督教団京都葵教会が創立されて110年、ルドルフ・オットーが『聖なるもの』を執筆し、平和学園が創立されて100年、ハイデッガーが『存在と時間』を執筆し、高倉徳太郎が『福音的基督教』を執筆し、関東学院が創立されて90年、ボンヘッファーが『服従』を出版し、フランコがスペイン大統領に就任して独裁権を得、パブロ・ピカソが『ゲルニカ』を描き、「日本聖書協会」が設立され、海老名弾正が没し、国民精神総動員運動が発足して80年、「死海文書」が発見され、日本ホーリネス教団が設立され、聖書学園の前身である聖書学院が創立され、長崎学院の前身である長崎外国語学校が創立され、新島学園が創立され、玉川学園が創立されて70年、ミルチア・エリアーデが『聖と俗』を執筆し、ソ連が世界初の人工衛星打ち上げに成功し、「アメリカ合同キリスト教会」が成立し、日本基督教団八甲田伝道所が創立されて60年、ジャック・デリダが『エクリチュールと差異』、『声と現象』、『グラマドロジーについて』を出版し、日本基督教団が鈴木正久議長名で「戦争責任告白」(『第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白』)を行ない、日本基督教団が「靖国神社問題特別委員会」を設置し、日本で「公害対策基本法」が公布されて50年、「日本いのちの電話連盟」が成立して40年、「日本聖書協会」による「新共同訳聖書」が出版され、「日本基督教団部落解放全国会議」が開かれて30年、マザー・テレサが没し、「アジア神学者会議創立総会」が韓国で開かれ、日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』が出版され、日本で「臓器移植法」、「アイヌ文化振興法」が成立して20年、長崎県の伊藤一長市長が短銃で撃たれ、死亡し、日本で「9条アジア宗教者平和会議」が開かれ10年となります。何と言ってもルターによるドイツの宗教改革を記念する行事や集会や出版等が中心となる年になるのでしょうが、それ以外にもキリスト者としての働きや聖書に関するものを含めて神学者・哲学者等の重要な本が出版されたことを覚える年、科学の進歩と共に戦争責任や差別に関する歴史と出来事を覚える年となるようです。

 藤崎教会では無事に教会創立130周年記念事業、クリスマス諸行事を終え、「三十年史年表」を青森県立図書館、日本基督教団奥羽教区、同志社大学神学部図書室にも寄贈しました。今年は藤崎教会創立時の信徒で、実業家の長谷川誠三生誕160年の年でもあります。その方面での研究も期待されます。2月に北西地区で行なわれる「2・11集会」(思想・信教の自由を守る日の集会)は午前と午後、それぞれ別の場所で行う予定となっていて、今、私は「地区社会委員」としてそのための準備作業を行い、また奥羽教区の「性差別問題小委員会」に委員として関わっています。

大雪あるいは豪雪(!?)の季節がやってきました。これから毎日のように「雪掻き」を行う日が続くのかもしれません。年によっては朝と昼と夕と一日三回も「雪掻き」をしたこともあります。それでも昔に比べれば、雪の量が減ったと言われています。ところで、前回、「牧師館の庭のプランタでは春菊を育てています」と記しましたが、11月から12月にかけてあまり良く育たなかったので、冬を越して、今年の春に大きく育ったものを収穫しようと考えています。「春菊」は寒い日の鍋物や天婦羅に良いのかもしれません。「まんずめな」、「なんぼめば」、これは「大変美味しい」という意味の津軽弁です。私は津軽に来て10年目になりますが、津軽弁の6、7割は分かるようになったつもりです。「聖書は紙に書かれた神の言葉」という洒落の効いた言葉がありますが、教会の将来を想い祈りつつ、如何に聖書の言葉を読み、それに聴き、それを語るかを考えています。時節柄、皆様、お体ご自愛下さい。

 

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